神原ワールド稽古場日誌

神原ワールドが繰りひろげる劇の世界・公演のお知らせ・稽古場の模様を皆様にお届けします♡

Etoile et toi

2024-02-28 23:18:22 | 演劇


 最近、意識の中に現れる街がある。日が沈んでしまった焼け野原の街。薄暗い中に、微かに壁だったもの、水道だったものが見える。私はそこに佇んでいる。ただ佇んでいる。誰かが声をかけるまで、かつての壁や水道管をじっと見つめている。

 見上げれば星空。これは昔から変わらずそこにある。変わってしまうものもあれば、変わらないものもまたある。そんな景色が見えてきた。
 焼け野原の荒野と現代の都会の荒野。どちらも違いはあれど、荒野なのだろう。



「お前が明日死ぬのなら、俺の命も明日まででいい。お前が明日を生きるのなら、俺もまた明日を生きていこう。」
 あなたは私の星空。昔からそこにあり、これからもある。



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しましまうまうまバー(チョコ味)

2024-02-23 00:15:13 | 演劇
(またAnneさんから写真無断借用⭐ごめんなさい)



 先日、春のような陽気だった午後、ローソンでしましまうまうまバー(チョコ味)を見つけてしまいました。次はいつお目にかかるかわからないので、とりあえず食べました。いつもあるとは限らない存在の不確かなこのアイスが、ここ一年ほど私の秘かなブームなのです。味より食感ですかね?魅力は。

 座長は日により、頭が作家だったり、演出家だったり、制作だったりするので変です。今日は作家(+演出家)が勝っていて、細やかな言葉(台詞)のニュアンスや言い方に指摘がありました。全くダメがないような日もあったりするのですが、ある時はがっつりあります。
 気持ちの融合がかなり進んできました。あと少し、欠けている部分が補えればいいかな、と。
 しかし、物語の後半はまだ未知数。今回は(も?)かなり難物ですぜこりゃ ^_^; 


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ル・ジタン

2024-02-16 08:21:37 | 演劇


 仏映画「ル・ジタン」。当時(50年近く前)アランドロンの映画をよく観に行ってました。ドロンはフィルムノアールがよく似合っていました。追いつめられて裏社会へとどんどん身を沈めで行くドロン。ジタン(ジプシー)であることで迫害を受け、犯罪でしか抵抗できない男を演じました。



 私達は運がよかっただけなんでしょう。ならず者や生活破綻者にならずに済んでいますが、ひとつ間違えば、時代が違っていたなら…どうなってたかわかりませんものね。
 拳銃を撃ったり、刑務所に入れられたりはしてませんが、我ら河原乞食など、社会的にはほとんど破綻しているのかもしれません。これは悲観的ではなく、現実的感想です。


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昨夜は三日月🌙

2024-02-14 06:15:02 | 演劇


 昨夜はすっきりした三日月。よく晴れていました。携帯で写真を撮りたかったのですが、私、携帯電話を忘れて出勤していたので写真はありません(@_@)

 私には兄弟姉妹がおりません。兄妹の感情を想像するのはかなり困難を伴います。それどころか親族すべてと繋がりが希薄なものですから、…もうそれは推して知るべし、と。
 お役の人物は自分と同じではありません。ではどうやってお役になるのか?
 まず互いの違いをよく見つめます。そうすると共通点も見えてきます。何が違うかが分かれば、どこに自分をやればよいかが分かります。まずは素材(要素)を整理します。かなりの紆余曲折があるとは思いますが、最終稽古で自分がお役そのものになっていたらそれで良しとしましょう。

 以下、その紆余曲折について。
 ジョン・G・ランボー曰く、戦争に勝つには「自分が戦争そのものになればいい」。ならば、芝居を成すには芝居そのものになればいい、ということになる。言うは易く行うは難し…そう簡単ではない。作品(物語)そのものになるなど、もはや禅問答である。

 役に自分がどう近づけばよいのか?それは、自分の中に既にあるものを使って試してみるしかない。実験あるのみ。人間の頭の中だけで考えたことなど、小賢しく矮小なものでしかない。芝居とはそんな小さなものではないのである。ことばと同じく外に出して、人に向けて初めて意味を成すもの。故に実験あるのみ。その反応結果で日々発見があり、理解が生じ、感慨が生まれる。その先に自分のお役の姿がある。斯くして稽古場は実験室(ラボ)となる。
 それらを成せば自然、最終的には、お役そのものになっていよう。いや、融合と言ってもいいか。台本(ほん)の人物+αの実在のお役がそこにはあるだろう。自分が生きている人間である以上、必ず立体的なものになっているはず。どうか自信を持たれよ。


 以上、抽象的なお話でした。月がきれいだったので許されてくりゃれ<(_ _)>



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稽古場はラボ

2024-02-11 17:22:00 | 演劇


 人を殺したことがなくとも、人殺しの芝居はできます。私の中に人殺しがいるからです。
 俳優によって役のつくり方は様々です。アルパチーノとロバートデニーロが仲良くとも役へのアプローチはまるで違います。私は几帳面ではないので、デニーロの真似はできません。だからと言ってパチーノ派かという訳でもありません。皆違うのです(比べること自体が間違い(>_<)申し訳ない)。

 

 自分の中にある要素や可能性は抽出できますが、全くないもの、ほとんどないものには閉口します。何かで代替えしなければなりません。主に感情ですね。かなり微妙な問題になります。そして用意した感情なり何なりを持って稽古場で相手や周りにぶつけます。ここからが重要。稽古はそのまま実験となり、私たちは未知のものを体験することになる。そして初めてわかる、そうではないことが。その結果をもとに、自分でまたすったもんだを繰り返すのです。正解はありませんから、果てしなくそれは続きます。
 演出家を信じていれば、それは延々と続けられます。最後は演出家が「けり」をつけてくれるので大丈夫。だいたい、たいてい自分ではっきりさせることができますから(多分)(・_・;)

 

矢吹 丈に家族のことが思い出せないように、困難なことはあります(続く)。
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