鹿嶋春平太チャーチ

解釈自由原則で聖句を吟味している教会です。YouTube「ヨハネ伝解読」の動画とあわせご覧ください。

随想15. モーセもヨハネもペアー量子体の認識だった?

2017年01月14日 | 随想
 
 
 
量子物理学は、目を見張るような物理世界を我々に見せてくれます。
 
前回は、双子の量子、ペア量子の存在という思想を援用して、人間にもペア量子(群)が存在すると考えてみました。
 
その思想を天国の鍵を与えられたペテロの話に当てはめた。
 
そのペテロを、地上のペテロのペア量子とすると、視覚的解読・理解がすっきりすることをみました。
 
鹿嶋はその理解からの方が、個人的には濃いリアリティを感じます。
 
 
 
 
 
<幻を見せられているモーセ>
 
この思想は、他の聖句理解にも援用できそうです。
 
たとえば、『創世記』冒頭を、モーセは天地創造の幻を見せられて記録しています。
 
このときの記録も、そのペア量子体が空中にあげられての認識だったのではと考えることが出来ます。
 
+++
 
あげられた場所は、天国とまでは行かなかったかもしれませんが、宇宙の中のある一点だったと考えられる。
 
その方が、地上のモーセが幻を見せられているとイメージするよりも、鹿嶋は高いリアリティを感じることができます。
 
 
 
<「黙示録」のヨハネ>
 
こんどは聖書最後の書物『黙示録』にいきましょう。
 
この幻を見ていたヨハネも、彼のペアー量子だったと考えた方が鹿嶋にはリアルです。
 
ヨハネのペアー量子体の場合は、天の創造神王国にまで引き上げられていたのではないか。
 
 
 
ヨハネは「天のエルサレム」を見て、その様を記述していますからね。
 
こちらの理解はかなり確実性が高いではないでしょうか。
 
 
 
 
<4千人分の食物を出現させた事象も>
 
ペアー量子にまで行くまえの基礎理論も援用できます。
 
 +++
 
量子が「波動を基盤とし、凝集すると粒子(物質)の様相を示す」とする思想、・・・・これからも、聖書の不思議が理論づけられる格好の事例があります。
 
イエスはあるとき、「少量のパンと魚を、4000人分にして。食べさせています。
          (マルコによる福音書、8章1~9節)
 
これなど、次のように解読できます~。
 
波動としての量子は、目に見えないだけで、もともと空中に充ち満ちています。
 
それを、パンや魚という物質を構成する粒子にイエスは凝集させた、と解します。
 
波動は見えませんので、人々にはパンや魚が直接出現したようにみえた。
 
~そういう物理学的な理解が可能になります。
 
 
 
 
ちなみにこのとき、イエスは4000人の人々をグループに分けて草の上に座らせるように弟子たちに命じています。
 
そして、その人々に弟子たちが与えている。
 
この時の情景は、イエスだけでなく、弟子たちの手元からも直接、パンや魚が出現している~というものでしょう。
 
弟子たちが、いちいちイエスのところに戻ってパンと魚をもらって、担当グループとの間を往復した、というのは不自然ですからね。
 
つまり、弟子たちの手元というポイントでも、波動の物質化が起きていたと、想像できるのですね。
 
 
 
 
 
 
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随想14. ペア量子とペテロに授与した大権威

2017年01月04日 | 随想





みなさん、2017年が平和の内にあけて、おめでとうございます。

新年の最初の記事でもありますので、本日は、量子物理学の知識を取り入れた、大量の情報をおとどけします。

+++


量子論は、量子(根底は波動である素粒子)には、双子のように対をなす量子を造ることが出来ることも明かしています。

これなど、ホントに空想科学物語(サイエンスフィクション)のような話ですけど、量子という物質においては、実際に起きることが実証されています。







たとえば、光子という素粒子に「対の(ペアーの)」光子を造ることができるという。

そして、各々を別の島などの非常に離れたところに置きます。

そうしておいて一方を認識する。


+++

すると、認識された光子は、認識の波動を受けて変質しますがそれだけではない。

遠く離れた島に置いたもう一つの対の光子をみると、それもまた対応するかのように変化していた、というのです。

対をなす量子のこのような状況を「この二つは“量子もつれ”の関係にある」と量子論ではいっています。


「もつれ」の英語は、「エンタングルメント」です。

要するに、繋がりあい、絡み合っているのですね。




<ペテロよ、君に天国の鍵を与える>


量子のこの性質は、イエスが弟子ペテロに投げかけた次の言葉を、鹿嶋に始めて物理学的に理解させてくれました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしはあなたに天の御国のかぎを与えます。
何でもあなたが地上でつなぐならそれは天においてもつながれています。
あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」

