思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

この書の出版は「事件」でした。 アマゾン・レビュー『ともに公共哲学する』(東大出版会)

2012-05-28 | 書評

以下は、アマゾンに書いたレビューです。

『ともに公共哲学する』(東京大学出版会刊)

この書の出版は「事件」でした。 2012/5/28

By 武田康弘

この本の中心を占めている「哲学対談」(「楽学と恋知の哲学往復書簡」30回)の当事者であるわたし(武田康弘)がレビューを書くのはどうかとも思いますが、敢えて書きます。
日中韓における公共哲学運動の中心者で、かつ東京大学出版会から刊行されているシリーズ『公共哲学』20巻の最高責任者である金泰昌氏(政治哲学者)と、
民主的倫理に基づく民主主義の原理を闡明にして金氏の主張する公共哲学の中心理念である「三元論」(公と公共を分離する思想)の批判を展開した私の対談は、京都ファーラムと東京大学において物議を醸したものです。
わたしは、「哲学とは何か」「公共とは何か」という本質論を展開する中で、原理的思考をしない金氏の哲学を批判しましたが、内容としてこれほど厳しい往復書簡を公開するのは、精神と知力の弱い日本人学者では到底不可能で、強靭な精神力をもつ国際人である金氏だからこそできたことです。
同時に当時の東京大学出版会の編集長・竹中英俊さん(現在は特別顧問)の勇気、東大教授会の反対を乗り越える不退転の努力があってこの本は世に出たのです。
また、いま話題の【東大話法】(安冨歩東大教授の『原発危機と東大話法』明石書店刊)が何故どこから生み出されるのか?について、わたしは【東大病】という造語でこれを説明していますが(日本近代史を俯瞰した分明な記述)、はからずも【東大話法】という一現象を哲学的に解明することになっていますので、ぜひご覧ください。
なお、目次に【東大病】を入れたのは、竹中編集長の英断でした。(5)学歴序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能。詳しくは、わたしのブログ『思索の日記』を参照してください。「事件だった『哲学往復書簡』(金泰昌と武田康弘・東大出版会刊)の裏話」http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/42a9777b53ab6bbc72dc08a38be63cc4
また、最近おこなった安冨さんらとの会談についてもブログにしてあります。「【東大話法】と【東大病】をめぐっての四者会談―安冨歩さんらと」http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/3bf81d122981e306fb908d2837de8553

 

 

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逆転の手法に驚きを覚えました。 (リーフ(♪))
2012-05-31 13:22:48

タケセン、恋知対話(往復書簡)読ませていただきました。

(本は別途入手予定。)

恋知対話(往復書簡) Part 1. http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori80.htm
恋知対話(往復書簡) Part 2. http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori84.htm
興味深く読ませていただきました。

楽しみつつ、また味わいながら何度も読ませていただきます。

当初、【公共哲学】という言葉には引いてしまうものが自分の中にありました。
私だけでなく、【公共】、そう聞くだけで多くの日本人の中にはちょっと引いてしまいそうなものがあると思います。
公共の福祉のためにとか、公共団体とか、公共事業だとか、公共という概念に漂う窮屈そうなもの。
自由の規制の臭い、中央集権の臭い、公と言う語に手垢のようにこびりついたもの。
公民、公のために、滅私奉公、公人。
山県有朋、大日本国憲法。
基本的人権を弾圧し、制限する要素がぷんぷんにおう【公】という言葉。
国家史観、「お国のために死んでこーい!」という罵声が軍靴とともに聞こえてくるような。

しかし、あえて【公共哲学】という呼び名をタケセンが口にされるのを見て、
タケセンを知らない人からみれば、
タケセンは相当な右寄り、胡散臭いファシズム派の人物だなと感じてしまうかもしれない(笑)。

でも違うんです。

金さんの【公共】には、国民主権の色彩が希薄だが、
タケセンの【公共】には、国民主権が輝いている。

【公】というマイナスのイメージの言葉に対して
あえて、マイナスイメージの【公】と言う言葉を使って、
国民の中に広まった悪しき言葉の翳を正面突破で斬り捨てて、
一気に、【国民主権の公】、【国民主権の公共】に、【公】という言葉の意味を一変させる激しい情熱を感じる。

それは、【民】という言葉のマイナスイメージを指摘されながらもあえてその【民】の輝かしい側面に光を当てて、【民】という概念に命をよみがえらせ、再生させ、輝かせたタケセンの次の言葉から私はうかがい知れる。

(金泰昌-武田康弘の恋知対話  13 http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori80_13.htmより)
「(省略)
わたしはすべて承知であえて「民」を使うのです。従来の伝統的価値を逆手に取り逆転させる(記号学的価値転倒)ことが、ダイナミックな変革のためにはどうしても必要―それが強い思想だ、というのがわたしの考えです。
(省略)」

また、書簡の日付は前後しますが、
(金泰昌-武田康弘の恋知対話  11 http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori80_11.htmより)
「(省略)
なお、わたしは、この「民」ということばにマイナスの意味があることは承知していますが、だからこそあえて「民」を使うのです。柳宗悦らの『民芸』―高級品でない普段使いの品々には「用の美」があり、そこに普遍的な美しさがあるとする見方をわたしは支持していますが、それと同じく『民知』という「用の知」としての哲学に、学知としての哲学以上の価値を見るのです。伝統的な意味・価値の呪縛から自他を解き放つ「文化記号学的価値転倒」の営みだと言えましょう。
(省略)

★従来の伝統的価値を逆手に取り逆転させる(記号学的価値転倒)ことが、ダイナミックな変革のためにはどうしても必要

★伝統的な意味・価値の呪縛から自他を解き放つ「文化記号学的価値転倒」

私はタケセンの、日本人の頭の中にある言語の概念そのものを根底からひっくり返して日本人の意識を180度一気に変えてしまう試み、実践的手法に、
驚きを覚えました。
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