■『ブイヨンの気持ち。』糸井重里/著
▼気まぐれカメら
この「ほぼ日」で知った、糸井さん宅の可愛いジャックラッセルテリア、ブイヨンの日記が本に。
糸井さんて、コピーライティングだけじゃなく、作詞したり、絵本の翻訳したり、本も書くし、ほんと多才な人だなあ!
そっか、糸井さんの奥さんて樋口可南子さんなんだ!(遅っ!
2人とも忙しいだろうに、3人で散歩させる写真もたくさんある
家の中もとってもステキ
ペットブログ書いてる人って、みんなオシャレだよね~!めんまさんちも可愛くてほんと憧れてしまう。
ほんと、ブイちゃんいい筋肉してる
トレーナーさんに「運動がちゃんと足りてますね」て褒められたのも納得。
犬目線で歌っている日記と、人間目線の日記とある。
糸井さんならではの自由な言葉遊びが楽しい
短い脚と、大きな顔と耳、頭のてっぺんとお尻の丸い斑点、棒みたいな尻尾、どこも完璧カワイすぎ!!!
お父さん(糸井さん)は、いつもものすごいうつ伏せで寝てて苦しくないのかな?
富士丸くんにも会ったんだ!驚
首と胴を結ぶリード?って面白いね。
犬が認識している街の地図と、身の回りのモノを紹介している長野ともこさんのイラストもかわいい
サイトを見たら、続編も出てるっ!『ブイヨンの日々。』だって。読まなきゃ♪
2011年4月28日ごろからネットで発売って、ほんとに出来たてホヤホヤなんだ!
海洋堂が創った本物そっくりなフィギュアまである!!!
<本文抜粋メモ>
p.134
犬がぼくらを咬まないということ、
そして、犬がものを言わないということ。
犬とボールなどで遊んでいるときに、興奮した犬の歯と、自分の指がぶつかってしまうことがたまにありました。
ほんのちょっとしか触れなくても、ぼくの指は、その衝突を感じとりますし、犬の歯も、同じようにそれを察知します。
その瞬間から、犬は、いままでのはしゃぎぶりを忘れ、ぼくから目をそらし、少し離れたところに立って、じっと許されるのを待っています。
ぼくは、それほど厳しく躾けたおぼえはないのです。
しかし、犬の歯が人間を傷つけることがあったら、犬と人との関係は、とても難しいものになることは、よくわかります。
ぼくだけでなく、犬のほうもわかっているらしい。
人を咬もうとして咬んだわけでなくても、犬は、それがいけないことだと知っているようです。
あの、叱られるのを覚悟したときの静けさは、逆に、ぼくの父親な部分を強く刺激します。
「さぁ、いまあったことは忘れて、もう一度ふざけようぜ」と言って、元気を戻してやることになります。
これは、ぼくと、うちの犬との間の話なのですが、ぼくらの祖先たちと、犬の祖先たちとが、
長い長い時間をかけて築いてきた友好の関係が、こんなときに見えるような気がするんです。
犬と暮らしていて、ぐっと愛情が深まったような気がするのは、犬が「ものを言わなかった」ときです。
なにか誤解されても、強く訴えない。手助けが欲しいときでも、じっと黙って待っている。
・・・なんてことがあると、犬が言わなかった分まで、人間がわかってやらなければと、強く思うようになります。
たぶん、人間と人間のコミュニケーションにも、そんなふうなところがあって、
「ものを言わないこと」の価値は、「じょうずにものを言う」よりも、深いところで相手に伝わるように思います。
▼気まぐれカメら
この「ほぼ日」で知った、糸井さん宅の可愛いジャックラッセルテリア、ブイヨンの日記が本に。
糸井さんて、コピーライティングだけじゃなく、作詞したり、絵本の翻訳したり、本も書くし、ほんと多才な人だなあ!
そっか、糸井さんの奥さんて樋口可南子さんなんだ!(遅っ!
2人とも忙しいだろうに、3人で散歩させる写真もたくさんある
家の中もとってもステキ
ペットブログ書いてる人って、みんなオシャレだよね~!めんまさんちも可愛くてほんと憧れてしまう。
ほんと、ブイちゃんいい筋肉してる
トレーナーさんに「運動がちゃんと足りてますね」て褒められたのも納得。
犬目線で歌っている日記と、人間目線の日記とある。
糸井さんならではの自由な言葉遊びが楽しい
短い脚と、大きな顔と耳、頭のてっぺんとお尻の丸い斑点、棒みたいな尻尾、どこも完璧カワイすぎ!!!
お父さん(糸井さん)は、いつもものすごいうつ伏せで寝てて苦しくないのかな?
富士丸くんにも会ったんだ!驚
首と胴を結ぶリード?って面白いね。
犬が認識している街の地図と、身の回りのモノを紹介している長野ともこさんのイラストもかわいい
サイトを見たら、続編も出てるっ!『ブイヨンの日々。』だって。読まなきゃ♪
2011年4月28日ごろからネットで発売って、ほんとに出来たてホヤホヤなんだ!
海洋堂が創った本物そっくりなフィギュアまである!!!
<本文抜粋メモ>
p.134
犬がぼくらを咬まないということ、
そして、犬がものを言わないということ。
犬とボールなどで遊んでいるときに、興奮した犬の歯と、自分の指がぶつかってしまうことがたまにありました。
ほんのちょっとしか触れなくても、ぼくの指は、その衝突を感じとりますし、犬の歯も、同じようにそれを察知します。
その瞬間から、犬は、いままでのはしゃぎぶりを忘れ、ぼくから目をそらし、少し離れたところに立って、じっと許されるのを待っています。
ぼくは、それほど厳しく躾けたおぼえはないのです。
しかし、犬の歯が人間を傷つけることがあったら、犬と人との関係は、とても難しいものになることは、よくわかります。
ぼくだけでなく、犬のほうもわかっているらしい。
人を咬もうとして咬んだわけでなくても、犬は、それがいけないことだと知っているようです。
あの、叱られるのを覚悟したときの静けさは、逆に、ぼくの父親な部分を強く刺激します。
「さぁ、いまあったことは忘れて、もう一度ふざけようぜ」と言って、元気を戻してやることになります。
これは、ぼくと、うちの犬との間の話なのですが、ぼくらの祖先たちと、犬の祖先たちとが、
長い長い時間をかけて築いてきた友好の関係が、こんなときに見えるような気がするんです。
犬と暮らしていて、ぐっと愛情が深まったような気がするのは、犬が「ものを言わなかった」ときです。
なにか誤解されても、強く訴えない。手助けが欲しいときでも、じっと黙って待っている。
・・・なんてことがあると、犬が言わなかった分まで、人間がわかってやらなければと、強く思うようになります。
たぶん、人間と人間のコミュニケーションにも、そんなふうなところがあって、
「ものを言わないこと」の価値は、「じょうずにものを言う」よりも、深いところで相手に伝わるように思います。