思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

尖閣は日本領ではないのです。決定的な証拠があるのに、なぜ日本政府はウソをつき続けるのでしょうか。

2022-09-15 | 社会批評

四たび出します。

https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/77aa4072abcc46d4ed8df4f0f6b66bf3

残念ですが、尖閣は、日本の領土ではありません。

2018-10-31 | 社会批評

「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したわが国の領土は、北海道、本州、四国、九州と、その周辺の小島に限られることになり、戦前に日本が支配した海外の地は、すべて放棄することになりました。

尖閣列島は、沖縄ではなく、台湾の所属していたことが明白な以上は、尖閣を日本領土とすることはできません。

敗戦時に日本海軍No2で、台湾州のトップであった福田良三さんが実の娘の光子さんに語っていた事実ー「尖閣は自分=台湾の管轄であった」は、決定的です。

以前に出したblogをご覧ください。なぜ、日本政府や外務省は嘘をつくのでしょうか?

残念ながら、「尖閣」は、日本の領土ではないようです。今日の清水光子さんのお話  

2014-09-11 | 学芸

        清水光子さん(9月10日 白樺教育館)

 

今日の「恋知の会」で、
戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)の実娘さんの清水光子さん(84歳)は、以下のように話されました。

お父さまから、「尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていた。」
また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」とも話していたとのこです。

清水さんは、「当時の海軍関係者は、尖閣は台湾州に属するものと認識していて、沖縄に所属すると思っていた人はいないはず。」と話されました。


これは、極めて重要な証言で、
台湾州は、ポツダム宣言を受諾して敗戦をしたわが国の領土ではありませんから、尖閣は沖縄に所属していたので日本領だとする政府や外務書の主張は、明らかな嘘であることになります。
日本人だからといって、嘘で領土を拡大することはできません。  中国敵視ではなく、日中友好が必要です。

 

以下は、福田良三さんの写真と、B級戦犯として上海から家族へ宛てた手紙です(クリックで拡大します)。

             

 

なお、興味深いお話がいくつもありましたが、それはまた後日に。

 

追記

 尖閣の領土問題を煽ったのが石原慎太郎であり、乗じたのが愚かな野田総理でした。石原は「シナと戦争したい」と語っていますので、尖閣で中国を挑発することがその目的であることは明らかです。
 領土問題の大宣伝を行う政府と政治家は、日本的「愛国主義」のイデオロギーを浸透させること→社会契約に基づく現憲法の全面廃棄(国体思想の復活)を目的としていますので、
国民は、その戦略の上で踊らされているわけです。
 市民=ネットしか、冷静な真実を伝えられませんので、ぜひ、拡散して、領土問題を冷静に考えましょう。それがホントウの国益=国民益になるはずです。

 

追記2

 伊藤博文は魚釣島=尖閣諸島を日清戦争時に尖閣を日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。

 1885年(明治18年)の時点で、明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。
 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、
魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
「調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 しました。


  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
「久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

ポツダム宣言の全文ー元外務省情報局トップの孫崎享さんの著作より転写


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残念ですが、尖閣は、日本の領土ではありません。

2018-10-31 | 社会批評

「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したわが国の領土は、北海道、本州、四国、九州と、その周辺の小島に限られることになり、戦前に日本が支配した海外の地は、すべて放棄することになりました。

尖閣列島は、沖縄ではなく、台湾の所属していたことが明白な以上は、尖閣を日本領土とすることはできません。

敗戦時に日本海軍No2で、台湾州のトップであった福田良三さんが実の娘の光子さんに語っていた事実ー「尖閣は自分=台湾の管轄であった」は、決定的です。

以前に出したblogをご覧ください。なぜ、日本政府や外務省は嘘をつくのでしょうか?


残念ながら、「尖閣」は、日本の領土ではないようです。今日の清水光子さんのお話  

2014-09-11 | 学芸

        清水光子さん(9月10日 白樺教育館)

 

今日の「恋知の会」で、
戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)の実娘さんの清水光子さん(84歳)は、以下のように話されました。

お父さまから、尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていた。」
また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」とも話していたとのこです。

清水さんは、「当時の海軍関係者は、尖閣は台湾州に属するものと認識していて、沖縄に所属すると思っていた人はいないはず。」と話されました。


これは、極めて重要な証言で、
台湾州は、ポツダム宣言を受諾して敗戦をしたわが国の領土ではありませんから、尖閣は沖縄に所属していたので日本領だとする政府や外務書の主張は、明らかな嘘であることになります。
日本人だからといって、嘘で領土を拡大することはできません。  中国敵視ではなく、日中友好が必要です。

 

以下は、福田良三さんの写真と、B級戦犯として上海から家族へ宛てた手紙です(クリックで拡大します)。

            

 

なお、興味深いお話がいくつもありましたが、それはまた後日に。

 

追記

 尖閣の領土問題を煽ったのが石原慎太郎であり、乗じたのが愚かな野田総理でした。石原は「シナと戦争したい」と語っていますので、尖閣で中国を挑発することがその目的であることは明らかです。
 領土問題の大宣伝を行う政府と政治家は、日本的「愛国主義」のイデオロギーを浸透させること→社会契約に基づく現憲法の全面廃棄(国体思想の復活)を目的としていますので、

国民は、その戦略の上で踊らされているわけです。
 市民=ネットしか、冷静な真実を伝えられませんので、ぜひ、拡散して、領土問題を冷静に考えましょう。それがホントウの国益=国民益になるはずです。

 

追記2

 伊藤博文は魚釣島=尖閣諸島を日清戦争時に尖閣を日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。

 1885年(明治18年)の時点で、明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。
 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、

魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 しました。


  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

ポツダム宣言の全文ー元外務省情報局トップの孫崎享さんの著作より転写





 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異常な自衛隊の行動―南シナ海で軍事訓練!なぜ、中国を挑発するのか?

2018-09-17 | 社会批評


以下のニュースは、日本が戦前に戻っていくような話で、日本国民として許しがたいと思います。

9/17(月) 18:32配信

【北京時事】中国外務省の耿爽・副報道局長は17日の記者会見で、海上自衛隊の潜水艦が南シナ海で訓練を実施したことについて、「域外国は慎重に行動すべきで、地域の平和と安定を損なわないよう促す」と反発した。
 南シナ海をめぐり中国は、近隣国と領有権を争う島々の軍事拠点化を一方的に進めながら、当事国同士の対話による問題解決を主張している。耿氏は「南シナ海情勢は安定に向かっている。域外国は、地域の国が対話を通じて平和的に問題解決する努力を尊重するよう促す」と述べた。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ほんとうは、尖閣にしても、日本領ではないはずですが、それでも中国政府は、日本に配慮して、漁船に近づかないように指示しています。
尖閣が戦前は台湾領であったことは、戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)さんの話により明白です。

福田良三の実娘さんの清水光子さんは、2014年9月11日、白樺教育館で、
父から、尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていて、また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」という話もしていた、
と話されました。

「ポツダム宣言」受諾して敗戦し、台湾は日本領ではなくなりましたから、尖閣を日本領だとするのは、残念ながら無理です。


武田康弘

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残念ながら、尖閣は日本固有の領土ではないようです-----元台湾州トップ、日本海軍No2のお話し

2017-02-08 | 学芸

以下、採録します。

「ポツダム宣言」受諾で、わが国は、カイロ宣言の履行を義務付けられましたが、それを踏まえて、以下の清水光子さんのお話に耳を傾けてください。
2014年9月11日のblogです。

 

残念ながら、「尖閣」は、日本の領土ではないようです。今日の清水光子さんのお話

 2014-09-11 | 学芸

    清水光子さん(9月10日 白樺教育館)

 

今日の「恋知の会」で、
戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)の実娘さんの清水光子さん(84歳)は、以下のように話されました。

お父さまから、尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていた。」
また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」とも話していたとのこです。

清水さんは、「当時の海軍関係者は、尖閣は台湾州に属するものと認識していて、沖縄に所属すると思っていた人はいないはず。」と話されました。


これは、極めて重要な証言で、
台湾州は、ポツダム宣言を受諾して敗戦をしたわが国の領土ではありませんから、尖閣は沖縄に所属していたので日本領だとする政府や外務書の主張は、明らかな嘘であることになります。
日本人だからといって、嘘で領土を拡大することはできません。  中国敵視ではなく、日中友好が必要です。

 

以下は、福田良三さんの写真と、B級戦犯として上海から家族へ宛てた手紙です(クリックで拡大します)。

            

 

なお、興味深いお話がいくつもありましたが、それはまた後日に。

 

追記

 尖閣の領土問題を煽ったのが石原慎太郎であり、乗じたのが愚かな野田総理でした。石原は「シナと戦争したい」と語っていますので、尖閣で中国を挑発することがその目的であることは明らかです。
 領土問題の大宣伝を行う政府と政治家は、日本的「愛国主義」のイデオロギーを浸透させること→社会契約に基づく現憲法の全面廃棄(国体思想の復活)を目的としていますので、

国民は、その戦略の上で踊らされているわけです。
 市民=ネットしか、冷静な真実を伝えられませんので、ぜひ、拡散して、領土問題を冷静に考えましょう。それがホントウの国益=国民益になるはずです。

 

追記2

 伊藤博文は魚釣島=尖閣諸島を日清戦争時に尖閣を日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。

 1885年(明治18年)の時点で、明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。
 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、

魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 しました。


  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残念ですが、尖閣は日本固有の領土とは言えないようです。

2016-06-10 | 社会批評

「ポツダム宣言」受諾で、わが国は、カイロ宣言の履行を義務付けられましたが、それを踏まえて、以下の清水光子さんのお話に耳を傾けてください。
2014年9月11日のblogです。

 

残念ながら、「尖閣」は、日本の領土ではないようです。今日の清水光子さんのお話

 2014-09-11 | 学芸

    清水光子さん(9月10日 白樺教育館)

 

今日の「恋知の会」で、
戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)の実娘さんの清水光子さん(84歳)は、以下のように話されました。

お父さまから、尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていた。」
また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」とも話していたとのこです。

清水さんは、「当時の海軍関係者は、尖閣は台湾州に属するものと認識していて、沖縄に所属すると思っていた人はいないはず。」と話されました。


これは、極めて重要な証言で、
台湾州は、ポツダム宣言を受諾して敗戦をしたわが国の領土ではありませんから、尖閣は沖縄に所属していたので日本領だとする政府や外務書の主張は、明らかな嘘であることになります。
日本人だからといって、嘘で領土を拡大することはできません。  中国敵視ではなく、日中友好が必要です。

 

以下は、福田良三さんの写真と、B級戦犯として上海から家族へ宛てた手紙です(クリックで拡大します)。

            

 

なお、興味深いお話がいくつもありましたが、それはまた後日に。

 

追記

 尖閣の領土問題を煽ったのが石原慎太郎であり、乗じたのが愚かな野田総理でした。石原は「シナと戦争したい」と語っていますので、尖閣で中国を挑発することがその目的であることは明らかです。
 領土問題の大宣伝を行う政府と政治家は、日本的「愛国主義」のイデオロギーを浸透させること→社会契約に基づく現憲法の全面廃棄(国体思想の復活)を目的としていますので、

