夕風桜香楼

歴史ネタ中心の雑記帳です。
※当サイトはリンクフリーですが、イラストデータの無断転載はご遠慮ください。

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【5】総括

2023年09月19日 21時36分36秒 | 征西戦記考
 
 最終回ということで、これまで紹介してきた事実をあらためて整理し、勘違い説が流布するに至った経緯を再確認したいと思います。

 明治10年1月末、鹿児島において火薬庫襲撃事件が発生。急報を受けた政府は、川村純義(海軍大輔)と林友幸(内務少輔)を軍艦で鹿児島に急派します。現地到着後、直ちに大山綱良(鹿児島県令)から事情を聴取した川村・林でしたが、その際に「川路利良(大警視)が鹿児島に放った密偵による、西郷隆盛刺殺計画が発覚した」という、衝撃的な事実を聞かされます。
 この時点では大山も川村・林も、あくまで「刺し殺す」の意味で「シサツ」という言葉を使っており、コミュニケーション上の勘違いや誤解は生じていませんでした。事実、九州臨時裁判所における大山の取調べ記録(『鹿児島一件書類』)や後年の川村の述懐(『川村純義追懐談』)などの史資料を見ても、「シサツ」という言葉をめぐって特段の齟齬が生じた形跡はありません。
 また、私学校党が作成した密偵の口供書には、西郷を「刺殺」「暗殺」して私学校党幹部をも「みなごろし」にするといった文言が、明確に記載されていました(『丁丑擾乱記』)。私学校党は、はじめから密偵たちが西郷暗殺を企んでいるという事前情報を踏まえて行動していたため、そもそも「視察」を「刺殺」と勘違いする余地などなかったのです。

 さて、大山から聴取後、直ちに鹿児島を離脱した川村らは、取り急ぎ政府に状況報告の電報を打ちました。問題となったのは、その中にあった次の一節です。

「サイカウタイシヤウヲシサツスルコトヲ」

 川村らは深く考えずに「刺し殺す」意味で「シサツ」を使用したのでしょう。しかし、この表現は非常に紛らわしく、問題のあるものでした。実際、ある文書では当該箇所が「西郷大将を刺殺することを」と清書された一方、別の文書では「西郷大将を視察することを」と清書されるなど、政府内で少なからず混乱を招いていたのです(『鹿児島征討電報録』)。

 そもそも政府の面々からすれば、「西郷刺殺計画」じたいが寝耳に水の話です。なぜ鹿児島で突如そんな話が噴きあがったのか? 政府に届く正確な情報がごく限られている状況下、彼らは腑に落ちる答えを探し求めました。そんななか、岩倉具視(右大臣)はひらめいたわけです。

「シサツ……、もしや、川路の密偵が『視察』と自白したのを、私学校党が『刺殺』と勘違いしたのではないか!?」

 もしかすると、岩倉から追及された川路が「私は部下に『視察』は命じたが、『刺殺』は命じておりません!」などと抗弁したのかもしれません。いずれにせよ、現地鹿児島では単純に使われていた「刺殺」という言葉が、川村電報で「シサツ」と伝達されたために、重要キーワードに化けてしまったのです。
 つまり、言葉をめぐる勘違いは鹿児島でなく、政府の中で生じていた。……これが、シサツ勘違い説のカラクリだったということになります。

 このようにシサツ勘違い説は、元をたどれば岩倉の仮説=想像に過ぎません。しかし厄介なことに、

 ●「シサツという言葉を鹿児島人が勘違いしたのではないか?」と主張する岩倉具視の電報は実在する(『鹿児島征討電報録』)
 ●アーネスト・サトウら同時代人の述懐にも、シサツ勘違い説に関する記述がある(『遠い崖』)
 ●密偵団は「西郷」=「坊主」といった暗号を使っていたらしい記録がある(『林友幸西南之役出張日記』)

