ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン話 第2回

2014年09月16日 | 日記
「先生様」
 クラムシーのセガン家は一代限りであったことを前回お話ししましたが、これ、偉人伝を書く時にすごくやりにくいんだそうですね。氏素性がしっかりしていて、しかも伝統と繁栄があって、だからこそ社会に貢献するようなできたお人にならはった、とした方が受けがいいんですわ。あ、やっぱりうちらと素(もと)が違うお人やねー、ということでっしゃろ。セガンが、1880年の10月の終わり頃、ニューヨークで亡くならはったときに告別式が行われたんですけど、友人のブロケットというお人が弔辞の中でこんなことを言っておられます。「彼は優秀な家系の生まれで、先祖は数世代にわたって医師として名をあげ、その地域ではその道の最高位を占めていました」。ね、すごいでしょ?でも、弔辞の誉め言葉を真に受けてそれが寸部違いなく本当のことだと、信じ込んで伝記を書くのも、どんなもんでっしゃろなあ。
 んなら、私が調べさせてもろうた両親の出自なんかを、ちょっと話させてもらいます。一代限りとはいえ地元の名士さまご夫妻のことですから、時代にふさわしく、父親ジャック=オネジムは医学博士でしたから「先生様」とお呼びし、母親マルグリット・ユザンヌを「奥方様」とお呼びしましょうか。まじめな話、クラムシーのセガン家の住まいは「先生様のお館」と呼ばれていたんだそうですよ。個人持ちの2頭立ての馬車を所有していたようで、今でもお館跡には馬車門が残っております。すんまへん、ちょっとお断りですが、「奥方様」については、別の回に話させてもらうことになります。
 先生様は、ニエヴル県の北隣のヨンヌ県のご出身です。そういうても、クラムシーとは山一つ超えたほどの距離で、やはりヨンヌ川沿いの、クーランジュ・シュール・ヨンヌという人口が500人ほどの、小さな小さな、やっぱり中世からの伝統のある寒村のご出身です。1781年生まれといいますから、あのフランス革命の直前のお生まれなんですね。先生様のお父さまはフランソア・セガンさん、お母さまはマリ・テレーズ・ギマールさんといいます。この村のとても裕福な材木商であり、村の三役をお務めになるほどのお偉い方でした。「クーランジュのセガン家」といわさせてもらいますな。でもやっぱり入植者です。生粋の土地っ子ではなく、よそ者の成り上がり者、という目で見る人が多かったんとちゃいますかね。先生様はクーランジュのセガン家の末っ子に産まれました。兄弟は多かったようですよ、戸籍に残されているのは12人です。嬰児や乳幼児の死亡率がとても高い時代でしたから、戸籍に残らない子どもさんもおらはったと思うんですけどね。これは証拠おまへん。
 この時代のハイソの家には、因習的な育児観と方法とが支配しておりました。ハイソを自覚すればするほどその因習に従ってさらにハイソ感を強めたんでしょうね。そりゃ何かってえますと、両親は子どもを作るが子育てはしない、ということです。そんなアホなとお思いかもしれませんが、父親はいうまでもなく仕事と社交に精を出し、母親はハイソにふさわしい家風づくりに勤しむ、夫とともに社交に精を出すというわけで、「おぎゃー」と生まれたすぐその時からその子は親から哺乳(ほにゅう)されることなく、乳母に任せられました。これがだいたい3歳ぐらいまで。じゃあ、3歳が過ぎたら子どもは親の手に戻るのかい?いいえ、とんでもございません。里子に出されます。7歳ぐらいまでの里子期間は里親から五官の訓練、社会性の基礎の訓練、情緒の訓練を受けます。有り体にいえば、屋内外での遊びが主となっていましたな。ハイソな家庭の子どもさんと普通の家の子どもさんとは遊びも違ったようです。これはちょっと詳しく調べんとあかんことですので、ここではそんなもんやったんやなあ、と思っっといてください。
 その期間を過ぎると、やっと両親の元に戻れるのか、やれやれ・・・。いいえ!里親が引き続きかかわることがありますが、もしその里親に知性と教養があまり期待できない場合には、ギリシャ語やラテン語ができる家庭教師に任せます。子どもは家庭教師と一緒に24時間同居生活を送りますから、やはり両親とは引き離されるわけですね。ハイソなご身分にふさわしいのはなんといってもヨーロッパ文化の起源を十分に知り尽くし身にまとうことなのですよ。
 先生様は家庭教師を兼ねた里親のところに預けられて幼少年期を過ごしています。里親はドゥニ・ウドム・ベルトランという人で、ドリュエス・ル・ベル・フォンティーヌという人口400人弱の小さな村の外科医さん。城壁に囲まれた小高い丘の上に村の中心がありますが、その丘の下には泉が美しく湧き出でており、その流れがヨンヌ川に注ぎ込んでいます。内科が主流であった時代とはいえ村の外科医さんは、そりゃあ、なんといっても人々の畏敬の念を集める存在。ベルトランさんはクーランジュのセガン家にとっては生まれた子どもの何人かの名付け親を務めるほどの間柄でした。
 クーランジュのセガン家の末っ子ジャック=オネジムさん、つまり後の「先生様」ですな、はベルトランさんによって、ラテン語、ギリシャ語をはじめとして、ハイソな家庭の出身にふさわしい教養の基礎をみっちりと仕込まれます。それだけでなく、医学の手ほどきも受けました。そしてパリの医学校に進み、精神医学の父と呼ばれるフィリップ・ピネルの指導の下、無事、医学博士となった次第です。学位論文は、彼が生まれ育った地域にはびこる風土病に関する問題が、主題に選ばれています。             (この項続く) 

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