(マタイによる福音書、16章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




これは「(あなたは)生ける神の御子キリストです」といった
ペテロの言葉を聞いてイエスが投げかけた言葉です。

鹿嶋には長い間この聖句の意味が漠然とわからないままできました。

しかし、量子物理学がペアー量子の存在を明かしたことを知って、ついに理解できるようになりました。




<罪を許す権威の鍵>

ここで天国の鍵とは、天国に人間を入れることが出来る権威をいっていて、それすなわち「罪を許す権威」です。

罪が許されないと、天国には入れませんからね。

 

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/02/f2c35e7bfdbd8e4ed47c923cbab04

38d.jpg

(クリックすると拡大します)

 

+++


それはペテロのペアー量子についても同じです。

イエスはペテロのペアー量子(群)を、創造神の権威でもってこの時点で「罪なき者」としたのです。

そういう権威を創造神の子は持っているのです。

これはイエスが「わたしは安息日の主だ」といった状況と同じです。

「安息日を守れ」という律法以上の権威を、それを制定した創造神(の子)は持っている、とイエスはそこでいっているのです。

+++

が、とにかくそうやってペテロのペアー量子を、天の創造神王国(天国)におられるようにイエスはしました。

(もう一方は、地上にいます)


~量子物理学のおかげで、上記の聖句をこのように解読できるようになりました。





<天国が地上世界に君臨するという世界風景>

この聖句はまた、聖書の持つ世界風景をも、図らずも示唆してくれています。

それは~、

天の創造主王国(天国)が地上世界の絶対的上位にあって、

一見不思議なしるしや力は、その権威によってごくごく当然なこととして現れている、

~という基本構図です。


天(霊界)のことがらは、物質界である地上のものより上位の権威を持っているのです。

だから、天国のペテロ量子が許すものは、地上でもごく自然に許されることになるのです。




この聖句では、イエスは、この上位、下位の関係までは述べていません。

一度に沢山のことを言うと弟子たちはわからなくなるから、でしょう。

それ故か、両者の対応関係だけを、示している。

だが、実際には「(上位である)天国で権威を受けるのが先」というのが聖書の鉄則であります。




イエスがここで、地上のペテロ量子を先に口に出している理由も、同じでしょう。

わかりやすくするためです。

実際には「まず天のペテロ量子がゆるし、その権威が地上に降りてきて地上のペテロ量子が許し」ます。

すると「地上でペテロに対面している人間も、許され」ます。

これが地上でしるしと不思議があらわれる、つまり、力が働く仕組みなのです。

+++

けれども、この時点で弟子たちにわかりやすくするために、イエスは地上のものを先に口に出しているのでしょう。




<アクセプトすればみなペテロと同種の権威をもてる>

量子物理学を用いた「ペテロの天国の鍵」の聖句解読は、さらに意味深い解読をもたらしてくれます。

量子物理学によって我々は、誰にもペアー量子(群)があるとの確証を与えられますよね。

ならば、もしもその一方を「天の創造神王国」にもっていかれたら、どうなるでしょうか。

誰でもペテロと同じ権威を持てるのが道理となるでしょう。


+++

もちろんそれには、そのペアー粒子の罪が許されてなければなりません。

だが、それはイエスの十字架死でもって、相殺されます。

そして、イエスはまもなく、その死を成し遂げます。

+++

するとそれ以後は、ペテロでなくとも、イエスのその技をアクセプトする(信じる)ものには、その相殺は実現することになる!

そして、そのペア量子は天国に上って、創造神の子として、創造神と一体化して、ペテロと同じ権威をもって地上の被造物に臨めるようになるのです!








<アクセプトする誰もが罪を許せば、その人の罪は許される>


そのことが、復活して弟子の前に現れたイエスの次の言葉で示されています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなた方が誰かの罪を許すなら、その人の罪は許され、
誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」

(ヨハネによる福音書、20章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・



わあ~っ、すごいなぁ~。


このとき、イエスはすでに十字架死という御わざを終えています。

だから、罪を許す権威が天のペアー量子に与えられるのは、もうペテロだけではない。

イエスをアクセプトする全ての人に対して与えられることになる。

これが筋の通ったことになるのです。

(凄い論理ですね。ちなみにこれは「マルコ伝」の最終、16章15~18節の夢のような聖句にも繋がっています。
これなど、量子論の知識が無かったら、面食らうしかない聖句です)




