鹿嶋春平太チャーチ

解釈自由原則で聖句を吟味している教会です。YouTube「ヨハネ伝解読」の動画とあわせご覧ください。

Vol.17   終章 流血の歴史土壌から咲き出た花

2016年09月25日 | バプテスト自由吟味者の道




【とどまることなき信徒増大】


バプテスト自由吟味者は、数の力も持つようになってきています。

 その信徒数は~、

1800年には10万人、
1850年には81万5千人、
1900年には500万人余、
1954年には1千7百万人

   ~になってきています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ( 2000年時点では、サザンバプテスト連盟だけで、4千万人と推定されている。・・・訳者註)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




  数は力をあらわします。

 成長力と実践力を示します。


+++

  会員数増大は、歴史的偶然によるものではありません。

 バプテスト自由吟味者者たちが、世界で最も人に好かれる思想をもってきたからなのです。

 また、それを実現するに最も効率的な方法をとってきたからなのです。

+++

  彼らは自由の大切さを主張し続けてきました。

 絶対的自由を叫び続けてきました。

 そしてそれを実現してきました。


  上流階級にではなく、大衆に訴えて実現してきました。

 大衆は自由を最も必要とする人であり、それを得るために最も激しく働く人々です。




   自由吟味者は、官職を望んだこともありませんでした。

 長細い小屋で育ち、小さな町の牢獄で日を過ごしました。

 病人に奉仕し、身分の低い人々を支援してきました。

 バプテストたちはその記録を名誉あるものと思っています。

+++

  いま世界中の自由吟味者を合計すれば、2千万人に昇ります。

 そのことに、何の不思議もありません。

 自由吟味教会に成長停止を命じるのは、太陽に移動停止を命じるようなものです。





【天に属す人、世に属す人】

 人の精神は、生まれながらの状態では「この世」に軸足を置いています。

 対して、自由吟味者は品種改良された人であって、その軸足は、「天国」に置かれています。


「世」の側に属する人々は、自由吟味者の成長を止めるべく、ありとあらゆる手段を講じてきました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖書では、創造神の王国である「天(天国)」と、この地上の「世」とを絶対的に対立するものとしている。
天は創造神の統治が貫徹する空間であり、世は一次的にその支配権が悪魔に与えられている空間、とする。
そして悪魔は全てにおいて創造神に対抗するものであるから、創造神と悪魔は絶対的な対立関係にあり、従って天の論理と世の論理とは絶対的に対立関係にあるとみるのである。

例えば天は「聖holy,ないしはheavenly)」であるのに対して世は「俗(secular,ないしはworldly)」である。

そしてこの地上に生きる人間は基本的に俗なる「世」の論理で生きるという事実認識である。
その中で天の論理をもつ聖書の言葉を心に抱く人間だけは、例外的に聖なる「天」の論理で生きることになる。
だから聖句自由吟味者は、「世」と対立する「天」の論理で生きる人ということになる。
著者ミードは、ここでその視野をそのまま話に持ち込んで、自由吟味者と絶対的に対立関係にある人々を「世(world)」と称している。・・・訳者註)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・









  その結果、バプテスト自由吟味者の歴史は、殉教者が流してきた血の中に容易に見出せるようになってきています。

自由吟味活動の歴史を記述する歴史家のインクの中ではない。

彼らが流した血の中の方に、その歴史は容易に見出せるのです。


「世」に属する人々は、広場に造られたむち打ちコーナーで、バプテストたちをむち打ちました。

そうやって衆目の面前で辱めを与えようとしました。

  ところが結果はどうでしょう。

 むち打ち刑場が残ることによって、いま「世」の側の人々の方が今恥ずかしい思いをしています。


  「世」は彼らを、鎖を付けて投獄しました。

 ところが、その鎖の反対の端は、「世」の側に属する人々自身の首に巻き付いていました。

  「世」の人々は、ボストンや南部諸州で、バプテスト自由吟味者たちの身体から、血を滴らせました。

 ところが、まさにその血の染み込んだ土壌から、米国で最も美しい花が咲き出したのです。


「世」のなんと愚かなことか!


  人々はバプテスト自由吟味者に、有害人間の烙印を押しました。

そうやって彼らを抹殺しようとした。

 ところが結果はどうか?

 いまや「世」に属した人々の方が、自分らがなしたその行為の故に、有害人間だったという刻印を、押されることになっているのです!



