鹿嶋春平太チャーチ

解釈自由原則で聖句を吟味している教会です。YouTubeで「ヨハネ伝解読」を検索し、同名の動画とあわせご覧ください。

Vol.28 マーケティング、CI、キリスト教の理念

2016年05月19日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

+++

前回、小さな小さな邦訳冊子『血まみれの道』が、原典不明の謎の本であったことを述べました。

後に筆者は、その探索を7年後、米国南部のバイブルベルト地帯で行うことになります。

だが、そこに一足飛びに行かないで、まずはそこに至るまでの経緯を述べておこうと思います。

でないと、筆者の探究自体がトンデモ本ならぬ「トンデモ行動」に見えてきてしまいますから。


+++


少し学問的な話になります。

煩わしいとお思いの方は、以下、ハウスマークで囲まれた部分は、飛ばしていいです。




 



<マーケティングの新分野、CI>


筆者の生業は、流通経済学の研究と教育でした。

この経済学は経営視点からの流通活動をも研究対象に含んでおります。

そしてそれは、英語では、マーケティングとも言います。

筆者は、 マーケティングの研究屋でもありました(今も研究は続けていますが)。






<コーポレート・アイデンティティ>


さて、そのマーケティングに、1980年代頃、新しい研究課題が出現しました。

コーポレート・アイデンティティ(Corporate Identity)といいます。

頭文字をとってのCIという語をご存じの読者もおられるかもしれませんね。


+++

マーケティング学ではその研究は、企業のシンボルマークを対象としてはじまりました。

以後、CIの研究と論議は、そういう視覚的(ビジュアルな)用具をめぐって続けられていきました。

実践分野では中西元男や深見幸夫とかいった大家も現れ、活躍しました。

筆者もその研究を進めましたが、まもなく、言葉の上での疑問が浮かびました。




<アイデンティティって何?>

コーポレートは企業です。

それはいいのです。

だが、アイデンティティという語の意味がはっきりしなかった。

まあ、いまだからいいますけれど、マーケティング学者さんというのは、あまり深い思索をしない人種でした。

今も基本的には同じです。

彼らは、アイデンティティとは、シンボルマークのようなものだ、という認識で議論しておりました。

なんの疑いを持つことなくそうしていた。


+++

<旧約聖書に創造神の属性として>


だが筆者はそれでは気持ち悪くてしょうがなくなりました。

そこで、その語の由来を調べてみました。

すると、理念としてはとても旧いものであることがわかってきました。

+++

それは既に旧約聖書のなかに 出現していました。

旧約聖書のゴッド、すなわち、万物の創造神には「変わらざる方」という属性理念があります。

「毫も変わらなければ」それは永遠にそのままである続けますから、永続者でもあります。

そういう理念が旧約聖書に、そもそもとしてありました。





<ギリシャ哲学の「同一性」に>


この理念が、紀元前6世紀頃にはギリシャに流れ込んでおりました。

ユダヤ人は、世界に離散する歴史を繰り返しています。

中国の漢字にすら、彼らの思想の影響が入り込んだと推察される文字が見られます。

古代日本にも移住していたという説もある。

ギリシャはイスラエルのほとんど隣国ですから、もう「変わらざるもの」の理念も自然に流入していたでしょう。


+++

ギリシャ哲学者はこの理念を学問化しました。

論理学と数学をベースにした彼らの学問知識でもって、学問として取り組んだのです。

「変わらざるもの」を論理化したわけですね。

そしてそれを「同一なるもの」という言葉で表現しました。

任意の二つの時点を取って、全く同一ならば、それは「変わらざるもの」ということになりますからね。


ちなみに、その性質が「同一性」です。

英語では sameness です。

現代日本では、その言葉を取って、「同一性」といっています。

「性同一性」とかね。


+++

ギリシャ哲学者は、この言葉を使って、「はたして永遠不変なものは世界にあるか」と議論しました。

そこから沢山の副産物、存在論や認識論が生まれました。

それは後に、多くの学問的資産を人類世界にもたらします。





<神学の中で「アイデンティティ」に>

そのギリシャが次にローマ帝国に飲み込まれます。

ギリシャ哲学の知識も帝国での知的資産としてとりこまれます。


+++

紀元後、ローマ帝国ではキリスト教が大普及していました。

そのキリスト教活動の中に、神学(聖書の中の論理体系を探求する学問)ができました。

それが、ギリシャ哲学の論理的思考を取り込みました。

そして、旧約聖書の中にある創造神の属性「永続不変者」を神学的に考察しました。

その際、「変わらざるもの」に新たなラテン語名が与えられました。

identite がそれです。

紀元後2世紀の後半のことです。

こうしてわれわれ今日の流行語、アイデンティティの源が出来たのです。


+++

時は流れてルネッサンス時代となります。

このときギリシャの学問が再評価されました。

中世の期間中「哲学は神学のサーバント」といわれてきた知識が、分離独立して、浮上した。


アイデンティティ論も新展開しました。

ライプニッツの「モナド〈単子)論などはその代表ですが、この辺りは割愛します。





<エリクソンが一般用語にする>


ともあれそんなわけでアイデンティティという語は、神学的、哲学的概念でした。

こういう深い意味の用語は、なかなか一般日常語化はしないものです。


+++

ところが、現代になって、エリクソンという心理哲学者が、それを一気にポピュラーなものにします。


彼は・・・「変わらざるもの」という理念から、⇒ 「物事の深いところにあるもの」

⇒ 「物の中核にあってそれにまとまりを与えているもの」という風に連想展開をしたのではないでしょうか。


とにかく、アイデンティティを「人間の意識のまとまり (英語ではunity: 一体性といってもいい) に関連する理念」として用い始めました。





<属性意識を「アイデンティティ」で表現>


例をあげるとわかりやすいです。


たとえば、人間は自分について様々な所属(広くいえば属性)意識を持っています。

日本国民、東京都民、山田家の一員、**校の同窓生、等々です。

それが心のなかでまとまりを持っていると、その人の意識は一体性を得て、統一感覚を得ます。

すると人は快適な気分になるんですね。


+++

逆に、まとまらないと、意識は分裂症的になります。

すると人の気分は、不快で辛く苦しくなります。


+++


これらの属性イメージに、エリクソンは「アイデンティティ」の語を与えました。

民族アイデンティティ、コミュニティアイデンティティ、ファミリーアイデンティティ、スクールアイデンティティというがごとくです。





<属性イメージを統一する意識体は「自我アイデンティティ」>


さらにエリクソンは、これらを統一させ一体化させようとする意識体をも考えました。