この論理はあまりにすごく、我々にとってあまりに喜ばしいです。

だから、ここはもう少し詳細にみておきましょう。





<記録は残ってるよ・・・>


たとえば、こんなこともおきえます。

知恵の極みである悪魔はここで「罪の記憶」を使って妨害してくるようなことが~。

「罪は相殺されたかもしれないが、あなたの、その罪の記録は残っているよ」

「だから、ほら、記憶に浮かんでくるでしょう」・・・とささやくわけです。

これに誘導されると、罪の意識は残っていきます。

すると自分のペアー量子を、天国の父なる創造神の前に持って行くことが、怖くて出来なくなります。





<一見謙虚だが実は御わざへの「冒涜」>


その姿勢は一見、謙虚なようにも見えます。

だが実はそれは、イエスの十字架死の功労を不完全にしか信じていない状況になるのです。

つまり、完全にアクセプタンスしていない、状況だ。

それはイエスの功労への冒涜になってしまっています。

だが、人はそうなりがちなのです。




<血潮の洗浄力>


ここで、イエスが十字架死するときに流した血潮が効いてきます。

この血潮(いのちエネルギーの液状体)は、この記録、記憶を洗い流すことが出来るのです。

そこで、まず、イマジネーション(イメージ、思い)の中で、ペアー量子にイエスの血潮(の波動)をシャワーのように浴びせます。

そして、記録も記憶も洗い流し、思いの中でも「全きもの」とされて、天の王国に入り、父なる創造神の懐に入ります。

一体化し、親密な親子関係をもちます。

その天の権威をもって地上の被造界に臨みます。

すると地上のペア量子にも、天の力が現れることになるわけです。


+++

また、このようにして「天」の力を現す具体的な方法は大きく言って二つあります。

「ヨハネによる福音書」で著者ヨハネは、それに関するイエスの言葉を記録しています。




<父には求めて賜り物をもらえ>

一つは「父なる創造神から賜り物(プレゼント)を受ける方法」です。

(それには、肉体組織の新創造プレゼント~脳、心臓、肺、肝臓、腎臓などの臓器や関節などの~も含まれています)



・・・・・・・・・・・・
「諸君が父(父なる創造神)に求めることは何でも、父は私の名によってそれを諸君にお与えになります」
(ヨハネによる福音書、16章23節)
・・・・・・・・・・・・




~が、その聖句です。



<御子イエスには、被造物に命じて働いてもらう>

もう一つは、「御子イエスに働いてもらう方法」です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは、諸君が私の名によって求めることは何でもそれをしましょう」
   (ヨハネによる福音書、14章13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




この「求める」(英語は通常 ask となっている)は原典のギリシャ語ではむしろ「命ずる」(英語ではcommand)のニュアンスが強いそうです。

それは文脈としてもそうなるべきであって、「イエスの名で求めるものを賜る方法」は、上記の「父に求めることによって」実現することになっています。

なのにそれを「イエスにも求めてしてもらう」というのでは、賜り物を受ける方法に重なったところが生じてしまいます。

すると同じ賜り物でも、父に求めるべきか、御子イエスに求めるべきか、弟子たちはどっちをどうしたらいいかわからなくなってしまうででょう。


+++

ここは、「イエスの名で弟子たちが(被造物に)命じる(悪霊よ去れ、とか、足萎えよ歩け、とかのように)ものは、何でも「イエスが弟子になり代わって」それをする、とむしろ解すべきでしょう。

つまり、もう一つの方法は、イエスの名で「命じる」ことなのです。


「イエス様お願い・・・」などと言ってなくていい。

ただ、(イエスの名で)命ぜよ、と御子イエスは言っている、と解します。

実際、「使徒行伝」にも、弟子たちがいきなり「イエスの名で命じたこと」が数多く記録されています。

+++

ややこしいですね。

でも、詳細に見ると、もうひとつややこしいことがあります。

「ヨハネ伝」でヨハネは、ここでイエスは上記の言葉に続いて、

・・・・・・・・・・・・・


「諸君が私の名によって何かを私に求めるなら、わたしはそれをしましょう」

(ヨハネによる福音書、14章13節)