(Vol.17   終章 流血の歴史土壌から咲き出た花    完)



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Vol.16   9章 抜群の教育活動と社会改善活動

2016年09月23日 | バプテスト自由吟味者の道





【黒人教育への貢献】


 この時点での黒人は、他人に恩恵を施すようになるとは全く期待されてない存在でした。

  自由は与えられたが、それをどう使っていいかわからない状態でした。

 いってみれば、高価なベネチアングラスの花瓶をおもちゃとして与えられ、ただ途方に暮れて立ち尽くしている子供みたいなものでした。


  バプテスト自由吟味者たちは、彼らを入念かつ慎重に導き育てました。

それは国内宣教師がした仕事としては、教会史上最も素晴らしいものといっていいでしょう。




  バプテストたちは学校を建て、教会を建て、あらゆる種類の施設を建設しました。

 自分たちの利害を度外視し、黒人だけのためにそれを行いました。

  何時か誰かが、このバプテストたちの偉大な働きについて書くでしょう。

 黒人教育物語のなかでも、バプテストは偉大なヒーローとして描かれるでしょう。

 
+++

  奴隷時代にも解放後の時代にも、自由吟味者は多くの黒人をイエス・キリストへの信頼に導きました。

 1954年時点で、黒人バプテスト教の会員数は700万人余を数え、教会数は3万7千を超えています。




  宗教要素を含んだ教育こそが、自由を守る防御装置になるというのが、バプテストの確信でした。




 黒人たちの自由が危機に瀕する時には、その教育が彼らを救い出すことになると彼らは信じていました。

  バプテスト自由吟味者が建てた黒人学校の数は、他の教派のそれを圧倒しています。




【群を抜く教育活動】


  近代バプテストといえば、政教分離国家実現への輝かしき貢献が、まず思い浮かびます。

  だがこれを賞賛するあまり、彼らが教育によって我々に与えたものを忘れてはなりません。


+++

  バプテストが行った宗教要素込みの教育貢献は全国に及んでいて、ただ南部空間に限られるものではありません。

 時間的にも、奴隷解放時に限られていません。

  バプテストはいつでも何処でも教育者なのです。




  日曜学校を創始したのもバプテストです。

 ロバート・ライクスがその創始者です。

  その学校は教師を有給で雇い、日曜毎に、親の貧しい子供たちのために、門戸を開きました。

  そこでは宗教的な事柄だけでなく、この世を生きるのに必要な知識も教育しました。




  聖書に関する大衆向きの学校を史上初めて設立したのは、ウィリアム・フォックスでした。

 1783年のことです。

  彼はバプテスト教会の裕福な執事でした。


  1875年までにすでに、フォックスとバプティストの支援者の教育活動は、広範囲に展開していました。

 彼らはその運動組織を「日曜学校支援と奨励のための協会」と称していました。


+++

  アメリカで最初に日曜学校が設立されたのは、1815年です。

 場所は第一フィラデルフィア・バプテスト教会内でした。

  最初の日曜学校新聞も一人のバプテスト自由吟味者が発刊したものです。

 『ヤング・リーパー(若き刈取り人)』というの がその紙名でした。

+++

  『国際正規日曜学校授業』というのもそうです。

 シカゴのバプテスト信徒、B.F.ジェイコブズが創始者です。





【社会改善活動でも先端を切る】


  バプテスト自由吟味者の活動は、さらに新しい方向に進展しました。

 かの著名な欧州人ビッサー・フーフトはこういっています。

「米国キリスト教の明白な特徴の一つは、教会の社会活動が盛んなことだ」~と。

 けれども、この言葉には「とりわけ盛んなのは、バプテストによる活動だ」と付け加えるべきでしょう。


    

  この国のクリスチャン社会運動には、旧約聖書に出てくる大予言者エレミアのような人がいます。

 燃えるがごとき聖なる魂をもったバプティスト自由吟味者、ロチェスターのラウシェンブッシュ牧師がその人です。

 彼は人間に通じていて、それ故に人間愛に満ちていました。

  彼は年少者労働に関する本を夜通し読んで、朝になると自ら教える教室に入り、子供たちの悲惨な姿を学生に伝えました。

 その泣き声を、学生の心深くに、白熱した釘を打ち込むように、打ち込みました。


+++

  ベダー博士という人もいました。

 彼は年少者労働の恐ろしさを、誰も反駁出来ない論法でもって語りました。
 
それを歴史家の姿勢で、語りました。

  また、創造神の御旨が、この地上の人間の間でも成し遂げられるべきことを、明確に論証しました。

 天国で天使たちの間で成し遂げられているように、というのでした。




  ラウシェンブッシュとベダーの掲げた旗に、何千というバプテスト自由吟味者が続きました。

 彼らは社会正義、経済正義のために戦いました。

 この種の戦いは20世紀という世紀の特徴になりました。



  1914年、二人はアメリカ醸造業協会の年報に、「醸造監督と醸造の敵」としてその名を記されました。
 
 (この業界では年少労働者を多数使用していたのであろう・・・訳者、註)。

 だがそれは彼らには名誉なことでした。


  

