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西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【3】勘違いは生じていたか

2023年09月02日 22時11分16秒 | 征西戦記考
 
 前回、シサツ勘違い説が当時の時点から確かに存在し、しかも岩倉具視や山県有朋といったビッグネームに認知されていた事実を紹介しました。
 しかし、結論から先に言えば……、筆者は「私学校党が本当に『シサツ』という言葉を勘違いしたのか」について、極めて疑わしいと考えています。
 その理由について、見ていくことにしましょう。


①私学校党側は、シサツ勘違い説を否定している

 1つ目の理由は、肝心の私学校党側が、このシサツ勘違い説について否定的な立場であることです。
 前回、岩倉具視と山県有朋の言辞を紹介しましたが、この2人はいずれも政府側の人間です。しかも当時、両名は鹿児島から遠い中央(東京ないし京都)にいましたので、勘違いが発生したとされる現地の状況を直接見たり聞いたりしたわけではありません。したがって、この2人はあくまで伝聞情報をベースに、自分なりの推測も交えて、シサツ勘違い説を主張しているということになります。
 それでは、西郷暗殺問題の震源地である鹿児島側にどのような記録が残っているのか……というと、少なくとも主要な一次史料や近接年代に編纂されたような史資料には、勘違いに関する記録が見当たらないのです。
 私学校による取調べにおいて、最初に暗殺計画を自白したとされているのは、中原尚雄(警視局少警部)という密偵です。私学校党は、この中原の口供書を西郷暗殺計画の証拠資料として特に重要視し、挙兵時には印刷して広く頒布するなどしています。
 この口供書を見てみますと、「シサツ」関係部分は次のように書かれています。文語でやや読みにくいとは思いますが、比較的平易な内容ですので、そのまま紹介します。

(大山勘介警部の話として、)「西郷もし事を挙げば、刺殺するよりほかなし」と承り候に付き、(略)
(市来四郎『丁丑擾乱記』)

 ズバリ「刺殺」が出てきました。なお、電報ではなく捜査書類ですので、原文は明確に漢字を用いて書かれています。
 やはり中原が「シサツ」と口走ったのは事実だった⁉ ……しかし、実のところ西郷暗殺に関するくだりは、ここだけではありません。重要な部分を2か所ほど引用します。

(川路大警視の話として、)「万一挙動の機に至らば、西郷に対面刺し違えるよりほか仕様はないよ」との申聞に随い居り候ところ、(略)

(密偵団は出発前の会議の場で、)私学校の人数に離間の策を用い、我が方に人数を引き入れ私学校を瓦解せしめ、動揺の機に投し西郷を暗殺致し、速やかに電報を以て東京に告げ、海陸軍併せて攻撃に及び、私学校の人数をみなごろしに致し候儀を決定し、(略)

(同前)

 「暗殺」「みなごろし」云々といった言葉が使われています。これらは「シサツ」とは明確に語感が異なり、勘違いの生じようがありません。
 つまり、私学校党は「シサツ」という曖昧な言葉を拡大解釈したのではなく、西郷暗殺計画に関する明確な言辞を得ていた……ということになります。

 もっとも、この西郷暗殺関係の記述は私学校党によって捏造されたものであることが、複数の研究書(日高節『西郷隆盛暗殺事件』、後藤正義『西南戦役警視隊戦記』など)により判明しています。詳細な論証はこれらの労作に譲りますが、中原の逮捕から口供書作成までの実際の経緯は、おおむね次のとおりだったようです。

●中原は、知人・谷口登太(私学校党のスパイ)と私的な酒の席を持ち、時勢について議論した。暗殺計画については具体的に言及しなかったが、その場の勢いで「西郷と刺し違える」云々と抽象的な放言をした。
●そこで谷口は、中原の言辞を私学校党に報告した。挙兵の大義名分を欲していた私学校党にとって、谷口からのタレコミは渡りに船だった。私学校党は「西郷と刺し違える」という文言を「西郷暗殺の陰謀」とこじつけ、直ちに中原を逮捕・拷問。西郷暗殺計画を強引に自供させようとした。
●しかし、中原は具体的な暗殺計画をいっさい自供しなかった。そのため、取調べに当たった県警察職員(私学校党)が口供書の一部を改竄し、本来口供書になかった「暗殺」「みなごろし」といった文言を挿入した。

 
 要するに、私学校党が中原逮捕に踏みきったキーワードは、「シサツ」ではなく「刺し違える」でした。したがって、私学校党は勘違いなどしておらず、はじめから中原を西郷暗殺容疑者として逮捕していたということになります。この事実は、きわめて重要です。

(重ねてになりますが、「西郷暗殺指令が本当に存在したかどうか」あるいは「口供書が本当に改竄されたのかどうか」といった議論は、本稿ではあまり意味がありません。なぜなら、それらの真相がどうであろうと、「私学校党が西郷暗殺問題という概念をあらかじめ明確に認識し、予断に基づいて結論ありきで中原を取り調べていた」という外形的な事実は揺るがないからです。)

 ちなみに、九州臨時裁判所において西郷暗殺問題の真相究明に関する尋問が行われた折、中原は西郷暗殺指令の存在を全面否定しつつも、自身が「刺し違える」云々と発言した事実についてはおおむね認めています(河野弘善『西南戦争探偵秘話』)。
 これに対して谷口のほうは、ずっと年代が下った大正年間、薩軍を顕彰し政府を批判する『薩南血涙史』という戦記が作られた際、

 暗殺の事は正しく中原より聞きたる事に相違なき事実なり。
(加治木常樹『薩南血涙史』)

と新たに証言しています。その真偽は不明ですが、少なくとも谷口や私学校党が「シサツ」という言葉を勘違いしたなどという痕跡は、やはり全く見受けられません。

 さらに、同じく薩軍に同情的な前掲『西南記伝』も、西郷暗殺陰謀の実在を主張する立場から、シサツ勘違い説について次のように一蹴しています。

 山県の言うが如く、視察を刺殺との誤解よりして、私学校党の激発したるものの如く云えるも、中原等の入薩が、尋常一様の状況視察にあらざるは、言うを俟たず。
 もし当時、政府の目的にして、単に私学校党の状況を視察するに止まらしめば、何ぞ必ずしも数十名の警部、巡査、壮士、学生を派するの要あらんや。而して政府が此の如く多数の人士を鹿児島に派したる所以のものは、その目的は、私学校党を離間し、これを攪乱し、これを破壊せんとするにありしこと、疑を容れざるなり。

(黒龍会編『西南記伝』中巻1)

 つまりシサツ勘違い説は、それを裏付ける一次史料がないうえ、そもそも当の私学校党側から明確に否定されているのです。


②シサツセヨ云々という電報に関する記録もない

 2つ目の理由は、電報パターンに関してです。そもそもこの「ボウズヲシサツセヨ」なる電報も、やはり史料的に存在が確認されておりません。
 西南戦役に関しては、これまで紹介した『西南記伝』『薩南血涙史』以外にも、『鹿児島征討始末』『征西戦記稿』『西南戦史』『西南戦闘日注』といったさまざまな編纂資料や戦記が明治年間から刊行されています。しかし、これらの中に、「ボウズヲシサツセヨ」なる電報を私学校が入手した事実を記しているものはありません
 もちろん、『征西戦記稿』『西南戦闘日注』といった政府側の戦記は立場上、西郷暗殺計画の存在そのものを否定していますので、それに関する(いわば不都合な)情報を、あえて記載していないとも考えられます。
 しかし、前掲『西南記伝』『薩南血涙史』のように、薩軍よりの立場で編纂され、私学校党を擁護するような戦記にも、「シサツセヨ」電報の存在に言及しているものは皆無です。これらの戦記はおしなべて西郷暗殺計画の実在を強く主張しているにもかかわらず、その決定的証拠というべき電報にいっさい触れていないのです(中でも『西南記伝』に至っては、前項で紹介したようシサツ勘違い説を強く否定している有様)。

 そもそも、政府が西南戦役の際に使用していた電報については、詳細な電報録簿冊が現存しています。その多くは、国立公文書館のデジタルアーカイブHPなどで一般公開されており、誰でも自宅で簡単に閲覧することができます。当時の貴重な情報の宝庫であるため、筆者も論考記事を書く際などには頻繁にこれを確認し、情報を得ています。
 しかし、これらの電報録にも、「ボウズヲシサツセヨ」はもとより、川路が中原に宛てた暗殺指令といった類の電報は記載されていません。つまり、史料的にウラがとれないのです。
 暗殺指令の存在を隠蔽するため、世間への公表を前提とした編纂資料・戦記に「シサツセヨ」電報を意図的に記載しなかった……というのはまだ分かりますが、公表を前提としない生資料というべき電報録にも一切記録がないのでは、その存在を立証することは極めて困難です。

 さらにいえば、当時の電報は、現代のメールやチャットのようにお手軽なものではありません。例えば、仮に川路が鹿児島にいる中原に電報を打とうと思うと、まずは熊本の電信局宛てに発信する必要があります。というのも、鹿児島には当時まだ電信局がなかったのです。したがって、流れとしては、

(1)熊本の電信局に「ボウズヲシサツセヨ」という電報を発信する
(2)受信した熊本電信局員がそれを書面に書き直し、鹿児島へ文書として発送する
(3)電報文が中原の自宅に配送される


……という順序を踏まなければなりません。つまり、届くまでの間に何人も部外者が介在するわけです。このような手段で暗殺指令のような機微情報を伝達するというのは、だれの目から見てもリスキーでしょう。
 しかも、私学校党は当時の鹿児島県行政を掌握しており、騒擾発生後は信書の差し止めも普通に行っていました(田中信義『カナモジでつづる西南戦争』)。中原らは帰県当初から私学校党にマークされていました(前掲『西南戦争探偵秘話』)ので、「川路から中原宛ての電報」などが届いた日には、あっという間に私学校党に押さえられてしまったことでしょう。
 川路にしても、あるいは大久保利通にしても、そんな迂闊なヘマをするものでしょうか? 現に、当時の警察の各種探偵報告書などの機密文書は、基本的に電報ではなく信書という形をとっていたらしいことが分かっています(前掲『西南戦争探偵秘話』)。当然といえば当然の話です。
 これらを綜合すると、やはり「シサツセヨ」電報は、そもそも存在していなかったと判断せざるを得ないと思います。落合先生はご著書で何を根拠に「シサツセヨ」電報の存在を断定したのか、まったくもって疑問です。

 
 いかがだったでしょうか。これらの理由を見れば、シサツ勘違い説がいかに怪しい話か、おわかりいただけると思います。
 では、なぜこのような説が流布したのか。サトウや山県の述懐は何を意味するのか。「シサツセヨ」電報は全く根拠のないヨタ話なのか。
 ……次回、その謎に迫ります。

(【4】へつづく)

  
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