・・・・・・・・・・・・・


~というイエスの言葉も追加記しています。

これを見ると「・・・なーんだ。父に求めるのと同じようなことではないか・・・」と思えてきます。

この追加記録は、解読を紛らわしくします。

+++

だがここはこう解したらいいでしょう~。

「イエスの名で命じて,イエスに働いてもらう」というのは、広い意味では、「イエスに求めて」してもらう(結果を出してもらう)、ことに含めることが出来ます。

だからイエスは、最後にザックリとそういう広い意味で言い換えたのでしょう。

まずは弟子が、概略をわかるためにそうしたのでしょう。





<御名の栄誉に割り込まない>


いろいろ細部に入って、紛らわしかったですね。


要するに、賜り物は「父に」お願いし、被造物に命じることは「イエスに」してもらう。

~この二つの方法が、上記の二つの聖句に明示されている、ことになります。

+++

ただしここで留意しておきましょう。

どちらも、(父かイエスに)「してもらう」べきとなっていること、がそれです。

つまり~、

人間はそのためにパーフォーマンス(端的に言えば「奮闘努力」)をする必要は全くないのです。

「イエスの名を公言して」して、やってもらうのですから、その名の栄誉のために、ただ「してもらう」のが正解なのです。

自分も奮闘してしまうのは、創造神の栄誉を一部横取りすることになりますからね。

+++


イエスの言葉を深く感謝してアクセプトしているだけで、自らは克己勉励しない。

これが、しるしと不思議を現す奥義だと聖書は解せます。





<吟味事項は残るが>



いや~、新年最初の回では、沢山のことを書きました。

細微にわたったとことも多く、複雑で、ややこしかったでしょう。

だが、読み返してください。

だんだん、すっきりわかるところが増えてきます。

+++

とはいえ、ややこしいことがらはまだあります。

実はこのテーマには、他にも吟味すべきことが含まれています。

たとえば、ヨハネ伝、3:13に~、



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「誰も天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。 すなわち人の子です」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




~というイエスの言葉があります。

これと、ペテロのペアー量子が天で鍵を行使している、ということとはどういう関係にあるか。

これも吟味すべき一つです。


+++

こう考えるのも一案でしょう。

すなわち、この時点はまだニコデモと話している時点である。

つまり、ペテロのペアー量子に「天国の鍵を与える」と語っている時点よりまえである、~と。


これも一つの解読になるかも知れませんが、鹿嶋にはもう少し考えていいことのような気もします。


+++

「イエスの名」は御子だけの名であるのか、あるいは、父の名でもあるのか、というのも一つです。

さらに「イエスの名とはいかなる内容を持っているか」も吟味すべきことです。


+++

まだあります。

「イエスの名によって」と邦訳されている英語は、in the name of Jesus です。

直訳すれば「イエスの名の中で」です。

これは当面、日本では「イエスの名によって」とか「イエスの名で」などと訳されています。

+++

だがこれは英語の意味からずれていますよね。

おそらく英語で言っていることの意味がよくわからないからでしょう、

この意味もまた、吟味すべき課題です。

+++

これらはみな、吟味随想したいところですが、今回は、触れないで終えましょう。




(随想14. ペア量子とペテロに授与した大権威   完)







