メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『シリーズ戦争孤児2 混血孤児~エリザベス・サンダース・ホームへの道』(汐文社)

2015-06-17 12:33:49 | 
『シリーズ戦争孤児2 混血孤児~ーエリザベス・サンダース・ホームへの道』(汐文社)
本庄豊/編

この表紙写真だけ見て、同情を誘うが、タイトルは「ケンカ」だった。
そうか、「孤児」「片親」=可哀想ていうイメージも、ある意味、偏見なんだ。
愛されて育ったなら、他の子どもとなんら変わりはない。
裕福な両親のもとで育っても不幸な子どももいる。

それにしても、「戦争孤児」といっても、さまざまな事情や状況があることを知った。
彼らは今、それぞれの人生をどう歩んでいるのだろうか?

複数の国の血が混ざった子どもたちは、むしろ、未来では普通になるだろう。
戦争のせいではなく、グローバリズムによる平和な世の中で。
このホームは、その良い先例となるかもしれない。


【内容抜粋メモ】

「戦争孤児」とは?
「アジア・太平洋戦争」で、日本約300万人、アジア約2000万人の命が奪われた。
身寄りを亡くした子ども、親と生き別れたり、棄てられた子どもたちを「戦争孤児」と呼ぶ。

「学童疎開」により、約45万人の子どもが親元を離れ、空襲・原爆などで親を亡くして街にあふれた。
戦後、海外から引き揚げた約660万人の中にも大勢の「戦争孤児」がいた。

「戦災孤児」空襲などの戦災、戦後の貧困などで身寄りをなくした孤児
「混血孤児」日本を占領したアメリカ軍兵士などと日本人女性との間に生まれた孤児
「沖縄の戦場孤児」沖縄戦で身寄りをなくした孤児や、アメリカ軍兵士との混血孤児
「残留孤児」旧満州などに取り残され、現地の人に育てられた孤児
「原爆孤児」原子爆弾投下で身寄りをなくした孤児

この巻で扱う「混血孤児」は、約4万人といわれる。
レイプ、売春、自由恋愛などで生まれた子どもたち。
父が帰国し、母親だけでは育てられないという理由で棄てられた子どもたちも多い。

「混血孤児」問題で心を痛めた澤田美喜さんは、1948年、孤児施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を神奈川県大磯に設立。

 
ホームに預けられた混血孤児たち

なお、「混血孤児」という言葉は、差別的だという指摘もあるが、歴史的な言葉であり、他に置き換えることが難しいため使用している。



鳥取県岩見町岩見中学校3年生約130人が施設訪問


ホームで暮らす子どもたちは、6歳になると「聖ステパノ小学校」、12歳になると「聖ステパノ中学校」に通う。
「聖ステパノ」とは、太平洋戦争で亡くなった澤田美喜さんの三男のクリスチャンネームからとられた。
岩見中学校のホーム訪問は10年以上続いている。
生徒たちは、♪ふるさと を合唱。作曲者の岡野貞一さんは鳥取市生まれ。


平安神宮に棄てられた子
1953 敗戦から8年後、京都市の戦争孤児施設「平安徳義会」の孤児たちは、
大津市に進駐していた米軍の復活祭に招かれ、お遊戯を披露した黒人と日本人の混血の女の子に驚いた。
保母の今西さんは、この子を「平安徳義会」で育てた。

昭和21年。毛布に包まれて棄てられていた赤ん坊は、チョコレート色の肌で、
 へその緒、胎便がついたままだった。彼女は平安神宮の芝生に棄てられていた。
 乳児期は発育不良のため、皮膚病でサメ肌だったが力強く育った。

 成長するにつれ、髪の縮れと、肌の黒さを気にし始めた。
 そこで、昭和34年、『エリザベス・サンダース・ホーム』に措置変更された。
 昭和40年、面会に行くと、彼女は保母助手となっていた」