  1924年には、バプテスト教会の壁は、第一次世界大戦死者の名を記した記念銅板で一杯になりました。

  この事態に対し彼らは次のごとき宣言をしました~。

  「・・・教会は戦争を呪い、聞く人を当惑させているだけでは足りない。もっと実践的な役割をはたすべきだ。平和に役立つ事柄について議論し、それを促進しよう」~と。

  これは古代ローマ神話の軍神マールスへの、公的なアッパーカットでした。

 (マールスは勇敢な戦士として慕われたローマ神話の神。青年の理想像とされた・・・訳者註)

 戦争に対する姿勢を、180度方向転換したのです。


+++


  「バプテストたちはまだバプテスト特有の精神を認識していない」と評する人もいるかも知れません。

 だがそれは、早まった判断というものです。

バプテストたちは、自分たち固有の精神をよく識っているのです。




 彼らは、語るべき時が来たときに、ものごとを明白・率直に語る、という習性を持っています。

 それまでは、本音を語りません。





聞く人が当惑しようと・・・。

  彼らは変化に富んだ人間なのです。

  
  でも、個人の自由、思想の自由を説くために、他に方法があるでしょうか?






  彼らは品種改良された人間です。

 時として既成社会の法律を超えてしまいます。

 無鉄砲で、休む事なき型破り人間です。

 社会に自ら溶け込んでいくようなことは、出来ない人間なのです。


  矛盾してる? 

 そうです、矛盾に満ちた人間なのです。




  彼らは社会において、精神的骨組みを支える道徳的筋肉の役目を、担っています。




 彼らは昔から一貫して愛国者でした。

 母国のため建設的に働き、自由が否定される時には常に、いのちを投げ出して戦いました。


 旧約時代にフルがモーセの腕を支えたように、彼らはクロムウェルの腕を支え、ワシントンの腕を支えてきました。


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( 旧約聖書の「出エジプト記」17章にモーセがイスラエル軍を率いてアマレク人の軍隊と戦った話がある。 戦はモーセが手を挙げているとイスラエルが有利になり、手を降ろすとアマレクが有利になった。 だがモーセの腕は疲れてくる。 そこでフルがアロンと共に左右でモーセの手を支えて、勝利したと記されている。 著者ミードはこの話を踏まえようとフルを持ち出している。・・・訳者註)
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バプテストは数多くの戦で戦闘部隊に参加しました。

 彼らはまた、ラクノウを救済するためにヘンリー・ハブロック卿を送りました。

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( インドのラクノウを中心に英国支配に反対するインド人の反乱が起きた。セポイの反乱と呼ばれ、インド人初の独立戦争ともいわれる。バプティスト教会から、インド人救済のためにハブロック卿が派遣されたのだろう。バプティストが抑圧されている側を支援するのは当然だから、著者ミードはインド人支援を敢えて明記していないのであろう。・・・訳者註)
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  テキサスにはサムエル・ヒューストンを送りました。


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(ヒューストン(1793-1863)は米国の軍人、政治家。後にテキサス共和国大統領、テキサス州知事になった。・・・訳者註)
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  けれども、もしもクロムウェル、ワシントン、ヘンリー卿、サムエル・ヒューストンらが、国家によかれと思って創造神を否定するようなことをしたらどうか。

バプテストはこの人たちを否定したでしょう。


 そういう低級な愛国心が、一瞬でも目に留まったら、彼らは即座にその人物を否定するのです。


  実際、彼らはそれまで幾度も幾度も国家を否定してきました。

 創造神の王国(天国)への忠誠のために、国家を否定してきました。


  彼らにはそうする心が、高級な愛国心なのです。




 そうでありながら彼らは、実際に現実世界で国家のために戦ってきました。

  矛盾? 

 そう、これは矛盾です。

 だが、そういう矛盾は必要なのです。





+++

たとえば、かなりな数のバプテスト教会には、宣教活動に反対する感情が強固にありました。

 そうである一方で、自由吟味教会は世界にカレー、ジャドソン、ライスといった宣教者を送り出しました。。

+++

  またバプテスト自由吟味者は、幼児洗礼を否定していました。

ところがその一方で、我々に子供の為の日曜学校を提供してくれました。

+++

 一般教会員には教育活動の効果を疑問視している人が沢山いました。

そうである一方で、彼らは多数の学校を世に贈りました。


 単科大学では、ベイツ、バックネル、コルビー、デニソン、フランクリン、バッサー、ウエイクフォレストなどがそれです。

 総合大学には、バイラー。ブラウン、コルゲート、リッチモンドなどがあります。

 その他、神学校を18校設立したし、多数の中等学校をも造りました。

 この時点でバプテスト派は、米国の他のどの教派よりも多くの資金を、教育に投下しています。


+++

  自由吟味者はまた、簡素な礼拝を愛していました。

だが、その一方で彼らはイスラエルで、美声の歌手の集団を作りました。
その数は数えられていないのですが・・・。

 またバプテストからは、多くのゴスペルソングが出ました。


(それらの多くは南部バプテスト地帯で造られたので、今日ではサザン・ゴスペルの名で呼ばれ、福音音楽の一ジャンルを形成している。これらはサザンバプテスト教会の礼拝でもうたわれ、それを歌うプロのゴスペル歌手がたくさんいる。・・・訳者註)