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随想13.量子論の出現で、聖句の物理学的理解が飛躍

2016年12月30日 | 随想





物理学における量子論(量子物理学、量子力学ともいう)の出現はかなり革命的な出来事なようです。

従来のニュートン物理学はもちろん、

相対性理論のアインシュタイン物理学さえも、古典物理学に含めらることが多くなっていて、

いまや現代物理学は量子論だけ、という状況のようです。





<物質の根源は波動か>

量子論は、全ての物質の根源は波動(というエネルギー)だと明かしました。

それまで、物質を構成する究極要素は粒子というツブツブのものだとみられてきました。

原子、それを構成する、陽子、中性子、電子がそれです。

さらにそれはクオークというもう一段と微小な粒子で構成されているとされてきました。



+++

ところが量子物理学は、それらをまとめて素粒子といい、

その根源要素は波動であることを見出したのです。


ちなみに、このあたりをより詳細に言うと「粒子でもあり波動でもある」ことを明かした~となります。


実際、光子などは、粒子の現象と波動の現象との両方を現すことが、実験で確かめられています。




<根底は波動と解する>


だがそう聞くと、我々の良識は「どちらがより根底的か」という疑問を自然に抱きます。

鹿嶋のイメージでは、波動の方が根底的です。

粒子は波動の凝集体というイメージになります。

なぜなら、波動も凝集すると、一つのツブツブのような様相を示すだろうし、粒子の感触を与えるとも理解できるからです。


<意識も物質もともに波動で出来ている>


量子論では、どちらが根底的かまでいう必要がなく、そのままにしているようですが、鹿嶋は敢えて、波動と解します。

そうすると、聖書の記述には物理学的理解が可能になるところが突然増えてきます。

まず、人の意識と物質とが同一盤上に並んでくれます。


意識活動が波動であることは前からわかっていました。

だが、その波動が物質の根底のものでもあるとなれば、意識(波動)が物質化したり、物質に直接影響を与えるというのはごく自然なこととなるのです。


+++


たとえば、世上「思いは現実化する」とか、「イメージは現実化する」といいますよね。

こういう言葉が、コンサルタント諸氏のご高説による不思議現象でなくなります。

神秘面が少なくなるのですね。



なぜなら、ここで「現実化」とは「物質化」をいっています。

「思い」は波動であり、波動がその一形態である物質の様相を現すのは、物理的に起きうる自然なこととなるのです。





<アインシュタインの大発見>

相対性理論の創始者、アインシュタインは「エネルギーと物質とは相互変換関係にある」ことを明かしました。

彼は、「物質はエネルギーの一形態である」ともいったそうです。


だがこれもまた、素粒子の根底が波動である、ということからしたら、ごくごく当たり前のこととなるでしょう。

だって、エネルギーは波動なんですから。

その波動がたまたま凝縮して粒子(いわゆる物質)になったり、その凝集が解けて波動そのものになったりするのは、なにも不思議でないのですから。




<アインシュタインは死ぬまで量子論に反対していった>

余談ですが、そのアインシュタインは生涯、量子論に反対し続けたそうです。

+++

彼と論争した量子論の旗手ボーアは、次のような所論を展開しました~。


たとえば物質を波動ととらえると、粒子がもたらすような明確な結果を予想することは出来なくなります。

波動は互いに干渉し合いますから、動きの結果に漠然としたものが含まれてきます。

さらに、それを認識するとき、認識者は波動を出しますから、これがまた観測結果のあり方に影響します。

~だからボーアは、物質(量子)の動きは、確率でしか予測できない、といいました。




アインシュタインはこれに噛みついた。

「確率でしか認識できないなんて、神はそんなサイコロを振って決めるしかないように世界を造ってはいない!」


彼はエネルギーと物質との相互変換における量的関係も、簡明な数式で示しました。

E = M X C2 (Eはエネルギー。Mは物質の質量。 Cは光の速度。 2はCにかかる2乗の2)がそれです。

このように明確に示せるように世界は出来ていると,彼は信じ切っていたのです。


+++

だが、彼の死後、量子論の理論に実証されたものが出てきました。

量子論は、現代物理学となりました。

やはり人間はみな「時代の子」なのでしょうか。

アインシュタインのような天才でも、それを超えることは出来なかった、ということなのでしょうか。


  

<イエスの言葉は霊であり、また、いのち>

話を戻します。

量子論でもって物理的に理解しやすくなる聖句を一つあげてみます。

「わたしが諸君に話したことば霊であり、またいのちです」
    (ヨハネによる福音書、6章63節)

愛弟子のヨハネが記録した、イエスの言葉です。

これは理性的に解するには、なかなか難しい教えですね。

だか、波動論ではこうなります。


+++

言葉は意識波動の凝集体であり、霊もまた、見えない意識体であり波動体です。

どちらも波動であり、エネルギーです。


さらに、創造神から放射される波動エネルギーは、物資を循環運動させる力を持った「命エネルギー」です。

聖書ではこれを短く、いのち、と言っています。

だから「イエスの言葉は霊であり、また、いのち」となるのです。

このようにして、このイエスの言葉は、物理学的に理解できてきます。




<イエスの言葉を吟味瞑想していると>


余談です。

イエスの言葉は、聖書には沢山記されています。

これらがみなそういうエネルギー体であるならば、それを吟味し、抱き、瞑想していると、ある時驚異の力を現すはずです。

そういう論理になります。

(それ故でしょうか、米国の聖書には、イエスの言葉だけが赤字で印刷されているものがあります)

今回はここまでにしておきましょう。

量子論による聖句解読の話は、もう少し続けましょう。


 (随想13.量子論の出現で、聖句の物理学的理解が飛躍 ・・・ 完)







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随想12.イエスの血は「いのちエネルギー」の液状体?

2016年12月26日 | 随想






随想8で、鹿嶋は人間の血を考えました。

それは「いのちエネルギー」を霊から受け取り、身体の諸器官に循環運動をもたらす機能を持つ、と考えました。


こんどは「イエスの血」を考えましょう。
 
難しそうだけどね。

---


 「人の子」となって現れたイエスの身体には、人間のように血が流れています。

だが、この血は人間の血とは異なるものという論理が、聖書から読み解けます。





<ロゴス(言葉)が人となった>


まず、イエスの身体全体がどういうものかを考えましょう。

それについてはヨハネ伝の1章が述べています。

イエスは言葉(原文のギリシャ語、ロゴスを当面「言葉」としておきます)が人となった存在だという。

すると、イエスの身体も言葉から出来ていることになります。

「言葉は人となって我々の間に住まわれた」というヨハネ伝の聖句(1章14節)はそれを述べています。





<人間の体は土の塵から造られた>

他方、人間の身体がどうか、は「創世記」(2章7節)に記されています。

アダムの身体が「土の塵によって創られた」と記されている。

(そこに「いのちの霊」をふき入れられたのが、アダムということになっています)

