矢勝川のヒガンバナは半田市出身の童話作家 新美南吉と同郷の小栗大造さんという方が、「南吉がよく散策した矢勝川を真っ赤なヒガンバナで染めよう」と考え、1990年頃から草刈や球根の補植を始めたのがきっかけだそうです。
今ではその数100万とも200万ともいわれるまでの群落に育っています。
しかしここは、花の盛りにはまだちょっと早かったようです。
(2011.9.27)
ボランティアガイドのお話では、最初は右岸だけに植栽していたそうですが、途中から左岸の町の方たちも参画して、今では最盛期に矢勝川の両岸が赤い絨毯を敷き詰めたような見事な景観となるのだそうです。
犬山市を朝出発して、木曽川に沿って津島市へ、更に三河湾を周り込むように半田市までやって来ました。
矢勝川のヒガンバナを見終わって時刻を確認すると13時半でした。
まだまだ行けそうです。
いつものようにナビに次の目的地を入力すると、年の頃なら26、7かなと思えるナビのお姉さんが親切に「次の交差点を左折します」などと道順を教えてくれます。
やがて大きな川を渡りました、とこの時は思ったのですが、実はこれ、細長い湾だったようです。
こんな風に、何だ、何だ、この川は、などと見知らぬ街を走るだけでも十分に楽しいのは何故なのでしょうか?
1時間半も走って、3時過ぎに次の目的地、豊田市の逢妻女川(あいづまめがわ)に到着致しました。
この場所も市民の有志の方々が10年以上も手弁当で育ててきたヒガンバナの名所です。
ヒガンバナを良く見ると、田圃の稲のように一本一本が几帳面に等間隔で並んでいました。
きっと植栽面積を計算して、必要な株を計算して、担当者毎に準備する数を頭割りして・・・という作業があったのだろうと思われます。
世界に冠たる自動車企業を興した豊田市民だけのことはあります。
仕事ぶりから、性格などが伺える気がします。
ヒガンバナのルーツは中国の揚子江流域にあるようですが、一説によると稲作とともに、飢饉などの救荒作物として日本にもたらされたといわれています。
有毒植物なので、食用とする為には慎重な処理が求められますが、それだけに冷害の年などは、野にあっても(普段は放置しておいても)猪、野鼠、猿などが餌とする可能性は低く、根に有毒な成分を持つ毒草だからこそ、薩摩芋が普及する前は、野生動物が手を出せないヒガンバナに救荒作物としての価値があったのでしょう。
「ヒガンバナの博物誌」 栗田子郎著によれば、ヒガンバナの名が日本の書物に認められるのは1440年頃、室町時代以降とのことです。
その頃から灌漑技術などが発展し、米の収量が増え、人口が増加した日本では益々稲作への依存度が増加したはずです。
しかし、稲が南方系の植物として寒さに弱かった昔は、江戸時代になっても全国に大規模な飢饉が発生しています。
冷害による稲の不作がもたらす飢饉への恐怖は想像を超えるものだったに違いありません。
田の畔に救荒作物ともなるヒガンバナが好んで植栽されている様子は示唆に富んでいると思います。
ヒガンバナが冷害時の食料として重要な役割を担っていたに違いないと考えれば、おおよそ室町時代の頃に、ヒガンバナは「稲作とともに」ではなくて「主食となった稲を補完するために」、ヒガンバナの有用性を理解する人によって、中国から日本に移入されたと考えると、様々なことが無理なく説明できるように思われます。
毒草だから、野生動物に略取される心配の少ないヒガンバナは、管理の手間の掛からない貴重な作物だったのかもしれません。
このようなことからも推測できるように、ヒガンバナは天候変化に強く、丈夫で育て易いはずです。
毎年決まった季節に、一斉に真紅の花を咲かせるなど、観光事業や市民活動の媒体としても、優れた特性を持っているのだと感じました。
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