など、それを構成する断片的な要素は、いずれも史料的根拠のある事実なのです。もし構成要素の全てが真偽不明の憶測・噂話であったのであれば、シサツ勘違い説が現代まで語り継がれることはなかったでしょう。
 要するに、シサツ勘違い説は「ウソみたいな話」でありながら、一定の説得力を備えていたのです。

 英国人サトウの日記からは、岩倉が当時からシサツ勘違い説を各所で吹聴していた事実が読み解けます。こういった動きもあってか、シサツ勘違い説はいわば「政府の公式見解」として、世間に流布・定着することになったと考えられます。山県有朋(陸軍大輔)が後年「なるほど視察を刺殺と読み誤るのは、無理はなかろう」と語っている(『西南記伝』)のは、シサツ勘違い説が政府内で支持されたことの証左であったといえるでしょう。

 鹿児島暴発の報が舞い込んだ当初、政府の面々は西郷の関与を信じませんでした。情報の不足もありますが、同時に「西郷が無事であってほしい」という実に人間的な感情(=願望)が、彼らの認知を歪めたともいえます。しかし結果としてそれは、初動措置の遅延と早期収拾失敗という、最悪の事態を招くこととになりました(過去記事参照)。
 シサツ勘違い説にも、これと同根のセンチメンタリズムが見え隠れします。もし当時、政府の面々に「西郷のいる鹿児島が暴発するはずがない(=何か別の真実があるに違いない)」という先入観がなければ、あんな荒唐無稽な珍説が現代までまかり通ることもなかったのではないでしょうか。
 断片的な事実が人々に都合よく解釈され、結果として巨大な虚構が組みあがっていく……シサツ勘違い説をめぐる謎解きは、情報が氾濫する現代においても、多くの示唆を与えてくれるような気がします。

(了)

 

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【4】浮かび上がる断片的事実

2023年09月11日 19時33分47秒 | 征西戦記考
 
 さて前回、シサツ勘違い説が成立し得ない理由を提示しました。
 では、岩倉具視や山県有朋らの逸話は何だったのか? ……というわけで、今回はこれらの人物を含め、世間がシサツ勘違い説を信じるに至った原因について、考察を加えてみたいと思います。
 実のところ、筆者はこのシサツ勘違い説の元ネタについて、ある程度目星がついております。


①川村・林による報告電報

 「シサツ」という文言の、そもそもの出所はどこか。……同時代史料を見る限り、それは海軍中将・川村純義と内務少輔・林友幸が連名で打った、1本の電報であると考えられます。
 西南戦役のきっかけの1つである火薬庫襲撃事件の発生直後、川村・林は、政府の使者として鹿児島に派遣されました。両名は軍艦「高雄丸」で海路鹿児島へ急行し、大山綱良県令から事情を聴取するなどしましたが、武装した私学校暴徒が艦の周囲で威嚇してきたため、即日反転離脱しています。(このあたりの経緯は、過去記事も参照)
 当時、艦載の無線電信などはもちろん存在しませんので、川村らは帰路に立ち寄った尾道の電信局から、鹿児島の状況を政府に速報しました(当時の政府中枢は、明治帝の関西行幸に伴って京阪にありました)。政府の面々はおそらく、この電報で初めて西郷暗殺疑惑なるものの存在を認知したと考えられます。

 薩摩へ去る九日朝着船す。(鹿児島暴徒は)兵器を以て我が高雄丸に乗り入らんとす。故に上陸する能わず、県令は漸く高雄丸に会す。とても鎮定成り難し。最早昨今は発兵するの勢い、入港の船をことごとく止む。船の薩摩行を留むべし。肥後鎮台へも報告す。兵員わけて御注意あるべし。
 其の名とする所、西郷大将を刺殺することを大警視より中原某等へ申し含めしと云う。中原其の他三十名捕縛せしと県令より聞く。
 風波のため今日午前八時二十分当港へ着。

(『鹿児島征討電報録』)