その人間の身体に、血が流れているわけです。

鹿嶋は随想8で、その血が「いのちエネルギー」を含み、身体を循環して諸器官に「いのち」を配布している、と仮説したのでした。

その「いのち」が諸器官に循環運動をさせている、と解したのでした。

---

ところがイエスの身体は、塵でなく、創造神のことば(ロゴス)から出来ています。

「私の言葉は霊であり、またいのちです」というイエスの言葉が示すように、創造神の言葉は、霊です。

イエスの身体は霊なのです。


+++

余談ですが、ですからイエスが復活するときには、その身体がそのまま復活します。

それ故、弟子たちは、復活したイエスにあったとき、その手の釘あとの穴や、脇腹の槍の刺し傷を見ることになります。

 
他方、人間の身体は土ですから、死んだら崩壊消滅してしまいます。

復活するときには、人間の場合は、その霊が身体になるのです。







<霊が霊に対応する>


話を戻します。

イエスの身体は霊ですから、それは人間の霊に対応し得ます。

そこでイエスの身体の死は、霊の死となり、それは人間の霊の死の代償になり得ます。

これがイエスが十字架刑死して、人間の霊の死を代償するという構図を形成します。





<いのちの液状体>

さて、そういうイエスの身体を流れている血も、人間とは違うはずです。

これについて鹿嶋はまた大胆な仮説を立てましょう。

「イエスの血はいのちエネルギーそのものが液体化したもの」というのがそれです。





<イエスの血の効能>

さあ、そうすると、様々な推論が可能になります。


第一にイエスの血は、罪を相殺してしまいます。

罪は死のエネルギーをもっています。

罪の報酬は死、というのはそれをいっています。


+++


死のエネルギーとは、いのちのマイナスのエネルギーです。

対してイエスの血は、いのちのプラスエネルギーの液状化したものです。


このいのちエネルギーは、死のエネルギーに負けてしまうことはありません。

「闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ伝、1章5節)はそれを言っています。

この血の持つプラスのいのちエネルギーは、死のエネルギーを相殺してしまうのです。


---

第二に、イエスの血は悪霊を追い出します。

イエスの血が、いのちエネルギーの液状体であるならば、

悪霊は、自らのエネルギーである、死のエネルギーが相殺されるのを恐れ、
逃げるのです。

また、イエスの血には創造神の権威もともなっています。

それは悪霊には恐ろしいものとなります。

ですからイエスの血の権威を人間が宣言すると、悪霊は逃げて出て行くことになります。

---

第三は、イエスの血は、契約の確証力を持ちます。

これについては、前述しました。

その血の権威を確信する人は、その契約(約束)の中に平安を得て定住できるようになります。 





このように、イエスの血には、その契約の言葉を確証する以外にも、さまざまな効能が考えられます。

それはおかしなことではありません。

そもそも、聖書は「いのち方程式の本」ともいえる性格を持っています。

だから、いのち凝集体である「イエスの血」が様々な働きをするのは自然なことでもあるのでしょう。


(随想12.イエスの血は「いのちエネルギー」の液状体?  ・・・・完)












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随想11. 創造神の意志~福音の上位にある骨格論理~

2016年11月22日 | 随想






 前回、イエスが「この福音を地の果てまで宣べ伝えよ」と弟子たちに命じて、天に昇ったとのべました。

今回は、その福音のさらに上位にある聖書の論理構造を考えます。





<手紙に見るパウロの霊感>

福音宣教で大車輪の活躍をした人に、パウロという伝道者がいます。

彼は宣教活動の中で、多くの手紙を残しました。

パウロの手紙は、聖書のなかに見られる論理構造の解説を多く含んでいて、その論理が「パウロ神学」と呼ばれることもあります。

パウロは論理能力だけでなく、
霊感にも飛び抜けて恵まれていたようです。

手紙の中にも、霊感に直接得たような洞察が、そのまま解説抜きで記されているところが、みられます。

---

「律法は天使の与えたもの」というのもそれです。

こういう解読は、我々ならあちこちの聖句をつなぎ合わせてやっと得られるものです。

パウロはそれを解読説明なしで、当たり前のことのように軽々と書いています。
 
 (ガラテヤ人への手紙、3章19節)





<万物は御子の「ために」造られた?>

コロサイ人への手紙、1章16節にも彼の霊感洞察がそのまま言葉になった聖句があります。

パウロは「万物は御子(イエス)のために造られ ています」とあっさり言っています。

+++

解説なしで、突然そう言われると、我々凡人は面食らいます。

「万物は、だって?・・・人間のために創られたものもあるのではないの?