そういう意識も、人の心の中核にある、と考えたのです。

そしてそれを「エゴ〈自我)アイデンティティ」としました。


+++


彼はこの理論でもって、戦後のベトナム戦争時代に発生した奇異な若者の心理を説明しました。

ヒッピーと呼ばれた彼らを、「アイデンティティが意識の中で統一されない」人間だと解説した。

そしてこの症状にアイデンティティ・シンドローム(アイデンティティ症候群)という名を与えました。


+++


それが結構「わかった気持ち」に人々をさせたのですね。

マスメディアも彼の概念を頻繁に用いて、社会問題を論じました。

エリクソンは一躍時代の寵児となりました。

それと同時に「アイデンティティ」という語も、流行し、一般用語になったわけです。




<ほとんど気分で>

コーポレート・アイデンティティの語は、その流れの中で誰かが言い出したのでしょう。

「その気分で」といってもいいかもしれませんね。

それが広がったものだとおもわれます。

+++

このとき漠然ながらも考えられたことを推察すると、たとえば、次のようにもなるでしょう。

つまり〜

集団の成員が同じシンボルマークを共有したら、同じイメージを共有するのだから、一体性は高まるだろう。

だから、企業のシンボルマークはコーポレート・アイデンティティともいえるのだ。

〜といったごとくです。


実際、エリクソンの考えは、個人だけでなく「人間集団にまとまりを与えているイメージ」にも応用出来そうなところをもっています。

その思考はかなり、直感的、連想的ですけどね。

ただし、この種の思考からは、用語の定義は〜当然ながら〜出てきません。









〜以上は学問的な話です。

こんなことは、興味のない人は、飛ばしていいです。


+++

直接大事なのはこれだけです〜

どうして、コーポレート「アイデンティティ」などと言う言葉が使われるのか。

それはエリクソンという心理哲学者が、人間心理における「一体性形成要素」を示すに、アイデンティティの語を使ったからである。

米国でその意味を種としたアイデンティティが流行語になったからである。


ならば、その用語は人間「集団」にも応用できるだろう。

成員が共有し合って一体性を形成する要因とするのだ。

さすれば、シンボルマークも、アイデンティティ要素となるだろう。

のみならず、日本の富士山もそうだ。

これはマークではないが、同じ視覚的なシンボルだ。

日本人は、みんな、富士山というビジュアル物を共有している。

それでもって、日本国民としての一体性の意識を補強している。


企業も人間集団だ。

だから、従来コーポレート・マークといっていたものも、コーポレート・アイデンティティといおう。

〜こうしてCIの語は出来たのです。





<理念も一体性要因になる>


筆者はそう理解し、それはそれでいいと考えました。

そしてもう一歩前進してみました。


〜集団の一体成形生要素は、なにも、シンボルマークや他の視覚的なものに限らないではないか。

集団で共有する理念もそうであるはずだ。

たとえば成員が自己の集団に関する理念を持ち、自分をその一員としてのイメージしたらどうなるか。

彼らがその理念を共有するほどに、集団としてのまとまり(一体性)は増すだろう。





<内的ID,外的ID>


そして考えました。

ならばその理念にもアイデンティティの語を与えたらどうか。

それはシンボルマークなどのビジュアルな共有物とは違ったアイデンティティ要素になるだろう。


ではそれをビジュアル物と区分して、「インナー・アイデンティティ」と呼ぼう。

従来のシンボルマークは、外的な共有物だから「アウター・アイデンティティ」としよう。


〜するとCIは、インナー(内的なもの)、アウター〈外的なもの)とで複眼的に見るべきものとなる。

また、インナーの考察を進めれば、CI論は、経営哲学の領域とも繋がっていくだろう。

筆者は、そう考えました。





<理念の構造>

ここで「理念」という言葉も明確にしておきましょう。

文字から行けば「念」とは「深い思い」です。

「理」とは、その思いに筋道を与えたものです。

筋道を与えると、それは概念になり、言葉になります。


+++

言葉で理念を集団で共有すれば、成員は同じ考えを共有することになる。

さすればそれだけ、考え方が似てくるでしょう。

それが集団の一体性を高めるでしょう。





<国家事例の方が理念内容は豊富>


筆者は企業のインナー・アイデンティティの事例収集を志しました。

個別事例が増えれば、共有理念に関する一般的理論もえられていくでしょう。

+++

そこで成員が共有し合って一体性を形成していそうな企業理念を具体的にを調べ始めました。

その結果、企業のもつ共有理念は、概して思想的にそんなに豊かなものでないことがわかってきました。

そのくせ、そんなものでも探索には結構エネルギーがかかることもわかりました。

企業にはいわゆる企業秘密が多く、それが支障になりがちなのです。


+++


筆者は、国家の理念についても概観してみました。

こちらは同じ人間集団でも、企業より遙かに豊かな思想内容をもっていました。

しかも、幸いなことに、こちらではその理念がほとんどオープンになっています。

筆者はそれを素材にして企業のID政策を考えたらいいのではないか、と考えました。


そして国家理念となると、ダントツに最適な経験素材がありました。

米国がそれです。

この人間集団では、個人の自由が世界でももっとも広範囲に認められています。

それでいて、成員の一体性意識はとても強いのです。

筆者は、米国を主要対象と定めました。






<米国国家理念の中核はキリスト教理念>


米国の国家理念となると、その代表はキリスト教の理念です。

大統領が就任式で、聖書に手を置いて宣誓するのもそれを示しています。

米国のキリスト教活動と理念を調べよう。

1990年代前半までには、筆者はその見解には到達していました。

若干の調査もし、新潮社で本も書かせていただきました。

+++

だが、具体的な手触りが、イマイチでした。

その後の米国での実地踏査でも確信ある答えには達せられませんでした。

(この踏査は前述した米国での仕事の機会〜1996−7年〜に行いました。これについては、また、後述します)


+++


一口にキリスト教理念といってもその対象範囲は広大です。

問題は、そのなかでいかなる思想要素が米国の国歌アイデンティティ(一体性)形成に効いているかです。

それがはっきりしない。

筆者の心風景は漠然としていました。

1997年頃まで、その状態が続きました。


+++


そうしたなかで、筆者の心に不思議な思いが生まれました。

このテーマの解明に、あの小冊子『血まみれの道』の原典は、不可欠な鍵を秘めているのではなかろうか。

それは国家アイデンティティ政策、ひいては、企業アイデンティティ政策にも深い知恵を与えてくれるかもしれない。

その思いは、成長し続けました。



(これは、訳者である「一匹狼牧師さん」を捕まえようとするよりも、米国の現場で原典を本格的に探求した方がいいな・・・)


