創価学会の信仰に功徳はあるか?

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389.学会版御書全集 戸田城聖の「発刊の辞」の酷さと浅井要麟の「感謝の文」

2016年09月08日 00時12分04秒 | 日蓮系遺文
創価学会の日蓮大聖人御書全集は間違いだらけシリーズ、(その6)
戸田城聖の「発刊の辞」の酷さがわかる一例

1.創価学会版 御書全集 発刊の辞

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宗祖大聖人諸法実相抄にのたまわく「行学の二道をはげみ侯べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく侯、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と。
 創価学会は初代会長牧口常三郎先生之を創設して以来、此の金言を遵奉して純真強盛な信心に基き、行学の二道を励むと共に如説の折伏行に邁進して来たが、剣豪の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬は、学会の伝統・名誉ある特徴となっている。  
 従って大聖人の御言を敬い之に親しむこと天日を拝するが如く、又会員一同上下新旧の差別なく之が研究に多大の時間を当てているのである。然るに大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御言全集が皆無に近い現伏であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠っていたが、相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし、或は誤をその儘伝え又は偽書を真書となし、真書を偽書と歪曲する等読者を迷わすこと甚しく、到底之を信頼する事が出来ない上、最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は已に上梓を見た如何なる御言全集にも掲載されず、宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者をして久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。
 然るに宗粗日蓮大聖人、建長五年四月二十八日、三大秘法の南無妙法蓮華経を御唱え始められてから七百年を迎えるに当り、信憑すべき御書の発刊を要望する声が学会内に起り、余も亦正確なる御書全集の出現は御奉公の一分なりと信じ、是非功罪及び世人の批判等に逡巡することなく只仏意を頼り大御本尊に祈り奉り、遂に慶祝記念事業として之を発刊せんと発願したのである。
 これに応えられて永年古文書研究に没頭せられて斯学に造詣深き日蓮正宗五十九世の法主たりし堀日亨上猊下が、六十有余年の蘊蓄を傾けて之が編纂の大事業に立たれたのは、大聖人門下にとって此の上なき幸せな事である。
 堀日亨上人猊下は八十六歳の御高齢にて日夜不断の御苦心にも拘らず、身心共に何等の魔障無く数十年に亘る御研究を結集せられてここに本書の完成を見たのである。其の内容たるや古今を通じて最も誇り得べきものであると共に、初信の者も仏意を会得するに容易ならしむるよう字句の上にも細心の注意が払われている。
 又学会員同志は快く出版費を醵出して余に此の大事業の完遂を促し、教学部員はまた之が校正に昼夜を分たず最善の努力を借しまなかったのである。
 然るに余の不敏は幾多の過誤をおかして堀日亨上人猊下が生涯を通じての大研究に疵つくることなきやとひたすら之を虞れ、今後の補正に最善の努力を尽さんことを誓う者であると共に、この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事をひたすら祈念して止まぬものである。
 願わくは世の識者諸兄・余の微意を諒とせられて御批正あられん事を。
   昭和二十七年四月二十八日
                創価学会
              会長 戸田城聖
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大聖人の御言を敬い之に親しむこと、とあって最初から最後まで批判したいところですが一部分にします。

>会員一同上下新旧の差別なく之が研究に多大の時間を当てている

最近の学会員は御書を持ち歩かないそうですし、御書全集には脱字があり間違ったままです。

>堀日亨上人猊下は八十六歳の御高齢

八十六歳の堀日亨には御書編纂(編纂とは本文執筆のこと)は、年齢的に無理で学会教学部が編さん。戸田の「発刊の辞」は嘘でした。

池田大作は八十八歳ですから、250ページでも編纂すればページ数は無理でも年齢だけは記録を塗り替え大革命することが出来ますね。(笑)
池田大作の執筆の姿を全て動画にとってくれれば証拠として信じても良いのでしょう。
250ページ追加だけでなく行道文庫版の本文の記載と同様、墨筆遺文に近い活字と送り仮名を使い1850ページ分量の「完璧に近い遺文集」を書き上げてもいいんですよ?>池田大作。
1850だと昭和定本に分量で勝てませんが。w

冗談を抜きにすると、第一次宗門問題の頃に学会版の改訂御書を出す予定だったそうです。(聖教新聞に記載があったそうで私は未確認)その原稿が残っていれば明日にでも出せるのでしょう。
宗門問題で出せなかったらしいので日蓮正宗側がとめたのでしょうか?もし、そうなら正宗が酷いと思います。
追加するにしても一から作り直すにしても大石寺の遺文はどうするんでしょうね。

>只仏意を頼り大御本尊に祈り奉り

戸田城聖「前に言っていたことと、今言っていることが違う宗教は、邪宗である」

小樽問答の時は、「大石寺の大御本尊を拝まなければ幸せになれない。」(主旨)
2014年11月以降の今では大石寺の大御本尊を拝まなくても幸せになれるそうです。

>大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御言全集が皆無に近い現伏

日蓮正宗では、昭和四年に佐藤慈豊の編纂による「日蓮大聖人御書新集」が出版されています。
全集ではないらしいのですが、大石寺第五十六世大石日応の校閲を通しています。
巻頭には五十二世日霑と六十世日開の本尊が掲載されているそうです。

>相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし、或は誤をその儘伝え又は偽書を真書となし、真書を偽書と歪曲する等読者を迷わすこと甚しく、到底之を信頼する事が出来ない

