思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

神社とは、681年から作られ始めたもので、古来の自然宗教とは無関係です。初詣は明治の半ばからです。

2021-12-29 | 学芸

 初詣とは、昔からのものではなく、明治の半ばころから始まった習慣です。
 【神社】とは、最初に天皇を名乗った天武の命令で、681年から作られ始めたもので、古来のものではありません。
 民を従わせるために律令国家が設立しました。アニミズムなどの自然宗教とは無関係です。
 神社に行かれる方は、それを知った上でお出かけください。

 武田康弘





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Kim・武田の討論的対話 「パウロと親鸞」( 佐古 純一郎著)をめぐり。

2021-12-28 | 恋知(哲学)

fb討論的対話

「パウロと親鸞」 佐古 純一郎著をめぐって

Taechang Kim

 

パウロの "ダマスコ体験" と親鸞の "六角堂体験" との比較から始まるキリスト教と仏教に関する著者の文言に注目しました。

"パウロの場合は、律法主義、つまり律法の行いによって義とされるというユダヤ教的-パリサイ派的な立場から、イエス-キリストを信じる信仰によってのみ義とされるという福音主義に回心しました。それはただ信仰のみ、'唯信' と言ってもよいものです。そのきっかけになったのが 'ダマスコ体験'だったわけです。

これに対して、親鸞の場合には、まず九歳から二十九歳までの二十年間にわたる比叡山におけるきびし修行がありました。その親鸞が二十九年間続けた天台宗のきびしい修行の立場を捨てて、ただ阿弥陀さまの本願を信じてお念仏を唱えるだけでいいという、法然の念仏門に入った。それが親鸞の '六角堂体験' による回心です。
さて、親鸞の回心とパウロの回心とを比較してみると、ユダヤ教-キリスト教と仏教という大きな違いがあるけれども、本質的には似ているいると思いませんか"

(pp. 18-19)

どう思いますか?

 

山本 恭司

 

パウロも親鸞も、一切の善悪を自身に引き受けた先師の生命(霊夢に現れた聖徳太子、イエスキリスト)に帰命した(回心、開新)ところが共通項だと思います。

 

武田 康弘

 

そういう角度で見るならば似ているでしょうが、本質はまるで違います。

神という観念が元からないブッダに依る親鸞の思想は、主著「教行信証」に明らかです。

Taechang Kim

 

にも拘らず、それを十分承知の上で、尚仏教とキリスト教とのあいだ-あわい-交わりを通して相互理解を深めようとすることの大事さを分かってほしいのです。本質は違うと切ってしまったら何の関係も拓くことができなくなります。
そこがたけせんと山本さんやわたくし自身との相違点ですね。橋渡しを何よりも最重要視する立場に立っているわけですから、本質が違うとくびをさすような言い方は相手の真意を無視する話になりやすいのです。著者も山本さんもわたくし自身も仏教とキリスト教の根本的な違いをキチンと踏まえながら尚相和-相生-共福への道を開こうとしているのです。

 

武田 康弘

 

Kimさん、そうですね。わたしは、本質論=意味論として考えるのです。

本質が違うのです。

親鸞は、主著「教行信証」の末尾で、相当な分量で、老子につくな、釈迦につけ、として厳しく老子批判をしています。釈迦と老子はかなり重なる思想ですが、それでも容赦しません。こういう徹底ぶりが思想の大事な点で、本質論としての追求です。

そうなると、頭は刺激され、深く考える作用が始まります。

キリスト教の創造神という発想と、ブッダ(親鸞)の人間存在の救いに特化するという発想は、かけ離れていて、それが決定的な違いを生みだしてきたわけです。

相和-相生-共福への道という一つの立場は、大切ですが、それは、やはり一つの立場であり、それ以上ではありません。本質的な違いを乗り越えることはできません。しかし、乗り越えなくていいのです。違うものは違うのですからね。