国民は、その戦略の上で踊らされているわけです。
 市民=ネットしか、冷静な真実を伝えられませんので、ぜひ、拡散して、領土問題を冷静に考えましょう。それがホントウの国益=国民益になるはずです。

 

追記2

 伊藤博文は魚釣島=尖閣諸島を日清戦争時に尖閣を日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。

 1885年(明治18年)の時点で、明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。
 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、

魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 しました。


  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

 

 

 

コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スポーツを使い、国民を洗脳  NHKをはじめとする日本のテレビ局の恐ろしさ

2014-09-15 | 社会批評

 いま、右翼的な政権により、一人の「私」(実存としての「私」)ではなく「家族」や「所属団体」や「国家」の一員としての「私」という思想を植え付けるための教育改革(教育再生実行委員・中心者は「反人権思想」を謳う八木秀次麗澤大学教授)が進められていますが、

 それと符合させて、テレビのスポーツ番組では、野球でもサッカーでも「自分ではなくチームのために頑張っている」という言い方を選手がし、その選手の言葉を繰り返し紹介し、美談としてアナウンスしています。毎日幾度も聞かされるうちに、「私」を活かすという発想や言い方はしにくいムードが醸され、団体の一員であることを誇る→日本人として!という想念に染まっていきます。

 戦前思想=お国のために・滅私奉公というオゾマシイ思想は、個人意識を薄めていくことでやがておぞましくなくなり、愛国心を歌い時と場合では戦争も必要→(尖閣を一方的に国有化するという行為で中国を挑発し、中国の反発を利用して中国は悪い国という意識を植えつけ、軍事力の強化を正当化し、憲法の実質的改定を内閣だけで行うという挙に出、集団的自衛権でアメリカ軍との一体化と現実の戦争への参加を可能とし、軍事産業を育成して産軍一体化への道を拓き、国体思想を復活させ、戦前の国家へと戻る)という想念に知らぬうちに変えられる。

 安部晋三という名の首相は、日本の言うことを聞いてくれそうな国を「サカリのついた犬」のように回り歩き、金をばらまき(全部われわれの税金)、対中国包囲網を築くことに血道をあげ、その血なまぐささを消すために女性の活躍を(労働力不足をカバーするために女を利用せよ!)と女性の味方という演出をしています。

 みなの関心の高いスポーツを使い、気付かれぬように「自分ではなくチームのため」こそ正しい思想である、を植え付けるのは、裏の策士(謀略者)の仕事ですが、個人種目のテニスはどうするのかな~?と思っていたら、なんと、日本のテニス界の先駆らと結び付けて、清水光子さんの息子まで登場させて父(清水善造)は「大和魂」を持っていた、と言わせる!!!おお、なんとすばらいしことでしょう。横の一体感の演出だけでなく縦の一体感の演出で、日本日本日本、もう病気の進行は止められない??

 否、わたしが止めます。あなが止めます。狂気と凶器をストップ!!

 

武田康弘

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残念ながら、「尖閣」は、日本の領土ではないようです。今日の清水光子さんのお話  

2014-09-11 | 学芸

    清水光子さん(9月10日 白樺教育館)

 

今日の「恋知の会」で、
戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)の実娘さんの清水光子さん(84歳)は、以下のように話されました。

お父さまから、尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていた。」
また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」とも話していたとのこです。

清水さんは、「当時の海軍関係者は、尖閣は台湾州に属するものと認識していて、沖縄に所属すると思っていた人はいないはず。」と話されました。


これは、極めて重要な証言で、
台湾州は、ポツダム宣言を受諾して敗戦をしたわが国の領土ではありませんから、尖閣は沖縄に所属していたので日本領だとする政府や外務書の主張は、明らかな嘘であることになります。
日本人だからといって、嘘で領土を拡大することはできません。  中国敵視ではなく、日中友好が必要です。

 

以下は、福田良三さんの写真と、B級戦犯として上海から家族へ宛てた手紙です(クリックで拡大します)。

            

 

なお、興味深いお話がいくつもありましたが、それはまた後日に。

 

追記

 尖閣の領土問題を煽ったのが石原慎太郎であり、乗じたのが愚かな野田総理でした。石原は「シナと戦争したい」と語っていますので、尖閣で中国を挑発することがその目的であることは明らかです。
 領土問題の大宣伝を行う政府と政治家は、日本的「愛国主義」のイデオロギーを浸透させること→社会契約に基づく現憲法の全面廃棄(国体思想の復活)を目的としていますので、

国民は、その戦略の上で踊らされているわけです。
 市民=ネットしか、冷静な真実を伝えられませんので、ぜひ、拡散して、領土問題を冷静に考えましょう。それがホントウの国益=国民益になるはずです。

 

追記2

 伊藤博文は魚釣島=尖閣諸島を日清戦争時に尖閣を日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。

 1885年(明治18年)の時点で、明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。
 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、

魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 しました。


  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

 

追記3

以下は、井上清さん(京都大学教授)の論文です。参考までに。
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

 

 

武田康弘

 

 

 

 

コメント (11)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『恋知』 第3章 はじめに  に寄せられた声声声声  とても感謝です。

2014-08-26 | 恋知(哲学)

『恋知』第3章の(1)に寄せられた声です。

           

   楽になれて長生き            清水光子

 本当に、心から凄いと思います。私にもわかりやすい言葉を使い  理解させること!有り難うございます。初めてお会いしたとき(17年前)、世間的にどうみられるかは問題ではない。自分が考えて、と仰るのを伺い生き方が楽になって 自分が考えて生きてきました 楽になってちょっと長生きしてしまいましたが  やっぱり、先生にお会い出来たことを感謝しております。 

 

  これからの日本にとってどれだけ大切か     楊原泰子

 

 明治政府により、天皇を神格化、全体主義的な教育が進められ、多くの国民は洗脳され片棒を担ぎ、侵略戦争への道をまっしぐらに走りましたが、そんな中で、数少ないですが、政府の政策に異議を唱え、侵略や戦争に反対し、抵抗した人たちがいました。残念ながら、ほとんどの人たちが「治安維持法」違反で逮捕されたり、 最前線に送られたりして命を落とし、戦後の日本の民主化の場で活躍できた人は少なかったようです。

 先日の「恋知の会」の中でも話題になりましたが、確かにそういう人たちに共通点を探るのは難しいと思います。育った環境がまったく異なり、教育、宗教、家族構成、様々な条件がまったく違うので、外的な共通の要因を求めるのは無理だと思います。

 しかし、武田さんが提唱される「恋知の生」に ついて書かれたものを読む時、戦争遂行に国家が目の色を変えている時に冷静に状況を判断し反対する見識と勇気を持ち合わせていた人は<自分の頭でよく考 え、深い納得を得られる普遍的な正しさを求めた人><イデオロギーや宗教や既定の価値観に従うのではなく、自分から出発し、得た知識を自分の生活の中に意 味のある知として位置付けることができた人><善美に憧れ真実を探求する座標軸を心の中に持った人>であったのではないかと思います。

 第三章を読みながら、”タケセン”を中心とした白樺教育館の活動が、これからの日本にとって、どれだけ大切なことかと改めて感じています。

 

 

   読んでいてゾクゾクッ!         古林 治

 私(実存)という個人とそれを活かす社会(民主制)の問題を明晰に捉えた思想・哲学は私の知る限り、なかったと思います。
 1章と2章のまとめもきわめて簡潔・明晰でわかりやすく、同時にまた、一般性・絶対性・普遍性の問題もそこに位置付けられてますので、とても 重層的で深みが生まれています。

 それにしてもペリクレスの演説にはまいります。
 ギリシャ文明は正真正銘の奇跡的存在だったということですね。
 振り返って現実のこの国を見ると、いや、見ちゃいけないのか(笑)。
 というのはジョーダンですが。


 なお、公共哲学の学者たちと竹内芳郎さんに会って以来、とても強く感じることですが、以下の文章には本当に同感です。
 『人生や社会のさまざまな出来事の意味と価値をふつうのことばで考察する「恋知」の活動が活発にならないと、民主制(市民主権による自治政治)をほんとうに機能させ発展させることは出来ないと思います。』

 

 

  稀有な哲学                内田卓志

 

『人生や社会のさまざまな出来 事の意味と価値をふつうのことばで考察する「恋知」の活動が活発になら ないと、民主制(市民主権による自治政治)をほんとうに機能させ発展させることは出来ないと思います。』ーーーーーソクラテスもブッダも親鸞も普通の言葉で語ったのでしたね。

 自らの頭で、ああでもない、こうでもないと、考えた人でないと、書けない文書ですね。すばらしい。
 私もいろいろな哲学者を見てきましたが、この様な誰でもわかる言葉で、語れる人は稀有です。それも「大哲学者」の学説を語るのでなく、自ら考える、思うことを、根拠から語る。 
 普通の言葉で語ることは、誠に難しい、ごまかしがきかない。自らの血となり肉となった思考の成果を感じます。 

 
 普通の言葉で語る武田哲学は、言葉に頼りすぎない哲学であると感じるのです。もちろん体験を大切にすることは、言うまでにないことです。 
ただ言葉はミラーボールですので、一つの単語でも文脈によりいろいろな輝きを見せます。武田哲学は、抽象的な曖昧性を排します。誠に難しい作業です。言葉の概念を絞り込み、普遍性を高めます。ここの働きが、学者には難しい。学者にというより、自分の頭で思考出来る人、学説や文献に頼ろうとしない意志のある人でないと出来ない。概念をどうしても駆使したがる。そんな風に思うのです。

 もっと申し上げたいのですが、夏バテバテで頭が働きません。いつもですが(笑)。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百田尚樹を批判 「ご自身が戦犯の第一人者、である昭和天皇・・」 清水光子さん(福田良三の実娘・84歳)

2014-08-24 | 社会批評

 放送作家の百(ひゃく)田(た)尚(なお)樹(き)の発言=「国家があって個人の幸福がある。国家のために死ぬ生き方を思い出そう」 に対して、
清水光子さんがコメントしていますので、ご紹介します。

 ※百田尚樹は、「永遠の0」の作者で、安倍首相と同じ「戦前の日本主義の思想」をもち、首相の肝いりでNHKの経営委員になった人。

 

    ちょっと過激かもしれまさせんが           清水光子

  昭和天皇はエイキュウ戦犯が、靖国神社に祭られてからは、参拝されていません。本当はご自身が戦犯の、第一人者ですのに。

  最近、小学校からの友人と会話で、彼女も、講和状約のあと天皇は、悪かったと、責任を取るべきだといって、私たち同じように思っておりましたことがわかり、すっきりしました。

  戦前から戦後、大事な人が戦死しても名誉に思っておるふりをし、食べるもの着るもの、本もない、貯金は封さ、インフレは凄く、母がいたから、生きて来れたと思います。

  政府、政治家は国民のことは「使い捨て」でした。

 今は、私たちに、主権があるのです。個人の主権を、しっかり守りましょう!

