皆さんご存知の
「明智光秀」は、「謀反人」や「三日天下」の汚名で超有名な戦国武将であるが、その生涯に至っては、案外デマだったと言うか、某N局の大河ドラマとやらで作り出された武将の偶像化なのだ。
「敵は本能寺にあり」と言って中国「毛利攻め」から踵を返す場面も、実はそんなことは言ってはいないし、福智山城
(後の福知山城)から出陣して、亀山城
(後の亀岡城)を経て、真っ直ぐに本能寺を目指していることから、一途な信長討ちを推測できる。
名前からして当時は
「惟任日向守光秀(これとう ひゅうがのかみ みつひで)」と名乗り、正式名にいたっては「明智日向守源朝臣光秀惟任日向守大神朝臣光秀」であったが、ややこしいのでまたいずれ。その明智光秀公は、織田信長からの中国攻めの命で、山陽から攻め入った秀吉とは別に同時に山陰から攻め始めた。丹後の横山城を制圧、そして福智山と名付けたようだ。
本日は、光秀公の居城でもあった
「福知山城」を紹介する。現在のような縄張りは「光秀公」がおこなった。天守は三層四階の大天守閣と、二層三階の小天守閣が、市民の瓦1枚運動などの熱意によって1986年に、初期天守閣の特徴を模って復元された。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た海抜40mの丘陵にあり、その地形から臥龍城
(がりゅうじょう)の別名を持つ。東から西に流れる由良川が天然の堀となり、北側では土師川と合流する。東・北・西残り3方は断崖で要害の地であったのだ。さて、光秀公の作った城下の眺めを東西南北と見て頂こう。
明治時代の始めに、廃城令で根こそぎ取り壊された結果
「石垣」と、移築されてきた
「銅門(あかがねもん)番所」だけが残った。当時の物はその2つとなっている。石垣は、野面積み・乱石積み・穴太衆積みなどと呼ばれ、光秀公の築城当初のままの姿を留めている。自然石をそのまま用いて豪放で一見乱雑なものに見えるが、石材は奥に長く用いられて、強固な石垣に組み上げられている。
福知山城の大天守復元時に移築された
「銅門(あかがねもん)番所」は、外敵の判別を行うところだろう。田辺城の復元
「二層櫓(にじゅうやぐら)」と、小天守閣下の石垣は、建造物建立の際、当時のままの石垣に復元して組み替えられた。
石垣角部の積み方は算木積みで、勾配としては基底部は傾斜が緩やかで、徐々に傾斜を増して行き、上部はほぼ垂直になる扇の勾配で積まれてある。また宝篋印塔・五輪塔・石仏などの罰当たり的な石材が大量に使用され
「転用石」と呼ばれているのも、安土城や二条城などの「信長」に関わるお城に共通する特徴を持っている。相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達した事が窺われる。
現実的にも、いざ篭城戦になると水脈の心配が付き纏うため、海抜40mに対し深さ50mの井戸
「豊磐(とよいわ)の井」が掘られていた。城郭内湛水井としては日本一の深井戸で、今も海抜30mの高さまで清らかな水を湛えている。
天守閣内部は郷土資料館として公開し、古代から近代にかけての城や福知山にかかわる歴史資料を展示している。鉄砲狭間
(てっぽうざま)の外から見たものと、城内から見たもの。
余談であるが、光秀が信長に嫌われたのは、家康接待時の粗相・信長に反抗した・毛利侵攻が進まなかったなどと、色々憶測が交わされているが、実際のところは「作戦参謀として優秀」「公家や宮家との付き合い方作法の熟知」「武士よりひとつ上の貫禄」などから、信長のやっかみを買ったのではないかと言うことだ。信長も光秀のことは「侍」として尊敬しており、本能寺の変で取り囲まれた旗は「桔梗」と聞いただけで「是非に及ばず」と諦めた‥‥‥とあるのが根拠なのだが。
■開館時間/午前9:00~午後5:00
■休館日/毎週火曜日
■入館料/一般券:子ども100円・おとな310円
お約束の、福知山城の石垣補強も無事済ませた。
これで半世紀は大丈夫だろう。
紹介しきれないので、福知山城の画像をアルバムに纏めた。
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