例えば現実問題で、天皇制と共和制は違いますから、真ん中というわけにはいきません。共福への道は、天皇は、明治維新以前のように京都御所に帰り、江戸城は、国民皆の公園にして、政治には関わらないようにすべきで、その間はありません。

 

Taechang Kim

 仰ることは十二分体感-体験-体得した上でやっているのでご心配不要。違うから対話が必要。違いがないあいだなら会話で十分なのです。そういうところに他国体験が大事です。本質的に違うというのは心学パラダイムの次元での話であって生命覚醒パラダイムの次元への根本転換を体得すれば、本質的違いまでものりこえて互いに繋がる、より奥深い次元の実在が実感できます。
 本来ギリシャ語のerosは媒介する愛であって一方的な恋求めのphilosんとは根本的に違うのです。違いを言い始めたらたけせんの恋知はphilosであってerosではありません。それを言い出したら不毛な論争になってしまうのでやめます。一点だけ。他の人もたけせんくらい真摯な 本質-意味の究明を経ながら相和-相生-共福の道を探るという共同努力を理解し、そこに参加しないのは互いの違いとして、他の人の真摯な取り組みに対する評言はもっと慎重にしてください。

 わたくし自身は今までたけせんとは、哲学する姿勢-立場-目指しが本質的な意味において根本的に違うというのを感じていたけれど、あえて繋がるところを大事にしてきたのです。ですが、たけせんは違いのほうに焦点をおいてきました。それでも、何とか違いを十分認知した上での対話を続けてこられたのは媒介愛としてのerosの本願力のおかげです。わたくし自身の親鸞体得は、彼こそが真のphilosの実践者であったけれど、そして阿弥陀への帰命無量寿如来を強調したけれど、ついに阿弥陀の本願力としてのerosの次元には到達出来なかったということです。親鸞は仏教的というよりはキリスト教的な側面が強いという気がします。

 

武田 康弘


以上の見方は、もちろんKimさんの見方=考え方です。

エロースの神は、ギリシャ神話で、この世の始現の神とされています。
大地があろうと、地底があろうと、・・・惹きつける力=エロース(魅惑し魅惑される)がなければ何も始まらないのです。そういう意味で、身体的愛は基本であり、老子の根本思想と重なります。

親鸞にキリスト教との近さをいう知識人はかなりいます。わたしの師の竹内芳郎さんもそうでしたが、わたしは、それは違うと見ています。創造者を認めることを当然とするキリスト教やその教徒たちは、人間を含むあらゆる存在に何かしらの絶対的真理があると見ますが、そういう我執が言語=理論を媒介にして絶対化した神への帰依と、煩悩につかれ悪事もなす(なさざるを得ない)人間存在を、理窟を超えて救う思想を信じようとした親鸞という一人の男は、とても人間臭くて素敵です。魅力的。

この宗教的でない生身の男の思想は、日本にキリスト教という一神教が入ることを防いでくれたので、わたしは大変ありがたく思っています。だれであれ、人間は一人の男であり、一人の女です。どんな思想も言葉もその人のものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。親鸞はそれをよく承知していました。

Taechang Kim

ですから、たけせんの哲学を他の誰よりも高く認めてきました。ただ、わたくし自身は日韓相生の未来共創を目指す哲学の構築に全力投球してますので、違いがあっても互いの立場と真意を好意的に励ましあうようにして欲しいのです。竹内さんが何と言ったかは分かりませんが、たけせんの哲学を大事に思ってきたのですから、我々二人の直感と良知の働きを尊重しながら、互いの切磋琢磨を続けていきたいのです。
ブラボー !!!

  •  

武田 康弘

はい、感謝しています。

そのために、わたしの恋知は広がり花咲いていますし、これから大きくなろうとしています。

忌憚のない意見の交換は、意義深く面白い!!