五時八経、法華経仏説、法華経解釈、大御本尊等々な点から御本仏日蓮であり、
学会教学や正宗教学に間違いはなく非の打ち所なし!!(日興が正統派である、も含めて)と皆思っていたはずです。
当然、購入した全集の版が違っても各自や家族で買って「学会版御書全集は何の間違いもなく完璧である」と、皆さん思ったんでしょうね。
私もそうでしたし。

>御批正あられん事を。

批評して誤りを正すこと。「御―を乞う」


2.昭和新修 日蓮聖人遺文全集 序 (昭和九年)

(注、難読と思われる語は()内に読みを記した)
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 昭和新修日蓮聖人遺文全集の刊行についての印刷既に成り、これを世に公にせんとするに及んで、編者予に一言を需(もと)めらる。卒爾(そつじ)の間未だその内容を詳(つまびら)かにする能(あた)はずと雖(いえど)も、この書の編者浅井氏は大正三・四年の此、予が日蓮宗全書刊行会に関与し、日蓮聖人全集校合に従事せし以来の道交たり。爾来(じらい)師は御遺文の研鑽に思を潜(ひそ)め、諸種の編纂(へんさん)講述に従事せるのみならず、現に立正大学に在つて祖書学を講じ、その研究上に一新生面を開拓せんと鋭意精進せられつゝありといふ。その真摯にして忠実なる態度よりして、この書編纂の用意とその成果とは想ひ半ばに過ぐるものあり。その内容を一瞥するに原漢文はすべてこれを和訳し、訓点句読を訂し、括弧を加へ、振仮名を施す等工作大に見るべきものあり。蓋(けだ)し普及版としてまことに遺憾なきに庶幾し。且つその別巻収むるところの略伝、解題、編纂、刊行の歴史等は、何れも師が多年の蘊蓄(うんちく)を傾けたるもの、その他の諸篇と相俟(あいま)つて、啻(ただ)に大方(おおかた)求道の士の指針たるのみならず、専門宗学者の検按鑽仰(さんぎょう)に資する所まことに大なるものあるべきを疑はず。
 こゝに一言を叙して、本書の公刊を祝すると共に、切に広宣流布の祖業を当代に成満(じょうまん)せんことを願望す。
  昭和九年二月聖祖降誕の嘉辰
                   稲田海素
                     謹識
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戸田城聖は日蓮宗の霊艮閣(蔵)版をパクっておきながら日蓮宗遺文の悪口を序分に書いて正宗と創価の自画自賛をしています。
稲田海素さんの序文には他宗の遺文集の悪口なんかありません。


3.昭和新修 日蓮聖人遺文全集 「御書編纂の史的概観」P434

浅井要麟(ようりん)さんの執筆部分だと思います。
(注、難読と思われる語は()内に読みを記したのと一部旧漢字を新漢字に変更した。)
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 以上の外一鈔一遍の刊行より、名文要句を抜萃(ばっすい)せる金言集の類(るる)に至るまで、その数甚だ多く一々枚挙に遑(いとま)がない。かくの如く古今の諸家、聖教(しょうぎょう)の護持と普及とに心血を注ぎ、その編纂(へんさん)及び刊行に尽瘁(じんすい)せられたる功績は深く感謝せねばならぬ。しかし多くの人と年處(ねんしょ)とを経て今日に至れるが為め、謀(ぼう)書の竄入傳寫(ざんにゅうでんしゃ)紕繆(しびょう)等も少なくはない。聖人の純正なる教義を鑽仰(さんぎょう)し、原始宗学の基礎を確立する為めには、是非ともそれ等を淘汰し精算しなければならない。而してそれは現代の宗門学徒に課せられたる一の使命である。その使命を果す為には、従来の伝統的見解に支配されざる御遺文の真蹟鑑定より、御遺文そのものの科学的批判研究にまで進まなければならない。吾等学徒の使命はまことに重大である。
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P420-421には、日蓮正宗・佐藤慈豊の編纂による「日蓮大聖人御書新集」の記載が五行くらいあります。
客観視と評価がなされています。
もちろん悪口なんかありません。

「かくの如く古今の諸家、聖教(しょうぎょう)の護持と普及とに心血を注ぎ、その編纂(へんさん)及び刊行に尽瘁(じんすい)せられたる功績は深く感謝せねばならぬ。」

大石寺だけでなく各お寺、各々先師に感謝していると取れます。
日蓮さんはもちろんのこと、富木常忍などの信徒だけでなく六老僧も含まれていると思える書き方です。
客観視ではなく思い込みや調査不足、非科学的な一面があった鎌倉時代の日蓮さんですが、浅井要麟さんの文章を読むと現代人にも理解でき納得の行く内容ですし、常に学ぶ姿勢のある「謙虚な」文章だと私は思います。

戸田城聖は偽書濃厚な相伝書などを理由にして大石寺が一番と断言していますから始末に負えませんね。
創価学会から教えられたのは「怒りと恐怖」でしたが、外に真言、念仏、禅、律宗や日蓮宗に憎悪や怒り嫌悪感が湧かないのが今の私です。創価と正宗の教えに根拠はありませんでした。
戸田や池田を師匠としたのは、本当に失敗でしたね。


補足
「御書編纂の史的概観」はP363〜P434の分量があります。
概要は以下の記事を参照のこと。
381.創価学会の日蓮大聖人御書全集は間違いだらけ(その1) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

以上

'160909 タイトル変更、追記
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