 (※写真は、今年(2014年)5月14日・白樺教育館で 光子さん84歳・わたし62歳 。クリックで拡大)

 
 
清水(旧姓・福田)光子さんは、今年84歳ですが、福田良三の実娘です。
 福田良三は、旧海軍中将 正義感に溢れる軍人。昭和天皇にも近い人で、敗戦時は、台湾の警備府長官でした。東京裁判では、「尖閣列島(魚釣群島)は自分(台湾州)の管轄区内であった」と証言しています。

 戦時中の1943年に勲一等瑞宝章受章を授賞、戦後はB級戦犯として1946年12月から1952年まで6年間獄中に(光子さんが16才から22才まで)。


 -------------------------------------------------------------------- 

以下は、私のコメントです。

 

 清水光子さんの文章=コメントは、光子さんの人間としての卓越性を表すものです。

 わたしたちの多くは、自身の出自に囚われて、無自覚であれ、自分をゴマカシて生きています。残念なことに、われわれ日本人は、世俗の価値(東大が偉い・大企業が偉い・皇室が偉い)を超えて、一人の人間として「善美に憧れ求める」人生を送っていません。

 精神世界をつくる恋知(ほんらいの哲学)がないので、「世俗の価値」が絶対という平板で底の浅い生き方に陥ります。テレビを見れば、恐ろしく単純な価値意識が支配しているのは誰でも分かるでしょう。有名な人や物が偉い!?

 社会批判を述べる人も、直接話をすると、そのホンネは同じ「知歴財」の所有で「自分を飾っている」のが分かり本当にガッカリします。『存在』そのものの魅力ではなく、知識や、財産や、履歴や体験歴の『所有』で胸を張るのです。

 清水光子さんは、「戦前のエリート族」の家系でしたが、そこにとどまれば、なにが出来た(優秀さを示せた)ところで、「裸の人間としての価値」は持ちません。しかし、自らの出自の価値を相対化して、自身の赤裸々な内部の声=出自と戦前思想の双方を超えた考えをもち、それを表出された為に、大きな価値が生まれました。

 その発話行為で、出自・時代・状況に埋もれない「光子さんの実存」が輝き、自身の人生を意味あるものとしたのです。見事です。「一人の人間」として生きる!

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倫理なき生とは、人間なきヒトでしかありません。道徳律を強要する者は、反倫理の見本です。

2012-12-18 | 恋知(哲学)

以下は、白樺MLです。

倫理とは何か?についての対話篇です。

 

武田様

美味しいお店を予約して下さり、ありがとうございました。

ほんとうにお値段は「程々」でとても美味しかったです。 (我孫子市若松の和食レストラン『程々』は、食材も料理の腕も見事で、白樺派の「民芸」思想と通底する職人気質のお店です。驚くほど廉価ですー武田)

大満足です。

写真もありがとうございます!

教室に戻ってからのお話、「『倫理』的かどうかは『心』があるか否かである」ということ、とても良く分かりました。

最近あらゆるところで『心』のなさを感じます。『心』があればもう少し方向と結果が違っていただろうと思うことがよくありますね。冤罪の裁判でも、原発やトンネルの事故でも・・・

勿論政治全体でも。

反倫理的政府で「人間」とは言えない人たちがリーダーになれば、これからますます問題が顕著化しそうで心配です。

気付いた人から、何かできるところから行動を起こさなくてはいけませんね。

頑張りましょう。

楊原

―――――――――――――――――――――――――――――――

武田先生

『愉しい哲学の会』、今年最後の日に 最高に豊かな1日を戴きました感謝しております。

倫理について!良く解りました。

「道徳」とは社会的常識により「善い悪い」を判断して生きて行くことで、外にある基準で自分を律すること。でも、大切なのは内なる心の価値。それが「倫理」で、倫理は他人が対象などでなく、私自身の心の向かい方感じ方が深く豊かであり そこに思いやりや同情の優しさに満ちた心があること、という理解ができました。

また生きていくのが楽になりました 。

グランドグレートマザー「ヒイオバアサン」で、年をとって役に立たないことが恥ずかしくなっていたのに、まだ思いやりを持って生きていくのがいいのだと~楽な心になれました 。

先生のお言葉により  二回目の生きる力を戴きました。感謝して今年の締めくくりができます。有り難うございます。

先生は来年は飛躍の年を決意しておられますがお身体に気をつけて下さいませ、素晴らしい年をお迎え下さいませ。

清水光子

――――――――――――――――――――――

楊原さま 清水さま
よいメールをありがとうございます。感謝です。

繰り返しになりますが、

「道徳律」というのは、外なる基準によって善い悪いを判断していくことですが、
「倫理性」は他人の批評(他者からの承認)ではなく、私の心のありようのことです。自他(人間とは限定されない)へと向かう愛の心であり、思いやりや慈しみや同情や優しさに満ちた心、その程度が倫理的価値の大小ですが、それは、私の内部で私が感じ知るものであり、外から測ることは出来ません。私の内部に養うもの・養われるものであり、強要することは不可能です。この愛の心が、最も深い意味での「責任」という意識を生みます。

心が苦しいとか、心が締め付けられるとか、心がしみじみするとか、心が愉悦感で満たされるとか・・・という私の内部の経験は、私が機械的存在でなく、人間であることを告げ知らせてくれますが、外的価値(損得、勝ち負け、有名・無名、権威・非権威・・・)に従う生き方は、単なる情報処理マシーンのようであり、フッサールのいう「事実人」(犬でも猿でもなく、またロボットでもなく、ヒトではある)に陥り、人間としての生を営む存在にはなれません。

倫理なき生とは、人間なきヒトでしかない、と言えます。

「道徳律」をつくり他者に命じ、教育する人ほど「倫理性」に乏しいものです。そういう輩は真の自己反省を持ちません。なにかしらの【超越項】(国家とか天皇とか国民の常識だとか・・・)を掲げて自己から逃げる卑怯者・愚か者です。そういう人が政治権力を使って学校教育に介入するのは、許し難い悪事で、反倫理の見本です。

武田

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「領土問題の背景と結語」ーーアップしましたので、拡散をよろしくお願いします。

2012-10-23 | 社会思想

下のブログを『白樺教育館』のホームページにアップしました。写真入りで読みやすくレイアウトされていますので、みなさまぜひ拡散をお願いします。

石原慎太郎氏の仕掛けでとんでもない事態になりました。一人の特殊思想というより「悪感情」をもつ権力者の言動が世界を悲劇に陥れてしまいました。被害額も天文学的数字ですので、石原氏の責任は言語に絶するものですが、わたしたち一般の市民は、冷静な理性を持ち愛の心を失わずにこの問題に対処したいと思います。ぜひ、以下の「領土問題の背景と結語についての記事を広めてください。よろしくお願いします。みなさん、共に!

武田康弘

白樺教育館ホームページは、http://www.shirakaba.gr.jp/

 

前ページ

144. 歴史を学ぶことの意味
    尖閣(釣魚島)と竹島(独島)問題の背景ー説明と結語

 現在進行中の領土問題ですが、メディアでは様々な取り上げ方がされています。かなり感情的であったり、一面的な捉え方だと感じている方も多いようです。
 この問題、教育上の大きな問題とも密接に絡んでいると考えますので、取り上げることにしました。

 いうまでもなく、私たちが歴史を学ぶ意味は、基本の史実を知り、そこから意味をつかみ取り、そしてより良い社会を構想することにあります。どうもその基本を踏み外しているような気がしてなりません。
 かくいう私(古林)自身もこの領土問題をきっかけに、戦後の日本の出発点とも言えるポツダム宣言カイロ宣言降伏文書の中身を初めて読むことになりました。情けない話です。基本的な事実すら知らずにいたのですから。

 領土問題の背景にある基本的な史実をしっかり捉え、それがどのような意味を持っているのか、そしてどうしたらよいのか、基本中の基本の話ですが、タケセンがその良い一例を示していますので、以下に紹介します。これをきっかけに、より突っ込んだ創造的な議論が始まることを切に願っています。

 なお、言うまでもないことですが、現実世界の問題を語る時に絶対正しい答というのは存在しません。あるのは、どの考えがより優れているか、です。より良い考えを一人一人、皆で考えてみようではありませんか。


 
 

尖閣(釣魚島)と竹島(独島)問題の背景―説明と結語 (タケセンの「思索の日記」 より)

 尖閣(釣魚島)問題は、前のブログにも書きました通り、中国蔑視の感情を持 ち続ける一人の権力者・石原慎太郎東京都知事が日中国交40周年に合わせて仕掛けた罠に野田首相が嵌(はま)ったことから大騒動に発展しました。中国との約束を反故にして尖閣を国有化したために、中国人の「反石原」で留まっていた感情は「反日」へと変化拡大してしまったのです。

 これによる国民益損は計り知れないものです。政治を主権者である市民の「一般意思」ではなく、政治家個人が持つイデオロギーで行うのは民主主義の否定ですが、それは国を大厄災に投げ込みます。私たち日本人は、戦前の「天皇現人神の国体思想」に基づく強権政治・軍国政治でイヤというほど経験済みです。

  また、竹島(独島)については、すでに半世紀以上に渡って韓国が実効支配していますので今さら話題になるはずはないのですが、李 明博(イ・ミョンバク)大統領が人気取りのために島に渡ったことが大きく報道されて騒動に発展しました。

  すでにブログに書きましたように、この韓国、中国との領土問題が生じる原因は、わが国の明治維新後の政府による【強権】(戦争による領土拡張戦略とそれを支えた天皇教)と、第二次世界大戦へと続いた中国侵略にはじまる15年戦争の敗戦 (『ポツダム宣言』受諾―『降伏文書』への署名)という厳しい現実に対する【認識の甘さ】にあります。

 何より必要なのは、わが国は領土について大きな顔ができる立場にないことの自覚です。慎重に考え、対処しなければなりません。

 

 それでは、まず尖閣諸島(釣魚島)ですが、歴史的には台湾に所属していたことは各種文献から明白です。琉球王国(「明」が承認した独立国)からは遠くて海流も逆ですので、古代の木造船で行くのは至難でした。また、中国の版図には15世紀から釣魚島として記載されています。

 明治になり、伊藤博文は日清戦争時に日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。
1885年(明治18年)に明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、
「魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
「調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 したのです。

  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
「久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

  その後、わが国は日露戦争、第一次世界大戦参戦、シベリア出兵、満州侵略に始まる15年戦争(日米開戦による第二次世界大戦へ)と連続して戦争を行い、最後に 『ポツダム宣言』を受諾して敗戦します。ポツダム宣言はアメリカ、中国、イギリスの三カ国による13項目の宣言で、日本の抵抗は、「連合国による日本全土の完全な破壊を意味する」と書かれ、「カイロ宣言は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州および四国、並びにわれわれの決定する幾つかの小島に限定される」とされました。