 川村らは、「私学校党の挙兵の大義名分は、西郷大将を『刺殺』することを川路大警視が中原らに指示したことにある」と報告しています。
 しかしこの電報文は、もともとカタカナ表記だった原文が、記録用として漢字仮名交じり文章へ清書されたものです。すなわち、本来は「サイカウタイシヤウヲシサツスルコトヲ」といったカナのみの原文であったはずなのです(なお、電報原文自体の史料は発見に至らず)。
 それを踏まえ、あらためて原文ベースで考えてみると、「シサツ」という文言は「刺殺」なのか「視察」なのか、極めて曖昧です。電報を受信・清書した政府の職員も、おそらく判断がつきかねたのではないでしょうか。というのも、複数ある電報録のうちの別の一冊では、同じ電報文が次のように記載されているのです。

 其の名とする所、西郷大将を視察することを大警視より中原某等へ申し含めしと云う。中原其の他三十名捕縛せしと県令より聞く。
(『鹿児島征討電報録』)

 つまり、当時の政府内において、「シサツ」という言葉をめぐる誤解・勘違いが現に発生していたわけです。
 これは率直に言って、川村らが電報で安易に「シサツ」という曖昧な言葉を使ったことに、全ての原因があります。
 鹿児島視察の際、川村らは大山県令から対面で説明を受け、西郷暗殺問題の概要を明確に認識しています(『川村純義追懐談』『鹿児島一件書類』等)。大山がその場で「シサツ」という言葉をどの程度使ったかはわかりませんが、少なくとも川村らがそれを聞いて「視察」と「刺殺」を取り違えた形跡はありません。ゆえに、川村らが電報で使った「シサツ」が「刺殺」であることは、間違いないと考えられます。
 しかし「シサツ」という言葉のチョイスは、電報文を作る感覚に著しく欠けているといわざるを得ません。電報という媒体である以上、例えば「アンサツ」「サシコロス」など、読み手が明確に理解できる表現を使うべきなのです。類似の齟齬は現代のビジネス・コミュニケーションでも大いに起こり得るものですので、考えさせられるものがありますね……。
 いずれにせよ、川村電報の「シサツ」が政府内で一定の混乱を招いていたことは、史料でも確認できる事実というわけです。


②密偵団の暗号(隠語)

 次に紹介するのは、「ボウズヲシサツセヨ」電報の元ネタと考えられる事実です。
 実のところ、落合先生が著書で取りあげていた西郷=坊主という暗号は、実際に存在していたらしいことが分かっています。すなわち、鹿児島の大山県令が、密偵から押収した暗号メモを西郷暗殺計画の証拠として報告しているのです。

 暗号
  一 虎とは 電信機
  一 西の窪とは 大久保のこと
  一 親方とは 政府のこと
  一 坊主とは 西郷のこと
  一 警助とは 警視庁
  一 吉田とは 桐野のこと
  一 川原とは 三条のこと
  一 髭とは 別府のこと
  一 於岩とは 岩倉のこと
  一 一向宗とは 私学校のこと
  一 川口屋とは 川路のこと
  一 天狗とは 銃砲のこと
  一 藤細工屋とは 安藤のこと
  一 御薬とは 弾薬のこと
  一 人力車とは 巡査のこと
  一 馬車とは 兵隊のこと
  一 クジラとは 軍艦のこと
  一 乞食とは 探索者のこと (略)

(『林友幸西南之役出張日記』)

 暗号よりは隠語というべきものではありますが、西郷隆盛、桐野利秋、別府晋介など私学校党関係者に加え、大久保利通、岩倉具視、三条実美(太政大臣)、川路利良、安藤則命(警視局中警視)といった政府要人の名前、さらには巡査、銃砲、弾薬、軍艦といったキーワードが列挙されています。また、大山のこの報告書には、西郷=「煙草」、桐野=「カスリ」、私学校=「ミカン」といった、別バージョンの暗号も併録されています。
 中原ら密偵団がこれらの暗号を使っていたと考えることは、それほど不自然ではありません。彼らは敵地で危険な極秘任務を遂行しているわけですし、例えば現在の警察で「犯人」=「ホシ」といった類の隠語が使われていることもよく知られています。
 つまり、「ボウズヲシサツセヨ」という電報の存在は怪しいものの、少なくとも中原ら密偵が西郷を「坊主」という暗号(隠語)で呼称していたらしいことについては、ある程度の信憑性が認められるのです。


