夕風桜香楼

旧『薩軍分営』。
イラスト創作記および雑記帳です。歴史ネタ中心。
不定期更新ですが、悪しからず。

"新たなる希望"へ……(ローグ・ワン感想)

2016年12月24日 19時54分41秒 | その他
 SWスピンオフ『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』、遅くなりましたが観てきましたので感想です。

※当然ながら、ネタバレありますのでご注意ください。




【本当に観たかったSW】

 最初に言っておくと、本作、単体の映画作品としての完成度は決して高くない。シナリオは少し込み入っているし、人物や舞台が次から次にコマギレに切り替わるせいで、観客がどうも物語からおいてけぼりになってしまいがちだ。
 本作のギャレス・エドワーズ監督は、『GODZILLA』でもこんな感じだった。彼はやはり、シナリオの構成やストーリーテリングはあまり得意ではないのだろう。

 正直、かったるい感じの前半。「大丈夫かこれ……」と次第に不安が高まる。しかしそれは、後半の怒涛の盛り上がりで一気に吹き飛んだ。

 反乱同盟軍の中で「反乱」を起こし、ローグ=ならず者の名のもとに決死の強襲作戦を敢行する主人公たち。
 友軍の危機に、駆けつける増援の大艦隊。
 「全機、状況を報告せよ!」「レッドリーダー、異状なし!」「ゴールドリーダー、異状なし!」
 そして、海陸と衛星軌道上で繰り広げられる激闘。

 そうだ!これが観たかったんだ!
 昨年公開されたEP7『フォースの覚醒』にどこか物足りなさを感じ、ノリきれなかった身としては、思わずそう叫びたくなった。
 むろん、旧作と新作の両立という圧倒的な難題に挑まなければならなかったEP7製作陣の苦労は承知している。また、今回のあまりにド直球なもろもろの要素が、旧作懐古ファンに露骨に媚びたファンサービスであることも重々分かっている。
 しかし、やっぱりこれが観たいのだ。脳が沸き立ち血潮が騒ぐ、この名状しがたき感覚を味わうために、オレは映画というものを観るのだ……本作を通じ、あらためて「映画を観ること」の幸せを感じることができたような気がする。

 クライマックスからエンディングも最高だった。ダース・ベイダーの圧倒的な恐怖に打ちのめされ、息つくヒマもなく物語はEP4冒頭のほんの数分前につながっていく。本当に、前半のかったるさがウソのようだ。ほんの一瞬で観客の心をわしづかみにして、根こそぎ持っていく爆発力こそ、ギャレス演出の真骨頂といえよう。


【ローグ・ワンを貫く三島精神】

 さて、本作において、個人的に強く印象的だったのが、主人公ジンたち「ローグ・ワン」の凄絶な玉砕戦だ。彼らが決行した奇襲作戦には、ほぼ徹頭徹尾「生還」の思想が欠落している。彼らは反乱軍の大義と己の信念のみに従い、組織に叛旗を翻して出撃した末、口々に「希望」を唱えて壮烈に死んでいく。
 筆者は、彼らの死にざまを見ていて、三島由紀夫の言葉を思い出さずにはいられなかった。

 人間が、自分のために生きようということだけには、何か卑しいものを感じるということは当然だと思うのであります。人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬ、というほど人間は強くないのです。
 というのは、人間は理想なり、何かのためということを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためというのが必ず出てくる。
 それが、昔いわれた「大義」というものです。そして、大義のために死ぬということが、人間の最も華々しい、英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられる。
(昭和41年のテレビ番組でのインタビュー)


 人は誰しも死ぬのが怖い。ゆえに自身の死に意味を求め、崇高な死に憧れる。大義のために自己をかえりみず犠牲にするという、本作のローグ・ワンたちの死にざまは、まさしくわれわれにとっての「理想の死」の具現化といえ、だからこそ美しく感動的に写るのだろう。

 しかし他方で、映画などにおいて「大義のための自己犠牲」というテーマは、どこか押しつけがましい「お涙頂戴」感が漂うことが少なくない。またときには、「いのち」を何よりも大事にする思想の人たちから、「狂信的だ」「全体主義的だ」との誹りを受けることもある。わが国でも、さきの大戦における特攻隊に対する過度な忌避感から、いわゆる特攻精神というものは批判的に語られることが多い。じつは筆者自身も、「大義のための死」というテーマ自体は好きだが、あまりにイデオロギーが先行しすぎているものにはどうもヒいてしまうところがある。