やったるで。大阪弁?かな。維新の会はぶっ潰さないといけませんが(笑)

Taechang Kim

そう。笑いが必要。たけせんの笑顔がたけせん

哲学の最高のシンボルマークですよ。

 

 

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出来ました!! 恋知のステッカー。

2021-12-27 | 芸術
出来ました!!
恋知のステッカー。

「恋知・実存・共和」の中身は、
人間の自然性=【自由】を核に、それを取り巻き支えるのが【理性】で、すべてを包むのが【愛情】です。

世界にひろげたいこれからの人間の生き方のシンボルです。

「宗教的信念」や「世俗主義」(金と権力の多寡)や「儀式主義」(天皇制がその代表)とは元から異なる人間性豊かで、権威主義とは無縁の「私」が輝く人生です。




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コロナワクチン重篤副作用問題=心筋炎と言う一生抱える爆弾 江口 美都絵著

2021-12-09 | 学芸

江口 美都絵

  •  

コロナワクチン重篤副作用問題、大展開ですね(最初に警告してた通り)。

とりあえず、心筋炎と言う一生抱える爆弾をワクチン接種で背負った事を、誰がどの責任で、そしてどう精神的に、社会コストとして受け止めて先に行けるか、患者を置き去りにした深刻な闘争と逃走がすごいことに。

--->打った人は心臓に二重の意味で悪いので、以下読まないでくださいね。

現時点で、少なくとも心筋炎については国が重大な副作用勧告をしたわけですが、心筋炎は悪化して死因になることはあっても治らない。今症状出て無い人でも全然セーフでは無いし、非可逆進行性で軽症と言うものがないので、命に関わる心筋炎ファクターは誰にとっても時限爆弾であり続ける。問題はいつ爆発するかだけ。

とりあえず接種者には心臓のMRI、心臓の負荷をかけない、心臓に異常を感じたら設備の整った循環器系の病院に定期的にかかるしか他ないだろうとのこと。

長期的な治験してないので、他の指摘されている影響は同じように発生しうる。

さあどうやって新しい状態と付き合うべきかを考えなくてはなりません。研究医でない人間にとって、ある程度諦めて豊かな人生について考える方がいいかも知れません。

何で私が今になって書いているのかと言うと、一時別件の医療問題で非常に慌ただしくしていたので大展開の瞬間を見逃してしまい、しかしこの一年でもなんだか必要以上に殺気立ってるなと思ったら、この展開と今日認識した次第。人事もあっての展開で、岸田効果ではあるんですけど。

とにかく責任の押し付け合いとか、私は推奨していないとか、言われて打っただけだとか、リスクを知らされかったから勧めただけだとか、貰ったお金はあくまで少額だったとかの論点で殴り合いが起きていてカオスです。

論文上や臨床上の事実、in vitro,in vivo 様々で明確だった事象が、医学会やメディアが日本では自律性を失っていたので、政治の結果に各方面の専門家が右往左往している状態です。

1億人打っちゃった後なので、健康というものの基準、スタンダードの位置を変えるしかないのかも知れません。フクイチ後の基準値が変わったまま10年を超えている様に(既に死亡者数は超えてますが)。

こうなっても対照群があるのは非常に問題なので、ワクチン接種圧は当分続くでしょう。接種者や接種キャンペーンに関わった人は事実は受け入れない努力をさらにするでしょう、出来る限りは。

カタストロフが常態化し続けるんですね。何も学んでいない。

 

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年代別の死亡原因ー新型コロナは、70歳代80歳代でも0.7パーセント。20歳未満は0パーセントで1位は自殺。厚労省発表

2021-12-05 | 芸術

各年代別の死亡原因です。

20歳未満の死者は、0パーセント。
死亡原因の1番は自殺、2番は事故3番はガン、4番心疾患、新型コロナは0。

70歳、80歳代でも、新型コロナ死は0.7パーセント。
死亡原因の1番はガン、2番は心疾患、3番は脳血管疾患、4番は肺炎、新型コロナは最下位

これで空前の大騒ぎ。全員にワクチンをというテレビの大報道。どういう意味ですか? 不可解この上ない話ですね。
ワクチン製造会社は、歴史上始まって以来の利益を得、医療機関もワクチンを打つだけで空前の利益。
どこでもマスクを疑わない人々の群れ。

なにかおかしくないですか?

