鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=天理教と聖書の奥義=17   ~「いのちエネルギー」の認知効果~

2023年05月18日 | 天理教と聖書の奥義

 

 イエスの復活とそれによる人間の永続保障は、福音の核の核、神髄の神髄です。
 
  これがなければ、人間という存在も、空しいです。
  空虚です。
 
  永続がなかったら、人間も詰まるところは、あってもなくてもどうでもいいものとなります。
 
 
 
@@@
 
 ところが、このイエスの復活は、聖句で十分吟味されてきていません。
 その認識は、漠然としたままです。
 
+++
 
聖書を見ましょう。
 
 復活のイエスに最初に会ったのは、生母マリアを別とすれば、イエスをおそらく最も愛した女性、マグダラのマリアです。
 
 だがその彼女も、最初、自分に語りかけ、対面している人がイエスだと認知できなかった。
 
 「ヨハネの福音書」それを刻銘に記述しています。
そのまま引用しましょう。
 
 
+++ 
 
<マリアは墓前に立って泣き続けていた>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、マリアは墓前に留まり、泣いていた。
泣きながら身体をかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、二人のみ使い(天使)が、イエスの身体が置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、
一人は足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた。
 
み使いは彼女にいった。
「なぜ泣いているのですか」
彼女はいった。「だれか私の主をとって行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
 
するとイエスが立っておられるのを見た。
しかし、イエスであることがわからなかった。
 
イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」
 
彼女は、それを墓の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」
イエスは彼女に言われた。「マリア」
彼女は振り向いて「ラボニ(先生)!」と言った。
 
     (「ヨハネの福音書」20章11-16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
~復活のイエスに対面しても、それがイエスだとマリアはわからなかったのです。
 
なぜか?
 イエスの復活体は、以前の物理的な肉体とは違っていたから、としか考えられません。
 
だが筆者の知る限りでは、このことを意識的に自覚した聖書解読者はいません。
 
 ヨハネ伝では「ロゴスは人となって我々の間に住まわれた」とイエスを言っています。
 
 この「ロゴスが人となった」イエスの身体は、見た目では他の人間と同じ肉体でした。
 
 だがヨハネは「槍で刺されたその身体からは、血と水が出た」
   と目撃証言しています。
 
   人間の身体からは、刺されたら血だけが出ますから、  
   正確には、人間の身体と違うのです。
 
 +++
 
   けれども死んで墓に葬られるまでのイエスの身体は、人々には自分たちと同じ身体だと、即座に五感認知できるものでした。
 
   だが、復活したイエスの身体は、そうではなかったのです。
 
  だから、マグダラのマリアも、弟子たちも、当初、イエスだと認知できなかったのです。
 
 
  では、復活体としてのイエスの身体は、どうであったか?
 
  これを物理学的。比喩的に示されないと、我々人間は、イエスの「復活」をリアルに悟ることはできません。
 
 
 
  @@@
 
   この決定的な問題を、どう解決するか?
  
  その考察をする前に、筆者は、それ以前の体験についてまず語りたいと思います。
 
  話があちこちに飛びますが、これは論文ではなく、むしろ、クラシック音楽の「協奏曲」のように
    風景認識して下さい。
 
   例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲の第五番「皇帝」を聞いてみましょう。
そこには、同じテーマ旋律が姿を変えて何度も現れてきます。
 
    (他の協奏曲も同じですが、筆者はこれが好きですので・・・)
 
 そういうようなものだと、筆者の話を理解して下さい。
 
 具体的な体験話に入ります。
 
 
@@@
 
 話はもっと前に飛んで、筆者の以前の聖書認識に戻ります。
 
 まだ、量子論を勉強していなかった筆者には、聖書理解におおきな障害物がありました。
 
 それは「いのち」ということばです。
 
 これが定義抜き、説明抜きでボンボン出てきます。
 
 神学者や牧師先生は、それを説明抜きで語っています。
 
 信徒は「そういうものだろうな」と思って聞いていますが、その実、誰もわかりません。
 
「いのち」は聖書論理のなかのキーワード中のキーワードです。
 
これをまったく理解しないでよくやってるな、という思いを鹿嶋は抱いてきました。
 
 
 +++
 
  こういう「みえないもの」を人間が理解する方策は、それを目に見えるもの、物理学的なものに
  投影する、ということにしかありません。
 
  これをたとえ、比喩といいます。
  実は、イエスだって、この比喩投影をどんどん使って、宣教しています。
 
 
+++
 
  筆者鹿嶋は、長い間、「いのち」という言葉の比喩イメージを求めました。
 
  あるとき、「なんか、エネルギーのような概念だなぁ」という感じを受けました。
 
  そこで、思い切って「いのちエネルギー」という比喩的な用語を造りました。
 
+++
 
  「えいやっ」とやってみた。
 
  そうすると、聖書の中の「いのち」という言葉が、とてもわかった気持ちになってきました。
 
  そしてこの比喩は、ほぼ、聖書解読に大きな悪影響を及ぼすことなく
  聖書を理解させてくれました。
 
  そこでその言葉を拙著『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)で
  使いました。
 
   そうしたら、「いのちエネルギー」をつかうと礼拝メッセージがしやすくなって、助かっている
という牧師さんが一人ならずおられる、といううわさも耳にしました。
 
 そんな体験を持っていましたので、イエスの復活体についても比喩投影できる物理概念がないか、と考え始めました。
 
 
(続きます)

 

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