鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊小学校閉校後の跡地に植えられた千本桜を見て思うこと。

2024年03月28日 | Weblog

鷹泊小学校は平成9年(1997年)に閉校。その跡地にリフレッシュプラザ鷹泊ができている。

国道からの入口には千本桜の存在を示す看板がかかげられている。「千本桜の街鷹泊」鷹泊地域振興会  とあるが、さすがに看板も色褪せてきていた。

桜の開花時期には花見を楽しめる空間になるはずだったものの想定外の過疎化進行で、どれだけの人がここの桜を見に来るのだろうか。

当時植えられた桜の木々も25年の年月の経過でだいぶ大きくなっていた。訪れたのが11月で雪が降る直前の時期だったことを差し引いても寂しさを感じざるを得ない。

写真は東屋と千本桜。奥は鷹泊神社。人口減がとどまっていれば、この東屋にから満開の千本桜を見るというリッチな気分に浸れるのにと残念至極である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リフレッシュプラザ鷹泊に立って昔を思い起こす

2024年03月25日 | Weblog

リフレッシュプラザ鷹泊に来て、周囲を散策してみた。

鷹泊小学校の門柱。奥に見えるのが東屋で、左の芝生の中に千本桜が植えられている。

校庭跡にできた東屋、歌碑、千本桜が植えられている芝生(以前はパークゴルフのコースが併設されていた)が目に入るが、昭和30年代に見たもので残っているものといえば、二宮金次郎の銅像だけだろうか。もちろん校門は残っているが、昭和30年代にあった木製の校門ではない。校門付近の家を見て、当時はあの辺りに校長先生の家があったなあと思い出す。

写真はリフレッシュプラザ鷹泊から小学校の門方向を写したもの。わかりづらいが、左の家の手前に二宮金次郎像が設置されている。

この場に立って、周囲を見渡しながらゆったりしていると、鷹泊小・中学校に通っていた昭和30年代が思い起こされて至福の時間を過ごすことができる。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鷹泊小学校閉校跡地にできたリフレッシュプラザ鷹泊を訪れて。

2024年03月21日 | Weblog

写真:リフレッシュプラザ鷹泊

今は校舎跡にコミュニティセンターとしてのこの建物リフレッシュプラザ鷹泊が建っている。ネット検索すると、現在臨時休業とあったが、訪れた時には2台の車が止まっていた。周囲を散策して戻った時には車はいなくなっていた。

ここにあのなつかしい校舎があった。この学校跡地は、当時の校舎はとうの昔に無くなっているが、小学校入学してから中学校卒業までの9年間の日々が脳裏に蘇ってくる、懐かしの場所だ。

写真:旧校舎(鷹泊小学校記念誌から転載)

二代目の校舎(昭和49年-平成9年)の記憶はほとんどない。一度だけなにかの記念行事(開校80周年だったか90周年だったか)の時に、その校舎に入ったことはある。

写真:二代目校舎(鷹泊小学校記念誌から転載)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コミュニティープラザ鷹泊への入口近くにある鷹泊唯一の信号機

2024年03月18日 | Weblog

写真は鷹泊小学校があったところの信号機がある交差点。正面つきあたりにコミュニティープラザ鷹泊がある。

鷹泊小学校が、多度志小学校と統合されて、閉校となったのが、1997年(平成9年)である。早26年が経過している。

学童のために歩行者信号が設置されたと思われるが、小学校がなくなり人口も激減している今はここを徒歩で通過する人はいるのだろうか。皆無かもしれない。

信号機が作動しているかの確認のためにも、歩行者ボタンを押したところ、しっかりと青信号に変わって、道路を渡れた。

写真 歩行者信号の右手に新しい建築物。

信号機の近くに新しい建物があった。富岡産業以外の新しい建築物はなんだろうと調べてみると、2019年新築の深川地区消防組合詰め所ということであった。

常駐している人はいないように思えた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上鷹地域で、実のなったオンコの木とご対面。

2024年03月14日 | Weblog

図は鷹泊入植120年記念誌に記載されている昭和40年頃を表わす『广泊市街案内圖』から上鷹部分を引用

上鷹地域も一般住宅はごく少なく寂しい町並みである。道端に実のなったオンコ(イチイ)の木があった。オンコは9月過ぎから赤い実をつけるので、タイミングよく赤い実にお目にかかったことになる。その当時、順毛さん宅の前にオンコの木があり、赤い実を一つ2つ食べたことを思い出した。この樹が同じオンコと思われた。オンコの寿命は1000年とされているようなので、この先もずっと残っているだろう。

上鷹には、桜沢米穀店や、中森鉄工場など場所をしっかりと覚えているはずだが、周囲に何も無いと位置の記憶があやふやになる。もちろん小学校への曲がり角にあって、学用品などをよく買った宮部商店の位置は忘れようがない。

写真は、道端で見かけたオンコの木

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中鷹と上鷹との境界がわからなくなっている

2024年03月11日 | Weblog

こじんまりした駐在所。手前が上鷹、向こうが中鷹地域。

中鷹と上鷹との境界は消防番屋と駐在所あるいは郵便局あたりだと思う。消防番屋はなくなっており、郵便局は別の場所に移転してしまっている。駐在所はあるが、昔とまったく同じ場所なのかはわからない。消防番屋には消防自動車が格納されていて、そこの二階の畳敷きの広間を子供たちも使用させてもらったことがある。 冬休みには同級生が集まって百人一首下の句かるたをした思い出がある。 

しかし、きれいさっぱり何もなくなっている。

駐在所の前から、上鷹地域を望んで。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中鷹地域での思い出 その2

2024年03月08日 | Weblog

中鷹地域には、同級生の家も数軒あった。公園がなかった鷹泊では、お寺の前の広場でよく遊んだ。おがくずを敷き詰めた土俵で、お祭りの子供相撲が行われたこともある。市街地の中央に構えていたお寺がなくなっているのはなんともさびしいことである。

本通り(国道)から川に向かっての道を行くと堤防の向こうにはゴミ捨て場があった。リヤカーでゴミ捨てに行ったことよりも、そこにあった池での魚釣りにいったことをよく覚えている。そのあたりには学校が遊泳を許可した第三水泳場があったので、夏休みにはよく泳ぎに行った。腰より深いところにはいかないようにしてはいたが、日によって水量が違うので、危険といえば危険であった。

写真は堤防の向こうにあるゴミ捨て場への道。写真右手から中央奥へ細い道がかろうじて残っている今は誰も通らないのではないだろうか。

写真左から右へ堤防へ向かう道が通っている。

数年前までは存在した家の前にあった花がきれいだったが、今は花を栽培していた痕跡と思われるタイヤが虚しかった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中鷹地域を歩くも寂しい限りであった

2024年03月04日 | Weblog

 

昭和40年頃の地図でわかるように

市街地の中央に位置する中鷹。昔の中鷹にはお寺(大祥寺)をはじめいろいろあったが、

一番商店が多かった地域だったはずだが、今は居住者がいる家はほとんどないようで閑散としている。

床屋の高橋さん、食料品や酒類や学用品など多種類を扱っていた松澤商店、魚屋と自転車販売をしていた三浦商店、萩浦鉄工場、弘田精米所、農協、毛糸や衣類を扱っていた高岩商店と当時を思い出す。  

数年前に鷹泊唯一の店だった松澤さんも店を閉じてしまった。松澤さんの隣に、給油所があった。このあたりが、昔の農協があった位置のように思えるが、人家が少ないために位置関係がわかりづらい。その家の前に自動販売機が置いてあったので、飲み物を購入すべくコインを入れたら当たり前だが普通に購入できてホッとした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする