はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道2-1

2011-02-19 10:19:11 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」2回目-1  2011/2/15

三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
 7:05       7:25      8:55     10:20      11:55       13:00      13:33
          1.5k      8.8k     16.0k      22.3k        26.2k      28.7k
 
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
   14:05      15:30      16:00       16:50       17:00     17:25
   30.8k      37.7k      39.4k       42.6k       43.6k     46.3k

    

1回目の東海道の箱根八里は懸念していた街道歩きの不安を吹き飛ばしてくれた。
国道脇を歩くこともあったが大部分は歩道で、しかも興味をhかれる史跡があちこちにあった。
こんな道が続くなら東海道を何回歩いても良いとさえ思った。

だが今日の行程は箱根を下った三島から、平になった道を延々と富士川辺りまで歩く事になる。
そしてその道の全ては車と共用の道で歩行者専用や山道は皆無だ。
いよいよ現代の東海道の難所の始まりとなるのだが、その結果は果たして-------

                     沼津宿へ(千貫樋)

        

三島駅を降りると雨が止んだばかりのようだ。まだ傘を広げている人もいる。
もう言うまいと思っても言いたくなる。全く天気予報の奴め! 6時からの予報は10%だったのに。
それでも雨が止んで良かった。何しろこの「駅からウオーク」は晴の日に歩く事にしているので
合羽は持っていない。今日も常に持っている折り畳みの傘があるだけだから。

三嶋大社の池は湯気が発生していた。水温が気温より高くなるとき生じる現象らしい。
曇っていて放射冷却も起きていないのに寒いなんて何故だろう? 三島は温暖な伊豆半島の付根
だから暖かいと思ったが箱根からの冷たい風が降りてきて寒いところなのかな?

        

三島は水の都で富士の雪解け水がこの辺りに自噴している。
道脇にセンサーで動く人形が井戸から水を汲んでくれた。ありがたく柄杓で一杯貰ってっと。

その少し先に三島本陣跡の石碑が建っていた。

        

こんな石碑では面白くもなんでもないが当分はこんな本陣跡しかないだろう。
それでも証拠写真に1枚写しておいた。

小さな橋の上に看板がある。
読んでみると「千貫樋(せんがんどい)」とあり橋の下を流れる小さな川の説明だった。
時は天文(1555)年、今川と北条の婚姻が纏まり、その引き出物として北条が水不足の駿河の伏見や
八幡に三島楽聚園の小浜池から42.7mの樋を作り水を送ったという。
名前の千貫とはそのとき使った費用とも、この樋のお陰で千貫増えた禄高の事ともいう。とあった。

まてよ楽聚園の前は今歩いて来たが、とても50mやそこらではない。きっと2kmはあるだろう。
気になって家で調べてみると確かに楽聚園からこの辺りまで川が続いている。更に川は東の方向の
伏見や八幡を経て黄瀬川に注いでいた。もしこの川が千貫樋としたら4km以上はあるだろう。
看板の42mはその一部を樋で作ったと云う事なのか? 分らない。

        

更に疑問に感じたのは看板を読んで下を覗くと、余り綺麗とはいえない小さな川が見える。
この川が千貫樋?看板には「当時の木製の樋を現在の鉄筋コンクリートに改めた」とあるが
下の川はコンクリートで囲ってあるようには見えない。ただこの川の奥の方にコンクリートの橋の
ような物が見える。若しかしてあれが千貫樋?と思い露地を通って写したのがこの写真です。

もう一度看板を読み直してみる。看板の最初に「伊豆・駿河の国境、境川にかけられている樋で」
と書いてある。アッそうか「かけられている」のだから樋は川の上にあると表現していたのだ。
なんともお粗末な理解力だったが、まだ何となく釈然としなかった。

写真の川は低いところを流れているので、果たして千貫樋なのかどうか-------



江戸から28里目の伏見の一里塚は寺に挟まれた交差点の左右にあった。
写真左の玉井寺の一里塚は江戸時代から一里塚で、右の宝池寺の一里塚は昭和60年に改修された
とあった。

        

