すとう信彦 & his band

社会起業家(チェンジメーカー)首藤信彦の日常活動とその仲間たち

シベリアのお守り

2009-10-02 22:25:38 | Weblog
オヤジの葬儀が終わった。おくりびとに化粧してもらった、静かな、まるで微笑んでいるようなオヤジの顔、花に埋もれた姿をしげしげと眺めながら、現実に記憶にある父の顔や声とのギャップを感じていた。あっという間に完了する火葬、骨壷にぴったり収まる遺骨...現代の葬式とはそうしたものだ。しかし、オヤジが残した思いは、ますます拡大して心の中にも納まらないものがある。
死後に書斎をチェックしていたら、一通の封筒がでてきた。オヤジの字でこうかいてある「これはシベリア抑留の間、肌身離さず持っていたお守りです。帰国後捨てようかとも思いましたが、不敬な感じがして、残しておきました。私の火葬の時に一緒に入れてください...」というような文言だった。手の触覚では、また灯に照らせば、おそらくどこかの神社のお守りだと思った。いったい、どこの神社だろうか、大連のなのか、それとも国内のものなのか、何のお守りだったのか、封筒を開けて見てみたい強い誘惑に駆られた。別に糊付けされているわけではない。それでも封筒の上部にとめた細いホッチキスがその強い衝動をも拒否して、結局そのまま御棺に入れられて火葬された。
不思議なことに、私が学者となってから色々聞いても、シベリア強制収用所での体験をなぜか父はほとんど語ってくれなかった。ハバロスクの上を飛行機で通って、眼下に沿海州を見たという話をしても、ただ微笑んだだけだ。しかし、もっと若いとき、私がまだほんの子供のころには盛んに私に話して聞かせた記憶がかすかに残っている。「シベリアにはドイツ人捕虜も沢山いた。一人が懲罰をうけると、全員がひとりをまもり、また責任をとって、全員が激寒の野外に立ちつくした。一方、日本人は仲間を裏切りあい、自分だけ助かろうと見苦しい姿だった...」。きっと私がまだ子供だったからはなしたのだろう。それくらい重い話しばかりだったはずだ。
オヤジはもう骨になってしまったが、残されたかすかな記憶はいまでも頭の中を脈打って流れている。