その題名のいくつかをここに挙げておきましょう~。


「我等が絆に祝福あれ」
「朝の光」
「アメリカ」
「イエス王座に座したまえり」
「嵐のヨルダン川土手に我は立てり」
「祝福の泉に来たれ」
「比類なき価値」
「目覚めよ」
「わが魂よ」
「堅き土台」
「我が希望は主にあり」
「砦を固めよ」
「イエスの名の力」
「救い主よ」
「死にゆく愛に」
「聖なる聖なる聖なるかな」
「ヨルダン川に集おう」
「イエス我を導きたもう」
「我常にイエスを求む」


これに匹敵する活動を産み出している教派は、他にあるでしょうか?

矛盾ですか?


~これを矛盾というならば、そういう矛盾は最大限に活用すればいいのです。



(Vol.16   9章 抜群の教育活動と社会改善活動   完)







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Vol.15   8章 連合会、南北に分裂する

2016年09月22日 | バプテスト自由吟味者の道





【奴隷問題をめぐって分裂】


この1845年という年は、バプテストにとって忘れがたい年でもあります。

 このときバプテスト連盟は奴隷問題をめぐって二つに分裂したのです。

+++

  その前年、バプテストの総会で次のような主旨の発言が出ていました~。

 「奴隷所有者が宣教師になりたいという希望を出して、なおかつ奴隷を自己の財産として保有し続けるという場合、我々は宣教師認可を出すわけにはいかない」~と。

+++

  南部のバプテストは、もはや抗弁しませんでした。

 彼らは1845年5月に全国連盟を脱退し、南部バプテスト連盟(サザンバプテスト・コンベンション)を創設しました。



  ああ、こんな大分裂を、創造神はどうして回避させてくださらなかったのでしょうか!

 南北戦争というあの恐ろしい過ちを、どうして避けてくださらなかったのでしょうか! 

  こんな内戦は絶対に、絶対に、おきてはならなかったのです。


  だがおきてしまいました。

 そして以後30年間にわたって、南部は敗北感の塵の中に埋没してしまいました。




  けれどもそうした中でも、聖句自由吟味主義の灯は消えませんでした。

  南部では1880年までに、バプテスト自由吟味者が1,672,631人存在するようになりました。

  全米では250万人になりました。

 国民同士が殺しあったにもかかわらずです。

  新しくバプテストになった人は、北部南部を合わせて1,337,399人になっていました。





【和解努力の副産物】


バプテスト自由吟味者は現在も南北分裂したままです。

 和解の努力はなされましたが、実りませんでした。

+++

  だが、その間に「アメリカンバプティスト連盟とサザンバプティスト連盟のための公共問題合同委員会」がワシントンDCで開かれました。

(「アメリカンバプテスト連盟」は北部連盟の名称。北部ではナーザンバプティストといわず、アメリカンバプティストと~大風呂敷的に~自称した。・・・訳者註)




  この委員会は主に、公共道徳に関するバプテストの信念を社会に広めるのに役立ちました。

 また教会と国家の分離原則を保護することにも貢献しました。


+++

  さらに北米バプティスト同盟という全国組織もできました。

 これは立法権をもたない同盟でしたが、全国の全てのバプテスト団体が連合で信仰表明する機会を造りました。




  南北戦争は、北軍本部と南軍本部が一般合意を交わして終結しました。

  捕虜の交換条件は常時友好的でした。

 この友好関係は、南部のリー将軍が北部のグラント将軍に降伏し、両者が握手を交わして各々故郷に帰ると、すぐに始まりました。



  降伏調印はバージニア州のアポマトックスでなされました。

  それとほとんど同時に、バプテストたちは戦争の真の犠牲者の救済に向かいました。


 黒人がそれでした。


(Vol.15   8章 連合会、南北に分裂する   完)