筆者は、7年後に在外研究機会が得られそうな状況にありました。

そこでのCI研究計画の中に、謎の冊子の原典探索も含めよう。


そうすれば、その過程でまた、予想外の副産物も得られるかも知れない。

かくして探索は7年後に先送りされたのでした。




(Vol.28 マーケティング、CI、キリスト教の理念     完)







コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Vol.27  衝撃本『血まみれの道』の謎

2016年05月15日 | キリスト教の正しい学び方







こんにちわ。


「キリスト教の正しい学び方」、今日も進めてまいりましょう。


+++


前回、聖句自由吟味者の悲劇をリアルに見せてくれる一冊の小説を紹介致しました。

その際〜、

ここで示されているカタリ派虐殺の事件は、実は、欧州全域で1200年にわたって起きてきたことの一つに過ぎない,

作者箒木氏はその視野はお持ちでないようだ、

〜と申しました。


+++

するとこんな疑問もわくでしょう。


〜だけど鹿嶋は、そんなこと、どういう根拠でいうのか?

公式の歴史教科書にも専門書にも記されてないようなことだというが、少なくとも、根拠とする何らかの資料があるはずだ。

全般的な情報を示した資料でなければならないだろう。

それは何で、どうやって入手したのか?


〜今回はそれへの応答の一端を披露しておきましょう。






<邦訳冊子『血まみれの道』>


実は筆者にこの視野を与えた最初の資料は、一冊の小さな冊子です。

英語本の邦訳書で、タイトルは、『血まみれの道』です。

振り返れば、出会いはもう20年前のことであります。


+++

1900年代の中ごろのことです。

筆者は、一年間の米国での仕事を終えて帰国しました。

まもなくして、知り合いの牧師さんが一冊の冊子を知らせてくれました。

「なんか強烈な本があるよ」と、話題半分に小さな邦訳冊子を見せてくださった。

















<トンデモ本か?>


宗教ジャンルの書物には、興味本位の「トンデモ本」がとても多いです。

その牧師さん自身も、そんな気分のようでした。

「帰国後の気分転換にもなれば・・・」といったムードで見せてくださいました。

案の定、そこには従来学んできたキリスト教史、西欧史、の常識とかけ離れた事柄が書いてありました。


+++


一読してみて、筆者はよくあるトンデモ本の類いを連想しました。

「血まみれ」とかいった題名の言葉も、どぎつい感じでした。

表紙のイラストからもそんな印象を受けました。






<著者に真摯な姿勢を感じる>



けれども、再度読んでいくと、この著者に、とても真摯な姿勢が感じられてきました。

さらに読み続けると、筆者のキリスト教知識を埋めてくれるような情報も、見つかりはじめました。


+++


筆者は、従来より、学校で学んだ西欧史、キリスト教史に、空白のような部分をいくつか感じてきていました。

たとえば、英国史で清教徒(ピューリタン)と呼ばれる人々が出てきます。

教科書、専門書の説明では、この人たちの革命行動の哲学がよくわかりませんでした。

いくら読んでもわからない。

だから関連した事柄、〜たとえば、こういう人々が英国で何故出現したのか、何故あのような行動をとったのか〜、なども漠然としたままでした。

こうした空白部分を、この冊子情報は埋めくれました。


+++

もちろん、それが歴史事実であるかどうかは、確かめる必要があります。

鹿嶋は、ともあれ原本に当たってみよう、との意を強めました。







<原典情報がない!>


邦訳冊子には原著者は、J.M.キャロルと書いてありました。

訳者は、田嶋浩次とあった。 


当時筆者は、現役の流通経済学(マーケティング)の研究と教育を生業としていました。

そのせいか、有益そうな邦訳書を見ると、反射的に原典と照合しようとする習性ができていました。

特に、この資料は強烈に反常識的な内容の冊子です。

筆者はすべては原典をみてからだ、と考えました。


+++


ところが、この邦訳冊子には、原典の情報がいっせつ記されていませんでした。

あるのは著者名だけです。

翻訳本では原本の題名〜この場合は英語〜などの情報を示しておくのが当然です。

それも記されていない。


筆者は、訳者に直接尋ねてみようとしました。

だが、訳者の住所も電話番号もいっせつ記されていなかった。

ただ、発行者と印刷者が「バプテスト文書出版」とだけあり、私書箱の番号だけが記されていました。


(どうも、発行者は訳者ご自身らしいな・・・)


こう推測した筆者は、その私書箱あてに往復はがきを出しました。

「訳書に感銘を受けた。ついては原著書の情報をお教えいただきたい」との旨を「往信」側に書いて出した。

・・・ところが、「返信」は待てど暮らせど来ませんでした。

+++

しばらくして、この方は日本のバプテスト派教会の牧師さんらしいことがわかりました。

その筋の人を頼って接触を試みました。

だが、「離れ狼ないしは羊」のような存在らしく、牧師との接触もあまりしない人という。






<米国でも見つからない!>


やむなく米国の大学で教師をしている友人に調査を依頼しました。

彼は、中西部の私立大学で日本語担当の助教授をしつていました。

その一方で、牧師として日本人居住者のための日曜礼拝をボランタリーで開催している、という人でした。

筆者はメールを出しました。


「日本から米国の図書情報を提供する機関のページで検索したが、本が出てこない」

「ついては、米国でしらべてくれないか。J.M.キャロルという著者名と、題名におそらくBloodという語が入っていそうであることが、手がかりだ」


友人は、調べてくれました。

返事は、「米国でも見つからない」でした。



(やはり、よくある変な宗教書なのかなあ・・・)


そう思ってやりすごそうとしました。

だがその一方で、なぜか、筆者の心には「この本はいったい何なのだ…」という思いが残りました。

次回には、この冊子本の原典を探る旅と、それにまつわる様々な出来事のお話しを始めます。




(Vol.27  衝撃本『血まみれの道』の謎   完)












コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Vol. 26 作家の描写力に助けられて〜『聖灰の暗号』〜