米軍占領後、1年をへて、アメリカ軍兵士と日本人女性との混血児問題は大きな社会問題となっていた。


混血児の誕生
1945 日本敗戦。
1ヶ月後の9月15日、横浜港にアメリカ占領軍「進駐軍」が上陸。

その9ヶ月後の1946年6月、ラジオは「日米混血児第1号の誕生」のニュースを流した(早いなぁ
当初は「日本とアメリカの架け橋」と言われた。
ニュースを聞いた澤田さんは、外交官の夫とともに滞在したイギリスの孤児院「ドクター・バーナーズド・ホーム」のことを思い出した。

そのニュースの1ヶ月後、鵠沼近くの川に黒い肌の赤ちゃんが浮かび、
歌舞伎の裏通りには青い目の赤ちゃんが棄てられ、
横浜ではドブの中に棄てられた赤ちゃんのニュースが流れた。

澤田美喜さんは、1948年、孤児施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を神奈川県大磯に設立。
神奈川県には、連合行軍総司令官マッカーサーが降り立った「厚木飛行場」、横浜、横須賀には米軍施設があり、
そこに滞在したスタッフとの間に混血児が生まれた。
全国に配置されたアメリカ人スタッフは6000人以上。

ホームに預けられた理由
・棄て子
・将来を考えて
・父が帰国
・生活のため
・再婚
・病気

 


澤田美喜さん
1901 三菱財閥の本家・岩崎久弥の3男3女の長女に生まれた。
兄妹6人全員はしかにかかり、大磯の別荘で静養。
看護師の読んでいた「汝の敵を愛せよ」が耳の奥に残った。

岩崎家は代々、仏教徒だったため、それまで美喜さんは他に宗教があると知らなかった。
聖書は祖母によって焼かれた

美喜さんは女学校を中途退学し、英語や東洋学問を学ぶ。
叔母の影響もあり「外国で生活したい」と思う。見合いで結婚したのは外交官・沢田廉三氏。

 
岩崎邸での結婚式(1922)

廉三さんの母はクリスチャンのため、美喜さんは堂々と聖書を読めるようになった。
後に「熊井浜」と呼ばれた別荘は、戦時中は美喜さんの疎開先となり、戦後はホームの臨海学校の場となった。


熊井浜


「ドクター・バーナーズド・ホーム」
夫の転任の先々で美喜さんは外国の知識を身につけ、人とのつながりを築いた。
廉三さんは、戦後、初代国連大使を務めるなど、日本の外交の牽引車でもあった。
「ドクター・バーナーズド・ホーム」を訪問したことは、後の美喜さんの人生を変えた。

日本では“孤児院”と聞くだけで心が暗くなるが、ここは希望の家です。暗い表情をしている子は一人もいません。
 中には小・中・高校、教会、職業訓練の教室があり、18歳で去る時は、職に就く技能を持たされる。
 私も必ず日本にこのホームをつくろうとかたく誓った」



GHQを説得
美喜さんは、まずは夫・廉三さんを説得した。
「私は妻、母としての務めを終えた。混血孤児の養育という仕事に専念するため、私を家庭から解放してください」

次は父・久弥さんに「大磯の別荘を混血孤児の施設として使わせてください」と頼んだ。
「日本を滅ぼした敵の子を救うなんて物好きな」と吐き捨てるように言う実業家もいたが、
久弥さんは目を真っ赤にして「世が世なら、別荘ぐらい娘に寄付するものを・・・。
残念ながら、この家は財産税を課せられ、日本政府に物納し、GHQがうるさいのだ」
「それならGHQと話し合ってきます」

美喜さんはGHQを説得、条件をつけられた。
・別荘を日本政府がつけた値段の400万円で買い戻すこと。
・岩崎家は3代、別荘を所有しないこと。

当時の400万円は気の遠くなる金額だったが、アメリカの知人に募金をお願いする5000通以上の手紙を書いた。
半年後、アメリカで1万5000ドル(当時の約540万円)が集まった。
施設は、最初の寄付者にちなんで「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けた。

ホームには、混血孤児たちが集まってきたが、「財閥娘の道楽」、
「混血孤児は生きていても苦しむだけだから、小さい時に死なせたほうが慈悲」という声もあった。

日本にある米軍基地数
沖縄県 34(7割は沖縄県に集中している
神奈川県 14


第1期生6人組の成長記録
ホームには、拾われた孤児、ホームの前に棄てられた孤児、母親の手で連れて来られた孤児もいた。


第1期生6人
 

静子 日劇のイスの下で眠っていた
千代田道子 千代田区の路上に棄てられていた
ジョージ 立川のダンスホールで泣いていた
サミー 皇居前に棄てられていた
ヘレン 横浜の「M・P(アメリカ軍憲兵)」を父に持つ
イクオ アメリカ軍基地近くの農家に棄てられていた

