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幕末の天才兵学者 佐久間象山@先人たちの底力 知恵泉

2017-08-27 11:55:12 | テレビ・動画配信
幕末の天才兵学者 佐久間象山@先人たちの底力 知恵泉

「幕末 孤高の挑戦者 佐久間象山 空気を読むな!」

【司会】二宮直輝
【ゲスト】大手紳士服専門店会長…青木擴憲,川田裕美,真田宝物館学芸員…降幡浩樹

佐久間象山先生をいつか大河で主役にして欲しい
性格はめっさ悪そうだけれども、世界よりいち早く、様々な科学知識を試し、先を見据えていた偉人
なんといっても長野出身者ですからv

(南方熊楠さんもかなり変人な天才だけれども


【ブログ内関連記事】
NHK大河ドラマ『真田丸』 第46~最終回
『誇り高きサムライ・テクノクラート 佐久間象山』
象山記念館


【内容抜粋メモ】

<高杉晋作、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らが師匠とした男>

大手紳士服専門店会長・青木擴憲さんは、大の象山ファン
オーダーメイドスーツから、安価で大量生産させた裏には、さまざまな摩擦や抵抗があった



象山の文机を持っている

 

Q:象山の魅力は?
30年先の日本はこうなる そのために堅い使命、ミッションを持って生きた カッコいい!



<空気を読まない行き方>



1.自分の意見について自信がない時

自らのヒゲを触る自信満々の写真は、154年前の「自撮り」
時代に先駆ける「先覚者」だった



松代藩の下級武士の長男として産まれた

 

13歳 家老の息子に頭を下げずに素通りして文句をつけられて

「虎の威を借る、キツネのようなあなたこそ、無礼なのでは
 お前みたいな奴にものの道理が分かるか! この間抜けめ!」と言ったとか

周りは敵だらけだったが、学問において右に出る者がいないほど優秀だった

主君の松代藩主・真田幸貫も「非常の人物」と高く評価した



1842年
黒船来航10年前 日本が天下太平の中、清帝国が「アヘン戦争」でイギリスに敗北
アジアの大国である清が負けたことは、西洋の近代的な軍事力がいかに強大かをしらしめた



象山32歳 西洋の軍事力の研究を始める

加藤氷谷宛佐久間象山書簡より

「大国 清でさえ西洋の軍事力に立ち向かえなかった
 我が国を守るには、西洋諸国に港を開き、
 その進んだ技術を取り入れるほかに手段はない」


象山は日本の海岸線を守る海防策をまとめて幕府に提出
それは常識はずれなことだった



“数百から一千門の西洋式大砲を作り、全国に分配すべし”

“西洋にならって軍艦を多数建造し、海軍を創設すべし”

西洋式の軍艦など見たこともない日本が、
いきなり西洋並みの軍備を持つべきだと主張した

幕府の海防策は、お金や手間をかけない形ばかりのものだった
「今すぐ手を打たねば、日本は外国に滅ぼされる」という象山の主張は却下された


知恵その1:自分で確かめた事だけを信じろ!

象山は意見に自信をもつため、西洋軍事技術の研究に挑む

まずは、西洋文明に関する原書を手に入れること
翻訳書では間違いがあるかもしれないから

「ショメール百科事典」

 

西洋の文化などがオランダ語で詳細に書かれている
今の値段で1式400万円
周囲が反対するも「大した額ではない」と藩の予算で購入

だが、象山は外国語をまったく読めなかった(あれ?w

まずはオランダ語を猛勉強
「佐久間という男は、いつ寝ているのか分からぬ」と言われるほど

わずか半年でオランダ語を習熟し、原書を難なく読みこなした/驚



例1:西洋の肉食である「養豚」を日本でいち早くはじめた

例2:
長野の山で見つけた植物が、西洋では熱を下げる発汗剤に使われていると知ると自分で調合した

“西洋医学の調剤法でニワトコ(接骨木)がコンセルフという発汗剤を作った”『沓野日記』より

例3:測量用の水準器
科学実験に欠かせない基礎データをとる道具を自分で作った




埴科縣神社 千曲市

 