 ここで問題なのは、尖閣(魚釣島)が沖縄と台湾のどちらに帰属するかですが、敗戦まで日本支配下の台湾で警備府長官だった福田良三は、釣魚島が自分の管轄区内(「台湾州」の管轄)であったことを認めています(余談ですが、福田良三さんは、わたしの主宰する『愉しい哲学の会』の中心的参加者である清水光子さん(82歳)の実父です)

 なお、琉球王国は、1879年(明治 12年)に明治政府による【琉球処分】 (琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず)で沖縄と変えられたのですが、それまでは中国と盛んに交易し「琉球の大航海時代」が続きました。
 以下は9月28 日のブログです。  

 「琉球(沖縄)と中国は500年間の交流をもちます。1372年に琉球王朝を明が承認してから定期的に交流をもってきました。魚釣島(尖閣諸島)は福建省から琉球への途次に航海の目印として使われていたことが中国の古文書に記録されています(一番古いものは1534年5月8日)。  
 1609年に薩摩が琉球を侵略してからは明と薩摩の「両属」となります。薩摩の兵隊は(明は琉球に軍隊を置きませんでした)明の役人が来ると平服に着替えて隠れるようにしていたと記録されています。
 薩摩は、琉球が中国と江戸の橋渡しをしていた(琉球の「大航海時代」と呼ばれる)為に交易物(物や情報)を得るのが目的で来ていたのです。琉球は、中国と日本の仲立ちをしていましたが、この盛んな交易は1879年(明治12年)に明治政府による【琉球処分】(琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず沖縄と呼称)まで続きました。」

 

 では、次に竹島(独島)問題に移りま す。  

 竹島は、極めて小さな島で二つに分かれています。周囲の岩礁を含めても0.21平方キロメートルしかなく、大きな岩の塊でしかありませんので、歴史的にはこの島自体が領有権争いの対象とはなりませんでした。90キロメートル離れた鬱陵島(うつりょうとう)へ行くために寄る(天候悪化時の待場)か、そこで漁をする場として知られていたわけです。  

 それがなぜこれほどの問題になっているのかと言えば、明治の日露戦争時に桂内閣が日本領に編入したのと韓国支配がリンクしているからです。  

 民主的な運動に対する弾圧者として知られる桂太郎は、陸相を歴任し、三度首相を務めた人ですが、彼は、日清戦争に勝ち日露戦争(1904年2月~1905年9月)を戦っていた1905年(明治43年)1月28日に、閣議で竹島を日本領に編入することを決めます。これは、島根県でアシカ漁を営む(短期間でしたが) 中井養三郎が政府に提出した『りやんこ島(竹島)領土編入並に貸下願』を受理したことによります。最初は内務省が書類の受付を拒否しましたが、外務省の山座政務局長が助力して受理されました。  

 明治維新後の1877年(明治10 年)に政府は「竹島外一島(たけしまほかいっとう)本邦関係無之」と決定し、島根県庁に通達を出していた(ここでいう竹島とは現在の鬱陵島のことで、竹島外一島が現在の竹島)のですが、日本海での海戦を有利に進めるために竹島を領土に編入することが急務だと考えてのこと でした。

 この竹島編入をキッカケに、同年 (1905年)の11月に伊藤博文は、韓国皇帝の高宋(コジョン)と政府高官を脅して「第二次日韓協定」に署名させました。 拒否できないように王宮前に日本軍を配置し、武装デモンストレーションで威嚇して嫌がるのを無理に調印させたのです。外交権を奪い内政も左右し実質的に韓国を支配したのですが、これは「無法の一語に尽きる」と評されるように、伊藤と駐韓公使・林権助の筋書き通りの陰謀でした。それから5年後の1910年8月に「天皇の直轄地として日本に併合」したのですが、この年5月に日本では「大逆事件」(社会主義者を撲滅するために仕組まれた国家の権力犯罪)が起き、罪のない無政府主義の思想家・幸徳秋水らが捕らえられ、翌年1月に24名の死刑判決が下りました。なお、権力・権威におもねない個性と自由尊重の同人誌『白樺』が創刊されたのもこの年、1910年です。  

 次に地理的な話しですが、鬱陵島はかなり大きな島で面積は72平方キロメートルあり(伊豆大島より一回り小さい)、竹島までの距離は90キロメートルですから、伊豆大島からならば御蔵島までと同じです。竹島は日本側からは隠岐から170キロメートルですので、二倍近くの距離があります。この鬱陵島をめぐっては江戸幕府の『竹島(いまの鬱陵島のこと)一件』の判決で、 朝鮮領であることが確定しています。竹島(当時は松島と呼ばれた)については、鬱陵島に行く途中にある小島ということで鬱陵島の属島と認識されていたようです。  

竹島=独島問題入門
小雑誌ですが、とても内容の
  濃い本です。
安価(840円)ですので、興味
  ある方は是非購入を。

 なお、この竹島をめぐる問題の詳細に ついては、外務省発行のパンフレット 『竹島』(ネットでも見られる)と、それへの批判である『竹島=独島問題入門』 (内藤正中島根大学名誉教授著)の双方を読まれることをお勧めします。  

 近代史を知ると、竹島は、韓国側から見れば日本の韓国侵略の象徴であったために彼らにとっては死活問題であることが分かります。  

 
日清・日露_集英社版
集英社版『日本の歴史』
これは第18巻.
大変優れた本です。高価ですが、
ときどき全巻が中古で売られています.

 わたしがここで書いた歴史的経緯は、 主に集英社版の『日本の歴史』(全21巻+別巻)に依っていますが、近現代史は、歴史研究者の本を読むほどにわが国が犯 した罪の深さを実感します。
「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそう した危険に陥りやすいのです。」
というドイツのヴァイツゼッカー大統領の言葉を皆のものとしなければ未来は拓けないと思います。  

 以上、わたしは、尖閣と竹島問題の歴史的経緯の「事実」を踏まえた 「本質論 =意味論」を記しましたが、そこから導かれる結論はシンプルなものです。
 以下は 10月3日のブログです。

 「まず、尖閣(魚釣島)については、中国側から「棚上げ」を打診してきているのですから、これを受け入れるのがベストです。40年前の国交回復時から「棚上げ」でしたが、「棚上げ」は日本にとって有利な話です。棚上げして共同事業を立ち上げれば、大きな利益が生まれます。日中の経済交流は今よりもずっとスムースに進み、日本の国民益(国益)は莫大なものとなるでしょう。  
 また、韓国が実行支配している竹島については、韓国領として承認するのがよいのです。そうすれば韓国の対日観は大きく変わります。韓国の日本歓迎は予想を超えたものとなると思います。これによる心理的・経済的効果は計りしれません。すでに韓国が実行支配している小島を韓国領として認めるだけでよいのです。 そのかわりに漁業権を認めてもらうように交渉するのです。  
 わが国が領土問題で余裕のある利他的態度を示せば、近隣諸国は日本を高評価します。それがもたらす倫理的・心理的・政治的・経済的効果は予測を超えたものとなるはずです。日本への評価は一変するでしょう。 わが日本の市民と政治家と官僚は、ぜひ、大胆な発想の転換で領土問題を乗り越えようではありませんか。危機は何よりのチャンスです。  
 男のヒステリーほど危険でおぞましい ものはありません。冷静な理性と人間性豊かな愛の心をもちましょう。上手に国際的なネットワークを築くことがどれほどの利益を生むことか。イデオロギーではなく、豊かな現実の果実を目がけたいものです。 」  

 私は、領土問題の核心は明治政府(~ 昭和)のアジア侵略への反省を通じて新 しいアジアとの交流をつくりだす点にあると考えますので、その視点から以上の文章を書きました。人生や社会問題では、「絶対的に正しい見方」は存在しませんから、 何をどう考えどう対処したら優れた友好を創造できるか、それを考えることが何よりも大切です。

2012年10月18日 武田康弘

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日の『愉しい哲学の会』ーー裕仁天皇の15年戦争への舵取り・他

2012-06-14 | 社会思想

昨日の「愉しい哲学の会」の写真です。

昨日は、
1925年に軍人の田中義一(ロシア革命への干渉=シベリア出兵を敢行し陸軍大将となる)が首相となり、わが国が軍国路線を走りだした後の複雑な政治状況を後追いしました。

田中は、過激な関東軍による張作霖爆殺事件(1928年)への不快感をもった天皇裕仁の意思により辞任させられますが(これは、わが国が立憲君主国ではなく、君主たる天皇の意思が現実政治を動かす天皇主権国であった証)、

その天皇裕仁の言動の大きなブレ

1931年の関東軍による満鉄爆破(柳条湖事件)に始まる満州事変に対して最初は懸念を示していた天皇の裕仁は、
翌32年には「関東軍に賜りたる勅語」を出し、「皇軍の威武を中外に宣揚」したとして統率に服さなかった関東軍を褒めたのです。
この詔書は、ラジオや新聞を通じて国民に広く伝えられた為に、全国民の意識は、一挙に戦争肯定へとなびいていきました。

☆資料は、『昭和天皇』(原題=『HIROHITO』)ハーバート・ビックス著・講談社刊・2001年ピュリッツァー賞受賞本の上巻202~203ページ。

この後の内容を書くと大変ですので、カットしますが、
全体の資料は、集英社版『日本の歴史』19です。また、同時代の海外からの目としてトロツキー著『破局に向かって突進する日本・1933年』(新潮社)を紹介しましたが、その慧眼には、誰しもが唸らされました。わたしが19歳の時に購読した書ですが、今読み返しても唖然とするほどの鋭さと深さです。

なお、1930年代以降の日本の雰囲気=【皇族】の意向がいかに大きなものであったか、は、当時を知る参加者の清水光子さんが少し語られました。清水光子さんは、お父さまの仕事の関係で当時のありようをリアルに記憶していますので、毎回、貴重な「思い出」が聞けます。

 

その他には、
長坂寿久(ながさか・としひさ)さんの『市民社会力』(2007年明石書店刊)を使い、ト―ビン税(通貨取引税)のメカニズムについて学びました。

また「この書の出版は「事件」でした。 アマゾン・レビュー『ともに公共哲学する』(東大出版会)」にも触れました。

さらに、日本の裁判は、なぜ「公正」ではないのでしょうか。司法官僚のための裁判。を読んで頂き、裁判とは何か?の本質論についてもお話しました。

また、インチキなマスコミ(笑・困)の一例として、この日と前日にNHKをはじめ、大新聞で大きく報道されたIMF(国際通貨基金)理事の発言「日本は至急に消費税を上げるべき」を取り上げました。IMFの構成員は、日本は財務省の官僚であり、副専務理事は、財務省官僚の退職者から選ばれているので、IMFの発言とは財務省の意見なのですが、それを、あたかも国際的な第三者機関の発言のように報道するマスコミは、官僚の集合意思と一体化した国民洗脳機関にすぎませんが、これは、上記の戦前の歴史とダブります。

また、現在の政治の混乱の最大の原因についてもお話しました。
キーワードは、「裏切り」です。政権交代の最大の功労者で民主党の代表を、検察庁の策謀におびえて「裏切った」ために、【新政権vs官僚主義】という闘いは雲散霧消してしまい、選挙を通しての無血革命は成就しませんでしたが、自立する市民が主役になるほんものの変革は、これからですよ=====。