③岩倉具視の推測

 3つめに紹介するのは、東京の岩倉具視と京阪の川村純義の間で交わされた往復電報の記録です。そして筆者は、これこそが勘違い説の原因・経緯を解き明かす最重要史料である……とにらんでおります。
 電報は2本あります。1本めは、鹿児島視察から戻ってきた川村が2月16日、岩倉に対して送った電報です。重要な内容なので、原文と現代語訳をともに紹介します。

 先日御届け致し候「川路大警視の指令を以て西郷大将を視察する」云々は容易ならざる事件に付き真偽不分明、右等ノ事万々あるまじくとは存ずれども今般御尋問として西郷上京致すべくとの場如何にも順序相立たず、上京猶予致すべき旨大山県令を以て申込め置き候に付き、全く同県人の偽策に非ずや。川路御取糺し何分の儀承知致したく候。
《先日お届けした「川路大警視の指令をもって西郷大将を刺殺する」云々は容易ならざる事件で、真偽は明らかでありません。そのようなことは万が一にもあり得ないとは思いますが、今般政府に尋問ありとして西郷が上京するというのは順序が立たないので、上京を思いとどまるべき旨、大山県令を通じて申し伝えておきました。(西郷刺殺計画というのは)全くもって鹿児島人たちによる虚言ではないでしょうか。川路を問いただし、詳細を確認したいところです。》
(『鹿児島征討電報録』)

 電報文は、「シサツ」の箇所が全て「視察」で清書されています。しかし、ただの視察命令が「容易ならざる事件」「万が一にもあり得ない」というのは文脈上考えにくいため、川村はやはり「刺殺」の意味でこの言葉を使っているとみるべきです(そのため、現代語訳では修正してあります)。ここでも現に誤解が発生しているわけで、電報で安易に「シサツ」という言葉を用いることの問題点があらためてお分かりいただけると思います。
 いずれにせよ、川村はこの電報において、刺殺計画の首謀者とされている川路利良への事実確認が必要だ、との旨述べています。(川村はこのとき京阪にいますが、岩倉と川路は東京に残っていました。)
 川村から電報を受けた岩倉は、同じ2月16日付でさっそく返信をしています。

 電報落手せり。川路大警視の指令を以て西郷大将シサツ云々容易ならざる事件に付き真偽分明に承知ありたき旨、早速川路へ尋問せし処、「警察の儀は職掌故固よりたるべき様なし、若し暗殺等の取違いに候わば思い寄らざる訛伝」と答え候。
 我考うるに「シサツ」則ち「サシコロス」の字と誤認候やと存じ候。来示の通り万々之れなき事にて全く偽策と存じ候

《電報を受領しました。「川路大警視の指令で西郷大将をシサツ」云々は容易ならざる事件につき真偽を承知したい旨、さっそく川路に確認したところ、「警察の職務上、そのようなことがあるはずはなく、もし暗殺などと勘違いが生じたなら思いもよらない誤解である」と答えました。私が考えるに、鹿児島県人は「シサツ」 を「刺し殺す」意味と誤認したのではないかと思います。お考えのとおり、万が一にもあり得ないことであり、全くの虚言と存じます。》
(『鹿児島征討電報録』)

 いかがでしょうか? この電報において突如、岩倉から「私学校党は『シサツ』を『刺殺』と勘違いしたのではないか」というアイデアが飛び出すのです。
 往復電報の文面からは、突如発覚した西郷刺殺陰謀なるものに対する川村・岩倉らの狼狽ぶりが、ありありと伝わってきます。なぜそんな事態が起きたのか、彼らは見当がつかず、何か腑に落ちる「答え」を探し求めた。そして、鋭敏な頭脳をもつ岩倉はピンと来たわけです……「分かった!この『シサツ』が全ての原因だ!」と。もしかすると、川村からの電報文を見た川路が「私は部下に『視察』は命じたが、『刺殺』は命じておりません!」などと主張し、それにヒントを得たのかもしれません。
 要するに、実相は次のとおりだったということです。