イエスはあれだけ人間を愛していたじゃないの・・・・」

などとも思ってしまいます。






<父なる創造神の意志とは?>


だが、言われてみると、こんな思いもわいてきます~

御子イエスは人間を深く哀れみ愛しましたが、その基本身分は人間より上位の創造神です。

創造神には、イエスが父と呼ぶ、時間空間的無限者もいます。

聖霊もいます。

こうした上位者のうちに、万物を御子のために造る事情があるのではないか。

聖書には、そういう奥義があるのではないか。

---

そういう意識で聖句を眺めると、それに関連する様な断片情報がみえてきます。

それをつなげると、次のような「創造神の意志に関わる骨格」が浮上してきました。

鹿嶋の仮説的骨格ですが、示してみましょう。





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聖書の創造神は下記の三者からなっています。

(三者でありながら一体なので、三位一体と呼ばれます)





<父なる創造神>

聖書では、イエスが「父なる神」と呼ぶ、万物の創造神がまずいます。

この方は、時間空間的無限者であり、いのちエネルギーの源です。

「いのち」というエネルギーは、このかたから全空間にあまねく放射されているのです。




<ひとり子なる御子>

そして、そのひとり子、御子イエスがいます。

御子は、創造神によって「造られた」のではなく、永遠の過去から創造神の懐にいた方です。


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父は御子を他者より段違いに強く愛しています。


誤解を恐れず端的に言えば、創造神は御子以外のことはどうでもいのです。


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御子もまた父を最も愛し、その意志を実現すべく、全身全霊を込めて働きます。

(この父と御子の関係は、人間の親子の関係の原型になっています。

創造神は人間を創造する際、「我々に似せて創ろう」といっていますが、

それは自らの親子関係に似せることをも含めて言っているのです)




<助け主、聖霊>


次いでもうおひとかた、聖霊がいます。

このかたは、父なる創造神の意志(シナリオ)を実現するために働く御子の、その働きを助けます。





<父なる創造神の意志>


まずこの三者のみが、永遠の過去から存在していた時期があるはずです。

そしてあるとき被造物が造られます。


創造神は、最愛の御子のために一つの意志を抱きました。

それはこんなシナリオをもっています。





<天に創造神の王国を創造する>

父なる創造神は御子のための「おうち」を創る意志を抱きます。

それが、御子が(将来)王として統治すべき広大な被造空間です。


これが天国、正確には、「天の創造主王国」です。

そこには御子が王として座すべき王座をも創ります。





<天使を造る>


次にこの天国空間の中に、創造神に仕えるべき霊的存在を創ります。

これが御使い(天使)です。

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<天使は霊であって自己増殖しない>


天使は霊的存在で、後に造られる人間のような肉体はありません。

男女という性別もなく、自己増殖しません。

そこで最初から膨大な数が創られたと推察できます。




<肉体がなく、身体の死もない>


天使は霊だけの存在ですから、人間のような肉体の死はありません。

   (ちなみに霊に充電されている“いのちエネルギー”の減少、という意味での「霊の死」はあります。これは人間の霊にもあります)

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天使には火にも風にも変容する、という力が与えられます。

また、後に創られる人間と同じく、自由意志が与えられます。

それでいて、身体が死んで消滅するという恐怖、すなわち死の恐怖がありません。




<軍団状に組織されている>

それ故、彼らは軍団上に組織されます。

天使長と、その命令で動く一般天使として造られます。

一般天使は、上位の天使長の命令に服従して、

「命令 ⇒ 服従」で動く義務を与えられています。
違反したら懲罰されます。

天使はこういう風にきつく統率されています。






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<宇宙は暗闇の空間>


天使は被造物です。

被造物の行動は完全ではありません。

その自由意志で、義務に反する行動をする可能性も常にあります。

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そこで、創造神は、違反天使を閉じ込める監獄のような空間を、天国の一角に造ります。

そこは暗闇の世界です。

これが我々のいう宇宙に当たります。




<御子は死を味わうことを定められている>


御子は天の王国で王座に就けば、こうした被造物を統治する必要に直面します。

そこで、父なる創造神は、被造物特有の「死」をあらかじめ体験して知る義務を御子に与えます。





<人間を創造する>

そのため、この宇宙の中に、肉体の中に霊が入っている存在を、創造神と御子に似せて創ります。

肉体には、死があります。

そういう存在として創られるのが人間です。

(ここでも万物は御子のために創られるのです)

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創造神は宇宙の中に、人間の肉体が住めるような環境を創ります。