 

武田康弘

☆写真は、会の終了後、愉悦感あふれる(笑)白樺同人の顔=表情です。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事件だった『哲学往復書簡』(金泰昌と武田康弘・東大出版会刊)の裏話。

2012-05-11 | 書評

 金泰昌さんからのお申し出により、5年前、2007年の5月から行われた武田・金の哲学往復書簡34回(出版されたのは30回分)の裏話を以下に記します(金さんは、東大出版会のシリーズ『公共哲学』全20巻の編者であり国際的な政治哲学者です)。

 書簡の前半部分(とくに3回と5回の武田書簡)は、明治政府作成の日本の思想を俯瞰的に説明したものです。政治・社会・教育の全体を支配した【近代天皇制=天皇教・東大病=官僚主義】についてのわたしの見解を提示したのですが、それは、その前後の書簡で説明したように、(1)教育と知の目的は「主観性の知」にあるという本質論と、(2)現象学と実存思想(「私」からの出発)に立脚した哲学に支えられた 歴史と現実社会の分析で、まとめて「武田思想」とも呼ばれています(なお、認識論の原理であるフッサール現象学は、旧友の竹田青嗣さんによる解釈が最も有用で優れていると思いますので、それに依拠しています)。

 後半部分は、公共とは何か?の本質論と、それに深く関係する金さんが主導した東大出版会の基本方針=「公・私・公共の三元論」を巡ってのものです。わたしは、実存論に立脚する武田の公共思想を述べ、現代においては近代民主制(人民主権を原理とする)を徹底する以外に「公共性」を実現する道はないとして、三元論は、民主主義の原理論次元では成立しない(現実次元では有用である)と批判しましたが、それは結果として大きな支持を得ました。公的(2008年1月の参議院におけるパネルディスカッションなど)にも、私的(私信やわたしの催す会など)にもです。それらの多くは、このブログ「思索の日記」でご紹介してきました。

 この哲学往復書簡は、2005年の6月に金泰昌さんがわたしの白樺教育館を訪ねて以降、金さんとの二年間にわたる日常的な電話対話の末に行われたものですが、これが公開されて出版されるまでには、凄いドラマがありました。 

 パート1(「楽学」と「恋知」の哲学対話・第1回~第21回)については、スムースでした。
まず『公共的良識人』紙の7月号に(1)から(11)までが載りました。前例のない特別扱いで、8ページの紙面のうち一面から5面までを使い、活字の段組みや体裁も変えての掲載でした。翌8月号にはその続き(12)から(21)までが掲載され、パート1は完結しました。

 問題は、パートⅡの「三元論」(「公」とは区別され次元を異にする「公共」を置く理論)を巡ってのものでした。わたしは、二元論とか三元論という発想(一元論?四元論?)そのものに異和を感じ、従来の国家主義的発想を超えるためには、民主制の原理を明晰に自覚することが必要で、第三極をおく・第三の道を歩むという優れた実践は、その原理を踏まえないと真に力を発揮しないと考えていました。それは、わたしが都立高校生時に全学議長として学校改革を成就させた体験にはじまる数々の公共的運動の成功体験(我孫子市における実践が主)に基づく確信でした。

 ところが、金さんの三元論は、『公共的良識人』紙とそれを母体にしてつくられていたシリーズ『公共哲学』(東大出版会刊)の屋台骨でしたので、それに対する原理次元における強力な反論であるわたしの書簡は、編集部全員の反対で掲載を拒否されたのでした。
(なお、パートⅡの往復書簡は、実は、発表された30回ではなく34回行われたのですが、わたしの反論に対して苛立ちを覚えた金さんが感情的となり、公表できるレベルを超えてしまいましたので30回までとなっているのです。一旦、冷却期間を置くことにして、往復書簡は中断しました。)

 2007年の11月某日、金さんからの電話で「申し訳ないですが、編集部の全員が反対しているので、哲学往復書簡の後半は、掲載しないことになりました。」と言われました。
わたしは、「分かりました。権利はそちらにあるのですから、わたしは批判めいたことは何も言いません。」と話し、「でも、残念ですね。金さんは、日本では異論や反論がなく、ほんとうに自由な対話がない。それが日本の実に困った問題だ、といつも仰っていましたが、今回わたしたちは、異論・反論を忌憚なく出し合いながらも人間関係が崩れないという見本をつくったのに、それが公表されないとは、・・・・」と話しました。
うーーん、と金さんは、唸り、「武田さん、分かりました。その通りです。もう一度、編集会議を開き、強く言います。」と話し、電話を切りました。
翌日、「武田さん、載せることになりました。どうしても載せたい、とわたしは言い、いろいろ大変でしたが、編集部を説得しました。」と金さんからの電話でした。不思議な感動がありました。素晴らしいことと感じ、心が震えました。

 12月号に載りました。6面から8面の3ページですが、一面に、大きく太い文字で【「楽学」と「恋知」の哲学対話・武田康弘と金泰昌の往復書簡その3】と記載されています。この号は、大反響でした。発行元の「京都フォーラム」に多くのメッセージが寄せられたとのことですが、参議院調査室や人事院の関心も集め、翌1月(2008年1月22日)の参議院におけるパネルディスカッション『公共哲学と公務員倫理』  (パネラーは、わたしと金泰昌さん、東大教授の山脇直司さんと調査室の荒井達夫さん)においても、参加者にコピーが配布されました。

 なお、この往復書簡を発表する段階で、金さんは、自身の書簡を大幅に加筆・訂正しましたので、それに対してわたしも一部手直ししましたが、必要最小限に留めています。加筆・訂正前のオリジナルは、「白樺教育館」のホームページで読むことができます。
(余談ですが、この往復書簡の日付を見ると、わたしは、金さんの書簡を受け取った翌日に返信しているものが多いのです。Eメールが日常化していなければあり得ないことで、よいか悪いかは分かりませんが、自分でも驚きです。)

その後、この哲学対話の続きをしたいと金さんから再度の申し出があり、テーマは「命」ということになりました。まず、武田さんが書いてほしいと言うので書いたのですが、金さんはわたしの思想に応答することが難しいようで、返信がなく、そのまま中断して今日に至っています。というわけで、それからしばらくの間、金さんとの交流はありませんでしたが、2010年の春に珍しく金さんから電話があり、「哲学往復書簡を東大出版会から本にして出したいのだが・・・」とのことでした。

 わたしは、まったく思いもよらぬ話でビックリしました。「東大病」批判も書いた往復書簡が東大出版会から出る?そんなことがあり得るのかな、不思議な気持ちと同時に、金さんにはかなり不利な内容を含む往復書簡を出すという勇気にも感心しました。

 わたしは、この出版に際して、東大出版会の編集長・竹中英俊さんと知り合い、それがきっかけで、メールでやりとりする友人になりました。Facebookでは、いつも私のブログ『思索の日記』に「いいね」を付けてくれます。

東大出版会から本を出すにあたっては、またまた大変な難産でした。この金泰昌さん編集の『ともに公共哲学する』は、金さんの膨大な日本での対話の中から選出したものですが、わたしとの往復書簡がメインで、全体の四分の一(90ページ)を占めています。目次には(1)から(30)までの書簡の小見出しがズラリと並び、(5)【学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能】という文字も目立ちます。

よく出せたものだな、と思いましたが、実は、竹中編集長の不屈の闘いがあってのことでした。東大出版会から本を出すには、教授会の賛成が得られなくてはなりませんが、やはり始めは「ボツ」になったのだそうです。それを再度の挑戦で竹中さんは出版にこぎ着けたのですが、彼らをどのように説得したのか、詳しいことは不明です。今度聞いてみましょう(笑)。
はじめボツになった理由は、推察するに、オリジナルすぎる思想でしょう。わたしも金さんも、自身の具体的経験から立ち上げた思想で前例がありませんから、東大という官知の大学人は、どのように遇したらよいかが分からないのです。意味ある反対論はなく、ただ「勝手なことを言っている」程度の言葉しか出なかったようです。

わたしは、東大教授のみならず大学人との交流が多くありますが、彼らは書物に頼るのみで、自身の具体的経験から立ち上げ自身の頭で考える力が弱いので、オリジナルの思想を構築することが出来ないのです。哲学教師はいても哲学者(恋知者)はいません。自分の力で哲学したい方は、大学ではなく、「白樺教育館」の大学クラスにお出で下さい(笑)、と最後に宣伝して、この裏話をおわりにします。

武田康弘

-----------------------------------

 

哲学教師はいても哲学者はいません (荒井達夫)
2012-05-1209:43:11

 日本国憲法の制定に深く関わり、さらに内閣法制局長官、人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。

「昭和22 年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15 周年にあたって」『人事院月報』昭和38 年12 月号)

佐藤氏は、法制的に我が国の公務員の原点を指摘したわけですが、この佐藤氏の言葉を哲学的に掘り下げて「官」の存在意義を説明する学者は誰一人出てこなかったのです。それを成し遂げたのが、武田康弘さんの次の言葉です。

「公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた『官』は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する。これが原理です。」(武田康弘

未来永劫消えることのない、人々の魂に響く言葉といえるでしょう。

「書物に頼るのみで、自身の具体的経験から立ち上げ自身の頭で考える力が弱いので、オリジナルの思想を構築することが出来ないのです。哲学教師はいても哲学者(恋知者)はいません。」(武田さん)

これは、まったくそのとおりです。

――――――――――――――――――

みなさん、ありがとう。 (武田康弘)
2012-05-1214:13:41

荒井達夫さんの大活躍、古林治さんの支え、
コメントを寄せてくれているみなさん、とりわけ、わたしの教え子の綿貫信一さんや染谷裕太さんや青木里佳さんや西山祐天さん・・・愉しい哲学の会の清水光子さんや川瀬優子さんや楊原泰子さん・・・mixiの仲間たち、
鎌ヶ谷市公民館のとわの会のみなさん、
わたしを金さんに紹介してくれた山脇直司さん、竹中英俊さん、わたしを高く評価してくれた金泰昌さん、
同志の福嶋浩彦さん、旧友の竹田青嗣さん、
恩師の竹内芳郎さん、討論塾のみなさん、
内田卓志さん、
熱心に講義を受けられ、ディスカッションに参加された参議院調査室のみなさん、
人間性豊かな心、愛ある人たちの共同がなければ、根源的な変革は不可能です。みなさん、これからもよろしく。
悦びの生、意味充実の知、日本を魅力ある社会に変えるために、ぜひ共に!

