ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

終日在宅、衣類入れ替え

2017年05月09日 | 日記
○7時15分起床、起床時室温22℃。2度寝。 
○資源ゴミだし。特にトラブルなし。
○手紙を1通書き、郵便局へ。窓口のすてきな若いマダムと少し会話。フランス生活について尋ねられたことから。ついでに、帰路は散歩としゃれ込んだ。しかし、体が重く足が痛い。早朝とは違うのはなぜ?約30分。
○夏物を出し冬物をしまう作業。体にこたえるのでやりたくないが、今日を逃してはならじと、ぼちぼちと進める。
○左足裏着地訓練他。左脚の痛みが結構ある。
*脚内筋強化運動。
○手紙
* 過日、貴兄の最終講義冊子+天城の寒天連載最終記事まで、を落手いたしました。ご恵贈いただきありがとうございます。座しているばかりの生活の中で、貴兄がfacebook上でこの「伊豆新聞」連載記事を発信くださるたびに、貴兄の探究の旅の想像上で後追いが出来ることが、この上ない楽しみになっていました。新聞という限定された紙面枠の中で、次々と、発想というか発見に対する次なるステージへの期待を、簡潔に示しておられる、その文筆力にも驚嘆させられたものです。小生も、こういう探究を、「セガン」という素材を得て進めていた数年前まで、試みていたのだなあ、との思いも重なりました。
 一通り、拝読しましたが、重ねて繰り返し拝読しております。
 さて、またご面倒をおかけするモノを同封いたしました。2012年10月に行われた「セガン生誕記念シンポジウム」の報告書が昨年暮れにようやく送られてきました。シンポジウム内容を確認し新しい研究課題を見いだそうと読みました(小生の報告については拙著「一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン」(幻戯書房、2014年)に日本語原文をそのまま収録しております)。「知的障害教育」とか「児童精神医学」とかの冠が付けられて語られるセガンですので、その方面の「先駆性」や「今日的意義」が声高に語られているのはやむを得ないとは思いますが、「セガン」が生きた時代の中で「セガン」を捉える・理解するという研究姿勢がほとんど見られないのが、残念なところです。ぼくが日本のセガン研究の到達に大きく不満を覚えて研究を出発したその時点とまったく同じ所に、ぼくは立たされた、という問題を痛感しました。そのあげく、19世紀という時代そのものについての理解、認識がきわめて不十分だ、ということまで痛感させられるわけです。それはとくに「セガン伝」の報告に現れていました。ぼく自身も歴史学素養に欠落していることは充分に自覚していますが、それにしてもひどいものです。フランス人博士様を以てしても、19世紀という激動の歴史段階を、20世紀あるいは21世紀歴史現象と同じように理解しているわけです。多少、「地の利を得ている」のは当たり前のことですけれど。
 それで、「セガン伝」の到達状況を「とどのつまり」というタイトルで、拙文に綴りました。それに、「筏師」に関する小論を附しています。セガンがそれに向き合いながらも不十分でしかなかったというぼくの批判意識を込めて綴っています。セガン研究にはどうしても必要な視点ですが、これまで、どなたも、まとまって綴ったことがありません。「筏師」に関する研究は、退職後の重点的な研究課題としてさだめておりましたが、病魔に見舞われたため、願いを果たすことが出来ません。膨大な史料(生史料)があることがわかっているだけに、残念ですが、仕方ありませんね。
 それでは失礼します。変わらずにご活躍ください。
               2017年5月9日