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Vol.14   7章 連合会創設と西部への宣教

2016年09月21日 | バプテスト自由吟味者の道






【連合会の必要性増す】


1800年1月1日時点でに、バプテスト教会の数は1100個に、教会員の数は10万人になっていました。

  だが今日のような州の連盟は、当時はありませんでした。

  バプティスト自由吟味者は~

レギュラー・バプティスト、
フリーウイル・バプティスト、
セブンスデー・バプティスト、
シックスス・プリンシプル・バプティスト

  ~の四つの派に別れていました。

  それらをまとめる超教派全国組織は、存在していませんでした。

小さな地域の、断片的な「連盟」は、いくつか存在していたのですが。


+++

そうした小規模連盟の多くは、対外宣教活動に対して、明白な反対姿勢を持っていました。

  教会員が加速度的に増大し、それどころではなかったのです。

  教会堂のスモールグループ活動用小部屋が足りなくなりました。

無理に詰め込んだら、壁が内側から押されて壊れそうになるくらいでした。

かくのごとくにバプティスト教会が膨張する直前には、合衆国は西部方面に突進するかの如き進展を開始していました。




  この頃のバプティスト信徒の姿は、訳がわからないままで突然大人扱いされ始めた不器用な若者に喩えられます。

  自分がどういう力をもっているかがわからないのです。

新規採用された屈強な軍人たちが、個々バラバラで野営テントにいるような状態に喩えることも出来るでしょう。

  とにかく彼らには全員を結束させる何かが必要でした。

  そして・・・彼らはそれを得ることになるのです。




【宣教連盟を結成する】

  1812年、偉大なる老軍艦コンスティテューションが、海上で英国の戦艦ゲリエールを捜索していました。

  そのとき、他方では、軍艦に比べたらみすぼらくみえる二艘の客船がインドに向けて航海していました。

  デッキには初のアメリカ人宣教師が近代軍人の如き姿で乗船していました。

アドニラム・ジャドソンとルーサー・ライスがその人でした。


  彼らは積み藁を世話するボランティアとしてカルカッタに向かっていました。

 そしてカルカッタで彼らは、バプテスト自由吟味者の話を聞いて、バプテストに転向しました。


+++

ライスは帰国後、自らの転向体験をバプテスト教会を回って語りました。

自由吟味方式を伝える宣教活動の大切さを説き、支援を要請しました。

  彼は全国を遊説し、消えかかっていた昔の宣教の情熱をあおりました。

彼は素晴らしい活動報告をしました。

話し方をよく知っていたのです。




  バプテスト教会は反宣教主義の穴倉から出てきて、ライスを支援するようになりました。

  勢いづいたライスはバプテスト教会に宣教の大義を与え、人々を奮い立たせました。

こうして国中に宣教団体を造っていきました。

  若き巨人、バプテスト集団は、こうして自らの力を自覚し始めていったのです。

むかし、利口なフランス国王がこう言ったことがあります。

「国内に革命運動が育ってきたら、外国との戦争をあおれ」~と。

そうすると人民の意識は外に向かって高揚し、国内での革命熱は下がっていく、というわけです。

  この対外戦争に向かう人民に似たような心理が、バプテスト教団内で働きました。

その仕掛け人がルーサー・ライスだったわけです。


+++

こうした努力によって、1814年までには、バプテストの海外宣教連盟が活動状態に入っていました。

バプテスト教派海外宣教米国総会、というのがその名でした。

  名前も長かったのですが組織も大規模でした。

  連盟は、3年ごとに総会を開催しました。

人々はそれを「トリエニアル(3年毎の)会議」と呼びました。




この総会から良き果実が生まれました。

海外宣教協会だけでなく、国内宣教協会もできたのです。

  加えて~

バプテスト出版協会、
アメリカアプテスト歴史学会、
教育協会、
若者連盟

   ~も出来ました。


 活動を多様化するために、神学校もいくつか設立されました。


 トリエニアル会議は緩やかな連合体でしたが、バプテスト自由吟味者の活動にリズムとアイデンティティをもたらしました。

  言ってみればそれはドラムでした。

人々はその上でそろって足踏みし、それをたたき、リズミカルな行進をしました。

  総会はまた「自分たちは一つの教派を形成している」という意識を、バプテスト自由吟味者の心に作りました。

 この意識は、以前より強く求められていたものでした。




【西部フロンティア宣教に乗り出す】


  その頃アメリカ合衆国の西方のフロンティアは、躍動するかの如くに西漸運動を続けていました。

 バプテスト自由吟味者は、そのフロンティアを追うようにして西に進み、開拓住民を真理の言葉に導きました。

  西部の無人地帯に 「”硫黄の”ダニエル・ブーン」と呼ばれた荒れくれ男がいました

   (米国の開拓者。特にケンタッキー地方を開拓した。・・・訳者註)

