メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『やさしい「禅」入門』(新潮社)

2012-04-15 18:40:07 | 日記
とんぼの本『やさしい「禅」入門』(新潮社)
立松和平、南直哉ほか/著

そもそもは、パニ障つながり。「あさイチ!」で禅の呼吸法の話から、
このサイトにあった本に興味を持ち、町歩き先の図書館で見つけて、近所の図書館で借りてみた。
いやあ~!濃かった 禅に興味がある人もない人にもオススメの1冊。
以下に抜粋メモを書いたけど、長すぎるのはお許し下さいませ/謝(ほんとは本を読んでほしいので


「それ参禅は、静室宜し、飲食節あり、
 諸縁を放捨し、万事を休息すべし。
 善悪を思わず、是非を管すること莫れ。
 心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし。
 作仏を図ることなかれ、豈坐臥に拘らんや。」
(道元『普勧坐禅儀』より)


道元は「坐禅こそ最も大切な修行」と位置づけていた。

p.6
禅とは、ひと休みすること。

人は休むと称して、たいていは遊んでいるに過ぎない。
あるいは明日仕事をするために、今日休む。
「ために」ということは、日常生活や仕事の効率上の問題で、それに結びつけた形でしか休めない。

「諸縁」=日常生活の枠組み。

坐禅によって「悟りを得る」のではなく、人間の自意識とか、自己認識が崩れること。
自己の存在の曖昧さ、脆弱さ、それが出来合いのものだということが分かるということ。
競争社会の前傾姿勢とは真逆。


【坐禅の方法】姿勢×呼吸×意識がポイント
1.静かな部屋で、ラクな服装で。
2.姿勢を正す。腰を強く入れない→腰を伸ばして背骨を立てる
3.視線は45度に落とす(半眼)。意識して見ない。
4.左右に揺れながら、自分のセンターラインを定める(大抵みんな中心がズレている
5.身体の痛みは修練を積むのみ。

【注意点】
・ものをボンヤリ考えている人は大抵、前傾または寄りかかる姿勢→眠気、呼吸も乱れる
・初心者は雑念だらけ→姿勢キープに意識する+視覚から聴覚に集中する
騒音も聞きっぱなし。音を判断しない(これが難しい!
 聴こえる音を無差別に拾う=ただの音として価値判断をしないのがコツ
 「聴いているというそのことを聴く」→「聴いているはずの主体である自分の存在も意識から脱落してしまう」

p.20
近代社会では、競争と取引で日常生活が成り立っている。
そこで生まれた近代的な自我は、作られたものだから条件を変えれば簡単に壊れる。
自分とか、自意識などという言葉には、ほとんどまともな正体がないということがよくわかる。


p.21
万事を休息すべし
「もともと人は、別に稼ぐために生まれてきてはいないんです。
仕事をしたくて生まれてくるのではない。人はただ生まれてくるんです。」←この言葉が聞きたかった
「稼げ」とか「頑張れ」というのは、後から押し付けられたもので、それを自分が受け入れて働くわけです。これは基本的に疲れる。
元々は「ただいた」だけの存在が、そこに「稼ぐ」「頑張る」を覆い被せられていくわけですから、疲れるのは当たり前でしょう。

p.22
お釈迦さんは、人間が存在することは「苦」だと言いましたが、私は最近、「疲労すること」ではないかと思う時があります。


p.23
権利と責任、所有の問題などで、自他意識が鋭くなるが、坐禅に自他意識は必要ない。


p.24
坐禅はゴールではなく自意識のスタートライン。坐禅で見えるのは、本当の自己ではなくて、自己以前
行き詰った問題と思える自己を、一度「初期化」しようということ。そこから新たな主体を再建する。
自己を見る視点は自己以前からしか見えない。いつもの私というものを全体として捉える視点が必要。


p.25
注意:我流でやると変成意識に陥ることがある(悟り、エクスタシー、虹色の光が見えたなど


【良い師匠の見つけ方】
・質問を嫌がらない人が第一条件◎
・「オレの言うことさえ聞けば大丈夫だ」×
・俗っぽい、金品を要求する人×
・お寺の格や、自分の地位を強調する人×
・抽象的な言葉でなく、経験で裏づけをしてくれる人は信用できる◎