× 私学校党が「シサツ」を「刺殺」と勘違いした
〇『私学校党が「シサツ」を「刺殺」と勘違いした』と、岩倉具視が勘違いした


 岩倉は、とにかく本件のキーパーソンというべき存在です。
 第2回を思い出してください。アーネスト・サトウがシサツ勘違い説を聞かされた相手は……岩倉でした。そう考えると、サトウの日記はむしろ「岩倉によってシサツ勘違い説が創出・流布されたことの傍証」としての意味あいが強くなってきます。

 いかがだったでしょうか。シサツ勘違い説は、これらの断片的な事実が予断・推測を媒介に結合し、虚構としての全体像が形成されていった……と考えられるわけです。
 次回(最終回)では、これまで紹介してきた情報を整理し、勘違い説が生まれた経緯をあらためて再構築してみたいと思います。

(【5】へつづく)
  

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【3】勘違いは生じていたか

2023年09月02日 22時11分16秒 | 征西戦記考
 
 前回、シサツ勘違い説が当時の時点から確かに存在し、しかも岩倉具視や山県有朋といったビッグネームに認知されていた事実を紹介しました。
 しかし、結論から先に言えば……、「私学校党が本当に『シサツ』という言葉を勘違いしたのか」について、筆者は極めて疑わしいと考えています。
 これからその理由を説明していきます。


①私学校党側は、シサツ勘違い説を否定している

 1つ目の理由は、肝心の私学校党側が、このシサツ勘違い説について否定的な立場であることです。
 前回、岩倉具視と山県有朋の言辞を紹介しましたが、この2人はいずれも政府側の人間です。しかも当時、両名は鹿児島から遠い中央(東京ないし京都)にいましたので、勘違いが発生したとされる現地の状況を直接見たり聞いたりしたわけではありません。したがって、この2人はあくまで伝聞情報をベースに、自分なりの推測も交えて、シサツ勘違い説を主張しているということになります。
 それでは、西郷暗殺問題の震源地である鹿児島側にどのような記録が残っているのか……というと、少なくとも主要な一次史料や近接年代に編纂されたような史資料には、勘違いに関する記録が見当たらないのです。
 私学校による取調べにおいて、最初に暗殺計画を自白したとされているのは、中原尚雄(警視局少警部)という密偵です。私学校党は、この中原の口供書を西郷暗殺計画の証拠資料として特に重要視し、挙兵時には印刷して広く頒布するなどしています。
 この口供書を見てみますと、「シサツ」関係部分は次のように書かれています。文語でやや読みにくいとは思いますが、比較的平易な内容ですので、そのまま紹介します。

(大山勘介警部の話として、)「西郷もし事を挙げば、刺殺するよりほかなし」と承り候に付き、(略)
(市来四郎『丁丑擾乱記』)

 ズバリ「刺殺」が出てきました。なお、電報ではなく捜査書類ですので、原文は明確に漢字を用いて書かれています。
 やはり中原が「シサツ」と口走ったのは事実だった⁉ ……しかし、実のところ西郷暗殺に関するくだりは、ここだけではありません。重要な部分を2か所ほど引用します。

(川路大警視の話として、)「万一挙動の機に至らば、西郷に対面刺し違えるよりほか仕様はないよ」との申聞に随い居り候ところ、(略)

(密偵団は出発前の会議の場で、)私学校の人数に離間の策を用い、我が方に人数を引き入れ私学校を瓦解せしめ、動揺の機に投し西郷を暗殺致し、速やかに電報を以て東京に告げ、海陸軍併せて攻撃に及び、私学校の人数をみなごろしに致し候儀を決定し、(略)

(同前)

