さて、その1で創価学会の会合で嫌な思いをしたにもかかわらず、いよいよここから折伏を受けて入信決意に至る所です。
大学2年か3年の時だったと思いますが、またも某君から創価学会の話を聞いて欲しいと電話がありました。高校時代のことがあったにもかかわらず、嫌な思いを忘れてしまっていたのか、思い出さなかったのかは、さすがに覚えていません。宗教の怖さを知らない子供だったと思います。この時にきっぱりと断る事が出来たなら、多くの時間と友人とお金を無駄にすることなく、創価学会というマイナスのレッテルを背負って生きていく事はなかったでしょう。
電話で誘われた時はなんと言われたのかは思い出せません。近所の学会員宅に行くと、学生しかいませんのででしたから、折伏目的の会合だったと記憶します。そして「車座」の形になりました。当時は「車座」の折伏が残っている時代でした。この車座というのは数人から数十人で未入信者を取り囲んで折伏するやり方です。
ここから話が横道にそれます。今でも未入信者が座談会に参加しても結果的にこのような形になる場合があります。当然、座談会に参加してもらう意志表示をして、未入信者に座談会に参加してもらい、会合終了後に結果として車座になって囲んでいる時があります。今では禁止というか、「あくまで一対一で膝詰めで折伏する」という指導になっています。何時の頃からかははっきりしませんが、'90年代前半からこの指導になった気がします。これこれ、このやり方が禁止、というのはありません。
学会側(私?)の意見も書いておきますが、車座にする意味は一応有ったと想います。仏法の考え方から言って、あくまでも慈悲や思いやり精神から相手の為にするものです。その人の悩み事が折伏した紹介者にとって不明な事や未経験な事柄の場合、他の人の信仰や人生の体験や意見が役に立つ場合があるからです。それともう一つ、学会は後継の人、つまり、青年部(学校を卒業した40才以下の人)や学生部、未来部(高校生以下)を大事にしたり、鍛える意味からいろいろな挑戦をさせます。その一つが誰かの折伏に参加する事です。
しかし、これらの事を明確に指導や折伏で幹部や先輩に言われた事は一度もありません。ほとんど私の「想い」です。囲むという事についても当然、上記の様なフォローや説明がTPOに応じ、未入信者に必要でしょう。
囲まれた人いませんか?
囲まれるのが嫌で学会員に質問した方、いらっしゃいませんか?
また、騙されて連れて行かれた人いませんか?「騙して連れて行く」はいつか書きますね。
また「折伏をすると功徳がある。願いが叶う。」という教えなので自分の願いの為に積極的に車座に参加する人もいます。私も15,6年信心して大勢で囲んだのは座談会で1度か2度有ります。
話を元に戻します。その会合で近所に住んでいた当時大学生のKさんがいて、数年ぶりに会ったので「あれ?お久しぶり、どうも。」と挨拶したのを記憶にあります。ここで気がゆるんでしまい、緊張しなかったのが失敗だったかもしれません。そして会合の最初いきなり経本を渡されますが、(ひらがなが付いてますが、)入信者が読むスピードなので、当然一緒に付いて読む事は出来ません。他の人々が題目三唱をするので、読めなかった事がなんだか悪い気がして題目三唱だけしてしまいました。すると、「すごい」とか煽てられてしまい、そこで、いい気になったのが又いけませんでした。
あまり親との仲が良くないというか、誉められた事がなかったので「すごい」とか言われておだてに乗ったのが失敗でした。折伏受けた人、受けている人、今はネットの時代なのでこれを読んでいると想います。気をつけて下さいね。
意外と覚えているモノですね。今日はここまで。
大学2年か3年の時だったと思いますが、またも某君から創価学会の話を聞いて欲しいと電話がありました。高校時代のことがあったにもかかわらず、嫌な思いを忘れてしまっていたのか、思い出さなかったのかは、さすがに覚えていません。宗教の怖さを知らない子供だったと思います。この時にきっぱりと断る事が出来たなら、多くの時間と友人とお金を無駄にすることなく、創価学会というマイナスのレッテルを背負って生きていく事はなかったでしょう。