2016年05月09日 | キリスト教の正しい学び方








こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も進めて参りましょう。

今回は、歴史の実体をリアルに認識する方法について考えましょう。



+++


AD426年に「幼児洗礼法に従わないものは処刑」という法律ができて以来、自由吟味者は筆舌に尽くしがたい拷問と殺戮を受けてきました。

だがその文書資料は権力側の教理統一教団によって、あらかた強奪されれ、焚書されています。

残った資料は少なく、悲劇の状況を描いたイラスト風の絵も、記録情報としては幼稚で、リアルに現実を伝えきれていません。

筆者など、想像を巡らせて、「人間、自分が正しいことをしていると思って 、こんなことまでできるのか!」と驚愕の思いに駆られるのみです。





<作家の洞察力>


だが、時として、その障害を乗り越えさせてくれる人種がいます。

作家がそれで、彼らは人並み優れた人間洞察力をもっています。

調査力も卓越しています。

彼はその洞察力を働かせて自由闊達に資料を掘り出すのです。

そして、それをもとに事態をリアルに描くことができます。

そういう言葉の技量を持っているのです。

+++

その力を発揮して、近年、自由吟味者の状況を描き出した日本人がいます。

箒木(はばきぎ)蓬生(ほうせい)という小説家がその人です。

+++

氏は、カタリ派と呼ばれた自由吟味者たちの悲劇を、小説『聖灰の暗号』に描き発表しました(2007年)。

このグループの子孫の口伝を聞き、資料を掘り起こした。

そして、ミステリータッチのドキュメンタリー小説に仕立て上げました。

そこには、自由吟味者たちが逮捕され、拷問され、火刑にかけられる様が、生々しく描かれています。










<日本人歴史研究者を主人公にする>


小説は、カタリ派の歴史を研究テーマにする日本の歴史学者を主人公にしています。

須貝というその研究者の探求と発見の行動が縦糸になっている。

そして、それに様々な人物を横糸に絡めて物語を展開しています。

+++

教理統一教団は国教となって国家権力を得ました。

そして、自分が正統とする教理に従わない者を異端tとして逮捕します。

執拗な尋問(異端審問)、拷問、殺戮を実施します。

作者はそれを暴き出していきます。

+++

主人公、須貝は権力によって封印された歴史資料をひとつひとつ明かしていきます。

そして、抹殺、抹消された惨殺の歴史を暴露していきます。


作者、箒木氏は、文中で主人公須貝にこう語らせています。

「・・・カタリ派は、この地上から完全に抹殺された人たちですから。

まして司教管区の中心が置かれていたところでは、語ることさえタブーになったのではないでしょうか。

実際に生きた者の歴史というのは、そんなふうにして壁の中に塗り込められます。 

立派な壁画の上に漆喰を塗り、そこに全く別のフレスコ画を描くようなものです」


+++


資料探求する須貝には、暗殺の手ものびます。

犯人は当初姿を現しませんが、物語の展開の中で一人一人明らかになっていきます。

中には、予想もつかなかった主人公の知人も含まれていて、読者を驚かせます。

そういうミステリー要素を含めたドキュメンタリー小説に箒木氏は仕立て上げています。





<調査の契機>

鹿嶋は、作者がこの小説に取り組む契機のことを、読んだ記憶があります。

たしか新潮社の読者雑誌『波』ではなかったかと思いますが、どうだったか。

箒木氏の本業は、精神科の医師です。

普段は九州の病院で患者の治療に当たっておられます。

+++

氏は、その関係でフランスで開催された学会に出ました。

とあるホテルに滞在しました。

するとロビーで、ある青年が近づいてきて語りかけた。

「あなたは作家でもあると聞いた。ついては、自分が先祖代々伝えられてきている歴史を小説に書き残してくれないか」と。

彼はカタリ派(自由吟味グループの一つ)の子孫だといいます。

箒木氏は、 それを契機に、カタリ派の資料発掘に着手した。

たしか、そんなような話を読んだ記憶があります。


+++

<優れた歴史手がかり>

ともあれ箒木氏は、『聖灰の暗号』を書き、出版しました。

そこでカタリ派という自由吟味者集団の惨劇をリアルに描き出しました。

この本は、自由吟味派が被ったすさまじい惨劇を、読者が理解するには、比類無き手がかりになると思います。




<これは留意しておく>


ただし、留意しておくこともあります。

小説の中の説明書き部分をみるところでは、氏は、これを12〜13世紀にかけて起きた一大ホロコースト事件と認識しているようです。

だが、実際にはこの種のことは、欧州中世には、日常的に起き続けてきました。

1200年にわたって、広範にわたって起き続けてきた。

+++

筆者は後に、もう一つの文献資料をご紹介します。

その本の著者キャロル氏は、自由吟味活動を包括的に調べた研究者です。

かれはその著書の中で、推計5000万人ほどの人々が殺されてきた、と述べています。

箒木氏にはそうした包括的な視野はありません。

そうしたなかで、自由吟味者ホロコーストの一事例を、リアルに再現してくれているのが

『聖灰の暗号』なのです。




(Vol. 26 作家の描写力に助けられて    完)





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Vol.25  教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い

2016年04月27日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も進めて参りましょう。

キリスト教の最大にして根底的なテーマは福音です。

その福音への信仰内容は、人によって差があります。

ここで、教理統一派と聖句自由吟味派との福音信仰の違いを見ておこうと思います。

二つの教会のその面での違いを浮上させておくのは、歴史考察に有効だと思えるのです。






<福音とは>

福音とは、〜

「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」

〜という知らせです。

確認のために、その福音の神髄を述べた聖句を、示しておきましょう。

一つは、『ヨハネ伝』冒頭部分の聖句です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・この方〈イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
創造神の子供とされる特権を(イエスは)お与えになった」
  
(ヨハネによる福音書、1章12節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「霊にいのちエネルギーが充電されると、自動的に創造神の子になる」というのは、聖書の鉄則です。

だから、これは、福音を述べた聖句となるのです。

〜もう一つ、これも『ヨハネ伝』の中の聖句です。

こちらは最後の「締めくくり」というか「あとがき」のような位置にある聖句です。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「この書(ヨハネが書いている福音書)には書かれていないが、まだほかの多くのしるし(奇跡)をも、イエスは弟子たちの前で行われた。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが創造神の子キリスト(救い主)であることを、あなた方が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」