 「暗殺」「みなごろし」云々といった言葉が使われています。これらは「シサツ」とは明確に語感が異なり、勘違いの生じようがありません。
 つまり、私学校党は「シサツ」という曖昧な言葉を拡大解釈したのではなく、西郷暗殺計画に関する明確な言辞を得ていた……ということになります。

 もっとも、この西郷暗殺関係の記述は私学校党によって捏造されたものであることが、複数の研究書(日高節『西郷隆盛暗殺事件』、後藤正義『西南戦役警視隊戦記』など)により判明しています。詳細な論証はこれらの労作に譲りますが、中原の逮捕から口供書作成までの実際の経緯は、おおむね次のとおりだったようです。

●中原は、知人・谷口登太(私学校党のスパイ)と私的な酒の席を持ち、時勢について議論した。暗殺計画については具体的に言及しなかったが、その場の勢いで「西郷と刺し違える」云々と抽象的な放言をした。
●そこで谷口は、中原の言辞を私学校党に報告した。挙兵の大義名分を欲していた私学校党にとって、谷口からのタレコミは渡りに船だった。私学校党は「西郷と刺し違える」という文言を「西郷暗殺の陰謀」とこじつけ、直ちに中原を逮捕・拷問。西郷暗殺計画を強引に自供させようとした。
●しかし、中原は具体的な暗殺計画をいっさい自供しなかった。そのため、取調べに当たった県警察職員(私学校党)が口供書の一部を改竄し、本来口供書になかった「暗殺」「みなごろし」といった文言を挿入した。

 
 要するに、私学校党が中原逮捕に踏みきったキーワードは、「シサツ」ではなく「刺し違える」でした。したがって、私学校党は勘違いなどしておらず、はじめから中原を西郷暗殺容疑者として逮捕していたということになります。この事実は、きわめて重要です。
 なお、「西郷暗殺指令が本当に存在したかどうか」あるいは「口供書が本当に改竄されたのかどうか」といった議論は、本稿ではあまり重要ではありません。なぜなら、それらの真相がどうであろうと、「私学校党が西郷暗殺問題という概念をあらかじめ明確に認識し、予断に基づいて結論ありきで中原を取り調べていた」という外形的な事実は揺るがないからです。

 ちなみに、九州臨時裁判所において西郷暗殺問題の真相究明に関する尋問が行われた折、中原は西郷暗殺指令の存在を全面否定しつつも、谷口との酒席で「刺し違える」云々と発言した事実についてはおおむね認めています。
 これに対して谷口のほうは、ずっと年代が下った大正年間、薩軍を顕彰し政府を批判する『薩南血涙史』という戦記が作られた際、

 暗殺の事は正しく中原より聞きたる事に相違なき事実なり。
(加治木常樹『薩南血涙史』)

と新たに証言しています。その真偽は不明ですが、少なくとも谷口や私学校党が「シサツ」という言葉を勘違いしたなどという痕跡は、やはり全く見受けられません。

 さらに、同じく薩軍に同情的な前掲『西南記伝』も、西郷暗殺陰謀の実在を主張する立場から、シサツ勘違い説について次のように一蹴しています。

 山県の言うが如く、視察を刺殺との誤解よりして、私学校党の激発したるものの如く云えるも、中原等の入薩が、尋常一様の状況視察にあらざるは、言うを俟たず。
 もし当時、政府の目的にして、単に私学校党の状況を視察するに止まらしめば、何ぞ必ずしも数十名の警部、巡査、壮士、学生を派するの要あらんや。而して政府が此の如く多数の人士を鹿児島に派したる所以のものは、その目的は、私学校党を離間し、これを攪乱し、これを破壊せんとするにありしこと、疑を容れざるなり。

(黒龍会編『西南記伝』中巻1)