これは、良い医者を見つける時にも言えるね


【1泊2日の坐禅体験】
いっちゅう=線香が1本燃え尽きる時間が1回の坐禅(約40分間)
展鉢(てんぱつ)=食事作法(曹洞宗のルールはもの凄い細かいため、これが憂鬱で胃痛になる修行僧が多い
薬石(やくせき)=夕飯

      1回目の坐禅
14:00 展鉢の講習
17:30 2回目の坐禅
19:10 夜坐
21:00 消灯
04:00 起床
04:20 暁天坐禅
05:30 朝課(読経)
粥座(しゅくざ)(朝食)、作務(さむ)(禅堂の掃除など)
坐禅が「静」の修行なら、作務は肉体を限界まで酷使する「動」の修行

この本には、2人の坐禅体験が載っているが、1人は「自分をよく見直せた」、
1人は「自我を忘れた」と、締め方が違っているのが興味深い


永平寺の起床は3:30「睡眠は健康にとって最も大切」とする医学と反するが、大丈夫なんだろうか???
読経も1日3回あるってゆうし、刑務所なんかよりずっと過酷では?(むしろ、罪人をお寺で修行させたらどうか?
トイレの作法まである!驚 そこまで拘束して何になる?!て思うけど、
昔の日本の修行は、料理は下働きの者がやってたりしてて、全体的にゆるかったから、
中国で本当の修行を目の当たりにした道元は、ことさら細かく日常生活について書き記したんだろうね。


【精進料理レシピ】
基本「不殺生戒」だから、肉・魚は使わない。
『典座教訓』には、「淡味」で食材そのものの味を味わうのが大事ともある。←わたしも素材そのものの味が好き
昆布・椎茸でダシをとり、味付けは砂糖・塩(醤油と酒少々

料理の三つの徳
軽軟=やわらかくすること。
浄潔=きれいにすること。
如法=すべてのものを上手に調理すること。無駄にしない。

精進料理の心とは、食べる方の気持ちをいかに思いやるかということ

そいや、修学旅行で京都に行った時に食べた精進料理はマズいと思ったことを思い出した。
今なら本当にヘルシーで、量もちょうどいいし、毎日でも食べたいくらい
しかも、メロンや和菓子までついてる!←これは体験修行者のためのメニューだそうで、実際は超質素
こんなに健康食なのに、作法が厳しすぎて胃痛になるんじゃ、栄養にならないよねぇ・・・


『正法眼蔵』
道元の著作。現代語訳は参考書。あくまで原文を自分なりに読み解く。何年も経って、最初の解釈と違ってみえることも多い。
その中でも「弁道話」→「自受用三昧」には、人間が言語で秩序立てていた世界像を失ってしまっていることが美文で書かれている。


【道元の人生】
・出自は抜群だが、幼くして父母を亡くし、13歳で出家。
・比叡山に入るも「本来本法性、天然自性身」(人はありのままで仏性をもっている)という考えに疑問を持ち、山を下りる。
・「苦集滅道」について考える→栄西(臨済禅)の弟子・明全に師事し、宋に留学(24歳)。
・如浄(オーソドックスな考え→仏教とは書物などではなく生き方そのもの)を正師とし、わずか4年間で帰国「空手還郷」(28歳)。
・曹洞宗を開く。大本山は永平寺・總持寺(今は横浜の鶴見に移転)
・既存の教団との軋轢から越前に移る。一度だけ鎌倉の北条時頼に会うが、やはり政治権力の保護は受けなかった。

仏教は、日常生活にクエスチョンマークを与えて、苦しいのは何か間違いがあるからだと説いている=脱社会的
 だが、世間の秩序や価値体系を決めているのは社会体制=政治権力である。

