ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

学術的活動に関わる下世話な思い出話。

2017年12月12日 | 研究余話

 ある人の書物(専門的教養書)の書評を依頼されて、誉めるばかりの我が国の書評傾向に対して疑問を感じている私は、叙述内容に関する基礎的な事項批判、テキスト・クリティークを紙幅の半分ほど、残りをその書物の意義についてに費やして書き上げた。送稿の準備をしているところへ著者から電話が入り、入稿の前に原稿を見たいとおっしゃった。お届けすると、再び電話が入り、「まるで私に教養がないみたいに思われるじゃないですかっ!私を貶めるつもりですかっ。」と一喝され、書き直しを命じられた。
 反権力の権化(と巷では評判の高い人)であり、自由と民主主義をこよなく愛する人(と巷では評判の高い人)であり、イデオロギー的敵対者を除いて人望の篤い研究者・教育者であるので、その言葉に驚いたのはいうまでもない。俳句を「一首」「二首」と数えていたり、季語が読み取れていなかったり…、間違いなくこの面において基礎教養に欠落し、溢れんばかりの情熱語がグダグダと並んでいたり、10数行が一主語で書かれている構文であったりと、批判されて当然のことであり、そのことで私がその方を「貶める」なんて冗談じゃない、ご本人が無教養をさらけ出して専門家ぶっていることの方が問題は大きいのだが、「後の祟りを怖れて」、全面褒め称える書評文に書き改めて送付した。これって、事前検閲ですね。そして権力的関係利用ですから、パワハラですね。
 それを承知で抵抗しなかったのですから、間違いなく、私は「晩節を汚した」わけです。この一文は、私はあらゆる形で、保存していない。
 一件を、グダグダ…。
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ビッグニュース

2017年12月09日 | 研究余話
ビッグニュースです。
 セガンが寄稿したことのある『ラ・プレス』紙のバックナンバーを眺めていましたら(目下こんな作業をしています)、セガンの死後の1894年7月5日号に次のような短信が報ぜられていました。フランス語原文でお示しします。

L’Académie de médecine a élu, dans la même séance, à la presque unaminité des suffrages, membres corespondants étrangers : MM. Les docteurs Léon Révilliode, de Genève, et Edward Seguin, de New-York.
直訳します。
医学アカデミーは、同会議において、全員一致で、ジュネーブのレオン・レヴィリオド医学博士、ニューヨークのエドワード・セガン医学博士を、外国人通信会員に選出した。

「同会議」というのは1894年7月4日に開催された医学アカデミー総会のことです。通信会員というのは我が国でいうところの名誉会員のようなものだと思います。死後にこうした肩書きが送られるというのは、これまで知らなかったことです。

セガンはフランス時代、科学アカデミーからは賞讃されましたが、医学アカデミーはまったく無視を決めつけられました。実質は石を持て追われる如くであったと思います。それが、死後とはいえ、晴れて医学アカデミーの名誉会員に選ばれたということは、セガンがフランス医学界に、その業績を正式に認められた、ということになるわけです。これまでブルネヴィユによって復権された、と言われてきましたが、「復権」という事実が公的なものであったことが明らかになりました。
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セガン再論

2017年12月02日 | 研究余話

 日本の初期のセガン研究では、「セガンは医学校で外科と内科を学んだ」〔津曲裕次氏〕、「非常に優秀な医学生であったので、〔当時の精神医学界の大御所〕エスキロールに請われて白痴の子どもの教育に携わった」〔同津曲氏〕、「セガンは白痴の子どものための学校を〔一大精神病院である〕ビセートルに創設した」(中野善達氏)、「サルペトリエール院の精神病棟の大改革を行った」(清水寛氏)というのが「実像」として綴られた。これらが、セガン論の大前提とされていた。おおよそ20世紀におけるセガン評価である。
 しかし、21世紀に入って、これらはセガンの「虚像」でしか無いことが実証的に明らかにされた。このことを明らかにするために、セガンの人生行路を当事史料で描きなおしたのが川口幸宏である。医学とはまったく縁の無い世界で青年期を生きていた。20歳頃から社会変革者の片鱗を見せていたけれど、学歴的に言えることは、法学部生、しかも修了していない・・・など。セガン自身は「芸術」分野で活路を見いだそうとしていた。・・・・云々。
 セガンの白痴教育に至る行程には、医学も心理学も精神病理もまったく学びの無い時空に彼が生きようとしていたことを、丹念に読み取らないと、当時の医学や心理学の学的臨床的到達ではとうてい、セガンの「子ども理解」には及ばないのだ。
 
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セガンの、なぜ?どうして?

2017年11月27日 | 研究余話
 荒井聡という方が、私のセガン研究書(2010年著書)をお読み下さった。その上で、幾つかの問いをお出しになっている。いずれ「方程式的解は無い」とコメントを差し上げた。
 解が無いからそれでおしまい、ということは許されない。予断や妄想で解があるかのようにしてきたこれまでの諸々のセガン研究の轍を踏むという愚は犯してはならないと自戒しつつ、解を求めるための方程式の作成作業が、私には残されているのだろう。
 荒井さんから出された問いのひとつーー
 「セガンの障害教育をとりくもうとしたきっかけというか意欲の源は、何なんでしよう?」
 「きっかけ」については、実証性は無いけれども、セガン自身が「著名な児童病院の院長を介して白痴と思われる子どもの教育に携わることになった」旨を回想している。
 19世紀半ば頃は、ブルジョアジーや貴族階級では、子弟の初等教育は、そのほとんどが個人教育で行っていたから、セガンもその教育に携わることになったと、判断していいだろう。この個人教育は、たいていの場合、家庭教師が住み込んで行って、子どもと家庭教師が24時間起居を共にしていた、という時代であった。セガンの初の実践記録は、そういう教育のあり方で無ければ理解できないような状況が綴られているから、私は、セガン家庭教師説の立場にある。・セガンのところに子どもが通ったのでは無く、セガンが子どものところで教えた住み込み教師を務めた、ということ。・・
 と、こんなところから「方程式」を作成している次第。(これまでのセガン研究の諸々では、まったくこういう作業は為されてこなかった)
 先が遠い「解」への道。・
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セガンが創設した学校について 追

2017年11月25日 | 研究余話
 ピガール通り6にセガンが開設した文部大臣認可の教育施設〔学校〕は、当時の関係者に、どのように見られていたのだろうか。
 文書の形で残っているのはきわめて数が限られている。その希少な一本が、聾唖教育と白痴教育とを結びつけた教育者ピロウ博士(Dr.Piroux)の論文である〔「聾唖の友」という雑誌に投稿された≪らしい≫〕。ピロウはその論文の中で、セガンの「学校」を「特殊学院」と形容している。l'Institute specieleが原語である。そしてそれは「イニヴェルシテの管理下に置かれている」という。今日風に言い換えれば、「文部大臣によって設置認可を得た特殊教育学校であり、フランスの全学校を管理するイニヴェルシテが管理下に置いている公教育機関」である。さらに意味深いことは、学校がそういう制度的性格を持った初の事例である、ということだ。特殊教育学校の公教育制度組み込みであり、史上初のこととなる(のだろう)。
 この学校が長続きしていれば、特殊教育史に燦然と輝く金字塔となったろうが・・・・。「学校」を巡る史的状況を、探ってみる必要はあると思う。
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