駅からウォーク 「静岡の東海道」1回目-4 2011/2/10
小田原駅 ― 小田原本陣跡 ― 畑 宿 ― 元箱根 ― 箱根峠 ― 山中城址 ―
7:15 7:40 10:30 12:00 12:55 14:00
1.5k 14.3k 18.8k 22.0k 25.6k
錦田一里塚 ― 三嶋大社 ― 三島駅
15:30 16:20 16:45
32.8k 35.4k 36.5k
三嶋大社へ(石畳)
芦ノ湖に向かって一旦下った道は、また上り坂になる。
箱根はカルデラ湖で芦ノ湖の周りは外輪山に囲まれているので、もう一度その外輪山を登り
直さなければならないのだ。
と、ここまで書いて確認のため芦ノ湖を調べてみると------
なんと芦ノ湖はカルデラ湖でなく堰止湖になっていた。そんな馬鹿な学校ではカルデラ湖と
教わったはずだ。
しかしPCで「芦ノ湖 堰止湖」と検索すると、あるはあるは一杯ヒットした。
中でもPCのフリー百科事典のWikipediaによると
カルデラ湖とは、火山の活動によってできた大きな凹地に水が溜まって出来た湖のことで
「芦ノ湖は約3000年前の水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が
発生しその結果誕生した堰止湖である。よくカルデラ湖と解説されるが、それは間違いである」
となっている。そして早川の水源になっているとも書いてある。
しかし納得できない。次に「芦ノ湖 カルデラ湖」と検索すると、こちらも一杯ヒットした。
中に箱根町のHPがあったので開いてみると
「芦ノ湖は箱根火山の中にあるカルデラ湖で-------」とあり続いて
「水蒸気爆発による土石流が、当時仙石原に流れていた川を堰き止めて、その上流に水が溜まり
湖になりました」とある。
初めにはっきりカルデラ湖と書いてあるが、後の記述は堰止湖の説明のようだ。
一体どっちが正しいのか、素人の私に判断できるわけでも無いが、若し早川が芦ノ湖に繋がって
いるなら堰止湖の方が正しいような気がする。
そこで地図を確認すると仙石原から強羅に流れ相模湾に注いでいる早川があった。
となると堰止湖の方が正しいのかな。
街道は芦川の石仏群の山道を歩き箱根峠に抜けるようになっている。
石仏群! どんな石仏があるのか楽しみだった。そしてその山道の入口には早速数個の石仏があった。
期待を高め急坂を登っていくと、なんだその上は国道1号線になっていた。
途中石仏は無かったと思うが、上り坂で下を向いて歩いたので見落としてしまったのだろうか?
国道に出て自然と足は右側の下り側に。先を見ると芦ノ湖が見える。アレー変だなと
街道地図を見る。地図には「国道に出たら箱根新道と国1を横断し側溝の脇を南に向かう」とある。
危ない、危ない、危うく芦ノ湖に戻ってしまうところだった。
少し行きまた箱根新道と国1を横断してゴルフ場の道にと入る。今日一番分かりにくい場所だ。
これでは街道地図を持っていなければ、この交通量の多い車道を歩かなければならない。
静岡県の県境が見えてきた。ここが相模の国と伊豆の国の境になるのだが境界石のような物は
無かった。小田原藩や三島の伊豆代官所で境界石を設置しても良さそうなものだが。
芦ノ湖が見えるのもここが最後になる。本来ならその先に富士山が見えるだろうが今日は残念ながら
顔を出してくれていない。でもこれからが富士山の本場の駿河なのだから、飽きるほど富士山を
見ることが出来るはずだ。それにここからが本来の目的の静岡県の東海道になる。
今まで以上にあちこちを見ながら歩いていこう。
十国峠に行く道を横断して、下り坂になった国道1号の歩道を歩く。
次の街道の入口は反対側の車線になるので国道をまた横断する。
駐車場の先に休憩場とトイレが見える。あそこで一服しよう。
休憩所にはリュックを背負ったご夫婦がいた。挨拶のあと「どちらからこられたのですか?」と
聞かれた。同じ街道を歩いていると相手の行程が気になってくるのだ。
「小田原から来ました」
「エー小田原! それじゃ朝が早かったでしょうね。畑宿を通ってきたのですか」
「小田原駅を7時20分に出ました。畑宿から箱根までは雪が残っていたので下りは滑るので
気をつけてくださいね」
「私達は今日は箱根が終点でバスで帰ります。朝もバスで山中城址まで来て、そこから歩いて
きただけのショートコースですが、これから三島まで下るのですか」
「エー三島が目標ですが、出来たら沼津まで行きたいなと思っています」
「沼津! それじゃ箱根八里より長いじゃないですか」
気持ちよく会話は弾んだ。
ご夫婦と別れ脇道に入る。右側にNTTの箱根高原電話交換所があったが、こんな山の中に
電話をひく家があるのかしらとか、右手のゴルフ場には、こんな寒くて風があり、しかも雪が
降るような場所で冬にゴルフをする物好きがいるのかなど考えながら歩いていた。
オットここはもう静岡県なのだから悪口は止めよう。
街道の入口は茨ヶ平といい標識や案内板が立っているのですぐ分かる。
その道に入るとすぐ東屋のある休憩所があった。そこには静岡県で作成した立派な標識が
建っている。標識は右が三島宿で左が箱根宿になっていた。
だが左に延びている箱根宿への道は、今私が歩いてきた道ではない。一体どこに行くのかと
その道に入ってみると。すると道はすぐ行止りになっていた。
そしてそこには井上靖の文学碑が建っていた。この様に歩いてすぐ結果の出る間違いなら
よいが、この道が更に延びていたらどうする積りだろう。
道標は立派さを競うのでなく、分りやすさを競ってほしいものだ。
どだい角度のつかない物で方向を指示するなど無理な話なのだ。
四国の道の標識も腹が立ったが、この静岡県の標識も嫌いだ。
井上靖の文学碑には「北斗闌干」(ほくとらんかん)と彫られていた。意味は
「昔から道行く人の道しるべであった北斗星が燦然と輝く様をあらわす」言葉だという。
街道を行く旅人の道標となるいい言葉なのだがナー。
道がいい感じになってきた。何だと思います。これは石畳の左右に生えている篠竹?ハ竹?
良く分からないが太さは人差し指程度で、静岡県では一般的に自生している竹で、道祖神の
ドンドン焼でお札やお飾りと一緒に燃やす竹です。その竹が左右から覆いかぶさって、まるで
トンネルのようになっている感じの良い道です。
接待茶屋の跡地の看板の近くに江戸から25番目の一里塚がある。ただ余り手の入れられていない
山中なのに塚が一つしかない。もう一つはどうしたのだろうか、接待茶屋を撤去するとき塚も
一緒に撤去してしまったのだろうか。
この辺りには外にも明治天皇の休憩場所や接待茶屋に関連した徳川吉宗の石碑も建っていた。
次に現れた石は「兜岩」だそうです。この石は兜に似ているから兜石。または豊臣秀吉が小田原
征伐の折、兜をかけたから兜石とも云われていると説明があった。
確かに云われてみれば兜にも似ているし、兜を置きやすくもあるな。
アレー足元に何か動く物が?? 見ると体調10cm程の黒っぽい生き物がチョロチョロと動いている。
何だろう?鼠かな? と思っていると、その生き物は動きを止めてこちらの様子を窺っているようだ。
カメラを出し写真を写しても動かない。細くて長い尻尾は鼠のようだが体毛の色が茶色と白っぽい
二色になっている。耳も外を向いて比較的大きい。何より普通の鼠と違く見えるのは鼻の色が茶色で
豚のように平になっていることだ。普通の鼠の鼻は尖った顔の先にあるだけだと思っていたが---
しかしこれはやはり鼠だろう。ジックリ観察をしてから足を少し動かすと、その鼠は鼻の先の地面の
中に潜り込んでしまった。きっと巣穴の前でこちらを観察していたのだろう。
鼠がいた場所の少し下の石畳に「〒」のマークを掘りこんだ石があった。
その前からNTTの前身だった電電公社のTTSのマークの標石が所々にあったので、これは電電公社の
その前の逓信省がこの石畳の下に電話線を埋設した印だろうと何気なく考えていた。
次にまたマークがあったら写真を写そうと思っていたが、そのあと〒マークを見つけれなかった。
惜しい事をしたなー。
この辺りの石畳の石は平で大きい石が目につく。確か伊豆半島では伊豆石なる物が産出されると
聞いた事がある。ではここは伊豆の国。若しかしてこの石は伊豆石なのかも?
石畳で思い出すのは"全ての道は ローマに通ず"のローマ帝国の石畳がある。
以前その石畳に車輪の轍のあとが写った写真を見た事がある。あちらの石畳は車が走れるように
石を隙間無く並べてあった。それに比べ日本の石畳は道の保全が主のためか石と石との感覚が広い。
これでは荷車などの車輪は石を一つ越すごとにつっかえてしまい動きが取れなかっただろう。
日本はこんな石畳だったから車が発達しなかったのか。それとも車が無かったからこんな石畳に
なったのか。
風変わりな石碑があった。説明を読んでみると
「仲間に慕われた酒飲みの雲助の供養のため建てた」とある。更に
「最初は山中の一里塚に建っていたが、何時の日にかこの地に移ってきた。
酒飲みの墓なのでフラフラと一ヶ所に落着かないのでしょう」と落ちまでついていた。
雲助と言うと悪い駕籠かきをイメージしてしまうが、石碑を読むとそうではなかったらしい。
辞書にも「雲助とは、江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった
人足のこと」となっていた。認識を改めないといけないな。
山中城址に到着。
この城は小田原の北条氏が築城した城で、豊臣秀吉の小田原征伐のおり攻撃を受けて半日で落城した
城だと認識している。だからきっと山城のようなチャチな城だと思って城址の中に入ってみたら、
整備されている事もあったが、その大きさに驚いた。しかも案内文をみると4千名もの守備陣がいた
とも書いてある。それが坂の上の城で鉄砲も有って篭城したのにもかかわらず、わずか半日で落城
とは何とも情けない。これはきっと守備陣に北条の結論の出ない小田原評定の事が伝わっていて
戦意を無くした結果ではないだろうか。
石畳が国道1号線に合流するところに松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」だって
今日は残念ながら富士山は見えなかった。それでも結構面白い旅だったことは確かだ。
だけどその気持ちの底には残念だった気持ちが隠されている。
天下の芭蕉さんも若干の負惜しみも含めてこの句を詠んだのだろうな。
長い長い石畳だった。箱根の石畳というと小田原から箱根の坂のイメージが強かったが今回歩いて
どちらかといえば三島側の方が長いことを知った。
箱根峠からこの辺りまで10kmはあったが、その2/3の7kmは石畳だったような気がする。
硬い石への着地が続いたせいか足が少々疲れた。
昔の旅人も同じ感想だったろう。それで平地に石畳は作らなかったとも考えられるな。
しかしここの石畳が日坂の石畳でなくてよかった。あの石の尖った先を選びながら歩く石畳では
とっくに嫌になっているか、足首を痛めていただろう。
ところで小田原と箱根の間には間の宿の畑宿があったが、こちら側は無かったのかな?
距離だって若干短い程度に過ぎないのに何故だろう?
若しかして旅人は三島女郎衆を求めて三島宿に泊ったので間の宿は必要なかった。
そんな事は無いか。
松雲寺の入口に明治天皇が腰掛けた石があったので覗いてみた。街道を歩いていると、このように
昔の有名人が座ったとか、隠れたとか、ソーさっきの兜岩のような物が時々ある。しかしその殆どが
眉唾的なものが多いが、ここの腰掛石は何となく信用できる気がした。
それはそから見える景色が素晴らしいと想像できるからだ。今日は生憎富士山は見えないが、あの
パッチワークのような丘の先に雪を被った富士山が見えたら、明治天皇も腰掛けてしばし休憩したく
なったのだろう。
錦田の一里塚はペアで保存されていた。ただ松並木は国道1号線の上り線になっていて歩く事は
出来ない。歩道はその横に現代の石畳を敷いて歩くようになっていた。
そして一里塚の先には箱根の最後の坂「愛宕坂」があった。この愛宕坂は今は舗装され車も走って
いるが中々の坂だ。
江戸に向かう旅人はこの坂を登りながら、これから始まる箱根八里への不安を感じ、三島に向かう
旅人は箱根を越えた満足感を感じながらこの坂を下ったことだろう。
私も何とか箱根八里をやることが出来た達成感を感じながら歩いていた。
しかしもう沼津まで歩きは無くなっていたし、すでに4時半を過ぎている。
今日は私も三島宿が終点だ。
三嶋大社が見えてきた。現代は荷馬車は無いが門前を車が行きかっていた。
小田原駅 ― 小田原本陣跡 ― 畑 宿 ― 元箱根 ― 箱根峠 ― 山中城址 ―
7:15 7:40 10:30 12:00 12:55 14:00
1.5k 14.3k 18.8k 22.0k 25.6k
錦田一里塚 ― 三嶋大社 ― 三島駅
15:30 16:20 16:45
32.8k 35.4k 36.5k
三嶋大社へ(石畳)
芦ノ湖に向かって一旦下った道は、また上り坂になる。
箱根はカルデラ湖で芦ノ湖の周りは外輪山に囲まれているので、もう一度その外輪山を登り
直さなければならないのだ。
と、ここまで書いて確認のため芦ノ湖を調べてみると------
なんと芦ノ湖はカルデラ湖でなく堰止湖になっていた。そんな馬鹿な学校ではカルデラ湖と
教わったはずだ。
しかしPCで「芦ノ湖 堰止湖」と検索すると、あるはあるは一杯ヒットした。
中でもPCのフリー百科事典のWikipediaによると
カルデラ湖とは、火山の活動によってできた大きな凹地に水が溜まって出来た湖のことで
「芦ノ湖は約3000年前の水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が
発生しその結果誕生した堰止湖である。よくカルデラ湖と解説されるが、それは間違いである」
となっている。そして早川の水源になっているとも書いてある。
しかし納得できない。次に「芦ノ湖 カルデラ湖」と検索すると、こちらも一杯ヒットした。
中に箱根町のHPがあったので開いてみると
「芦ノ湖は箱根火山の中にあるカルデラ湖で-------」とあり続いて
「水蒸気爆発による土石流が、当時仙石原に流れていた川を堰き止めて、その上流に水が溜まり
湖になりました」とある。
初めにはっきりカルデラ湖と書いてあるが、後の記述は堰止湖の説明のようだ。
一体どっちが正しいのか、素人の私に判断できるわけでも無いが、若し早川が芦ノ湖に繋がって
いるなら堰止湖の方が正しいような気がする。
そこで地図を確認すると仙石原から強羅に流れ相模湾に注いでいる早川があった。
となると堰止湖の方が正しいのかな。
街道は芦川の石仏群の山道を歩き箱根峠に抜けるようになっている。
石仏群! どんな石仏があるのか楽しみだった。そしてその山道の入口には早速数個の石仏があった。
期待を高め急坂を登っていくと、なんだその上は国道1号線になっていた。
途中石仏は無かったと思うが、上り坂で下を向いて歩いたので見落としてしまったのだろうか?
国道に出て自然と足は右側の下り側に。先を見ると芦ノ湖が見える。アレー変だなと
街道地図を見る。地図には「国道に出たら箱根新道と国1を横断し側溝の脇を南に向かう」とある。
危ない、危ない、危うく芦ノ湖に戻ってしまうところだった。
少し行きまた箱根新道と国1を横断してゴルフ場の道にと入る。今日一番分かりにくい場所だ。
これでは街道地図を持っていなければ、この交通量の多い車道を歩かなければならない。
静岡県の県境が見えてきた。ここが相模の国と伊豆の国の境になるのだが境界石のような物は
無かった。小田原藩や三島の伊豆代官所で境界石を設置しても良さそうなものだが。
芦ノ湖が見えるのもここが最後になる。本来ならその先に富士山が見えるだろうが今日は残念ながら
顔を出してくれていない。でもこれからが富士山の本場の駿河なのだから、飽きるほど富士山を
見ることが出来るはずだ。それにここからが本来の目的の静岡県の東海道になる。
今まで以上にあちこちを見ながら歩いていこう。
十国峠に行く道を横断して、下り坂になった国道1号の歩道を歩く。
次の街道の入口は反対側の車線になるので国道をまた横断する。
駐車場の先に休憩場とトイレが見える。あそこで一服しよう。
休憩所にはリュックを背負ったご夫婦がいた。挨拶のあと「どちらからこられたのですか?」と
聞かれた。同じ街道を歩いていると相手の行程が気になってくるのだ。
「小田原から来ました」
「エー小田原! それじゃ朝が早かったでしょうね。畑宿を通ってきたのですか」
「小田原駅を7時20分に出ました。畑宿から箱根までは雪が残っていたので下りは滑るので
気をつけてくださいね」
「私達は今日は箱根が終点でバスで帰ります。朝もバスで山中城址まで来て、そこから歩いて
きただけのショートコースですが、これから三島まで下るのですか」
「エー三島が目標ですが、出来たら沼津まで行きたいなと思っています」
「沼津! それじゃ箱根八里より長いじゃないですか」
気持ちよく会話は弾んだ。
ご夫婦と別れ脇道に入る。右側にNTTの箱根高原電話交換所があったが、こんな山の中に
電話をひく家があるのかしらとか、右手のゴルフ場には、こんな寒くて風があり、しかも雪が
降るような場所で冬にゴルフをする物好きがいるのかなど考えながら歩いていた。
オットここはもう静岡県なのだから悪口は止めよう。
街道の入口は茨ヶ平といい標識や案内板が立っているのですぐ分かる。
その道に入るとすぐ東屋のある休憩所があった。そこには静岡県で作成した立派な標識が
建っている。標識は右が三島宿で左が箱根宿になっていた。
だが左に延びている箱根宿への道は、今私が歩いてきた道ではない。一体どこに行くのかと
その道に入ってみると。すると道はすぐ行止りになっていた。
そしてそこには井上靖の文学碑が建っていた。この様に歩いてすぐ結果の出る間違いなら
よいが、この道が更に延びていたらどうする積りだろう。
道標は立派さを競うのでなく、分りやすさを競ってほしいものだ。
どだい角度のつかない物で方向を指示するなど無理な話なのだ。
四国の道の標識も腹が立ったが、この静岡県の標識も嫌いだ。
井上靖の文学碑には「北斗闌干」(ほくとらんかん)と彫られていた。意味は
「昔から道行く人の道しるべであった北斗星が燦然と輝く様をあらわす」言葉だという。
街道を行く旅人の道標となるいい言葉なのだがナー。
道がいい感じになってきた。何だと思います。これは石畳の左右に生えている篠竹?ハ竹?
良く分からないが太さは人差し指程度で、静岡県では一般的に自生している竹で、道祖神の
ドンドン焼でお札やお飾りと一緒に燃やす竹です。その竹が左右から覆いかぶさって、まるで
トンネルのようになっている感じの良い道です。
接待茶屋の跡地の看板の近くに江戸から25番目の一里塚がある。ただ余り手の入れられていない
山中なのに塚が一つしかない。もう一つはどうしたのだろうか、接待茶屋を撤去するとき塚も
一緒に撤去してしまったのだろうか。
この辺りには外にも明治天皇の休憩場所や接待茶屋に関連した徳川吉宗の石碑も建っていた。
次に現れた石は「兜岩」だそうです。この石は兜に似ているから兜石。または豊臣秀吉が小田原
征伐の折、兜をかけたから兜石とも云われていると説明があった。
確かに云われてみれば兜にも似ているし、兜を置きやすくもあるな。
アレー足元に何か動く物が?? 見ると体調10cm程の黒っぽい生き物がチョロチョロと動いている。
何だろう?鼠かな? と思っていると、その生き物は動きを止めてこちらの様子を窺っているようだ。
カメラを出し写真を写しても動かない。細くて長い尻尾は鼠のようだが体毛の色が茶色と白っぽい
二色になっている。耳も外を向いて比較的大きい。何より普通の鼠と違く見えるのは鼻の色が茶色で
豚のように平になっていることだ。普通の鼠の鼻は尖った顔の先にあるだけだと思っていたが---
しかしこれはやはり鼠だろう。ジックリ観察をしてから足を少し動かすと、その鼠は鼻の先の地面の
中に潜り込んでしまった。きっと巣穴の前でこちらを観察していたのだろう。
鼠がいた場所の少し下の石畳に「〒」のマークを掘りこんだ石があった。
その前からNTTの前身だった電電公社のTTSのマークの標石が所々にあったので、これは電電公社の
その前の逓信省がこの石畳の下に電話線を埋設した印だろうと何気なく考えていた。
次にまたマークがあったら写真を写そうと思っていたが、そのあと〒マークを見つけれなかった。
惜しい事をしたなー。
この辺りの石畳の石は平で大きい石が目につく。確か伊豆半島では伊豆石なる物が産出されると
聞いた事がある。ではここは伊豆の国。若しかしてこの石は伊豆石なのかも?