それが太陽系であり、地球ということになります。

この様を描いているのが「創世記」の冒頭です。




<「人の子」として地上に来る>


この人間世界に、御子イエスは「人の姿をとって」マリアのおなかから産まれます。

そういう自分をイエスは「人の子」といっています。


創造神の「人の子」の面を指してそう呼びます。


「人の子」という言葉には、そういう独特な意味があります。

人間は全面、人間の子そのものですから、あえてそれを特徴として言う必要がありません。

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ともあれイエスはこうして、死を体験 することが出来るようになるのです。




<死と復活>

実際にイエスは十字架で処刑され死にます。

だが御子には人間のような罪がないので、創造神は三日後に復活させます。

この復活も、死と並んで御子が天国に入る前に体験することを、創造神はあらかじめ定めていることです。

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こうして、御子イエスは死を体験して(知って)、復活して、その「人の子」の姿でもって、天に昇って王座に就きます。

自分のために創られた広大な世界を統治、運営していきます。

これが父なる創造神の意志であり、シナリオです。

すべては、つまるところは、御子のために創られているのです。




<人間の位置>

人間の物語は、このシナリオの中の一部です。


上位者(創造者)のシナリオのなかでは、人間は、イエスがこの世に来るための道として、創造されています。

そう聞くと「勝手なものだ」、という印象を人間は抱きがちです。

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だが、創る側は基本的に、自分の目的のために被造物を造り、用いることが出来るのです。

人間はテレビを設計し製造し、自分の目的のために使いますよね。

使えなくなったら、廃棄しますよね。

創る側(創造神)と創られる側(人間)との関係は、基本的にはこれと同じです。





<だが、御子は人間を哀れみ愛する>


その基盤の上で、(創造神と)御子イエスは、人間をあわれみ、深く愛します。

その愛は、人間が人間を愛するよりもはるかに深く慈しみに富んでいます。


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具体的には、イエスはみずから血を流して死んで、自分の言葉を信じる人間の罪が許される道を造ります。

許されて、最終的には「創造神の子として」(つまり、イエスの兄弟として)天のイエスの王国に住むことが出来るようにします。

許され、救われた人間の身分は天使より上です。

天使は創造神の従者、使用人ですから。


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その部分のシナリオが福音です。

これは人間の「救い」の道を与えるシナリオでもあります。

前回に示したのはその部分の「骨格論理」だったわけです。




<「救い」は人を愛する故のプレゼント>


これでわかるように、人間が創造神のシナリオを実現するために役立つに必須な物語部分は、御子が「この世」の地上に来る道として造られる部分だけです。

以後の「救い」の部分、福音の部分は、上位者のシナリオが実現するには、不可欠な要素にはなっていない。


にもかかわらず上位者である創造神は、被造物である人間をあわれみ、人間同士の愛を超えた驚異的な愛を注いで、御子に救いの業をさせます。

この部分の物語が福音で、それは本質的に、人間に贈ったプレゼントです。

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プレゼントですから、人間は福音を受けることも出来るし、受けないことも出来る。

てもどうであろうと、創造神の意志は成就します。

だからイエスは十字架上で息を引き取るとき「成就した(It is finished)」といったのです。


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余談です。

「創世記」から始まる聖書全巻の話の大半は、直接的には「創造神・対・人間」の話です。

具体的には、人間が幸福になる方法の話、福音の話です。


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その一方で創造神には、上位者としての、より重要な関心事があります。

御子のために天国を造り、その王座に就かせるのがそれです。

にもかかわらず、聖書は大半で人間の幸福実現の話を、あたかも、創造神の最大関心事のようにのべています。

創造神の意志が成就されるシナリオは、そのなかに、断片的に埋め込まれているにすぎない。

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だがそれは、人間には「自分の幸福が第一に関心のあることがらだから」なのです。

創造神は、それにあわせてメッセージを人間に与えているにすぎないのです。

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繰り返しますが、聖書の最上位の論理は、人間より上位の創造神が、愛する御子を天国の王座に就けるという、自らの意志を達成する物語です。

「対人間」の話は、その一部分として、下位に位置づけられるべきものです。




<人本主義と神本主義>

人本主義(人間中心で考える思想)、神本主義(神中心の思想)という言葉があります。

福音の話が聖書の最上位の論理だと誤解すると、人は聖書は「神の(人間への)愛」だけを説いた本と思っていきます。


その説明を繰り返しているうちに、人の聖書理解は人本主義(人間本位主義)に流れます。


聖書は神本主義(創造神本位主義)の本、と聞きながらも結局そうなっていくのです。

だがそれは、聖書メッセージが示す「全世界の全体像」から「ずれた理解」となります。



(完)








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