 つまりシサツ勘違い説は、それを裏付ける一次史料がないうえ、そもそも存在そのものが当の私学校党側から明確に否定されているのです。


②シサツセヨ云々という電報に関する記録もない

 2つ目の理由は、電報パターンに関してです。そもそもこの「ボウズヲシサツセヨ」なる電報も、やはり史料的に存在が確認されておりません。
 西南戦役に関しては、これまで紹介した『西南記伝』『薩南血涙史』以外にも、『鹿児島征討始末』『征西戦記稿』『西南戦史』『西南戦闘日注』といったさまざまな編纂資料や戦記が明治年間から刊行されています。しかし、これらの中に、「ボウズヲシサツセヨ」なる電報を私学校が入手した事実を記しているものはありません。
 もちろん、『征西戦記稿』『西南戦闘日注』といった政府側の戦記は立場上、西郷暗殺計画の存在そのものを否定していますので、それに関する(いわば不都合な)情報を、あえて記載していないとも考えられます。
 しかし、前掲『西南記伝』『薩南血涙史』のように、薩軍よりの立場で編纂され、私学校党を擁護するような戦記にも、「シサツセヨ」電報の存在に言及しているものは皆無です。これらの戦記はおしなべて西郷暗殺計画の実在を強く主張しているにもかかわらず、その決定的証拠というべき電報にいっさい触れていないのです(中でも『西南記伝』に至っては、前項で紹介したようシサツ勘違い説を強く否定している有様)。

 そもそも、政府が西南戦役の際に使用していた電報については、詳細な電報録簿冊が現存しています。その多くは、国立公文書館のデジタルアーカイブHPなどで一般公開されており、誰でも自宅で簡単に閲覧することができます。当時の貴重な情報の宝庫であるため、筆者も論考記事を書く際などには頻繁にこれを確認し、情報を得ています。
 しかし、これらの電報録にも、「ボウズヲシサツセヨ」はもとより、川路が中原に宛てた暗殺指令といった類の電報は記載されていません。つまり、史料的にウラがとれないのです。
 暗殺指令の存在を隠蔽するため、世間への公表を前提とした編纂資料・戦記に「シサツセヨ」電報を意図的に記載しなかった……というのはまだ分かりますが、公表を前提としない生資料というべき電報録にも一切記録がないのでは、その存在を立証することは極めて困難です。

 そのうえ、当時の電報は、現代のメールやチャットのようにお手軽なものではありません。例えば、仮に川路が鹿児島にいる中原に電報を打とうと思うと、まずは熊本の電信局宛てに発信する必要があります。というのも、鹿児島には当時まだ電信局がなかったのです。したがって、流れとしては、

(1)熊本の電信局に「ボウズヲシサツセヨ」という電報を発信する
(2)受信した熊本電信局員がそれを書面に書き直し、鹿児島へ文書として発送する
(3)電報文が中原の自宅に配送される


……という順序を踏まなければなりません。つまり、届くまでの間に何人も部外者が介在するわけです。このような手段で暗殺指令のような機微情報を伝達するというのは、だれの目から見てもリスキーでしょう。
 しかも、私学校党は当時の鹿児島県行政を掌握しており、騒擾発生後は信書の差し止めも普通に行っていました(田中信義『カナモジでつづる西南戦争』)。中原らは帰県当初から私学校党にマークされていました(河野弘善『西南戦争探偵秘話』)ので、「川路から中原宛ての電報」などが届いた日には、あっという間に私学校党に押さえられてしまったことでしょう。
 川路にしても、あるいは大久保利通にしても、そんな迂闊なヘマをするものでしょうか? 現に、当時の警察の各種探偵報告書などの機密文書は、基本的に電報ではなく信書という形をとっていたらしいことが分かっています(前掲『西南戦争探偵秘話』)。当然といえば当然の話です。
 これらを綜合すると、やはり「シサツセヨ」電報の存在は、否定的に見ざるを得ないと思います。落合先生はご著書で何を根拠に「シサツセヨ」電報の存在を断定したのか、疑問といわざるを得ません。


 では、なぜ勘違い説が生まれたのか。サトウや山県の述懐は何を意味するのか。「シサツセヨ」電報は全く根拠のないヨタ話なのか。
 ……次回、その謎に迫ります。

(【4】へつづく)