(ヨハネによる福音書、20章30〜31節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




『ヨハネ伝』は、イエス最愛の弟子、ヨハネが書いたイエスの伝記です。

ヨハネは、自分の「イエス伝」の冒頭と最後の締めくくりを、福音の神髄でサンドウィッチしているのです。







<「信じる」とは「肯定的に認識する」こと>


少し説明を加えましょう。

ここで「信じる」とは、前述しましたように、「肯定的に認識すること」です。

「イエスを信じる」というのは、「イエスを肯定的に認識する」ということになります。

そして、「肯定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心の内に受け入れ、保ちます。


+++

「信じない」というのは、「否定的に認識する」ということです。

「否定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心から閉め出します。

「イエスを信じない」というのは、「イエスのイメージを心から閉め出し、心に保たない」ということになります。




<どちらの教会員も、福音は信じている>

福音メッセージ(よき知らせ)は、イエスの口から出たものです。

このメッセージについては、教理統一教会の会員も、自由吟味教会の会員も共に信じて心の内に保っています。

それは人間個々人の幸福に、ずばり直接かかわるメッセージだからです。

教理統一教会では、教団本部からその解釈が正統教理として発せられ、信徒はそれを受け入れ、心中に保ちます。


+++

それはよくわかる話ですが、自由吟味派の教会員については、少し説明が要ります。

彼らは、全てのメッセージを聖句そのものに照らし合わせて、吟味します。

その際、福音メッセージもまた吟味します。

そのことから、彼らは吟味する前には信じていないだろうと想像をすることも出来ます。

だが、実際にはそうではありません。

福音は、自分の幸福にずばり直接関わっている基底メッセージです。

生きる人間にとって、これは、聖書の中の言葉(聖句)のなかでも、根底のものです。

自由吟味者も、やはりこれは、出発点から、まずは肯定的に認識して(信じて)かかります。

でないと、実際の話、他の関連聖句を力強く吟味していく意欲は起きないし、一時的にその気になったとしても持続しないのです。


+++

たしかに、聖書の中で真理を、自由吟味でもって探求していくのも、喜びのある活動です。

「知」の欲求が満たされるというのは、本当に楽しいことです。

それをスモールグループでもって助け合いながら進めていくのも楽しいことです。

その活動の中で得られる相互共感と友情も、 大きな喜びになります。


+++

けれども、自由吟味者はその活動を、殺戮される危険と常時背中合わせにありながら、やり続けたのです。

それには、福音への確信が大きくあずかっていたはずです。


たとえ肉体は殺されても、自分の霊は、活力を持って永遠に存続する。

福音を信じていることによって、「いのち」を得て永続する。

このことを確信することで、心にわき上がる勇気と開放感がもたらす力は大きかったはずです。





<吟味は確信を深める>


自由吟味者は、福音を肯定したうえで、その背景にある論理体系を吟味検討して見出していきます。

すると、彼らの福音信頼には「知性」が加わります。

信頼感覚に「知」の筋道が入る。

世に言う「理論武装」というのは、そういうことでしょうが、それを通して彼らの福音への認識は深まったでしょう。

それは、彼らが、殺戮される危険に常時おかれながらも、動じることなく自由吟味活動を続けられた大きな原因だったと思われます。





<聖句吟味の一事例>


ただし、彼らが抱く「知」の論理体系には、ひとりひとりに特有な個性的な部分が含められています。

個人の聖書解釈自由の原則の上で、各々が自ら納得できる聖句解釈を求めていくからそうなるのです。

そうしたなかで、筆者が考えてきた論理を、一例として示してみましょう。

これまで述べてきた知識を援用しながらやってみます。








  

(以下は理屈で、長くなります。ここからの、このハウスマークで囲まれた部分は、飛ばしてもいいです)






<肉体に霊が入っている>


福音の論理を理解するには、まず聖書の人間構造観を知ることが必要です。

聖書では、人間は「肉体に霊が入っている」という構造になっているという認識です。

肉体は、我々が肉眼で見ている身体です。

聖書では、その中に霊体ともいうべき、霊が入っているとする。

それが人間の意識の本体だという認識です。




<霊の意識は「潜在意識」に相当>


霊は意識体です。

それは肉体の中に入っている間は、その人の深いところの意識を形成します。

フロイトの深層心理学でいうと、潜在意識を形成しているといえるかもしれません。




<霊はいのちで充電されうる>


また、霊は「いのち」を吸収・蓄積できます。

聖書でいう「いのち」はエネルギーのような概念です。

このエネルギーは、まるで、電池に充電されるかのように、人の霊に吸収・充電され得ます。

これについては、霊を充電式乾電池のように、そして、「いのち」を電気エネルギーのように考えるとイメージしやすいでしょう。





<「いのち」は霊に喜びの意識を形成する>


いのちで充電された霊は、活力を持った「活霊」になります。

すると霊の意識は、メリハリのきいたハッキリしたものになる。

+++

また霊がその状態にある時、人は深い喜びに満たされます。

自らの霊にいのちというエネルギーが充電されると、その人の意識の深いところに、 深い喜びが形成されるのです。

+++

他方、この充電がなされてない霊は「死霊」です。

それは活力なく、意識は弱々しく、ボ〜としていて、鬱状態にあります。






<いのち充電されるには>

では、いのち充電されるにはどうしたらいいか。

その方法は簡単で、「イエスの名が、創造神の子で人間を救う方の名、だと信じること」これだけです。

福音とは、このことを知らせる「よき知らせ」というわけです。






<ソシュール「記号論」の発見>


次に、「名」についても考えておきます。

イエスの名を例にとりましょう。

「名」は、「イ・エ・ス」という音や文字による信号でできていますが、それだけでない。

それが持つ「意味」もセットとしてもっているものです。

意味とは、たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」といった事柄です。


+++


そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールです。

彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をもセットでもちあわせている実体」であることを、明らかにしました。

この認識論を、日本では記号論というのですが、彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされています。