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹内哲学と柳思想へのわたしの見方ーー「理論の哲学」から「体験の哲学」への深化のために。

2011-11-25 | 恋知(哲学)

竹内哲学と柳思想へのわたしの見方               


かつてわたしは、サルトル、メルロー=ポンティらの翻訳者+解説者で、独自の思想をもつ哲学者の竹内芳郎さんに師事し、深く交流を持ちました。20年以上前のことですが、竹内さんの全著作を読み、主要な哲学作品のレジュメも作成し、『討論塾』の立ち上げ時にはその中心者となりました。

また、『白樺文学館』(わたしが主宰する「哲学研究会」の熱心な参加者であった佐野力さんがお金を出し、わたしが全コンセプトを作成して創設、今は我孫子市が運営)をつくるときに集中的に取り組んだのが、柳宗悦の思想です。10年以上前のことですが、柳宗悦全集を購入し、鶴見俊輔さんや水尾比呂志さんらの解説、松橋桂子さんの『柳兼子伝』、また最近では中見真理さんの『柳宗悦』にも学びながら、その思想の核心を探る努力をしてきました。

わたしは、彼らの語る思想に感心してよきものを得ましたが、同時に異和も覚えました。端的に言えば、彼らの思想は、イデオロギーの次元における「優秀さ」以上のものを持たず、現実に生きるわたしの心身にまでは届かない、そんな風に思えたのです。

民芸運動を支える実践的な柳宗悦の思想―直観力に優れた彼の哲学思想といえども、観念性が強く、ビビットな現実感覚から遠く、真のリアリティを持たないのです。
現代に生きる竹内芳郎さんの思想も、「具体的経験」の哲学を謳い、現実問題に応答することを強く意識しながら、やはりその明晰さは言語世界に留まり、広がりを持ちません。固い論理に支配され、生々しい現実を支える豊かさ、強さ、柔軟性とは遠いのです。

お二人は時代も立場も異なりますが、評論家としての思想家や大学内の哲学教師とはまったく比較にならぬほど優れた思想を展開しました。しかし、わたしはそこに書物=活字に価値を置く哲学の限界を感じてきたのです。彼らはイマジネーションの広大な世界に着目しながらも結局は言語中心主義から脱却できず、「理論」としての哲学が優先し、「体験」としての哲学は中途半端に終わりました。その原因をわたしは、自らがその哲学の核とした概念に対して【不徹底】であるからだと見ています。そのために「哲学の原理」の提示とはならず、「イデオロギーとしての思想」の次元に留まらざるを得なかったのです。

竹内芳郎さんの哲学

竹内芳郎さんは、自身の哲学の方法的装置として「具体的経験」を掲げてきましたが、それは、先のブログに記した通り、間接経験と直接経験との違いに無自覚な経験概念でした。「具体的経験」とは、あくまでも「マルクス主義という極めて客観主義的な理論体系と切り結ぶ」(岩波書店刊『具体的経験の哲学』のはじめにvi)ための方法だとされ、哲学の原理ではありませんでした。

「具体的経験」は、わたしのように直接経験にまで還元することで哲学の原理になりうるのですが、還元が不十分な為に「原理」とはならず、「理論を賦活化させるための装置」として位置づけられました。この不徹底さが、竹内さんの哲学を一思想(イデオロギー)の次元に留めることになってしまったと言えます。

「今は受け入れられなくても本=理論書が後世に残れば」、という竹内さんの言い方は、「生きられる現在」以上の価値を理論に与えるものですが、それが、日常言語とは異なる第二次言語(理論)としての強い自立を目がける努力となりました。その姿勢から「知識人と大衆」とか「大学人と一般人」という二分法が生じ、両者の不断の交流をめざすべきという主張が出てきますが、こういう二分法は現代ではリアリティを欠くと同時に、よろこびが広がる生き方や民が主役の社会をつくるためにはプラスになりません。

わたしは、人間の対等性(自由と平等)を基盤とする民主的な倫理思想がなければ、哲学(善美に憧れる人間の生)は「原理」を持てず、ただのイデオロギーに陥ると考えていますが、それでは弱い思想にしかならず、人間の生の現実を輝かせ、支える力を持ちません。わたしが具体的経験を直接経験にまで還元する哲学を提唱するのは、哲学を原理にもたらすためなのです。『体験(明証性)から出発する哲学――「具体的経験の哲学」批判Ⅱ――』をぜひご覧ください。

わたしには、サルトルの過ち(自身の実存主義という思想を、マルクス主義を賦活化させる寄生的理論と規定してしまった)を竹内さんは後追いしているように思えます。具体的経験という貴重な概念を、「理論を賦活化させるための装置」にしたのでは、具体的経験(生きられている今の経験)は光を失ってしまいます。サルトルも竹内さんも自らの中心テーゼに不徹底であるがゆえに、日々の「体験」を輝かす「民」の哲学にまで進むことが出来ず、知識人の優越という次元に留まったのです。厳しい言い方をすれば、次に述べる柳宗悦の思想と共に彼らの哲学は、現実世界への「対抗イデオロギー」としての役割を果たすのみで、「私」の生を支える「哲学の原理」にまで深まることがなかったと言えます。

柳宗悦の思想

では、次に柳宗悦についてです。
柳は、哲学徒(東大哲学科)としての出発の前、学習院の中等科のころから『自己信頼』等のエマソンの著作に親しんでいた早熟の若者でした。21歳で同人誌『白樺』の創刊に参加し、白樺運動における「哲学と思想の中心者」となりました。彼は、声楽家の兼子(かねこ)と結婚してすぐ伯父の加納治五郎の勧めで我孫子に移り住むと、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチを集め、我孫子を白樺派の拠点としたのです。

柳の思想の原点は、24歳のときに『白樺』に載せた論文に明瞭です。
「自己をおいて哲学には一切の出発がない。・・自己を離れ自己の要求をおいて、哲学は何らの力ももたらさない。あらゆる特殊性を排除する客観的態度は許されない。個性は哲学にとって永遠に絶えることのない神前の燈火である。」

柳自身の生き方について見れば、その後の様々な活動による変化の中でも、この原点を踏み外すことはなかったと言えます。彼は、外なる思想体系ではなく、内からの衝動=内発性を重んじ、それを自身の原理とし、実践的思想家として「民芸」運動を中心に様々な活動を行いました。しかし、その思想を生きたのは知識人としての彼のみでした。

民芸運動における知識人と工人については、優れた知識人による工人の指導という見方で、工人と個人作家(知識人)を二項対立させた上で、互いの学び合いを主張したに過ぎません(「民衆は方向性はないが、無心で篤信である。かたや知識人は、方向性はあるが、無心になりきれない」)。また、社会変革の問題でも、民衆を従順で受動的な存在と位置づけ、主体的な存在とはせず、民衆自身が哲学者(哲学する者)・社会的実践者となっていくことには否定的でした。

個性・内発性を自身の哲学の原理としていた柳が、なぜ知識人以外の民衆の個性・内発性を否定してしまったのか? 
このエリート主義をもたらしたのは、【内から、という原理の不徹底】にあると思います。この不徹底ゆえに、民芸運動は、民主主義とは遠い啓蒙主義に留まりました。自らの【内】から(体験=直観)という座標軸を民衆一人ひとりのものとする哲学原理をつくることに失敗したのは、柳が西洋とは異なる日本文化の独自性を見出したいという強い欲求を持っていたからです。

日本民族の独自性=【民族】という視点は、内から、という原理と衝突します。一人ひとりのありのままの存在仕方につくのではなく、外なる基準=超越項(柳の場合、民族という視点)から見るというのは、内からの哲学ではなく、外なる宗教的思想に陥ります。
一般に、民族、国家、王(天皇)、神、他者、理論・・・・なんらかの【超越項】を置き、そこから自分や世界をみるという思想は、一つのイデオロギー=主義=宗教に陥り、「私」の存在から出発し、自らの体験の明証性を原理とする哲学とはなりません。
柳は、正しく「客観主義」を否定し、「主観性の知」につく哲学を宣言しながらも、自身と民衆の「内」からの見方に徹底することができなかったゆえに、さまざまな外なる基準(民族、神、地方性・・という超越項)を導入せざるを得なくなったのです。

人間存在の対等性という民主的倫理につき、一人ひとりの存在を超えた絶対者を認めず、各自が座標軸となるという内からの哲学の原理を徹底すれば、「超越項」を置くという弱い思想≒逃避的思考≒エリート主義≒超越哲学というものは、知識人を中心とした人間の不安感情が生んだ幻影でしかないことが分かります。内から生きる、という恋知(哲学)の生は、理論ではなく日々の実践であることが了解できれば、無用な理窟の山は消え、柳が求めた「ふつう」(健康なエネルギーに溢れた生、日常を大切にする生、無心・自然な生)がやってくるはずです。

敷衍して言えば、
理論家とか哲学者と呼ばれる人が書いた本を読み、それを立脚点にして自分の人生や社会のありようを考えるという逆立ちから解放されなければ、「私」を座標軸とする自分自身の人生は始まらないはずです。ほんらい、書物の良否や他者の言説は「私」の日々の生活世界の経験から感じ・思い・考えることを基に評価すべきことなのですが、どうもそうはなっていません。
どのような書物であれ、書物の思想が基準になって「私」の生活世界を律するのでは逆立ちなのですが、「主観性の知」の育成がない学校教育のために、人生や社会のありようまで権威者が示す正解があると思い込まされています。困ったことに、まだまだ「哲学理論の真理」に従う!?という逆立ちした想念が漂っています。哲学も「東大やハーバード大の先生が偉い」では、「私」からはじまる優れた生は永久に始まりませんし、民主的倫理も成立しません。

超越項を置かず、内からの、という【日々の体験の省察に基づく明証性の哲学】を原理とする人生を歩みたい、わたしはそう思い、生活しています。けだし、哲学とは、知識の獲得や理論の構築ではなく、深い納得を目がけよく生きようと欲すること=実践なのですから。
11月3日のグログーー「内」からではなく「外」を先立てる--日本の根源問題もぜひご覧ください。


武田康弘


ーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下はコメント欄です。 

素敵です。親鸞の教えにも通じます。 (清水光子)
2011-12-01 10:58:35

武田先生の芯はますますしっかりと太くなって素敵です。健康に恵まれて回りの人たちの生き方を助けて下さい!
80を過ぎた私も生きて居ることを苦にせず。どう生きれば善いか考えてゆきます。
美しい事を、ものを愛し、真実を求めるーずっとそうしてきたつもりなのですが、 「体験経験からの哲学」と先生がおっしゃると、考えることに力が出ます。
年をとりながら幼稚ですが、おっしゃることについていきます。
携帯だと乱文でヒドくなりますが ご判読下さい。清水

大事な事が落ちました 学識がある 知識人である事を問わない。恋知の哲学は仏教の親鸞の修行したり学識がなくても救われる 教えにも通じますね。清水
ーーーーーーーーーーーーーーーー

感謝です。 (武田康弘)
2011-12-01 11:56:41

清水さん
励みになるコメント、とても感謝です。

もしも、親鸞が宗教世界で成し得たことを哲学世界(内からのよき生き方の追求)で出来れば、日本文化、否人類の文明が変わりますね。
外ではなく、内から、内発的に、の考え方・生き方は、幸福と世界平和を結果するはずです。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

出色です。びっくりします。 (内田卓志)
2011-12-02 20:52:54

このブログー
柳・竹内批判から武田哲学の展開は、誠に出色です。
私は、柳さんや竹内さんに、先生ほど厳しい批判は持っていませんが。
よくよく考えてみます。
先生の肉体的そして、思想的体力には、びっくりします。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