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橋下徹という男(ウヨク団体「維新の会」創設者)のレヴェルの低さがよく分かる高校生との討論です。

2021-12-03 | 社会批評

橋下徹という男(ウヨク団体「維新の会」創設者)のレヴェルの低さがよく分かる高校生との討論です。

号泣面談「橋下徹VS高校生」論破されていたのは橋下徹だった - YouTube

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800年前、日本史最大の変革。北条政子らの前に後鳥羽上皇らが無条件降伏。 法然、親鸞の念仏宗と深く関係。

2021-12-01 | 学芸


後鳥羽上皇

 1221年の5月19日、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府=北条政権を倒し、東国の実権も握ろうとして、「北条義時を討て」と全国の武士団に院宣を下しました。


 それに対して、鎌倉幕府=北条政権側の武士たちは、上皇軍が攻めてくるのを迎え打つとの意見でしたが、京都出身で幕府のご意見番の大江広元は、「運を天に任せて兵を京都に派遣すべき」と発言しましたので、執権の北条義時は、第4代鎌倉幕府将軍=姉の北条政子に判断を仰ぎました。

 政子は「上洛しなければ、絶対に官軍を破ることはできないでしょう・・・・すみやかに京に参るべきです」と言い、動揺する武士たちを感動で涙させた大演説で一つにまとめあげ、後鳥羽上皇との全面対決が決まりました。

「吾妻鏡」の複写  クリックで拡大


 政子は、夫の頼朝が、平氏をやぶり東国初の政権を打ち立てた後も、朝廷の慇懃無礼な態度と無理な要求に呆れ返っていましたが、京都出身の頼朝は、それでも朝廷を重んじて、いつも耐え忍んでいるのを見て気の毒に思っていました。
 頼朝の死後、二人の息子は第2代、第3代将軍となりましたが、不遇と悲劇で二人とも早世し、第4代将軍となった政子と、優秀な弟の執権・義時は、上皇らの毎度の嫌がらせに辟易していました。彼女は上皇ら京都の狡知なやり口を熟知していましたので、「直ちに上洛すべき」と判断したのでした。

 3日後の5月22日に、北条義時の長男で、伯母の政子を心から尊敬する北条泰時(22才)は、わずか18騎で京に向けて出陣しましたが、その後直ちに、東国各地からの軍が泰時に合流し、宇治川についた時には、19万の大軍に膨れ上がっていました。敗戦は間違いないと悟った後鳥羽上皇は、使者を介して「この度の戦は、朕の本意ではなく謀臣らの企んだことである。今後は、北条義時が申請するとおり万事院宣を下すので、洛中での狼藉は禁ずる旨を東国武士たちに命じてほしい」との無条件降伏の書状を、戦の総大将泰時に届けたのです。

 6月15日、京都は東国武士たちにより焼き払われ、鎌倉幕府の御家人でありながら朝廷側についた者たちは処分されました。日本史を大変革する戦は、わずか1か月余りで終わり、直ちに天皇家(当時はすでに天皇という呼称は存在せずただ王と呼ばれていたが)の処分が検討され、後鳥羽上皇は隠岐へ順徳は佐渡に流刑(再び謀反を起こさぬように結局は「終身刑」となりますが、日本史上、終身刑となったのは初めてのことでした)。また、この戦に反対した土御門(つちみかど)の処分は見送られましたが、自ら進んで流刑を望み、土佐へ。後鳥羽上皇の息子の残りの8名は、出家を命じられ、仏門に入りました。

 また、朝廷の財産は、全国の荘園すべて没収され、御家人たちに分け与えられました。京都および京都以西の朝廷が支配してた土地もすべて北条政権により管理され、御家人たちに与えられたのです。