1848(象山38歳) 研究に5年かけて西洋式大砲の鋳造に成功

埴科縣神社総代 島田保彦さん:
この弾は戦時中におそらく鉄で供出しなければならなかったんですけど
これだけは村の先人たちが大切に守った物だと思います

1851年 象山は松代藩で大砲の発射実験を行う
砲弾は2km以上も飛び、目標を大きく外れ、天領(幕府の直轄地)に着弾



役人らは激怒したが
象山「ニッポンのためにしたことだ なぜ謝らなきゃならない」

象山は、日本人が持つ西洋人に対する考え方も変えていく

藤岡甚右衛門宛 佐久間象山書簡より

「西洋人と言っても、顔が3つ、腕が6本あるわけではなく、やはり同じ人間である
 西洋技術の書物をよく読み、工夫を凝らせば、必ず同じようなものが出来ると思っていたが
 実際にやってみると何の苦労もなく、私にも出来たのである」





真田宝物館学芸員・降幡浩樹さん:
象山は先走りすぎていた
国内は太平、危機を微塵も感じていない中で、海外が動いていることを徹底的にリサーチした
周りからはまったく相手にされなかった

春の信濃路・真田丸の旅@あさイチ


青木:
当時スーツは1着大卒初任給の1か月分だった
それを毎日着替えて1週間過ごせるような既製服を開発した

メーカー、問屋、二次問屋の流通を一挙にカットして作って売る
これは流通革命ですから、ある程度、犠牲者が出るのは当然
アメリカを見学して、向こうは既成化率80%以上だった

(中間でいろんな搾取がなければ、作る側は相応の給料をもらえて、
 消費者側は安くていいモノが買えるということなのか?
 犠牲者って誰のことだろう?


降幡:
象山よりも先にやった人はいないので、自ら実践せざるを得ない
百科事典を払った分は、当然取り戻せると自信を持っていた


2.自分の意見が周りと異なる時

1842年 当時、西洋砲術をいち早くおさめて名を馳せた幕府役人・江川英龍の塾に入る



だが、やっているのは重い大砲を扱う体力を養う訓練ばかり

“他見秘すべきものなり”

当時、師匠の知識・技術は秘伝とされ、時間をかけて信頼を得た弟子だけ教わるのが一般的

平成国際大学教授 坂本保富さん:
日本の“型”の文化が作り上げた学びのプロセス
どんなにお金、ひま、頭を使い習得してきたのか、証明するもの
そんなやすやすと見せたり、写させたりしたくないし、
させてくれと言うべきものじゃないというのが常識だった

それでは間に合わないと象山は、江川に西洋砲術を伝授するよう要求
「5、6年経ってからだ」と言われて、塾を出る

(知恵は分け与えるものだよね 今で言う“シェアする”
 かかったお金や手間を惜しんだりしてるのは古い


1851年 象山41歳 江戸木挽町に塾を構える



すでに大砲を鋳造し、実験に成功した象山のもとには
全国から入門者が集まり500人近くとなった
その名簿には吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬の名も残る

塾の暗黙のルールを破る画期的な教育方針をとった


知恵その2:知っていることは、みんなに広めろ

象山は原書や実験で得た知識を惜しげもなく弟子に伝授した
当時では異例な開放的な方法

たとえ高価な西洋の書物でも、弟子に貸し、与えることもあった



“伝授したことを学びたいと望む者がいれば、教えるか否かの判断は君に任せる”


山寺常山宛 佐久間象山書簡より

“西洋では、学業や技術を秘密に隠しておくことはない
 我が国では「神秘」といって隠してしまうことまでも
 すべて印刷して公開してしまいます
 よい慣習と考えますので、私も知っていることは誰にも秘密にはしません”


象山の考えは、弟子を通じてさらに広がり、新しい時代の空気が生み出された

(1人の意識改革で大きく変えることができる
 広まった先では、また違った見方も出て、どんどん発展するし

ある日、松前藩に依頼され大砲を製作、試射を行ったら、
3発成功し、4発目で砲身が大破して、現場は大混乱となった
観衆は大笑いし、松前藩の武士は大損だと嘆いたが
象山は独自の哲学をもっていた


『省けん録』より

“褒められて何の得になる それで怠ればむしろ損だ
 けなされて何の損になる それで努力するのだからむしろ利益ではないか”