理論としての哲学ではなく。 (武田康弘)
2011-12-03 13:42:49

内田さん
率直なコメント、ありがとう。

わたしは、師であった竹内芳郎さんから多くを得ましたし、その業績を高く評価しています。
また、柳宗悦の種々の仕事もとても有意義なものと見ています。

わたしの批判は、哲学を「理論」(活字)の次元で捉える地平を超えるためのものです。一人ひとりの生活世界の「体験」に支えられた明証性の世界を有意義なものとするために、彼らの限界を超えなくてはならない、と思うのです。

厳禁の精神による遵法主義に囚われては人間精神は死んでしまいますが、
理論言語に囚われて化石化してもお終いです。この二つの硬直から自由になり、輝き、伸びやかさ、悦び、柔軟性、不屈・・・の生のためには、従来の言語中心主義の哲学ではなく、ふつうの人の生活世界から始まり、それを豊饒化させる「内からの生」を支える考え方=新たな哲学の実践が必要だ、と考えるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

竹内芳郎氏に会って感じたこと (古林 治)
2011-12-03 14:36:28

竹内芳郎氏は極めて優れた哲学の学者、柳宗悦は突出した思想家でした。このことは間違いないものと思います。

その二人の限界について語ることは、哲学・思想の核心に触れる=より善い生の追求につながることでもあるでしょう。

幸運にも私自身、タケセンさんに同行して【討論塾】に参加し、竹内氏に直接会って話をすることができたので、その問題の核心に生々しく触れることができました。

切れ味鋭く鍛え上げた竹内氏の思考には目を見開かされ、論理として反論の余地もないものでした。が、その論理の秀逸さと共に、ある種の違和感もついて回りました。

議論の場から立ち昇る雰囲気には、思考そのものを鍛え上げ永遠のものとする強い意思が感じられ、言葉と論理による強固な構築物をめがけているという様相でした。同時に、その強固な世界に私たちが生きる生々しい現実世界をはめ込もうとするような違和、私たちの日常世界を別世界から俯瞰するような違和を私は感じたのです。

誤解を恐れずにもっと単刀直入にいえば、
『正しい優れた世界観(思想)を論理的に構築することは可能であり、その正しい思想によって誤った現実を正していかねばならない。』
とする観念への違和です。

もちろん、竹内氏自身の思想はそうした観念を徹底して排除するものです。それにもかかわらず、そうした(言語至上主義とか真理主義、超越といった)発想を言葉上では否定しながら、そのような思想に陥っているように見えます。生活の足場を生々しい現実ではなく、言語と論理によって構成される間接経験の世界に置けば、どうしても現実世界(直接経験の世界)を俯瞰する立場に自身を追い込んでしまうのでしょう。この『思考の転倒』を孕む思想は、現実を変えていくだけの(多くの人々を納得させる)力には成り得ないし、自身を孤独な生に追い込むほかない、と私には思えます。

竹内氏と実際に会って話をしてみて、強くそのことを感じました。
これは大変厄介な陥穽です。哲学や思想を生業にし、そこで自己実現をめがけようとすれば、直接経験は限りなく希薄になり、哲学や思想(書かれたもの)がその人の人生にとって最も重要で価値あるものになりましょう。生々しい現実よりも【書かれたもの】を現実とは別の高次元のものと看做すことになります。

哲学、思想を生業としないまでも、それに関心を持ち、熱心に本を読む人々にも同じ陥穽が待ち構えています。
よく考えてみると、実は、私たちの周りでもこの落とし穴にはまっている人々が多くいることに気づきます。直接経験が希薄なまま知識や学問を頼りに仕事をする人々、それに知識や学知を詰め込む受験競争下の子供たちの多くがすでに同様の病にとりつかれているように思います。

この落とし穴、穴にはまるだけでなく、啓蒙的優越意識や無自覚なエリート意識を醸成する源泉にもなっているから要注意ですね。

生々しい現実と思想の関係をひっくり返してはなりません。現実に根ざした生のなかに思想を位置づけなければいけないのです。
竹内さんと会って改めて私はそう確信しました。


柳宗悦についても触れようと思ったのですが、長くなるのでやめておきます(笑)。
一言、中見真理さんの『柳宗悦 時代と思想』に触れると、やはり同様の『思考の転倒』があるように感じました。なるほど、たしかに大変な力作だと思いますし、わかりにくい柳理解にとても役に立ちました。

が、柳宗悦の思想を内的必然性として捉えるのではなく、さまざまな思想家の思想(書かれたもの)の影響について書かれているので、固く皮相的な印象を拭えません。
むしろ、極めて優れた声楽家であり、主婦であり、母親でもあり、生々しい現実を足場にして生き抜いた柳兼子という存在が、柳宗悦にどのような影響を与えたのか、私は大いに気になります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

白樺哲学宣言 (武田康弘)
2011-12-04 10:58:42

古林さん

わたしは、「この二人の限界について語ることは、哲学・思想の核心に触れる=より善い生の追求につながる」
と考えて、わたしの考える【体験としての哲学】の芯を書いたのですが、
それは、【白樺哲学宣言】でもあります。
人間はみな主体者(=哲学者)であり、他者に誘導される存在であってはなりません。
「理論」としての哲学は前時代の遺物であり、使いものになりません。生活世界における「体験=直観」としての哲学は、実存として生きることを支えますが、同時に民主主義の土台でもあります。
共に!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

哲学するって (染谷裕太)
2011-12-04 08:35:08

タケセンの塾で哲学書を読んでいた時、学者の方との討論会で話を聞いていた時、度々「哲学ってもっと感覚的なんじゃないかなぁ」と感じることがありました。

哲学者と呼ばれる人達の言うことには、やたらと理屈が多く、新しい言葉や概念が多く出てきます。でも、その言葉って本当に使う必要が
あるのか?そんな概念をつくる必要があるのか?
それはそれで言ってることは分かるけど、何か僕にはその言葉を使いたい、理論をつくりたいという気持ちが先にあるように感じました。

でも哲学することって、本当は理屈ではなくて、もっともっと単純に、何かを見るときに漠然と見るのでなく、目玉をひんむいてよーく見るとか、聞くときは耳の穴をかっぽじってよーく聞くとか、大きい声でハキハキ喋るとか、そういったことだと思います。

難しい理屈や言葉の前にもっとシンプルで、動物的で、感情ある人間がいると思います。生(なま)の現実で感じ、想ったことを出発点に、自然に、順序よく語っていけば、山のような理屈はいらないし、内容は自然と論理性、というか説得力が出てくると思います。論理、理論というのは先にある、先に求めるものではなく、結果として生まれてくるものだというのが僕の感覚です。

何ものも先立てず、地位も名誉も肩書きも捨て去った裸の人間=「私」という存在から素直に、そのまま、見て、聞いて、感じる。その表出として言葉があるのだと思います。

そして、だから子どもは哲学者なんだと思います。大人が縛られている常識や理屈なんか軽々飛び越えて生きる実感から喋ります。大人が聞かれたくないような、急所をズバッと突いてきます。本当は何も考えていない、何も分かっていないことがバレてしまう急所を恐ろしく的確に。

僕もそんな良い意味で子どものような大人になりたいと思っていますが・・・まだまだ道のりは遠い・・・です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分の価値観と生き方を自覚する (青木里佳)
2011-12-04 11:26:55

哲学や難しい言葉はわかりませんが、「自らの【内】から(体験)・・・」とい
う考え方には賛成です。

私も含めてですが、現実的に内からの体験や思想で生きる人は少ないのではないのでしょうか。

家庭、学校、職場でも「外の価値観」を基準にして、それが当たり前として生活している人がほとんどだと思います。まず「外の価値観」を基準にして生きている(生きてきた)と自覚することが第一ステップですよね。これはそんなに難しくないです。

難しいのは、第二ステップである「外の価値観」で生きてきたことを自覚した上で、自分で意識して「変えていく=内側の世界や体験を深く掘り下げていく」ことです。

ここで人の生き方が分かれるのではないかと思います。実践する人と、実践しない人。実践する場合、日々の生活の中でこの作業を続けて
いかないといけないので、慣れるまで、コツをつかむまで苦しいです。苦しいというのはそれだけ今まで「外の価値観」で生きてきたから、その癖が染み付いてしまっているからとも言えますが。

そして文化的にも集団同調が求められている社会で生きていると、「私は私」と自分に対する誇りや尊重、個性が育ちにくいので、外側にある価値観や周りに合わせてしまうことで「私」を抑え(極端に言えば「私」を殺し)、内側の世界と体験が育たない状況になってしまうのではないのでしょうか。自分より他者、自分が本当に感じていること・やりたいことよりも世間や社会が認めている・推奨していることを優先していく。そうすると「外の価値観」を基準にした生き方になってしまうんだと思います。

大事なのは自分の価値観と生き方を自覚する、外→内からへと変えていくことですね。
------------------------------------------------

染谷さん、青木さん (武田康弘)
2011-12-04 12:46:05

染谷さん
自分の感じ、思う、ところからの自分の考え、いいですね。
いつまでも哲学書の類にひっかかっていないで、
日々の生活を意味深く、内容の濃いものにするために、自ら哲学することが必要ですよね。
哲学書読みの趣味としてではなく、生活の豊饒化のために自分の頭で考える=哲学しなければ、哲学は無用の長物どころか、人間精神を化石化するアイテムにしかなりませんものね。
ついでに言えば、
サンデル現象=ズレた面白例を持ち出して本質論議にすり替える「言論ショー」が流行る日米の知の退廃は、自ら哲学する実践がないことの証拠です。

青木さん
外なる価値意識に縛られた心身から、
内なる声を聴き、内からの生をめがける実践に取り組んでいる様子がよく分かります。素晴らしいことですね。焦らずにゆっくり進んで下さい。
日本人が幸福になれない元凶は、内からの、内発的な生が歩めず、主観性の力を豊かにすることを知らないからですが、それに気づいた人がだんだんと増えています。わが日本という国の、様式による意識の支配、生身の人間が形式の中で殺される非人間的な文化を変えるのは、個々人の生き方(外からではなく内から)です。共に!