 ところが、本作については、その種の押しつけがましさや全体主義っぽさはあまり感じられない。いやむしろ、より気高く、崇高な精神がえがかれているようにすら感じてしまう。
 なぜなら、奇しくもローグ・ワンの死にざまが、これまた同じく三島由紀夫が主張した精神、すなわち「あとにつづく者あるを信ず」の精神と限りなく重なっているからだ。

 「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめるからである。
 「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。
(『反革命宣言』)

 しかしきみ、革命っていうのは“今日”よりも“明日”を優先させる考え方だろう。ぼくは未来とか明日とかいう考え、みんなきらいなんだ。(中略)
 未来社会を信ずる奴は、みんな一つの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい、いや、むしろそれが正義だ、という考え方だ。高見順はそこで一生ふらふらしちゃった。
 未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが“文化”の本当の形で、そこにしか“文化”の最終的な形はないと思う。(中略)
 三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。バカいえ、オレは未来に関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレはオレのために生き、オレの誇りのために生きてる。
(『東大を動物園にしろ』)


 一般に、創作物において「大義のために死す」というテーマは、「『よりよき未来社会』を作るための自己犠牲」として表現されることが多い。本作も、そうやって解釈することはじつに容易だ。
 しかし三島は、このような未来志向の理想主義にもとづく自己犠牲に、きわめて批判的であった。なぜなら、「よりよき未来社会」とはじつに抽象的・主観的なもので、絶対的な正しさは持ちえない(例えば、パルパティーン皇帝だってある意味では「よりよき未来社会」を作るために帝政を強いたのだ)し、あるだれかの主観を「大義」として絶対化すると、それに伴う自己犠牲も結局はそんなだれかのあやふやな主観的考えを実現するための単なる手段や過程になり下がり、崇高な価値を失ってしまうと考えたからだ。
 三島は、最も崇高な自己犠牲に値する大義とは何かということに思いをめぐらせ、やがて「そもそも、大義それ自体の中身はどうでもいいし、それを実現する必要もない」(=「有効性は問題ではない。」)ということを悟った。そして、あくまで現にいま生きている個人ひとりひとりの「かけがへのない現在」を第一に重んじる立場から、「あとにつづく者」を信じて自ら率先して死ぬ「行動」こそが、人間として最も崇高なのではないかという結論にいたった。
 そして、自ら「行動者」として、それを実行したのであった。

 本作のじつに巧妙なところは、反乱同盟軍の面々が、旧作のような「大義のために戦う崇高な戦士たち」(=こちらはまさに「よりよき未来社会」のために戦う、ステレオタイプな正義の味方といえる)としてはえがかれていない点だ。それどころか、アンドーなどはかなり明確に、帝国の支配する社会からのあぶれ者・はみ出し者として、鬱々としたルサンチマン(恨みつらみ)を抱えながら生き、なりゆきで得た大義に身を任せている者として描写されている。つまるところ、彼らの行動の根底にあるのは決して崇高な「よりよき未来社会」の理想ではなく、それとはむしろ真逆の、社会に対する失望とニヒリズム(世の中もうどうにでもなれという冷めた感覚)なのだ。
 彼らは、ニヒリズムに陥り、自分の生き方を見失ったからこそ、「自分自身を肯定する何か」を求めた。そして、結果として反乱軍のかかげる「大義」にめぐりあった。彼らからすれば、その大義の中身自体は必ずしも重要ではなかった。なぜなら、彼らにとっては、一つの大義を信じて戦う「行為」それ自体が、自分が自分であるための「目的」だったからだ。
 だから、極端にいえば、彼らは、大義が成就するか否かよりも、「大義に賭けた自分がいかに生き、いかに死ねるか」のほうがずっと大事だったのだ。出撃計画が否決されうなだれるジンのもとに馳せ参じたアンドーが言った印象的な台詞は、「大義や理想などとは本来無縁だったはずのニヒリスト」が、本人すらも意図しないうちに「大義のため死をいとわない崇高な戦士」に変貌したさまを、見事に象徴しているといえよう。