石畳で思い出すのは"全ての道は ローマに通ず"のローマ帝国の石畳がある。
以前その石畳に車輪の轍のあとが写った写真を見た事がある。あちらの石畳は車が走れるように
石を隙間無く並べてあった。それに比べ日本の石畳は道の保全が主のためか石と石との感覚が広い。
これでは荷車などの車輪は石を一つ越すごとにつっかえてしまい動きが取れなかっただろう。
日本はこんな石畳だったから車が発達しなかったのか。それとも車が無かったからこんな石畳に
なったのか。
風変わりな石碑があった。説明を読んでみると
「仲間に慕われた酒飲みの雲助の供養のため建てた」とある。更に
「最初は山中の一里塚に建っていたが、何時の日にかこの地に移ってきた。
酒飲みの墓なのでフラフラと一ヶ所に落着かないのでしょう」と落ちまでついていた。
雲助と言うと悪い駕籠かきをイメージしてしまうが、石碑を読むとそうではなかったらしい。
辞書にも「雲助とは、江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった
人足のこと」となっていた。認識を改めないといけないな。
山中城址に到着。
この城は小田原の北条氏が築城した城で、豊臣秀吉の小田原征伐のおり攻撃を受けて半日で落城した
城だと認識している。だからきっと山城のようなチャチな城だと思って城址の中に入ってみたら、
整備されている事もあったが、その大きさに驚いた。しかも案内文をみると4千名もの守備陣がいた
とも書いてある。それが坂の上の城で鉄砲も有って篭城したのにもかかわらず、わずか半日で落城
とは何とも情けない。これはきっと守備陣に北条の結論の出ない小田原評定の事が伝わっていて
戦意を無くした結果ではないだろうか。
石畳が国道1号線に合流するところに松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」だって
今日は残念ながら富士山は見えなかった。それでも結構面白い旅だったことは確かだ。
だけどその気持ちの底には残念だった気持ちが隠されている。
天下の芭蕉さんも若干の負惜しみも含めてこの句を詠んだのだろうな。
長い長い石畳だった。箱根の石畳というと小田原から箱根の坂のイメージが強かったが今回歩いて
どちらかといえば三島側の方が長いことを知った。
箱根峠からこの辺りまで10kmはあったが、その2/3の7kmは石畳だったような気がする。
硬い石への着地が続いたせいか足が少々疲れた。
昔の旅人も同じ感想だったろう。それで平地に石畳は作らなかったとも考えられるな。
しかしここの石畳が日坂の石畳でなくてよかった。あの石の尖った先を選びながら歩く石畳では
とっくに嫌になっているか、足首を痛めていただろう。
ところで小田原と箱根の間には間の宿の畑宿があったが、こちら側は無かったのかな?
距離だって若干短い程度に過ぎないのに何故だろう?
若しかして旅人は三島女郎衆を求めて三島宿に泊ったので間の宿は必要なかった。
そんな事は無いか。
松雲寺の入口に明治天皇が腰掛けた石があったので覗いてみた。街道を歩いていると、このように
昔の有名人が座ったとか、隠れたとか、ソーさっきの兜岩のような物が時々ある。しかしその殆どが
眉唾的なものが多いが、ここの腰掛石は何となく信用できる気がした。
それはそから見える景色が素晴らしいと想像できるからだ。今日は生憎富士山は見えないが、あの
パッチワークのような丘の先に雪を被った富士山が見えたら、明治天皇も腰掛けてしばし休憩したく
なったのだろう。
錦田の一里塚はペアで保存されていた。ただ松並木は国道1号線の上り線になっていて歩く事は
出来ない。歩道はその横に現代の石畳を敷いて歩くようになっていた。
そして一里塚の先には箱根の最後の坂「愛宕坂」があった。この愛宕坂は今は舗装され車も走って
いるが中々の坂だ。
江戸に向かう旅人はこの坂を登りながら、これから始まる箱根八里への不安を感じ、三島に向かう
旅人は箱根を越えた満足感を感じながらこの坂を下ったことだろう。
私も何とか箱根八里をやることが出来た達成感を感じながら歩いていた。
しかしもう沼津まで歩きは無くなっていたし、すでに4時半を過ぎている。
今日は私も三島宿が終点だ。
三嶋大社が見えてきた。現代は荷馬車は無いが門前を車が行きかっていた。
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