はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 箕作

2012-06-19 17:44:52 | ウォーキング
天城越え3-2

小鍋峠~箕作

 感じの良い峠だった。如何にも峠らしく左右から山が迫り、前方は下り坂になっている。枯葉で埋まった峠道の横には二体の古びた地蔵が建っていて物悲しい古道の風情を醸している。聞こえてくるのは風が揺らす木の葉の音と鳥の囀りだけだ。
地蔵以外にも歌碑が三基いや四基建っているが私には判読できない。案内板が欲しいところだが、無粋な案内板では峠の雰囲気を壊しかねないので、このままでも良いのかもしれない。
今までも峠と名の付く所は何ヵ所も歩いてきたが、この小鍋峠は私の頭の中にいつまでも残る峠となりそうだ。

 
 小鍋峠                       小鍋峠の歌碑  

 さて心配していた小鍋峠も、ここまでは順調に来る事ができた。次はHPに絶壁の横の急坂を下ると紹介されて所を通らなければならない。ここまでは絶壁などありそうな気配は無かったがそれは分からない。何しろ掛川市の裏にある小笠丘陵は標高は低く、麓からは単なる里山程度にしか見えないが、オットドッコイで一歩コースから外れれば、それこそ断崖絶壁になっている所が何ヵ所もある。私も怖い思いをした事があるので、ここの小鍋峠も油断大敵だと思っていた。
 
 峠からの出だしは小鍋側より太めの山道の下りだった。ただ辺りの木が植林された木ではなく自然林だったので、ここは傾斜が急で植林できなかったのか、などと考えながら下って行く。
確かHPには下りだすとすぐ絶壁があるとなっていたと思うが絶壁は出てこない。10分も下っただろうか、山道の先に林道が見えてきた。エー!そんな~ と思いながら林道を行くと、じきと八木山集落の最初の民家があった。
何だろうな? あのHPの人は全国の街道を歩いていて、嘘や出鱈目を書くような人ではない。下る道が違ったのだろうか?

 何はともかく色々の不安が書かれている下田街道の小鍋峠は、平成24年6月3日現在、道は明瞭で標識もあり危険度は0で歩く事ができます。言い換えれば家族連でも歩ける「ファミリーコース」といっても過言ではないくらいでした。

 八木山の集落には石仏が何体か鎮座していて、そのうち子安地蔵と書かれた地蔵の前には縫ぐるみや湯呑や玩具などが供えられていた。この子安さんは今でも地域の人に大事にされているのだろう。

   
  どうという事も無い山道                 八木山の子安地蔵

 道の左側に石の道標が建っていて、その下の方には今来た道と同じ方向に下る道が見える。道標には「右下川津東うら 左三しま 道」と判読できる。という事はこの道標は下田街道が小鍋峠を通っていた時代の物だろう。そして右下の道は河津へ行く道なのだ。
ウーンそうなると明治入っての馬車道は何処を通っていたのだろう?
藤村も川端康成も湯ヶ野の事は書いてあるが小鍋峠の事は書いてない。書いてないから通らなかったとはならないが、湯ヶ野と小鍋峠を通るには若干無駄な歩きをしなければならない。それに馬車が小鍋峠を越えたのだろうか? いやいやこの峠は天城トンネルを越すのに比べれば数段楽な坂だから、馬車が越しても変ではない。
ウーン!分からない。この河津に行く道が湯ヶ野にも続いていれば、馬車はこの道を通ったとも思えるのだが-----

 家に帰りこの「川津東うら道」を現在の地図で辿って行くと、すぐ先で国道414号に合流していた。この国道は下田と沼津を結ぶ天城越えの国道で、今日も何度か歩いた道だった。では馬車は現在の国道の道を通っていたのだろうか、もう訳が分からない。

 馬車道は諦めて先に進もう。暫く行くと大きな楠木が見えてきた。ハリスの日本滞在記に「素晴らしい巨木で、日本人言うところによると、それは数百年をへたものであった」とあるらしい。この木がハリスが見た木なのだろうか? 
ハリスが見た楠木なら樹齢は500年を越しているだろうが、それにしてはこの楠木は青々とした葉を一杯つけて、樹勢は盛んだ。とても老木のようには見えない。
尤もハリスが通ってから、すでに150年が経過しているので、植え替えたとしてもおかしくない。この木の樹齢が500年でも150年でも私には見分ける事ができないので、ハリスが見たかどうかは何とも言えない。

   
  河津道の分岐       分岐の標識      ハリスの見た楠木?