彼はフランス人で、信号を「シニファン」といい、意味を「シニフィエ」と、フランス語でいっています。




<イエスとは「イエスの名」>


これを援用してイエスという名を考えましょう。

イエスの名も、音や文字によって示される信号だけでなっているのではない。

その信号に連なっている意味をも、潜在的にセットで持ち合わせている。

〜ということになります。


われわれは、イエスをその顔や姿や髪型や着物などで想像することが出来ます。

伝記に記された様々な事柄から色んなイメージを心に描くことが出来ます。

だが、それらは多様で「まとまり」をもちません。

他の人々と明確に区分する境界線をもちません。

だから、人は実際には、漠然としかその全体像がイメージできません。


+++

他方、イエスという名には、その全てが含まれているのです。

これには、イエスに関するエッセンスが、最も効率的に凝縮されているのです。

創造神のひとり子、人間を救う方、等々の意味もすべて凝集されている。

凝聚されて、「まとまり」をもっている。


そしてそのイメージは、「イ・エ・ス」という信号によって、他の人々と、明確に区分されています。


+++


だから、「イエスを肯定的に認識する」のも「イエスの名」を肯定的に認識するのが断然効率的だということとなります。

福音において「イエスの名を信じる」とされているのは、そういう認識構造上の理由があるのです。






<「名」もまた量子>



もう少し行きましょう。

こんどは、前述した量子力学(量子論)の知識を援用しますよ。


量子論は、陽子や中性子や電子や光子の実体は、量子という運動体であることを明かしました。


量子は波動の塊のようなイメージのものです。

それは運動体であり、波動を発しています。


+++

「名」(という記号)もまた量子でできています。

名はその「信号」によって、人の知覚に影響を与え続けています。

たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号を放射し続けています。


そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けています。


「名」はそういう力をもっている実体なのです。


また名は、その「意味」によって、受信者に意味をイメージさせます。

そういう精神エネルギーのかかる仕事を誘発する働きをも、し続けています。


〜このような力、エネルギーを「名」は放射しているのです。






<受け入れた心の中で効力を発揮>


すると、イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その効力を発揮し続けることになります。

言い換えれば、その名を信じると、それは、その人の中で量子的な力を放射し続けるのです。






<いのちは霊のエネルギー>


福音の言葉である「イエスの御名によっていのちを得る」の「いのち」についても、考えておきましょう。

前述したように聖書では、それは一種のエネルギーのような概念になっています。


+++


他方、イエスの名を肯定的に認識して受け入れると、その人の心を構成する霊は変化します。

その変化した霊に、 「いのちエネルギー」は、吸収・充電される、と考えたらどうでしょうか。


〜すると、上記の「イエスの御名によっていのちを得る」という聖句は、論理的に理解できてきます。


イエスを受け入れた霊は〜その霊は〜いのちを得て、活き活きした「活霊」になるというわけです。







<生まれたままの霊は「死霊」>


実はこの論理の背景には、聖書特有の前提思想があります。


人の霊にかんする思想です。


人はその霊が「いのちエネルギー」による充電が不全な状態で生まれてくる、という認識が聖書にはあるのです。


+++


人間は「オギャー」と生まれたとき、すでに、その霊が不完全充電状態にある、というのです。


その後、歳とっていく過程で、自然放電もあるでしょう。


だから人の霊は、自然なままでは、不完全充電状態にある、というのです。


+++


不完全充電の霊は、いうなれば「死霊」です。

これは前述の「活霊」というのに対比している用語です。


生まれたままでは、人の霊はみな死霊なのです。

福音の論理には、そういう認識が背景にあります。





<霊とコンピューター>


さらに進みましょう。


人間は肉体が生きている間は、「自分の霊が死霊である」という自覚がありません。

(霊があるという自覚もありません。 実はうっすらとは霊感で感じているのですが・・・)


この論理は、人の意識活動をコンピューターになぞらえてみると、理解しやすいです。

やってみましょう。






<生きてる間は霊は肉体と協働している>


肉体が生きている間は、霊は身体の中にあります。

そして脳神経系と協働して人の意識活動を形成しています。


+++


このときの霊と脳神経との関係が、コンピューターに対応させてイメージできるのです。

たとえば、こんな風にです〜。


霊はハードディスクです。

そこには意識情報が収納され・蓄積されています。

+++


脳神経系は、ランダムメモリーとモニターとキーボードのようです。


人間が思考活動をするとき、脳はまず霊(ハードディスク)から意識内容(データ)を、とりだします。

そしてそれを顕在意識領域(ランダムメモリー)に広げます。


次に、頭脳は、その意識内容をハッキリ認識できるようにします。

この作業が、モニターに映して映像化するのに、対応しています。



そして、人はモニターを見ながら、意志の力でその内容に操作を加えます。

これが、キーボードでの打ち込みに対応しています。


この作業が終わると、脳はその加工された情報内容を霊(ハードディスク)に収納するわけです。





<肉体と協働している間は、霊の自覚は困難>


このように、肉体の中にある間には、人の霊は脳神経系と協働していると考えられます。

そして、それなりに機能を果たしています。

脳神経系に動かされて、受け身で機能を果たしているわけです。


だが、脳神経系と協働している間は、人は自分の霊がほとんど自覚できません。

従って、自分の霊が、脳神経系に動かされているだけで、実は活力の欠けた死霊であることをも、よく自覚できません。




<肉体を抜け出ると死霊も自らを自覚>


けれども肉体を抜け出ると、霊は自分を自覚し始めます。


死霊は自分が死霊であることを自覚し始める。

自分に活力がないことを自覚する。

活力がないので、もうこれといった行動ができないことも自覚するのです。



そこでただ「ボ〜」として空中を漂っているしかありません。

この世の地表に「ぼ〜」として存続することもあるでしょう。

一般に「地縛霊」という名で感知されているのは、こういう霊なのかもしれません。





<活霊は元気状態なまま>


他方、イエスの名を心に受け入れた人の霊はどうか。


福音によれば、その霊は「いのち」を充電されています。

そして「活霊」になっています。


+++


こちらの霊には生命力があります。

それは肉体を抜け出ても、活力のある状態でいます。


ちなみに、聖書の思想では、この霊は、パラダイスというところにいくことになっています。

パラダイスはもともとは聖書用語ですが、その意味は聖書にも説明されておりません。


「活霊が天国に入るまでの間、休むところ」とも想像できますが、よくわかりません、


おそらく、天使に導かれていく、と推察されますが、直接そう書かれた聖句は聖書にはありません。






<生きていて信じるものは、死ぬことがない>


おまけです。


今述べたような神学論理は、イエスの次の言葉〜難解なこの言葉〜の意味も理解させてくれます。



・・・・・・・・・・・・・
「生きていてわたし(イエス)を信じるものは、死ぬことがありません」
(ヨハネによる福音書、11勝25節)
・・・・・・・・・・・・・



〜がそれです。


ここで、「生きていて」というのは「肉体が生きている間に」という意味です。

「死ぬことがない」は、霊が「自分が死んだ」と自覚することがない、と理解できます。


+++

これもまた、死霊を対比させるとその意味がハッキリしてきます。

前述のように人は肉体が生きている間は、自分の霊を自覚できません。

だが、肉体を離れ、脳神経系と協働できなくなると、その霊は自分を自覚できるようになる。


死霊の場合は、「自分がエネルギーの欠けた、死んだ状態である」ということを自覚します。

つまり、「死」を自覚するのです。

それが上記聖句での「死ぬこと」の意味になります。


+++


他方、肉体が生きている内にイエスの名を信じた人の霊は、すでにその時点で活霊になっています。

すると、肉体を抜け出ても、活霊のままということになります。


つまり、信じた人の霊は、もう、肉体を離れても、「生きている感覚のまま」なのです。

「自分は死んでいる」という自覚をすることがない。


+++


「たとえ死んでも生きる」は、そのように理解できます。




(ここまでは、当分、スキップしていいところです)