コメント (9)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹田青嗣さんとわたし武田康弘の出会い=対談の記録(1990年7月23日) 

2011-06-06 | 恋知(哲学)

荒井達夫さんのコメントをうけて、以下に21年前の記録を載せます。

これは、わたしと竹田青嗣さんとの出会い(竹田著のNHKブックス『現象学入門』が出た後)を記したものですが、当時、竹内芳郎さんが始めた『討論塾』(主にわたしの影響で竹内さんが大学教授を辞め、わたしは全面的に協力し支えましたが、後に別れることになる)の塾生全員に郵送でお配りしたものです。ただし、内容は、竹田青嗣さんの校閲を経たものではありませんので、文責はすべて武田です。なお《 》の中の文章は、後に付けくわえました。



竹田青嗣さんとの対談 1990年7月23日           
(竹田さん44才 武田38才)



(武田) 我孫子での竹内芳郎の講演(テープ)を聞いての感想は?
《注・後に筑摩書房から「ポストモダンと天皇教の現在」として出版された》

(竹田) 結論としての主張には同意するが、一つのフィクションである「地球の危機」から出発するのには抵抗がある。私なら、どのようにしてよい人間関係をつくりあげていくか、楽しく豊かな人間のつきあいを広げていくかという方法を考えるところを出発点にする。

(武田) それは私自身の生き方でもある。私塾も住民運動も哲研も皆そこを出発点にしている。だから竹田さんの言うことはよく分かる。 ・・・私と竹内氏とでは生き方の形は大きく違っている。
だが氏は、ひとつの極にいる人間だ。私が竹内氏に学び、親交を深めてきたのは、自分を異化するためだ。その手強さと対峙することは、自己の破壊であると 同時に創造である。これほど生産的なことはない。

(竹田) あ一、なるほど。ただ、私は竹内氏のように対抗イデオロギーを作って闘うということには疑問がある。存在論のもたらす原事実を基軸にしていくべきだと思う。イデオロギーに、対抗イデオロギーを作ってぶつけるというのは、・・・

(武田) 原理的には、それが正解かもしれない。「対抗イデオロギー」なしでやっていければ、それにこしたことはない。しかし少なくとも現状では、対抗イデオロギーはどうしても必要だ。私は<教育問題>に取り組んできたが、伝統主 義・保守主義のイデオローグと戦うために、そしてそのイデオロギーに呪縛されている人々をそこから解放するために、竹内イデオロギーはすばらしく役に立つ。

(竹田) なるほど、それは分かりました。では、こんど竹内さんとお会いしたとき何を話せばよいでしょうか。私は文芸評論が仕事で、哲学や思想についての知識はあまり持っていないのです。竹内さんはマルクス主義者で、たくさんの知識がありますし。

(武田) いや、竹内芳郎の出発点もフッサール・サルトル、ハイデガーなのです。 それ は、『サルトル哲学序説』(特にP.45-59)を読めば分かります。ただ彼は、現象学‐実存哲学によって「近代主義」の根本的な批判を果たした上で、対抗イデオロギー(建造物)をつくりあげてきたのです。その集大成が、『文化の理論のために』(岩波)です。・・・土台は現象学的存在論で、マルクス主義者と自称しているのは、自己誤認だと私は思っています。

(竹田) 私は、きちんと読んでいないのです。竹内さんの本は難しいですし。・・・竹内 さんの言わんとすることは分かりますし、結論はわりあい共通していると思っていますが、そこに至るまでの過程というか、切り口は、ずいぶん違っているように感じます。

(武田) その通りだと思います。だからこそ竹内氏と対語する意味があるのです。私には、なにか新たなものの始まりが予感されます。

(竹田) 武田さんにそう言われると、私もそういう気になってきました。(笑)

(武田) ところで、語は変わりますが、ハイデガーの「死」について竹田さんは書かれて いますが、少し疑問があります。竹内さんの書いたここの所を読んでください。 (『マルクス主義における人間の問題』の、死の実存的な会得なるものが存在するのかどうかも怪しいものであって・・・の部分)

(竹田) あ一、これは竹内さんの考えに賛成します。実は私が「死」への直面を言ったのは、日常的な共同体への埋没から抜け出るための手段としてなのです。やはり竹内さんが言うように、他を排して一を選ばざるを得ない有限性というところに重点を置いた方がよいと思います。

(武田) では次にもうひとつ。私は竹田さんの言うように、サルトルの即自・対自を物と心の二元論だとは考えていません。また意識主義だというのにも疑問があるのです。

(竹田) それは、もしかすればそうなのかも知れません。私は、学問的に決着を着ける力はありません。ただサルトルとハイデガーの両方を読んで、ハイデガーの方に 分があると思っただけなのです。ただハイデガーの良いのは『存在と時間』だけ で、後期のものは全部ダメだと思いますが。・・・武田さんがサルトルから、私がフッサールやハイデガーから読みとった良きものと同じようなものを読みとったとすれぱ、それでいいと思います。どちらが正しいかは分かりません。更に言えば、 現実の問題に役立つように読めばそれでいいのではないでしょうか。

(武田) それは、私も実践を基準にして本を使うというやり方が正しいと思っているので、まったく同感です。ただ思想は、それが与える社会的影響について考慮する (責任をとる)必要があるはずです。ハイデガーのナチス加担の事実をどう考えますか。
《竹田さんの処女作『意味とエロス』の自己紹介欄で、竹田さんは、「ハイデガーを神とする」と書いています。》

(竹田) それは分かります。ただ私は、その問題をよくは知らないので触れませんでした。また作品は、作品として読むということが正しいと考えています。

(武田) もちろん文学言語や理論言語は、第二次言語として発話場から相対的に自立しているわけですので、竹田さんの言うことはもっともです。しかし、それを絶対的に自立させてしまうのには、問題があります。ふつうは誰でも「ハイデガーは偉い哲学者だと言うけれど、ナチスの正体も見抜けず、その後も全然反省もしない人間が<哲学者>だとは何なのか?」と思いますよ。(哲学者とは、哲学することでバカになった人種のことだ!?)したがって、その問題に答える必要が当然生じるはずです。彼の哲学自体にやはり歪みがあったのではないですか。

(竹田) そこのところは、今後考えていかなければならないと思います。
《注・5年後に竹田さんは「ハイデガー入門」講談社選書メチエ、を書き約束を果たしてくれました。》
竹内さんとの三者会談のとき、その問題を出して下さい。
ぼくは今、筑摩書房から出す『哲学入門』を書いているところです。《「自分を知るための哲学入門」として刊行されました。現在はちくま文庫になっています。》

(武田) それは、実にいいことですね。ひとつ注文があります。いわゆる<現代思想>は、マルクス主義への反発から、すべてを「物語」だと言って排除してしまいま すが、これはとんでもない間違えです。特定のイデオロギーに固執することへの批判が、イデオロギー一般への批判へとすり変えられたために、自分の頭で何も構築しないで体制に流されること・イコール・偏っていなくて正しい。批判精神を持っていること・イコール・イデオロギーを持っているから悪。という考え方がはびこって、どうしようもない状況を生みだしているのです。人間が人間をやめない限り、イデオロギーから離れられないという原事実を、まずしっかり分かってもらうことが前提です。

(竹田) なるほど。そうなふうになっていますか。私も武田さんの批判に賛同します。

(武田) 最後に、竹田さんは「現象学は役に立たない。」と書いていましたが、大変に役に立ちますよ。私の主張を深いところで裏付けてくれますし、また社会運動の推進のためにもすごい力を発揮します。

(竹田) そうであればとてもうれしいです。(笑)


1990.7.23 新宿・滝本で(文責・武田康弘)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

コメント

私にとっての二人のTakedaー1 (古林治)
2011-06-06 23:57:36

私が哲学や現代思想への関心を失い始めていたのもちょうど1990年ころでした。
竹田青嗣さんのことは知ってはいましたが、文芸批評家としてであって、哲学者
としての竹田青嗣さんは、その後(1993年ころ)、タケセン(武田 康弘さん)
を知って紹介してもらってからのことです。
二人のTakedaを知ることで私の哲学への関心はよみがえったのです。
ただし、ここでいう哲学とは、『どのように生きていったらよいのか、どのよう
な社会をめがければよいのか。』を考える本来の哲学のことであって、 哲学史
や机上での緻密な論理を操ることではありません。あくまで、現実の生を豊かに
するためのものです。その本来の哲学の基本中の基本である認識 論(欲望論・
意味論)が二人のTakedaに共通する考えだったと私は思います。
その後、生きた哲学を実践するタケセンの市民活動にかかわり、竹田青嗣さんの
著作に興奮してきました。
が、一方で、二人のTakedaには本質的な違いも感じます。

タケセンには、『私の、そして人々の、より善い生を! そのための社会を!』
という強烈な情動が流れています。そのためにはどうしたらよいのか、 を考
え、行動し、変えてゆくという能動性が渦巻いています。だから、哲学書を活か
すことはあっても哲学書から何かを学ぶということはないし、理論 を弄して現
実に働きかけるという発想もなく、常に自分の頭で考え、判断し、行動します。
常に生々しい現実の中に自分をおいて考え、行動し、確か め、確信するという
連鎖がタケセンの哲学そのものです。思想や理論としての哲学を決して先立てる
ことはありません。だからこそ、幼児からお年寄りま で、老若男女、学歴、人種、
職種を問わず日々対応(対決)できるのでしょう。
(続く)

私にとっての二人のTakedaー2 (古林治)
2011-06-06 23:58:51

一方、竹田青嗣さんは、哲学者と呼ばれる中では特異な存在です。過去の哲学史
を掘り起し、不当な解釈がされている歴史上の哲学者たちの著作に向き 合い、
独自の竹田哲学を読み解いてきました。その最良の読み込み方、私たちの生に
とって意味ある解釈には、かけがえのない価値があると私は思いま す。荒廃し
た『学』の世界に一風を呼び込んでいると言えますし、やはりある種の天才とも
いえるでしょう。
ただし、竹田青嗣さんが真摯に向き合うのは、過去の哲学者たちの著作であり、
生々しい現実から一歩離れたところに身を置いてます。
より善い解釈、哲学を広めることで少しでも『より善い生を!そのための社会
を!』ということなのかもしれませんが、その影響は『学』の世界、書物 の世
界、言語上の世界に留まってしまう可能性もあります。
実際に何人かの竹田青嗣ファン・信奉者と話をしたことがありますが、言語上の
理解だけで満足し、現実の生に関心を示さない人たちでした。ここに私 は危う
さも感じています。この点は自覚的でないとまずいでしょう。

極端な話、哲学があれば、より善い生を送れるわけではありません。哲学を知ら
ずに、より善い生を送る人たちもいます。そうした人々は多分、知らず 知らず
のうちに本来の哲学を身につけているのでしょう。哲学とはそういうもので、理
論として学ぶものではないということだと思います。
向き合わねばならないのは、あくまで生々しい現実の世界であり、哲学はそのた
めに役立てるもので、既成の【学】の如く、決して狭義の哲学(言語の 世界)
から現実を見下ろしてはならないということです。

『二人のTakedaの出会い』を読み、懐かしく思いながら今感じることを書いてみ
ました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すごく納得 (清水光子)
2011-06-07 09:21:25

古林さま
武田先生についておっしゃった言葉 スゴく納得です
より善い生き方 より善い社会を!!と目指す哲学に接することができてとても有難いことだと思って居ます
この頃「倫理」について個人と個人の間に嘘が無く信頼関係があってこそが倫理が成り立つと伺い 倫理について社会的な儒教の倫理と 全然違う!と胸が軽くなってまた生きる力を頂きました。
私の理解が間違えていたら、明後日「愉しい哲学の会」が有るのでまた教えて頂くのを楽しみにしてます。
総理を元総理がペテンだという今の政治家達にはほとほと情けなく思いますものね 古林さんの先ほどのタケセンについての生きる生きた哲学を広く伝えたいです。清水(81歳)





コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする