夕風桜香楼

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西南戦争期の兵営生活

2020年06月23日 17時40分08秒 | 征西戦記考
 
 西南戦役(西南戦争)に関しては、「百姓町人出身の徴兵は惰弱で、薩摩士族兵の敵ではなかった」といった類の俗説が今なお根強く流布しています。戦記資料などを細かく読んでみると、実際には必ずしもそういうわけではなかったことが分かるのですが、今回は関連する参考情報として、当時の兵営生活についての述懐記録を2つほど紹介してみたいと思います。

 いずれも松下芳男『徴兵令制定史』に抄録されているもので、語り手はちょうど西南戦役の折に鎮台等に在籍していた人々です。やや長い年月をへてからの述懐ですので、細かい部分には記憶違い等もあるのでしょうが、少なくとも建軍間もない当時の兵営生活の雰囲気は十分に伝わってくるものとなっています。
(なお、引用に当たっては、旧かな・旧字・難読字等を平易に改めるともに、適宜改行をほどこしております。)

①元鎮台兵の述懐
 わしが所属した部隊は、第十一連隊第一大隊三番中隊で、五箇月ぶりにやっと二等卒に進級するまでは“生兵”と呼ばれてガバガバの革靴をはかされ、毎日毎日体操と鉄砲の掃除で、一服するひまもなかった。先填のエンピール(小銃)が持てるようになったのは二等卒からである。当時の中隊長が後の元帥川村景明大尉で、教練はなかなか厳しかったが、まだ随分間の抜けたところもあった。昼の真中に夜間訓練をやっていた。つまり昼でも夜と思って、さまざまな暗闇の訓練がおこなわれるのじゃ。
 演習はとてもえらかったが、食料がべらぼうに贅沢で、田舎の婚礼にもあれだけの御馳走は滅多にしない。一年に数えるほどしか食べたことのない魚が、毎日大きな皿にのっかっている。兵一人の官給食料費は六銭六厘と米が六合、それもまるまる使い切れないので、一人分の食料残金が兵隊に渡されていた。何しろ当時五銭玉一つ握って、細工町の三階楼へのぼれば、牛肉のすき焼でいい機嫌になれた嘘のような時代である。“生兵”の間が日給三銭三厘、二等卒で四銭二厘、一等兵卒になれば先ず五銭、ばかに景気のいい給与であった。軍服もラシャのパリパリだし、シャツもフランネルの上等、二等卒からでもいきなり伍長に取立てられるし「鎮台というところは、なんたら結構なところかいな・・・・」と思った。
 西南戦争へ出かけていったのが、明治十年二月十四日、背負袋へ弾丸四百発と握飯二日間分、それに草鞋を一束くくりつけて三個大隊が堂々の進軍、最初の先登は久留米を過ぎて鍋田の辺り、田原坂の激戦には度肝を抜かれて気が遠くなりそうだった。辺見十郎太麾下の抜刀隊には手も足も出なかった。敵味方の戦死者で山のてっぺんが見えなくなる程だった。生まれて初めての戦争ではあったが、日頃鍛えた訓練と、天子さまへの御奉公の忠誠が全身に漲って、恐しいとも痛いとも思わなかった。鹿児島へ入城したのが九月の初め、間もなく西郷さんが自刃されたという噂を聞いて、官軍の兵もみな泣いた。西郷さんの最期が余りにも痛ましかったからである。

(『朝日新聞』昭和17年11月28日記事)


②元教導団生徒の述懐  
 ※教導団:陸軍の下士養成機関。国民一般から族籍を問わず志願者を募っていた。

 明治十年四月十五日に、私達は丸の内の教導団へ入団した。その当時のお話をして見ましょう。全国から募られた私達は、四百人の人数でした。歩兵に編入されて中隊が極ると、私は第六中隊であった。中隊長殿は少佐で平賀国人と呼ぶ御人でした。教導団の団長は中将高島鞆之助閣下でありました。入団して見ると、生活の待遇は殊の外よい、朝昼晩三度とも生卵子二個がついた。私は生卵子を喰べないで、日曜日に親類へ三四十個まとめて、土産に持っていった位、朝は味噌汁に香物であるが、昼飯はさしみ、煮肴又は牛肉などが、替り番についたものである。御飯はオハチが出してあって、喰べほうだいといった風で楽でしたよ。
 練兵は午前二時間、午後二時間、学科が午前一時間でした。これも楽なもので、百姓をしていた体では何でもなかった。骨がさぞ折れることだろうと、死身で志願してきた連中には、たわいもない練兵であったが、さすがに学科の一時間は、実に弱ったようでした。右も左も分らず「茶碗手」といえば左、「箸の手」といえば右、茶碗手箸の手で教えた教官も中々骨折でした。甚だしいのは何も彼も解らない男があって、戦友ながら気の毒に耐えませんでしたが、持って生まれた不調法の人間だから仕方がなかった。即ち戦友鶴岡半三郎という人物は、皆目無茶文盲で、教えても覚えず、撲っても利目がない。とうとう「天性愚鈍に付卒業の目的無之除隊を申付候」という除隊命令が下って気の毒でしたが、これも前世の因縁だ、あきらめよと皆んなで慰めて帰郷させましたが、中には「ああなっちゃあ人間の面汚しだ」などと、悪ざまにいい罵るものもあったが、除隊されていく彼の後姿は、影の薄いような気がしたものであった。
 其頃の鉄砲はスナイドルといって、重いことといったら、肩が滅り込みそうであった。日比谷公園のところがまだ日比谷練兵場で、そのスナイドルを担いで、毎日調練の稽古です。学科の分は、大名屋敷を六ツばかりブッコ抜いた内で、教官から教ったものです。場所は桜田門外で、今の警視庁(新築)の所から、内務大臣官舎の一体で、ツイ此間まで後に建設された赤煉瓦の教導団が、金紋の菊花紋章を剥して(以前は御紋章が輝いていたものだ)、其跡が残っていましたが、皆んな取払いになってしまった。寝所はハイカラの寝台で、毛布藁布団、それに棚があって上に背嚢を載せる。この背嚢のことを「提灯箱提灯箱」といったもので、彼の頃各士分の家には、玄関へ提灯を仕舞て置く箱がズラリ並んで掛けてあったもので、それを提灯箱といいました。その型に似ているので「オイ提灯箱を取ってくれ」などといいました。背嚢には毛布を巻付き、外套を結びつけ、靴を両側に一個ずつつけて、随分と重いもので、その又「提灯箱」の中には、針糸までが容れてあって、唯モーいよいよという戦時の場合には、弾丸さえ渡されれば、いつでも出陣の出来るという用意周到のこしらえでした。これを総称して、テイテツ、ホルトマントといっていましたが、訳が解らない、只そう覚えていますよ。今でも・・・・。

(『明治百話』)


 ……現代のわれわれがイメージするような「地獄の内務班生活」とは、かなり趣が異なるのではないでしょうか。特に食事の豪勢さは両方の述懐において強調されていますので、おそらく全国どの鎮台もほぼ同様であったものと思われます。
 また、兵たちは連日厳しい訓練で鍛えられていたことが分かりますが、②の述懐では、軍隊の訓練が田舎の過酷な農作業に比べれば他愛もないものであったことも示唆されています。(たしかに、昭和期の農村部の人たちの写真などを見ても、ムキムキのたくましい身体の人が多い印象ですしね。)

 世が世なら一生田舎で日陰者として暮らさなければならなかった農家の二男坊・三男坊にとって、ハイカラな洋服に豪勢な食事と高給があてがわれ、実力による立身出世の道も開かれていた軍隊という場所は、意外にも「結構なところ」だった側面があったわけです。西南戦役における鎮台兵たちの勇戦敢闘の背景には、当時の彼らの待遇をめぐるこのような事情も少なからず作用していたように思います。

(参考)西南戦役期の鎮台兵の一般的な軍装


 

2 コメント

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兵営生活 (高橋信武)
2020-06-24 12:20:45
面白く読ませていただきました。背嚢を提灯箱と呼んだことやその背面両側に靴を配置したことは初めて知りました。これまで漠然と絵を見ていたわけです。
高橋様 (佐倉桜香)
2020-06-24 21:51:45
 ありがとうございます。
 背嚢への靴の吊るし方は、ワーグマンのスケッチ(本稿末尾のイラストにも参考掲載)からも裏がとれますね。
 「提灯箱」は、もしかしたら教導団内のローカルルールかもしれません(笑)

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