 国道414号に合流。合流した所に「北の沢」のバス停があった。
ここから暫くは街道歩きの中で一番嫌な国道歩きになる。陽射しを遮るものも無く、テクテク歩いていると、車の人が「なんて物好きな」といった顔をしているように感じる。そんな被害妄想にかかった頃、「茅原野集会所」の新し建物の横の大きな石の袂に石仏を祀ってあるのを見つけた。
実はこの時はこの石仏に興味は感じなかったのだが、家で他の事を調べているとき、この石仏が「蛇地蔵」という名前の石仏だということが分かった。
それによると「蛇地蔵は大きな石の脇に寄り添う小さな二体のお地蔵様で、その大石の上には蛇に似た溝がある事から蛇地蔵と呼ばれている。溝の水はめったに涸れる事はなく、溝の水が無くなると、その年は干ばつになると言われている」
イヤー! 残念だな~ 溝の形も水の有無も見てこなかった。こういう場所には案内板が欲しいのだが----

  
    蛇地蔵

 見るものが無く詰まらない国道を歩いていると、右側の稲梓川の対岸に道が続いているのが見えた。今歩いている国道は民家が少ないが向こう側の道近くには民家が散在している。若しかしてあっちの方が街道かと想いだすと無性に渡りたくなった。だが対岸に通じている道は無く、国道を暫く歩いてようやく右に抜ける道が出てきた。その対岸の合流部には常夜灯も見えている。これならきっと向う側が街道だと渡る事にした。
 合流部には古い常夜灯や石仏も何体かあった。これなら街道に間違いないだろう、例え街道でなくても国道よりよっぽども歩きやすい。ただ注意しなければならないのは、この道が街道でなかった事を考えて、国道から目を離してはならないことだ。国道は間違いなく下田に向かっているのだから、心配になったら国道に戻ろうと思っていた。

  
  川越しに見える道                      合流部の常夜灯

 渡った側の道も見るものは無かったが、車が走っていないのでのんびり歩ける。前方に大きな建物が見えてきた。何だろうと思いながら歩いていくと「上原美術館」の看板が出てきた。そうだ下田には大正製薬の会長が建てた美術館あると聞いた事がある。これがその美術館なのだろう。チョット覗いて行こう。
「下田達磨大師」と美術館の入口の坂を登って行くと受付らしい建物がある。覗いてみるとどうやらここで入場料を払うようだ。どうせ美術館に入る気は無いのでそのままUターン。

 美術館はともかく達磨大師の寺ぐらいは入れたってよいのに、とブツブツ言いながら進んで行くと道がT字路に合流。多分合流した道を右(西)に行けばバサラ峠を越えて松崎に行く道だろうと、私は左の下田に向かう道に進む。
稲梓川を渡り太い道に合流。これで国道に戻ったと疑問も感じず右折する。だが道が上り坂になる。下田は下るはずだがと思ったが、マー場所によっては登る事もあるだろうと先に進んで行った。
それにしては上りが続きすぎだと不安が胸によぎってきた。だが左側に国道を見ながら歩いてきて、その国道に合流したなら当然進行方向は右側になる。だから間違いはないと自分に言い聞かせながら歩いていた。

 前方に道路標識が見えてきた。アレー国道のラッキョウの形でなく六角形の形をしている。シマッタ間違えたと標識に近づくと「県道15号」「下田松崎線」となっていた。アーア間違えた。この道がバサラ峠越えの松崎への道だった。
坂道を下りながら考えたが間違えた原因が思いつかない。箕作の交差点に着いたが納得できず、国道を天城方面に逆走してみた。今度は左側に上原美術館が見えている。国道が大きく右に曲がる所まで戻ったが、まだ完全には納得できなかった。だがきりがないので戻る事にしよう。アー疲れた近くにあった日枝神社の境内に入って一服。
結局間違った原因を完全に納得できたのは、家で地図を見てからだった。
再度箕作交差点に到着したのは14時半で、美術館を出てから50分経っている。、おかげで30分ほどの迷走してしまったようだ。

  
  県道下田松崎線                       箕作交差点

 箕作には知人がいて、箕作の地名の謂れを「むかし箕(みの)を作っていたから」聞いた事がある。
それが今回下田街道を調べていると箕作とは「大津皇子に仕え、668年に伊豆に流罪となった礪杵道作(ときのみちつくり)の霊を祀った神社があることからついた」とあった。どっちが正しいのだろう?
更に検索でヒットした歴史民俗用語辞典には、箕作とは「箕を作りまた修繕する者」とあった。 

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