この地にはブーンの名を持つ「素封家」が複数いましたが、彼はその一人でした。

  またその弟もそうでして、彼は同時にバプテストの説教者でもありました。


若きアブラハム・リンカーン(後の米国大6第大統領)の両親もバプテストでした。

 母は、信仰堅き自由吟味言者であり、父はビジョン・クリークでのバプテスト教会建設を援助しました。




  バプテストは無人の荒野にも馬で踏み込んでいきました。

  荒野にはぽつんと孤立して存在する町もありました。

通常そこは乱暴者の多い無法地域です。

  だが、彼らはそこにも入っていきました。

  ケンタッキー、オハイオ、インディアナ、イリノイ、アイオワなどの新しい州では、例外なくバプテストの宣教者が説教し、集会所を建設していました。

+++

  彼らはどんな地域にも向かいました。

 そこに酒を飲んでのどんちゃん騒ぎ、喧嘩、賭博、殺人、馬泥棒、競馬(馬泥棒より悪いとされていた)があれば、彼らはそれと戦い、組み伏せました。

  厳格な規律で抑え込みました。

孤立しても法と秩序を押し立て続けました。

怒声、いやみ、毒気の根も抜きました。

  バプテストが荒野の小道に立ち寄れば、そこに教会が残りました。

 それ以後、教会は活動し続けました。




【教会員への姿勢】

  ケンタッキー州にあったサウス・エルクホーンという旧い教会の日記帳には~
  「ロバート・ヒックリンは競馬をしたかどで教会を除名された」
               ~と記されています。

  またこういうのもあります~。

 「ポリー・エドリントン姉妹に告発がなされた。 件名は、数人の隣人たちが互いに口げんかするように、告げ口し回ったことである。彼女はその件で除名された」~と。


  (キリスト教会では、女性会員の名に姉妹をつけて呼び、男性会員をの名には兄弟を付けて呼ぶ。・・・訳者註)


  さらに~

 「以前ウィリアム・フィッツジェラルドの奴隷だった黒人教会員のモリーもまた除名された。理由は嘘をついたことである」~という記録もあります。

  けれども、当人が正直に悔悟した時には、フロンティア地域のバプテスト教会員たちは哀れみ深く応じました。

  ケンタッキー州のマウント・タボル教会のアーネット姉妹は、飲酒のかどで召喚されましたが、教会日記には~

「彼女は謙虚な姿勢で自分のしたことを謝罪したので教会は彼女との交わりを復活させた」

      ~と記されています。






【巡回伝道者】


  西部開拓地とは、 アルゲニー山脈から太平洋岸にいたるまでの全域をさします。

  福音がそこにあまねく行き渡るには100年の歳月がかりました。

 そしてそれは、巡回伝道者の働きなしには実現し得ないことでした。

+++

  巡回伝道者の中には、時によっては凶暴になるものもいました。

 文字の読めないものいました。

 よごれた身なりの者、唇にタバコのやにをつけた者、舌がアルコールで腫れ上がった者もいました。

  そうした人物も含めながら、巡回伝道者の総集団は、多くの魂を救いました。


+++

  彼らはフロンティアに住む”ガラガラヘビたち”に対峙し、その罪の毒牙を抜きました。

 彼らはこうした野人の心に平等感を植え付け、米国に民主社会の土壌を作りました。

 この働きで、西部開拓地はついに ”オールド・ヒッコリー” をホワイトハウスに送り込むまでになったのでした。

(“オールド・ヒッコリー”は米国第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンのニックネーム。・・・訳者註)



+++

  これらはバプティスト教会の輝かしき面ですが、そうでない面もありました。

  牧場の羊が囲いを破って大量に脱出するような事態も起きたのです。

(羊とは教会員のこと。キリスト教界では一般信徒を羊と呼ぶことも多い。・・・訳者註)


 1825年から1865年までの間に、おもだった教会を出て小教派をつくる動きにでた信徒の数は、膨大でした。

  だが大教会は、それをもちこたえて存続しました。

  教会を脅かしたこの分裂動向を耐えきったことは、バプテスト自由吟味者がなした、19世紀最大の功績でしょう。




  大教会にとっては災害的で、破壊的だった分裂運動には、次のようなものもありました。

  一つは、 ハードシェル運動です。

 これは自己の信仰の純粋を保つためには、外部者との交わりを避け、堅いからに閉じこもるべきと主張した運動でした。

 ディサイプル運動というのもありました。

 これはキャンベル牧師に率いられたもので~

 「信徒はイエスの使徒たちのようになるべき」

     ~として厳格な訓練を課す活動でした。


  バプテスト連盟の南北分裂もありました。

 これには南北戦争も追い打ちをかけました。




  これほど多くの面から乱打されたら、バプテスト自由吟味者はちりじりバラバラになると、誰もが予想するでしょう。

ところがなんと、彼らはこれらによってさらに力を付けたのです。

  ハードシェル運動は、カルバンの予定説神学を従来より一層厳格に解釈して賛同者を得ました。

  キャンベル主義者たちは、キリスト信仰への転向や、バプテスマ(洗礼)に関して独特の見解を展開して歓迎を受けました。

  これらの運動に賛同して母教会から20万人の教会員が脱退しました。

 これは掛け値なしの数字です。


  けれども 1845年でみるとこれら母教会は、南部で126パーセントの会員増を達成しているのです。

 また全国での増加率は、プラス175パーセントとなっていました!