電話で誘われた時はなんと言われたのかは思い出せません。近所の学会員宅に行くと、学生しかいませんのででしたから、折伏目的の会合だったと記憶します。そして「車座」の形になりました。当時は「車座」の折伏が残っている時代でした。この車座というのは数人から数十人で未入信者を取り囲んで折伏するやり方です。
ここから話が横道にそれます。今でも未入信者が座談会に参加しても結果的にこのような形になる場合があります。当然、座談会に参加してもらう意志表示をして、未入信者に座談会に参加してもらい、会合終了後に結果として車座になって囲んでいる時があります。今では禁止というか、「あくまで一対一で膝詰めで折伏する」という指導になっています。何時の頃からかははっきりしませんが、'90年代前半からこの指導になった気がします。これこれ、このやり方が禁止、というのはありません。
学会側(私?)の意見も書いておきますが、車座にする意味は一応有ったと想います。仏法の考え方から言って、あくまでも慈悲や思いやり精神から相手の為にするものです。その人の悩み事が折伏した紹介者にとって不明な事や未経験な事柄の場合、他の人の信仰や人生の体験や意見が役に立つ場合があるからです。それともう一つ、学会は後継の人、つまり、青年部(学校を卒業した40才以下の人)や学生部、未来部(高校生以下)を大事にしたり、鍛える意味からいろいろな挑戦をさせます。その一つが誰かの折伏に参加する事です。
しかし、これらの事を明確に指導や折伏で幹部や先輩に言われた事は一度もありません。ほとんど私の「想い」です。囲むという事についても当然、上記の様なフォローや説明がTPOに応じ、未入信者に必要でしょう。
囲まれた人いませんか?
囲まれるのが嫌で学会員に質問した方、いらっしゃいませんか?
また、騙されて連れて行かれた人いませんか?「騙して連れて行く」はいつか書きますね。
また「折伏をすると功徳がある。願いが叶う。」という教えなので自分の願いの為に積極的に車座に参加する人もいます。私も15,6年信心して大勢で囲んだのは座談会で1度か2度有ります。
話を元に戻します。その会合で近所に住んでいた当時大学生のKさんがいて、数年ぶりに会ったので「あれ?お久しぶり、どうも。」と挨拶したのを記憶にあります。ここで気がゆるんでしまい、緊張しなかったのが失敗だったかもしれません。そして会合の最初いきなり経本を渡されますが、(ひらがなが付いてますが、)入信者が読むスピードなので、当然一緒に付いて読む事は出来ません。他の人々が題目三唱をするので、読めなかった事がなんだか悪い気がして題目三唱だけしてしまいました。すると、「すごい」とか煽てられてしまい、そこで、いい気になったのが又いけませんでした。
あまり親との仲が良くないというか、誉められた事がなかったので「すごい」とか言われておだてに乗ったのが失敗でした。折伏受けた人、受けている人、今はネットの時代なのでこれを読んでいると想います。気をつけて下さいね。
意外と覚えているモノですね。今日はここまで。
しかし、折伏に大勢で来るのは反則ですよね。断りづらいし、逆に学会を肯定したときは、大勢から賞賛されるのでついつい良い気分になってしまいそうですから。
この結果オーライ主義は幸せになるならなんでもOK。本人が納得していればなんでもOKです。
これはよくわかりますよ。学会は、考え方の解釈の仕方があまりにも恣意的なんですよね。どんなに苦しい言い訳でも、学会の教義と照らし合わせて筋が通っていたらとりあえず納得してしまいますからね。しかも末端の会員は疑問を持たないし・・
前々から、私は学会の問題はそのシステムにあると考えています。宗教をシステムの根幹にすえるとこんなにも合理的な組織が出来上がるのだと感心すらしています。