写真を撮ったのは、写真家の影山光洋さん
「定点観測」という手法で、写真の記録としての価値を高めたさきがけとして知られる。


ホームが設立した1948年当時、日本はまだ独立していなかった。
GHQは、混血孤児たちに世界の注目が集まることを恐れた。
GHQ公衆衛生福祉局長クロスフォード・F・サムズは
「占領軍兵士と日本女性との間に生まれた子どもの数は分からない」
「混血児の施設には反対だ」と言った。

美喜さんはそれに抗議した。

「この子どもたちは日本国民であり、日本の国籍をもっています。
 その子を育てるのに、どうして進駐軍が指図しなければならないのですか。
 日本を引き揚げられる時に、アメリカ人を父とした子を皆連れて行かれるのなら、司令部の指図に従いましょうが」


さまざまな援助
ホームの話をきいて援助するアメリカ兵もいた。
疥癬という皮膚病、回虫のいる子どもたちに、アメリカ軍医が薬を届けてくれたりした。



和田イクオ


後に約2000人の孤児の母となり、自立するまで育てた美喜さんは、
性格が激しく、孤児たちに辛く当たることもしばしばあったが、
そんな彼女を和ませたのは、イクオさんだった。

最初の頃、ホームの子どもたちは近くの小学校に通っていたが、肌が黒い、目が青いなどの理由で、イジメにあうことがあり、
美喜さんは、「聖ステパノ小学校」を設立。


ヘレン
ヘレンは賢いが、問題行動が多かった。賢いからこそ、納得できないことには「ノー」と言ってしまう。
絵が上手で県の展覧会で知事賞を受賞。

アメリカ兵が棄てた子どもが大きな賞をとったというニュースはアメリカにも流れ、
フィラデルフィアに住む夫妻が養子に欲しいと言ってきた。

渡米したヘレンは、英才教育を受けて重圧に耐え切れず、問題行動が増える。
やがて精神を病み、病院で出会った青年とロンドンに逃げて結婚。
1978年「子どもたちは七つの海を渡った」というテレビ番組でヘレン一家が出演した。


アメリカ兵の養子になった女の子(1952)


七海・メリー
メリーは3歳半の時、母と1歳の妹ルリとともにホームにやってきた。
父は黒人のアメリカ兵。母は娘たちをホームに置き去る時、涙もなく、子どもたちも追いかけなかった。
メリーは、葉巻を巻いて吸う真似をし「今日は、ノーマネー、ノードリンク」と言った。

その後、日本人の青年と何度か恋をしたが、相手の親の反対で結婚できなかった。
美喜さんは、メリーを近くのアメリカ軍基地で働くことを勧めた。
メリーは、基地に住む黒人兵と結婚し、渡米した。日本人として扱われず、アメリカに行かざるを得なかった。
同番組でヘレンは、その後離婚して、2人の子どもを育てていた。

「メリーは、日本の人々が黒い混血児に対してとった態度について、語るというよりも、まるで吠えるように、涙を流して語り続けた。
 彼女の声は、混血児の口から初めて聞かれた言葉で、誇り高き日本人たちに投げつけた厳しい言葉であったろう」
『黒い肌と白い心』澤田美喜著


「骨皮(コッピー)さん」と「ほねかわさん」
 
生まれてから数日でホームに届けられ、骨と皮だけのやせ衰えた姿だった2人


映画『キクとイサム』(1959)

キクとイサムは、学校の子どもたちから「クロンボ」「カラス」と心ない言葉を投げつけられる


小岩井農場と天理市
美喜園長は、子どもたちを園外に連れて行った時に浴びせられる珍しいものを見る目に心を痛めた。
子どもたちは目立つため、写真の被写体にされた。
そのため、修学旅行、遠足、体験学習などに連れていけなかった。

実家に相談し、三菱造船所や、小岩井農場で労働体験が行われた。
そこで、工場労働者、農民としての基礎を学んだ。

美喜さんは「天理市の人たちは混血児たちを差別しない」と聞き、旅行先に選んだ。

「人々がきょうだいとしてお互いに助け合う明るく活気に満ちた世界をつくりだす」
目的に天理教を開いたのは中山みきという女性。
教団は戦時中、政府からの弾圧を受けたが、1953年、「天理市」が生まれた。



熊井浜
ホームの子どもたちは、夏になると大磯の海岸で海水浴を楽しんでいたが、
「日本の子と同じ浜で泳がせないでほしい」と冷たい視線にさらされた。

美喜さんは、夫・廉三さんの実家にある熊井浜の別荘「鴎鳴荘」を思い出す。
美喜さんは、鴎鳴荘では園長の顔ではなく、穏やかに過ごした。


鴎鳴荘(2014)には卒園生らが書いた落書きが残っている


パール・バックとジョセフィン・ベーカー
美喜さんは、毎年アメリカ各地で講演した。
「あなたたちの子どもたちが日本で暮らしています。子どもたちを育てるのはアメリカの責任でもあります」

美喜さんの話に感動して募金したり、養子にしたいというアメリカ人もいて、
子どもたちの将来のため、養子の申し込みを積極的に受け入れた。

古くからの友人パール・バックさんも養子縁組の努力を惜しまなかった。

パール・バックさんとホームの子どもたち



混血孤児の数
第二次世界大戦後、混血孤児の数は約40万人。
アメリカが占領したイタリアでは約2万5000人。
アメリカ、イギリス、フランスが占領した西ドイツでは約9万4000人。
日本が占領した東南アジア、南太平洋諸島では約7万5000人。

美喜さんの友人、ジョセフィン・ベーカーさんは、世界的に有名なダンサー&歌手。

ベーカーさんと養子
 

ホームを訪ね、支援金集めのため、沖縄を除く国内23ヶ所で公演し、寄付した。
広島では「広島平和記念資料館」に立ち寄り、ケロイドのある老人の肩に手を置いて言った。

「こんなことは、許されることではない。勝った国は良かったと思っても、大切なものを失ってしまう・・・」

公演後、ベーカーさんは、ホームの黒人の孤児2人を養子にした。
その他、各国の混血孤児12人をミランダ城に引き取った。
(今でゆったらアンジーみたいなものだな

1953 日本の混血孤児総数は3972人、養子の希望は740人。ホームからは68人が渡米した。

ホームから養子として渡米したヨシアキさんは、「ベトナム戦争」で戦死した。
戦争のために生まれた混血孤児が、戦争のために死んだのだった。

※1963 「ベトナム戦争」では、アメリカが全面的に軍事介入した。
『写真が語るベトナム戦争』(あすなろ書房)


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養子として渡米する子もいたが、ほとんどの子どもたちは園を出た後、日本で暮らし、いわれなき差別を受けた。
美喜さんは、卒園生らがのびのびと仕事ができる場として、人種差別がほとんどないブラジルを選んだ。
戦時中とだえていた「ブラジル移民」が戦後復活したことも背中を押した。

美喜さんの父はブラジルに広大な土地を買い「東山農場」を開いた。
しかし、ここに混血孤児を入植させる案は親族の反対で実現しなかった。

美喜さんは、アマゾンの原始林を選び、「トメアス第二植民地」に5haの土地を買い、
そこを「聖ステパノ農場」と名付けた。(1956)



全国から募集した8人の先発隊は、農業機械が動かせるまで国内で3年間訓練されて送り出された。
ホーム出身者も7人選ばれ、「聖ステパノ学園」内の「アマゾン教室」でポルトガル語を覚えた。

1965 美喜さんと18歳の7人の青年は横浜から出航。

(この後の物語りが気になるなあ。


【関連文献】
『黒い肌と白い心』澤田美喜著
『歴史のおとし子 エリザベス・サンダース・ホーム 10年の歩み』澤田美喜・影山光洋他

澤田美喜記念館
澤田美喜(ウィキ参照


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