ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

幻戯書房へ

2016年02月18日 | 日記
○6時20分起床、起床時室内気温8度。夜中の目覚め2回。論文の校正の夢を何度も。
○燃えるゴミ出し。無杖は当たり前になった。
○今日は2016年2月18日。脳梗塞で倒れてちょうど2年経った。
 2年前のこの日、前著『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』が出来上がり、編集担当者(大学の教え子でもある)とささやかな祝いの膳を囲み、ほろ酔い気分で帰宅。そしてその夜、起き上がろうにも起き上がれない自分を見出し、救急車で運ばれ、そのまま入院。医師はきっぱりと「脳梗塞です。」と宣言した。・・・・
 そんな今日という日にある種の恐れを抱いている僕は、前著の出版社幻戯(げんき)書房に向かった。場所は東京神田小川町。我が家から電車で一本だが歩く距離は長い。ドキドキとこつこつ、約90分。
 恐れなどフッ飛ばせ!支援者トドちゃんのお手を煩わせることなく、一定よろよろとしながら、出版社の急階段を慎重に上った・・。
 エドゥアール・セガン筆の1843年論文の翻訳書『初稿 知的障害教育論 白痴の衛生と教育』が出来上がったばかり。この2年間の身体不自由と闘いながら、とくにこの1年、神経をとがらせて取り組んだ作業。「新しいセガン像を生み出した」という誇りのある作品である。
 今夜はゆっくりと休みます。


○エドゥアール・セガン研究の初期動機なんてものは、ぼくの場合、他人様に全く説得性の無いことだよなあ、とつくづく思う今日。
 「セガンを研究してきて40年、いよいよそのまとめの書を出すことになっている。しかし、フランス時代のセガンはあれこれ言われているけれど、その事実を示すものがほとんど分かっていない。ついてはそのことの調査協力を願いたい。」
 2003年の初夏、そういうお申し出を心から尊敬する先生からいただいた。体は日本にあって調査事項は19世紀のフランス、主としてパリ。たいていの史書には述べられていないことばかり。フランスを学問フィールドとして対象化し始めたのが、このお申し出のほんの2年ほど前。「そいつぁ―無理なご注文でっせ、旦那ぁ」とはっきり断ればいいのに、「お、また、パリに行く口実ができたな!」なんてのんきなもので、「よーがす。いっちょ片肌脱ぎやしょう!」となったのがことの始まり。
 「なんで先生がその40年の間に調査をなさらなかったのですか。」と問うのが本筋のはずなのだが、「パリに行く口実ができた」の魅力に誘惑されたのが初期動機だと述べれば、そんなん研究ちゃうわいっ!とお叱りをいただくのだろうなぁ。
○この「調査願い」の電話を受けたのが2003年5月。翌年の4月にはその結果〔一部〕を踏まえたセガン研究書が出版されている。どのページを見てもぼくへの謝意は書かれていない。おそらくこの先生、つまりKS氏は、自分が「喰われてしまう」ことを極度に恐れる人なのだろう。「主役がわき役に食われる」ってあれね。ぼくは形式上「わき役」でさえないのに。その後の別の研究物(近藤益雄研究)などはぼくにプロットを立てさせ、ぼくに資料を集めさせたにもかかわらず一切ぼくの名前を当該書に出さないで通そうとし、出版社の編集部長から「川口先生のご協力を大きくいただいたのですから、何らかの謝意を示す必要はありませんか?」と「説得」されたが「いや、これはぼくの本ですから。」と頓珍漢な、しかしそこにこそ先生の本音が現れた受け答えをした。
 2005年秋口からぼくはKS氏らによって描かれた「セガン」に代わるセガン像を構築しなければ日本の教育学研究史に汚点を残したままだ、との思いが強くなり、基本的な資料調査からセガン研究を始めた。2009年秋口には日本で通説化されている「セガン像」を書き換えるところまで研究が進み、その成果の第一陣が2010年3月に刊行した『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』(新日本出版社)であるが、この書の「あとがき」原稿を読んで、KS氏は、「ぼくは川口さんのセガン研究にいろいろ感想を申し述べてきましたし、出版社と川口さんとの間に入ってこの本が刊行されるように、あれこれ、意を配りました。その旨はやはり書き加えていただきたい。」と、伝えてきた。ご自分の書物への川口の大いなる協力については一切無視なさったから、そういうことでいいのだと思ったからこその、謝辞無し原稿だったのだが・・・。あくまでも、KSがいなくては川口のこの研究とその成果はなかったのだ、と、関係者に示したいのだろう。そう納得し、謝辞を書き加えた。あの憧れのKSは、こんな俗物でしかなかったのか、と悟った瞬間でもある。
 だから、その後のセガン研究にはどのページにもKSの名は登場してこない。今回の翻訳書解説においてもそうだ。セガン研究に関しては、KSの名を登場させる必然性など何もないのだから。批判対象にさえしていないことを、あの憧れのKS氏は感謝すべきだろう。ほら吹きだという恥をかかないで済んだのだから。

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