(Vol.14   7章 連合会創設と西部への宣教   完)








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Vol.13   6章 信教自由憲法ついに成る

2016年09月20日 | バプテスト自由吟味者の道





【流れが変わり始める】


  自由吟味者の闘争は長期にわたりました。

それまでにない数のバプテストが、法廷に引き出されました。


  そして多くが無罪宣告されました。

彼らの一貫した行動と不屈の精神が、徐々に人々の注目を集めはじめたのでした。

彼らの姿勢は、人々の同情を集め、協力を引き出していきました。


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 ジェームズ・マディソン(後の米国第四代大統領・・・訳者注)が彼ら自由吟味者の味方になりました。

モンティセロの住人にジェファソンという名の男(トーマス・ジェファソン:後の米国第三代大統領・・・訳者注)がいました。

  彼も裁判所に立ち寄り、自由吟味者を目にし、その言い分を聞きました。

そして「バプテストが正しい」と言いました。


  郡の裁判官にワシントンという名の男がいました(ジョージ・ワシントン:独立戦争における大陸総司令官、初代大統領・・・訳者注)。

マウント・バーノンの住人でした。

  彼も自由吟味者に感銘を受けました。

これらの地域でバプテストへの同情が生じていき、人々のその気持ちが、流れを変えました。

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  1779年(米国独立宣言の三年後)、バージニア州議会が税法を変更しました。

  「以後永遠に法定教会の僧侶の給与のために税金を取ることはない」~というのがその内容でした。

  これは法定教会にとって強烈な一撃になりました。

教会はよろめき、また、倒れました。

  法定教会が倒れるごとに、バプテスト自由吟味教会が新たに頭をもたげました。


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  ついでジェファソンが「信仰自由を確立する法律」を起草しました。

マディソンがそれを積極的に支持しました。

1786年、それは法制化(合衆国で)されました。


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   バージニア州は多くの大統領を輩出した、まさに「大統領の母なる大地」でした。

 この州が先駆的に成立させたこの法律は、合衆国での教会と国家の完全分離を確定しました。

  米国はこれによって、最も偉大かつ独特の貢献を西欧文明に対してなしたといっていいでしょう。

  だがこれはバージニアがなしたことなのでしょうか? 

あるいはバージニアのバプテスト自由吟味者がなしたものなのでしょうか? 