 この800年前の「承久の乱」により、日本史は、東西が完全に逆転し、以後、江戸幕府末まで800年以上にわたり武士政権が続くことになったのです。北条政権の厖大で詳細な日記『吾妻鏡』(あずまかがみ)は、後の徳川家康の愛読書ともなりました。

 ついでに言えば、江戸の幕末には、開国し、朝廷と幕府が合体して(公武合体)新たな日本をつくることが合意されていましたが、天皇を神とするというカルト宗教の思想をもつ長州藩の下級武士たちの過激な暴力により、明治維新という逆転が起きたのです。アジアで最初の市民社会への成長(欧米の一神教=キリスト教に基づくのではなく、仏教=ブッダの実存思想(注)に基づく民主主義)は、天皇中心の国へと捻じれて後戻りしてしまいました。これについては、「明治政府がつくった天皇という記号」(ネットで読めます)をぜひお読みください。

 話を戻します。

 この1221年に起きた承久の乱により、後鳥羽上皇の息子たちが出家させられて仏門に入ったことは、その14年前・1207年に起きた法然門下の「建永の法難」と結びつくのです。


石岡市八郷の板敷山大覚寺 2020.8.19 photo 武田康弘  


板敷山大覚寺で住職から親鸞と弁念の話を聞くソクラテス教室の面々 2020.10.4 photo 武田康弘



板敷山大覚寺にある800年前の親鸞像   2020.10.4  photo 武田康弘

 親鸞が佐渡での流刑を終え、茨城(稲田や八郷など)を中心に念仏宗を広めて、師である法然の「浄土宗」のほんとうの教えという意味で、「浄土真宗」を布教していた時期に、出家させられた後鳥羽上皇の息子の一人が縁あって親鸞を訪ね、師と仰いだのです。周観(後に善性)は父である上皇が流刑とした親鸞の弟子になり、現常総市大房に東弘寺(写真4~5)、八郷(現 石岡市)に板敷山大覚寺(写真1~3)、現 古河市磯部に勝願寺を開基するという大逆転が起きたのです。もし承久の乱がなければ、あり得なかったことなのです。念仏宗は、傷心の善性を救ったのでした。


常総市の東弘寺にある善性像  2020.10.28  photo  武田康弘


東弘寺全景  2020.10.28  photo 武田康弘

 1207年の「建永の法難」とは、後鳥羽上皇が28歳、熊野詣に出かけていた時に、二人の女官が法然の念仏宗に帰依して出家してしまったことへの私怨により、法然の弟子、親鸞の兄弟子にあたる4名を死刑にした驚くべき事件で、実際に死刑が執行されたのは、日本史上これが初めてでした。高齢の法然を含み親鸞など8名は流刑となりましたが、この事件は、従来言われていたような旧仏教側の仕掛けたことではなく、後鳥羽上皇の愛欲に基づく恨みであることが今日では明白となっています(詳しくは、上横手雅敬・うわよこてまさたか・京都大学名誉教授が2008年に出版した『建永の法難』をお読みください)調べも行われず、罪状も告げられずにいきなり死刑が執行されたことにたいして、親鸞は、主著『教行信証』の末尾で、「(上皇らは)法に背き義に違し、怒りをなし怨を結ぶ」と書き、厳しく批判しています。

 鎌倉幕府最後の将軍で、北条政権の中心者であった北条政子は、夫の頼朝の死後に仏門に入り尼となりますが、政子は法然門下ですので、親鸞の兄弟子にあたります。親鸞より16歳年上。その政子の供養に親鸞は尽力しています。 
 当時は、追善供養のためには、一切経を書写して関係する寺に寄進することが最も大切とされていましたが、そのために一切経の校合(今でいう校正)という大変な作業を、親鸞は、北条泰時(承久の乱の総大将で、父の義時をつぎ、執権、名君として知られる)に頼まれて引き受けます。その作業の最中に、泰時は幾度も親しく親鸞をもてなしました。
 また、泰時の息子の泰次は、親鸞が京都へ帰る直前に親鸞に帰依し、成仏という法名になりました。
 詳しくは、今井雅晴(元 茨城大学と筑波大学教授)著の『67歳の親鸞』『70歳の親鸞』をご覧下さい。