川田裕美アナ:エジソンに似てますね

(なんでも西欧のほうが先だと思いがちだけれども、よく調べたら
 日本人のほうが先に考えついた哲学、
 実験に成功している発明もたくさんあるんじゃないかなあ

降幡さん:
象山は、失敗も含めて公表していく
世の中に失敗談を話す人はあんまりいない

先生はタカビーではあるが、茶目っ気というか、人望も含めて
いい面・悪い面混在してる変な魅力(w)につながっている

きわめてフラットな人 日本人離れした、外国に近い人

秘伝にしないことで、日本全体のボトムアップを考えていた
実際、これ以降、より精度の高い大砲が国内で徐々にできてくる

(これは、今の企業も見習わないとね

青木:
競争をしても、時代は変わります それにさらに先取りした商品開発
時代に合った新しいものを提供していくと、競争が有利に働き進化する


3.自分の意見を止められた時

1853年 象山43歳 ペリーの黒船来航
西洋列強の脅威が現実となり、日本中が大混乱

 

2度目の黒船来航では、象山自身も海岸防衛で重要な役割を果たす
会議を行った横浜の周囲にはズラリと真田家の家紋が並んだ(おお!
松代真田家は、予期せぬ事態に備える海岸防衛の役につき、象山が指揮をとった



そこに・・・

愛弟子・吉田松陰:
外国の事情を探るため、黒船に乗り込み、アメリカに行きたい

当時は、海外への密航は重罪 しかも、象山は海防の役をする松代藩の立場だが、、、

漢詩『吉田義卿を送る』より

“世界を周流して形勢を究めよ 一見は百聞を超ゆ”

激励の詩を送り、密航を後押しした

しかし、密航は失敗 松蔭は捕えられ、師匠の象山も密航をそそのかしたとして逮捕される
取調べでも、「松蔭の行動は正しい」と主張した

死罪は免れたものの、これからという時に国元・松代での謹慎処分となる 象山44歳
だが、謹慎は良い機会と1日中洋書を読みふけり、藩や幕府に意見する手紙を送り続けた

『省けん録』より

“困難の極みにあっても、楽しみはまた自らあるものだ
 悠々として自ら得れば、身は獄中と思われないほど、心は安らかである”


謹慎中に利用した部屋

 

全国から象山を慕って来る志士たちとの面会もした(大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂さんもいる!



彼らに以前と変わらず知識を伝授し、日本の未来について朝まで語り合うこともあった

この振る舞いに幕府は激怒し、面会、手紙、一切のやりとりを禁止し
監視をつけて身動きがとれなくなる


知恵その3:発言は止められても言い続けろ

象山は手紙のやりとりは止めず、偽名を使った(面白いなあw



呉湾は、謹慎していた地名「御安」が元(ww

降幡さん:
バレバレですけど、象山的には反省してるよってことを見せるために本名を使わなかった

象山は、謹慎中の9年間に、面会、手紙、海防策、開国論を外に発信しつづけた

 

やがて、土佐藩、長州藩から象山を藩に招きたいという声がかかる

1862年 9年間の謹慎を解かれる 象山52歳

1864年 象山54歳 幕府の命を受けて、尊皇攘夷派が闊歩する京都へ赴く

 

モダンな模様の上に残る黒いシミは象山の血

1864年(元治元年)7月11日 尊皇攘夷の武士に斬られ死去 享年54歳(あな惜しや

生前、象山がよく口にしていた言葉

“笑う者は笑えばよい 私の心は天のみが知っている
 百年の後 我が心事知るものあるべし”


 


川田アナ:
なぜ、敢えて京都に西洋の派手な目立つ格好をして行ったのか?

降幡さん:
逆に「灯台もと暗し」だったかもしれない
先は見えていたけれども、近くは見えなかった

9年間も蟄居していたので、京都の空気は読めなかった
まさにこれから自分が国のために活躍できるんだと
気持ちの高ぶりのほうが先だった

蟄居中の自分のやることはまだあると思っていたと思う

時代がだんだんついてくる
実際にペリーが来航し、象山の予見通りに動いていく

象山が10年、20年前に言ってたことが周りで起きている
その時、象山はどう考えるんだ?と弟子たちは聞きたくなる


青木:
ひとつ反面教師として、今の時代は「謙虚さ」も必要じゃないかという学びがありました
(天才が殺された理由はそこにあるかもな


降幡さん:
空気を読まない象山が、逆に新しい空気、時代を作っていった
象山が最初に献策したのは「学校を建て、人を育てよう」

象山は自分がやったことが実現したことは実はほとんどない
時代を変えるには自分1人じゃ出来ないと薄々感じていたと思う
周りに同志をつくって変えていく

彼が残した一番のものは、もしかしたら想い・思想という志を持った「人」かもしれない




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