 期せずして「行動者」としての境地に達した彼らは、どんな無謀な戦いであっても全力で挑み、命を惜しむことはない。「自分が死んでも、あとにつづく者がある」と悟っているのだ。もしこれがただの記号的な薄っぺらい「未来の自由のための戦士」みたいな描写だけだったら、なんだか押しつけがましさを感じ興ざめしてしまっていたはずだが、本作ではこのあたりをじつに丁寧かつ見事にえがいている。
 本作において繰り返されるキーワードは「希望」。この言葉は、反乱軍のかかげる自由の思想のことではなく、ひたすらに「あとにつづく者あるを信ず」という精神のもと、自らの犠牲をいとわない崇高な「行為」そのものを意味しているのかもしれない。


【その他雑感】

● もう、とにかく小ネタ満載。チョイ役はいうに及ばず、小道具から台詞まで、いちいちファンサービスがニクイ。なおいちばん笑ったのは、ドドンナ将軍登場シーンでした。まさかあのオッサンがまた拝めるとは思わなかった。

● キャラクターのお気に入りは、モン・モスマ。落ち着いた凛々しい美人で、役者は違えどEP6の姿をごく自然によみがえらせていた(゚ω゚)

● ターキン総督とレイア姫のフルCG出演にはオドロキ。多少の違和感はあったものの、ついにこんな時代が来てしまったかと感無量。




 さてさて、軽くすませるつもりが、SWシリーズは思い入れが強いだけに、やっぱり長くなってしまいました。
 たぶんこれはみんなが指摘してることだと思うけど、この作品観ると、EP4の観方が間違いなく変わりますね。いや正確には変わるというより、もう観飽きたはずのあの作品での反乱軍の戦いぶりが、改めて新鮮に、かつより深い陰影をもって迫ってくるはず。これ、とてつもない壮挙だと思います。色々とクダも巻きましたが、ギャレス監督には拍手を送りたいです。
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永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ

2016年12月20日 21時37分43秒 | 作品録
 最近はどうも描く機会がへってるからか、絵の題材も個人的な妄執にもとづくイメージが優先されがちです……。



All what she wants to be, is a modern girl !

 とにかく歌声が好きな歌手、シーナ・イーストンのTVショウでの衣装です。明らかに軍服をイメージしたデザインですが、かわいらしさと色っぽさが絶妙にマッチしており、本当にたまりません。
 実際の映像はこちら。ああ、何度でも観てしまう(°ω°)









 こちらも完全なるシュミ絵。コートと拳銃がふいに描きたくなったので、だいぶ昔に描いた「現代の特高捜査員」のイメージをリテイクしてみました。
 自分の愛用品と同じコートを着させる変態ぶりです。USマリーンの払下げ品で、シンプルで使い勝手がいいのです。ほのかに緑みがかったカーキ色も気に入っております。
 拳銃はSIGのP230。優美なシルエットが大好きで、かねてからこのキャラにぴったりだと思っていました。



 なお、今回のこれら、やはりどうにもおさえきれず、煩悩リミッターを解除したバージョンもこっそり作っております。

 その一
 その二

 ほんと、フェチシズムというやつは……(・ω・)
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凱旋

2016年12月20日 21時19分51秒 | 作品録


百万にのぼるわが皇国の軍が、強大な敵を征討した
荒野に戦い城塞を攻めるなか、わが将兵の屍は山を成した
私は恥じる、どの面さげて故郷に待つ人々にまみえることができようか
戦勝の凱歌が響く今日、果たして何人の者が無事に帰還することができただろうか


 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実』(PHP新書)を読みました。そして、改めて乃木大将の果断な指揮と第三軍将兵の無双の奮戦ぶりに感銘を受けるとともに、今なお人口に膾炙する「無能論」になんともやるせない気持ちになり、ふたたび乃木大将をテーマに絵を描こうと思いたった次第です。
 引用した『凱旋』の詩は、乃木大将の作の中で個人的に最も好きなものです。凱旋という晴れやかな題名が、人間乃木希典の悲痛な心の叫びをかえって際立たせる、本当に凄まじい詩だと思います。乃木神社の資料館で、乃木大将自筆によるこの詩の掛軸を初めて見たとき、心にズンと衝撃を感じてしばし立ちつくしたのを、今でもよくおぼえています。
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