はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

榛南の山城と高根山4

2016-02-24 10:38:15 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                                   勝間田城址

                                勝間田城趾案内図

 本曲輪に建っていた案内板には
 「勝間田城は、中世の代表的山城で、牧之原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の
尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。
 文明八年の落城後は、この城が再び使われたとしる記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が
残っている。 静岡県指定史跡」


 今回は城の裏の急斜面を下り城に入ったが、急斜面が緩やかになった所に一騎駆と思われる細尾根があり、案内図にも
 “一騎駆” と表示されていた。更にそこは急斜面で大軍が一度には下れないと思ったが、若干防御態勢に不安を覚えた。
しかし案内板にはその斜面に備えてか、南曲輪と腰曲輪の二つの曲輪が設けてあった。中々厳重な態勢だ。
               
 先の案内板でも傾斜のある尾根を利用した曲輪の配置は分かるが、こんな立体的配置図がHP 「土の城への衝動」
あったので黙って複写しました(ごめんなさい)。 少々高低差が極端だがこの図の方が城のイメージを抱きやすい。
(上図には南・腰曲輪は描かれていない)

 
              本曲輪の土塁跡                           本曲輪下部(歌碑が見える)

 頂にある本曲輪が本丸で現在は社が祀られている。本曲輪の下には大きな土塁も残り、起伏多さが本丸への備えを感じさせる。
その本丸の下に 「下萩も かつ穂にいづる 夕露に 宿かりそむる 秋の三日月  玉葉集 巻十四雑一 藤原長清」 の歌碑がある。
歌人の藤原長清は勝間田一族の子孫で、先ほどの案内板には 「子孫の長清は『夫木(ふぼく)和歌集』を編纂している。」 とあった。

 
        東尾根曲輪から静岡空港と富士山                     東尾根曲輪から二の曲輪方向

 東尾根曲輪の東方向が開けていて、尾根の上には静岡空港の建物やその先には富士山が見えていた。
昼飯を食べていたとき上空を飛んで行った飛行機があったが、あの空港の右から左に飛び立ち、方向転回した後、城の上空から
海に抜けて行ったのだろう。空港に近いのに離陸する時の爆音に気付かなかったのは、西風が強く空港より西のこの尾根には
爆音が届かなかったのか。

 空港より少し北に目を向けると二の曲輪と三の曲輪の広場が見える。開けているので城跡と云うよりピクニック広場のようで
明るい雰囲気だ。この辺りは横地城址と大分雰囲気は違う。

           

 牧之原台地と云うと台地が一つの塊のように思われるが、南端の海岸方面は幾つかの尾根に分かれている。
台地の一番東側は大井川に沿った尾根で一番短いが、大井川に架かる蓬莱橋があるので観光客を見ることが多い。
2本目の尾根が静岡空港のある尾根で、今でこそこの尾根を走る車は多いが以前は静かな尾根だった。
3本目も静かな尾根で今でも特出する物もなく私もこの尾根は歩いたことがない。
3本目と4本目の谷は昔は東海道金谷と榛原を結ぶ街道があり、今でも県道があるので車の量は多い。この4本目の尾根が
牧之原台地のメインで、台地の上には広大な茶園が広がっている。
台地を縦断している国道473号は、4本目と5本目の尾根の間の谷を相良に向かって走っている。
5本目の尾根は3回横断をしたことがあるが特に何がある尾根ではないようだ。

 このように牧之原台地の南側は、尾根が幾つも分かれているので、台地を横断するとなると何回か峠を越さなければならない。
そのため台地が谷で分断されるこの辺りは昔からメインの街道は無く、東西を結ぶ街道は、尾根が集まったあたりの東海道と、
海岸の平地を歩く田沼街道があるくらいだ。

 
             二の曲輪と土塁                                二の曲輪の建物跡  

広場になった二の曲輪には建物跡が残っていた。案内板(概略)によれば
  <掘立柱建物> 土台を設けないで、直接地面を掘って柱を立てた簡単な建物。直接地面に柱を立てた掘立柱建物跡11棟と
礎石建物跡1棟を検出。建物の周りからは当時使われていた皿や椀、擂鉢などの食器類のかけらが沢山出てきました。特に紐に
通された20枚の銅銭(中国銭)は、当時に人々の持ち物できっと貴重品だったと思われます。」


 建物跡で数の多い堀立柱建物跡は、左程しっかりした建物ではなく簡易な物のようなので、城に常駐する兵の溜まり場か、
或いは武具や城普請用の用具の保管庫か。
 一方礎石を持つ建物は中世の山城では非常に珍しいらしいので、兵の統率者の休憩所か。否、周りに食器類があったなら
この建物には兵糧が保管されていたのかもしれない。

 いずれにしても二の曲輪は勝間田城の中では一番広い場所なので色々の用途に使われていたのだろう。
だが二の曲輪に立つと少々不自然さを感じた。現在舗装された歩道は、この二の曲輪を突っ切り、土塁の間から三の曲輪に
抜けている。歩く分には正面が入口で歩きやすいが、これでは敵の攻撃を受けた時も入られやすいのではないか。
では、三の曲輪に土塁や堀があるかと見たが、歩道は城の入口に延びているだけだ。
城の入口にあった案内図には、二の曲輪の山側に西の三の曲輪がある事になっていたが、今その境は分からない。
若しかして、この土塁の切れ目は歩道を歩きやすくするために切り開いたのではないか、と思ってしまった。

 
                三の曲輪と土塁                                城の入口

 城の入口に立つと表示は無いが石碑の前には堀切が、後ろには土塁状の物が見えている。こうしてみると中々厳重な山城に
見えてくる。案内には書いてなかったが、まさしく連郭式山城そのもので横地城よりその趣を感じさせた。
そんな城が何故簡単に落城してしまったのか。攻撃した今川勢は義忠に率いられた兵500騎だったが、たった500騎でこの
防御態勢が整った勝間田城を容易に攻め落とすことができるのか。
しかも勝間田城を攻略後は横地城も落としている。その間たったの7日間だ。

 そう考えだすとまた思考は逆戻りして、今川勢は見附城で横地と勝間田勢の主力と大将を討ち取ったあと、戦意を失くした
2城を簡単に落城させたと考えたくなる。
だが、そうなると義忠が討たれた塩買坂の位置関係が不自然になってしまう・・・・・

 待てよ、義忠の率いた500騎とは馬に乗った兵の数ではないか。当時馬に乗って戦う武将は数少なく、兵の大部分は徒歩の
歩兵だった筈だ。ならば馬上の将に10人の歩兵が付いていたなら一挙に10倍の5000人になる。
そうなれば7日間で山城二城を落とすことも可能ではないか。
果たしてこの考えが正しいかどうか分からないが、私の妄想は次第にそちらに流されていく。

 
                勝間田城の麓                         下にあったトイレと駐車場

 実は勝間田城の案内図は城址を下りきった旧道との合流部で初めて見た。今回はメインの道を上から下ってきたが、案内図には
他にも幾つかの曲輪が描かれていた。そう云えば本丸にあった案内板にも 「他の城跡では例を見ない鋸状の堀切が見事に残って
いる」
とあった。ウーン残念。城の上から下る道を歩けて喜んでいたが思わぬ落とし穴に落ちてしまった。
とは言え今更引き返す気にもなれない。次回はもっと城の事を調べてきてから歩きに来よう。

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