・晩年はより厳しく僧侶を導く著書を書き、教団再建を危惧しつつ京都にて54歳で没。


道元は、「正師に会わないくらいなら、学ばないほうがいい」と言ったが、
「正師を求める人こそ正師」(正師と見極められる目を持っているということだから/南直哉)

道元の原点は「諸行無常」(普遍のものも、実体もない)+「諸法無我」
「生というのは船に乗っている時のようなもの。自分が帆をはり、自分が舵をとる。自分が船に乗っていることが、船を船であらしめている」
=自分という存在は不変の実体ではなく、他人との関係性の中で自分という存在がある。他者が自分の存在の根拠。「縁起的あり方」

仏道を習う→自己を習う→自己を忘れる→自他の脱落(世俗様式の自己を仏道モードに切り替える)

他己=非己
お互いに他者から自己を作り出す。自己の存在は他者からくる(食事も同じ)
自己の生き方をより良いものにするためには、必然的に他者との関係を尊重し、より良いものにするということ。(p.101)


道元の最も有名な言葉「只管打坐」=単に坐る(そこにいるだけ)=その人の実存の土台は意味も価値もない
土台をハッキリ知る→もう一度自己を再生する。坐禅で「自意識が崩れ」→自他関係が脱落する。


釈尊の「苦」は「苦痛」ではなく「存在苦」
「タントリズム」性的ヨーガは×。エクスタシーなどではない。
武道の「礼」にも仏教の影響がある。相手は敵ではなく、自己を高めてくれる人。自己以外の存在に対する敬意


【禅の基礎知識】
釈迦の28代目の弟子・達磨(禅の始祖)
禅が日本に入ったのは飛鳥時代→鎌倉時代で広まった


「毎年変わらず、そこにあるがままの自然の中に真理がある。自然とは一切隠されていない。
 私達の目の前にすべての真理はあるがままに投げ出されている。
 過去は過ぎて消えてしまったのではなく、現在は隠れて見えないのではなく、未来はいまだ現れないから見えないのではない。
 すべてこの前に投げ出されているのに、それを感じることのできない私たちは、まことに哀れむべき存在ではないか。」

「威儀即仏法」
修行とは1日の生活のすべて。行・住・坐・臥のわずかな立ち居振る舞いも修行。
私たちは無意識に禅的生活をしていることを自覚する。


「典座」(僧に料理を作る)の職こそ、昔から道心があり、悟りを求める深い心を持った師僧にあてられてきた職。
1つの野菜が一丈六尺の仏の身として活用する 季節に従った旬のものを使うこと。
品物の良し悪し、相手の身分によって言葉遣いを変えたりするのは、執着である。

禅とは、森羅万象に通ずる思想。

「杓底一残水」「汲流千億人」
永平寺龍門に向かう参道に建つ2本の石碑に書かれた句。
意味は、杓の底に残ったわずかな水でも、元の川に戻せば、千億人というたくさんの人が恩恵を受ける。


「天は惜しまず、地は惜しまず」=菩薩の心
そもそも天から降る雨も、何の見返りも求めずに森に布施し→森は川に布施し→川は樹木に布施し→人、海に布施する。
→海は魚にも天にも布施するが、してあげたからといって、あげたことを誇るでもない。世間はそのような布施によって成り立っている。


「上求菩提、下化衆生」
自分にも布施する 自らは悟りを求めて修行を続け、同時に他者に救いをもたらす。


『普勧坐禅儀』
仏法=元々「真理」はそこいら中に存在し、誰もが真理に囲まれている→修行など不要
でも、現実は差別、自他対立、愛憎、煩悩、本心を失くした疑念に溢れている(あれこれ雑念することが原因)→坐禅することの意義。


巻末には、坐禅のできる寺一覧あり。
紹介文によると、南直哉さんは長野出身だった!
現在は、都内の青松寺で坐禅の指導をしながら、霊泉寺(福井市)の住職でもある。


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