読者の判断にゆだねます。




【バプテスト、 戦いの中で成長する】


  バージニアでの勝利によって、バプティストたちの血管のなかに、さらに新しい血が流入しました。

  次から次へと新事態が起きました。

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 独立革命で米国聖公会は破壊的打撃を受けました。

メソディスト教会はほとんど壊滅状態になりました。

  その一方で独立戦争はバプテスト教会を成長させました。

  これは公正な結果です。

バプテストの方も独立革命が成功するのを助けてきたからです。




  ある観察者は(多分バプテスト・ウォッチャーでしょうが)こういっています。

「バプテストたちは人間に対して忠誠を尽くしたのであって、英国王に対してではない。

王党派には一人としてバプテスト自由吟味者はいなかった」

かというと「少しはいただろうが見つけるのが難しかったのだ」という者もいます。

  どちらが正しいにせよ、ワシントンはこう言っています。

「バプティストたちは、ほとんどどこででも全員一致で働いた、市民の自由のための不動の友だった。

そして我等が栄光の独立戦争のための、一貫した助っ人であり続けた」




バプテストが見せた独立戦争支援の働きによって、彼らの抱くキリスト信仰の神髄が一般人に広く知れわたりました。

  自由吟味者たちは、マサチューセッツやバージニアでの闘争過程で、彼らを投獄し鞭打った人々を、みな許しました。

  それだけではありません。

  独立戦争中に、イギリス本国はヘッセン人の傭兵を使って戦いを挑んできました。

  その際、バプテスト自由吟味者たちは、昨日の敵(旧教会の人々)と一緒になって戦いました。

そして共に傭兵の銃剣に刺されて死んでいきました。




  旧教会の人々は、かつて彼らを投獄や鞭で苦しめた張本人でした。

  なのにそうした行為が出来たのは、バプティストが抱く「自由の大儀」が深いものだったからです。

  その深さが、かつて彼らから受けた傷や彼らへの恨みを忘れさせたのです。

  自由のために身を捧げようとする思いの深さが、旧敵に対しても尊敬と寛容の感情だけを産み、それをふくらませたのでした。




  戦いが終わった時、バプテストたちは以前とはすっかり違った別人になっていました。

  戦いの前には彼らは、迫害されっぱなしの小集団という印象でした。

だが戦の後には、自分たちのプリンシプルをこの大陸の法律の中に具現べく、先頭を切って走る人に豹変していました。

  それほどに豊かで影響力ある集団となっていたのです。

  いまや彼らの数は多くなり、その行動は積極的になっていました。

  加えて彼らは、一般の人々にとって魅力的なスローガンを持っていました。

またこの当時一般人は、より高みを目指して進もうという気風に満ちていました。





【憲法成立を主導する】


   バプテスト自由吟味者は、ひとときの勝利の輝きのなかに安住することはありませんでした。

  彼らはいまや賢明となっていて、この新国家がそのままで民主国家として安定することはないと洞察していました。

  英国勢力は去り、英国国教会は崩壊状態にありましたが、それでも新国家は依然として不安定だったのです。

  諸州は連携して合衆国連邦を形成しました。

  それをみるとバプテストは、次の課題は憲法の制定だと判断しました。

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  草案が数州で批准にかけられると、彼ら自由吟味者たちは、草案が「教会と国家の分離」をうたっていないことを知りました。
 
  それには満足できなかったのですが、それでも憲法がないよりはましです。

バプテスト自由吟味者は、とにかく憲法案を支持しようと、賛成票を投じました。

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  多くの州が、後で「宗教自由」の条項を追加する、という約束はしました。

だが実際に法案を批准するとなると困難が生じました。

  諸州は互いに他の州の有利な点をうらやんだのです。

中央に連邦政権をおくことにも否定的でした。

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 その結果、 とうとうマサチューセッツとバージニアを枢軸州にし、この二州に決定権を与えて論争の帰趨を決めようということになりました。

  この2州で草案が通らなかったら、全ては水の泡ということです。

  ところがマサチューセッツは、先に議会投票をした州に同意するといって、バージニア州に先をゆずってしまいました。

  かくして全てがバージニアの決定にゆだねられることになりました。


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  さてその州バージニアでは、オレンジ郡の州議会議員の一つの椅子を、マディソンとジョン・リーランドが争っていました。

  対抗馬のリーランドはバプテスト派の長老でした。

そしてこの草案の批准が通るには、議会にマディソンがいることが必要でした。


  ところが選挙前に、マディソンの劣勢が明らかになりました!

 オレンジ郡では圧倒的にバプテストの数が多かったのです。

  マディソンに勝ち目は全くないことは、リーランドにもわかっていました。


  たが、彼は、マディソンのあの”黄金の声”と政治的影響力がなかったら、憲法案は通らないことも知っていました。

  リーランドは勝利を手中にしながら選挙戦を降りました。

マディソンは無投票で当選しました。

  歴史の本に書かれているのは、その後の残りかすのようなところです。

そこではマディソンは「アメリカ憲法の父」ということになっていますが、彼は本当に父なのでしょうか? 

  リーランド長老については我々はどう書くべきでしょうか?




【憲法修正で信仰自由を確立さす】

   バプテスト自由吟味者は、憲法が成立するとすぐに、いたるところで憲法改正についての議論をし始めていました。

  1788年、バージニアのバプティストは総会を開き、「新憲法は信仰の自由を守るために十分な条項をもっているか」について議論しました。

  彼らは自分たちでこのテーマをたっぷり話し合い、マディソン氏とも十分話し合いました。

  そしてこのことについて、ワシントン氏とじっくり話し合うべく代表団を首都に送りました。

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    ワシントンはそのときには大統領になっていました。

  彼はバプテストたちを、心を込めた、同情溢れる姿勢でもって迎えました。

  大統領の要請で、上院はバプテストたちの言うことを優先的に考慮しました。

 
  その結果、第一修正条項の最初の行にはこう書かれることになりました。

「上院は、宗教団体の設立に関して法律で規制したり、宗教活動の自由を禁ずる法律を作ったりしてはならない。・・・」

  これで成った! 

信教自由はついに永久に成りました。

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  以後、今日の我々まで、そのための戦いをしなくてよくなったのです!

  戦いはロジャー・ウィリアムズやジョン・クラークの後を継ぐ者たちによって戦われました。

彼らは我々のために戦ったのです。

  現在、バプティスト自由吟味者総勢1700万にのぼります。

その子孫たちは今後、祖先の偉業が決して消えないことを知るでしょう。


(Vol.13   6章 信教自由憲法ついに成る   完)







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