玉井寺の門前には今日行く予定の原の松陰寺の住職、白隠和尚の書いた「三界万霊等」の石碑が
建っていた。以下は受け売りです。
「三界とは生れ変り死に変わりする世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことである。
故に三界万霊とはこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである」とか
「三界とは欲界、色界、無色界をいい、万霊とは欲、色、無色界の精霊の全てをさしている。
それらを供養することが三界萬霊塔である」らしい。



源頼朝と義経が兄弟対面をしたとき座った石が黄瀬川の近くの八幡神社にある。
この辺りは駿河一国33観音廻りで歩いた道で、この対面石もそのとき見ている。

マーこれこそが後の時代になって適当に理由付けしたもので、この石もどこからか適当な石を持って
きて並べたに過ぎないだろう。



安藤広重の描いた東海道と現代の東海道との違いを感じようと浮世絵を描いた場所の写真を写そうと
思っていた。浮世絵は黄瀬川沿いの街道を金比羅詣でに行く旅人を描いたものものなので、私も
同じような景色を探したのだが、しかし現代の街道は黄瀬川は横断するだけで川沿いを歩くようには
なっていなかった。
これから行く場所で浮世絵と似たような場所が果たしてあるだろうか----

        

また面白い看板があった。大きく「日本三大仇討ちの一つ」と書かれている。
曽我兄弟の仇討ちの事かと近づいて読んでみると全然違かった。中に荒木又右衛門や渡辺一馬の
名前があるので伊賀で起きた「鍵屋の辻決闘」のことだろう。
内容は数馬の妻の父平作がここで茶店をしていて、そこに敵の居場所を知っている男がきた。
平作は男に敵の居場所を教えてくれと言って自害をしてしまう。
男はその情に引かされて敵の居場所を教えてやったので数馬は本懐を遂げる事が出来た。
マーそんなことが書いてあった。しかし敵の場所を教えた男は自害した男の父親とも書いてある。
そのへんが良く分からないが浄瑠璃の話なのだから仕方ない。
今ではこの地蔵の事を「平作地蔵」と呼んでいるらしい。

平作地蔵の先に三十一里目の一里塚があった。看板に30里目の伏見の一里塚より計測すると短いが
本来の場所だと宿場内になってしまうので、ここに築いたとあった。
そこで私の持っているGPSの距離を転記しているノートを見てみると、
アレー伏見の一里塚の距離を書いてない。ショック!



一里塚を掃除していた人が声をかけてきた。
「あんたらは歴史が好きだからここを歩いていると思うが、東海道に宿場が幾つあるか知っているか」
と聞いてきた。確か日本橋と京を入れれば53+2で55だと思ったが答えなかった。
「学校では東海道53次と教えているが実際は55ある」と言い出し次々と話をしはじめた。
これはいけないと思い一里塚の前にある「玉砥石(たまといし)」を指して「これは何ですか」と
聞いてみた。すると「これは昔女の人の首飾りなどにする丸い石を磨いた石だ。今は三つしかないが
御用邸が出来る前はこんな石がゴロゴロしていた。だけど御用邸への道を作るのに古墳や何もかも
みんな潰してしまった」と話してくれた。

説明板を読むとこの石は、今から1200年頃前に玉類を磨く砥石で、この辺りは玉造郷と言われて
いたらしい。近くには玉造神社もあり昔の大集落の遺跡も発掘されている。
ただそれを証明する確かな証拠はないと正直に書かれていた。
なるほどそんな貴重な物なのかと手でそっと触ってみた。

狩野川の堤防が右にある細い通りを川廓通りと表示してあった。読みはかわくるわと読むのかな?
最初この通りの名前を見たときは狩野川の堤防沿いにあった赤線街かと思ったが違った。
では川廓とは何か、傍らの案内に「廓とは、城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の
区画を表す、くるわ(曲輪・郭・廓)が由来となった。
川廓通りはその名のとおり東側は狩野川に面し、背後は沼津城(元三枚橋城)の外廓にあたる東海道
として形成されてきました」と記されていた。
城なら城郭と書くように郭と書くべきではないかと調べてみたがどちらでも良いようだった。
しかし川廓通りをみて遊廓を思い浮かべるのは○○の証拠かもしれないな。

        

沼津の本陣跡は商店街の中にこんな標識があった。後ろに写っているのは交差点で例の静岡県の
道標が建っている。ここでもこの道標の指す方向に行くと本陣跡は通らないでしまう。困ったものだ。

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