 1207年の建永の法難(28才の後鳥羽上皇の愛欲による僧の死刑と流刑)
 1221年の承久の乱(42才の後鳥羽上皇の権力欲による戦争)

 この二つは、深く結びついています。
 親鸞は、60歳で茨城の稲田から京都に帰りますが、これも後鳥羽上皇が隠岐の島に流刑・終身刑となったことで可能になりました(自由に活動ができる)。

 話を承久の乱に戻します。

 北条家は、平家で、伊豆の片田舎の一豪族でしかありませんでしたから、京都の朝廷と争うとか、大きな権力を得ようとは夢にも考えていませんでしたが、なぜ、北条政権が誕生し、全国を統一することになってしまった(笑)のでしょうか。

 それは、20歳の政子が伊豆に流刑とされていた源頼朝に燃えるような激しい恋をしたことによります。政子は、「恋とはただの好色とはちがう。女の恋には命がかかっている。女の恋は、命がけのことじゃ」と弟の義時に言ったと言われます。
 平氏の北条時政の娘、政子は、源氏の頼朝に恋し、親の監視の隙をついて大雨の日に20km離れた頼朝の家に転がり込んだです。頼朝も「政子は野趣の大胆さと女の濃やかさを兼ね備えている。さまざまな知識にも通じていて、話していて飽きることがない。これほど面白い女はいない」との思いであったのでしょう。
 平氏と源氏、まるでシェークスピアの「ロメオとジュリエット」ですが、この二人の激しい恋愛こそが日本最大の変革を生み出したのです。エロース(キューピット)の神こそがこの世の始原だというギリシャ神話を想起させる実話です。

 政子が幼いころから最も信頼し何でも話せる弟の義時と、義時の長男で、政子を深く敬愛していた泰時、この三人は、みな、天下を取るとか日本を統一するというような野心など持っていませんでしたが、政子と頼朝が親の反対に従わずに結婚したことで、北条家が中心となる東国初の政権=鎌倉幕府が生まれたのです。無心が大事を為したのですが、この後の元寇を打ち破ったのも、最強の武士団の北条政権が西国まですべて統治していたがゆえだったと言えましょう。


 ともあれ、今年は、この日本史の大変革から800周年でしたが、学校の授業でもテレビでも話題にならないのは、まことに不思議な話です。いまだに明治維新がつくった天皇教の中にいるのでしょうか。北条政子という日本史最大の女性についてもその実像を知らせないのは、あまりに愚かです。ああもったいない! いつまで明治維新の過激派が水戸学に基づいてつくった「天皇という神話」に呪縛され続けるのか、情けない話です。


(注)ブッダ思想の核心は、以下の3点にまとめられます。

   「天井天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)とは、人は誰もみな、われ一人尊い存在として生まれてきた、比較できないそれぞれの存在で、上下はないという意味です。
 「縁起の法」(えんぎのほう)とは、固定した実体は存在しない、我(われ)というのは意識であり、自我ではなく、さまざまな縁によってつくられるという意味です。
 「自帰依・法帰依」(じきえ・ほうきえ)とは、遺言としての教え=遺教ですが、自分自身と法則に従え、という意味です。

 ブッダには「神」という思想はなく、人間の自由と責任を拠り所とする現代思想に直結しています。同時代、紀元前400年ころに活動したソクラテスとも重なるところが多く、紀元前3世紀には、多くのギリシャ王(各ポリスの王)が仏教に帰依しました。詳しくは、『古代インド』(中村元著)をお読みください。
 

武田康弘

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