  















以上長々と論理の一例を述べてきました。


だが、福音の言葉それ自体は短いです。

「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」

〜という知らせ。

それだけですからね。


自由吟味活動者の場合は、それに、たとえば上記のような理屈をつなぎ合わせているわけです。

様々な聖句と照らし合わせて、それをしている。



これはまあ、外部の人から見ると、馬鹿な「理屈遊び」をしてるようにみえます。


だが、米国南部の自由吟味教会では、こうした議論を、毎週礼拝前に行っています。

数人毎のスモールグループに分かれて、その後の全体礼拝と同じ時間をかけて、やっています。






<幼子のように>


そしてここで、大切なことがあります。

それは〜

そういう論理体系がないと、福音の言葉の効力はなくなる、というようなことは、ない

〜ということです。


短い福音の言葉を抱くだけでいい。

いや、イエスの名を肯定的に認識するだけでもいい。

(そこに福音の神髄はすべて凝聚されているのだから)

それで、霊にいのちエネルギーが充電される効果は得られる〜といいう論理に聖書ではなっているのです。


+++


すると、この効果は、幼子にも発揮されることになります。

幼子には、短い福音の言葉の背景にある、聖書的、神学的な意味など理解することは出来ませんよね。

だが、それでいいというのです。


彼らが「神の子イエス様〜、救い主イエス様〜」と信じると、それだけで「いのちエネルギー」は彼らの霊の内に充電されていくことになる。


それが聖書の論理です。


+++


それだけではありません。


この幼子のような信頼が、最も霊に「いのち}充電を受けやすいという論理も聖書にはあります。

イエスの次の言葉はそれを示唆しています。




・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して神の国に入ることは出来ません」

  (ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・





詳しい説明は省きますが、ここで「神の国(店の創造主王国)に入る」というのは、霊が充電されたことに伴って自動的に起きる、将来の出来事です。


+++

だったら、福音(よき知らせ)の効力は教理統一教会の信徒にも実現するのではないか?

そのとおりです。

福音(よきメッセージ)は、教理統一教会でも効力を発揮するのです。






<究極的には五十歩百歩>


これにはおそらく、次のような真理が込められているでしょう〜。


そもそも、吟味・検討を深めていくからといって、人間が福音の奥義を極めつくすような事態は起きません。

人間の、認識力には限界があるのです。


だから、創造神の目からすれば、聖句吟味者の信頼は、つまるところは、「幼子の信頼」と五十歩百歩なのです。


そこでさきほどの〜


・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ・・・・」

  (ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・


〜となるわけです。


(ここで信仰者の読者の方のために、讃美歌を一曲入れておきますね)








<自由吟味者の利点>


では、自由吟味者の活動は、全く無駄なのか?

そうでもなさそうです。

各々が自由吟味をして自分の神学論理体系を抱くことには、次のような利益はあるでしょう〜。


 (_擦悗凌頼感が深くなる。

◆ヽ杏者の攻撃に対する、精神力が強くなる。

 人に福音を教える力が豊かになる。

ぁ‘瓜屬隆屬任痢▲灰潺絅縫院璽轡腑麥呂高くなる。


〜こんなところでしょうか。


今回はこれまでにしておきましょう。





(Vol.25  教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い    完)









コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Vol.24  幼児洗礼法で自由吟味者を攻撃する

2016年04月18日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

今回は、教理統一教団が聖句自由吟味者に、すさまじい攻撃を加え始めた様を示します。

それについて、読者に前もってお願いしておきたいことがあります。




<正典聖書の編集は大きな功績>

筆者の歴史記述から、「鹿嶋は教理統一派への敵意を抱いている」という先入観をもたないようにしていただきたいのです。

この教派は、自由吟味派の活動に対して貢献もしています。

たとえば正統聖書の編集がそれです。


筆者はそれを認めています。

歴史は単純ではないのです。




+++

旧約聖書には紀元前にすでに大々的な編集作業が加えられました。

だが、新約聖書の編集はキリスト教界に求められた大課題でした。

まず、イエスに関して書かれた伝記が複数あります。

その教えを解説した数多くの手紙があります。

ヨハネという愛弟子に延々と見せられた、幻の記録もあります。


+++

それらはみな手写しで写本され、用いられていました。

残っていたのはみな写本でした。

手書きの写本には、中身の文章にばらつきがあります。


それらの文書から、信頼すべきものを選び出して編集するというのは、大仕事なのです。


+++


教理統一教団は、国教になると、それを成し遂げました。

彼等は、最終吟味を繰り返し、最終決定をするために、公会議を開催しました。

公会議は全欧州の司教が一堂に会しておこなう大がかりな会議です。

こうした活動は、教理統一教団でなければ、できません。



この教団には、強大な資金力がありました。

聖職に専業するプロが形成する人的資源もありました。

そして彼らを一体として動かせる組織力もあった。

ピラミッド型の管理組織がそれでした。

+++

教団は、395年に正典聖書を完成しました。

正典からもれたものも「外典」としてまとめて遺しました。

自由吟味者の聖句探究活動も、この聖書の存在によって大いに助けられていったはずです。





<歴史は単純ではない>


歴史は単純ではないのです。

確かに教理統一者は、自由吟味者を悲惨な目にあわせてきました。

だが、よくみると、その原因の大半は、相手を理解できないことにありそうです。

+++

個々人に聖句の自由吟味を許しても、教会員の聖句解釈がばらばらにならない、ということを教理統一活動者たち理解できませんでした。

そんな方式の集団からは、無政府主義者がどんどん埋まれてしまうとしか、考えることができなかった。

無理もない。

自由吟味活動を経験したことのない、一般の人間の知性はそんなものです。

筆者はそれらも含めて事実としてとらえ、できうる限り客観的に歴史を記述していこうと思っています。






<惨劇の開始>

さて本題に入ります。

キリスト教の教理統一派は、国家権力を背景にして、全欧州のキリスト教活動の統一に向かいました。

自らの教会が正統とする教理を全人民が受容し、教会のポリシーに従ってくれることを期待したのです。

だが、これに自由吟味原則で活動する人々は従いませんでした。

両者は根底において対極的だったので、これはもうどうしょうもありませんでした。





<正統教理があったら自由吟味活動は成り立たない>

教理統一教団は、教会本部でプロが作成した教団教理を唯一正統なものとします。

他方、聖句自由吟味者はそういう教理を認めないことに活動の基盤を置いています。

一つの解釈(教理)を正統としたら、もう個々人が聖書を吟味することなど無意味になってしまう。

自由吟味活動が成り立たなくなるのです。





<幼児洗礼法を制定する>

だが、国教会は自己の教理一色に全人民を染め上げようとせずにはおられませんでした。

彼らには国家権力があります。

法律を作成し、施行する権力もあります。

AD400年代に入ると、彼等は幼児洗礼法を公布しました(416年)。

+++

幼児洗礼とは「子供が生まれたらすぐに洗礼をほどこす」行為です。

洗礼とはバプテスマの邦訳語です。

聖書では、「イエスの名が救い主の名であると信じた者を、水に沈めて浮かび上がらせる行為」となります。

これは浸礼といわれることもあります。

+++

国教会となった教理統一教団は、この儀式を国内のすべての新生児にさずけることを、法律でもって人民に義務づけたのです。

彼らは、赤子用に、滴礼(てきれい)という略式の洗礼でもって、これを実施させようとした。

滴礼とは、額に水を垂らす方式でおこなう洗礼です。




<違反者は処刑とする>


だが自由吟味者たちはこれにも従いませんでした。

「生まれたての赤ん坊が、どうやって、イエスを救い主と信じるんだよ!」となりますからね。

だが教理統一教団はそこで引き下がることはありませんでした。

10年後の426年、今度は「幼児洗礼を行わない親は処刑する」との法令を追加しました。




<殺戮の歴史が始まる>

ついに、凄惨な血の歴史が始まりました。

教理統一教団は国家の軍隊を用いて自由吟味活動者の居住地を襲いました。

彼らを逮捕し、殺していきました。

自由吟味者は、ピレネーやアルプスの山々の谷間に、あるいはスイスの僻地にのがれて活動を続けました。

軍隊はそれを探索・発見してまたとらえ、殺すを繰り返しました。

これが1200年の長きにわたって延々と続きました。




<北欧地域にも多数が逃れたはず>

ところで、自由吟味者の避難地について、筆者には、もう一つの直感認識があります。

個人的ですが、確信を持っています。

+++

自由吟味者は、今でいう北欧地域にも多く逃れたと思うのです。

今の国家でいうと、デンマーク、スウェ〜デン,ノルウェー、フィンランドなどの地域ですね。

筆者はこの地を旅して住民との直接会話を試みました。

機会の許す限り、交わりもしました。

そして、この地が教理統一教団の攻撃を逃れた聖句自由吟味者の地となったことを、感触しました。

旧き絵画などにもその痕跡がありました。




<当時は極寒の遠隔地だった>


当時としてはこの地は、教理統一教団の本拠地、イタリー、フランス、スペインからは、非常な遠隔地でした。

中世当時には、はるかなる異郷の地、地の果てだったといってもいいでしょう。

おまけに、この地の冬の底冷えは尋常ではありません。

日本人がクルマで自由旅行をし、所々で下車して市民と交わるには、三月の下旬だって、背中にホカロン張らないと辛いですよ。

+++

また、この地は北の海に面しています。

この地の先住民には海賊の伝統があります。

自由吟味者たちは、万一攻められたとしても、その技術の助けを得て海に逃れることができたでしょう。

そんなわけで、国教側の軍隊も、この地までは侵攻しなかった。

そうに違いないと筆者は確信しています。




<学校教育の手法もそれを示唆>

また、現代のこの地の学校教育法もそれを示唆しています。

ここでの方式は聖句自由吟味方式の形態そのものなのです。

+++

教科書などにある既成知識を生徒の吟味対象とする。

スモールグループを形成させて、そこに投げ込む。

メンバーはそれについて話し合う。

吟味をしている内に、知識は生徒の心の内で活きたものとなる。

+++

北欧諸国の学校生徒の知力が卓越して高いことは、いまや他国にもよく知られています。

世界から多くの参観者が来訪しています。

この知的成果も聖句自由吟味方式の援用で産み出されるものなのです。




<実証資料は価値あるものだが>

筆者はこの地が、自由吟味者の「逃れの街」だったと確信しています。

残念ながら、それらを示す「正式の」、いわゆる歴史資料を筆者はまだ見つけておりません。

殺戮の惨劇を示す「公式の」文書資料ももちあわせておりません。

けれども考えてみれば、それはなくてもいいのです。

国教会の軍隊はここまでは侵攻してこなかった(と推定できる)のですから。

侵攻がなければ攻撃もなく、攻撃がなければ、殺戮も、その記録もないのが当然なのですから。

+++

そもそも、聖句自由吟味者たちがこの地に逃れてきたという記録もありません。

そんな痕跡を残すような逃げ方を彼らはしないのです。

(これは、後年の自由吟味者についてもおなじです。

欧州大陸から英国に移住する際にもそうです。

また、英国からアメリカ大陸に移住する際にも、彼らは少人数に分かれて、目立たないように移住しているのです)




<実証「主義」は知性の堕落を生む>

そんなわけで、いわゆる公式の歴史資料など残るはずがなく、筆者の手元にもありません。

けれども、かといって、直感的実感を積み重ねてできてきた筆者の推察を、筆者はここで隠すわけにはいきません。

実証資料を軽視しているのではありません。

それは歴史認識には貴重なものです。

資料による実証は、大切なのです。

けれども、実証「主義」というのは、筆者にはいただけません。

それは歴史研究者の想像力を殺ぎ、彼らの思考を幼稚にしてしまうからです。


今回は、ここまでにしておきましょう。


(Vol.24  幼児洗礼法で自由吟味者を攻撃する  完)













コメント
この記事をはてなブックマークに追加