夕風桜香楼

歴史ネタ中心の雑記帳です。
※当サイトはリンクフリーですが、イラストデータの無断転載はご遠慮ください。

【2/3】西郷はいずこ 鹿児島暴発をめぐる情報戦 ②

2021年05月10日 22時49分25秒 | 征西戦記考
 


第2回 西郷は暴挙に関与せず

 明治10年2月初旬、私学校暴徒による火薬庫襲撃の第一報を受けた政府は、ひとまず海軍大輔・川村純義と内務少輔・林友幸を鹿児島へ急派し、状況把握と事態収拾に当たらせることとします。
 この時点ではまだ情報が圧倒的に不足しており、西郷の去就も不鮮明でした。第一報に触れた参議兼内務卿・大久保利通は、事前の諜報活動で入手していた情報等を参照しつつ、ひとまず「西郷は関与していないだろう」との見解を示しています。

 このたびの暴挙は、必ず桐野(利秋)以下(私学校党)の連中が独断で決行したに疑いなく、その証拠に、追々(鹿児島の)近況を聞くに、1月下旬頃は西郷は日当山温泉に行って(留守であり)、桐野宅に壮士どもが昼夜を分かたずやってきて、「西郷はかねてから外国と必ずことを起こすつもりに違いない。その時は(我々も)断然突出しよう云々」(と主張したところ、)桐野は「もはやその考えは古い」と嘲笑したとのことです。(中略)
 (西郷は)決して無名の軽挙をやらかす考えはないものと信用しております
(2月7日付伊藤博文宛大久保利通書簡)(『大久保利通文書』)


 そんな中、西郷去就問題をめぐる第1のターニングポイントが到来します。
 すなわち、鹿児島県官・渋谷国安による「西郷不関与」情報の伝達です。

 渋谷国安(彦助)は鹿児島県庁の役人で、鹿児島県令・大山綱良(実際には私学校党とグル)が記した「管下異状ノ届」(火薬庫襲撃事件発生の報告書)を届けるため、汽船で東京へ派遣されてきました。  
 西郷の去就を懸念していた大久保は、2月9日、自ら渋谷に接見して事情聴取したものとみられ、その結果を右大臣・岩倉具視に次のとおり報告しています。

 (渋谷から聴取し、)事情を承ったところ、おおよそ想像していたとおりでした。(私学校党は)10日前、西郷に(決起を)迫ったものの、(西郷は)同意せず、(彼らへの)説諭も行き届かなかったため、ついに姿を隠したとのことです。
 弾薬強奪は西郷が去った後のことです。西郷がいないのであれば、(私学校党は)担ぎ上げるべき人が誰もいないため、(これを蹴散らすことは)蜘蛛の子を散らすようなものと拝察されます。
(2月9日付岩倉具視宛大久保利通書簡)(『大久保利通文書』)


 この渋谷情報が、政府攪乱を狙った大山県令による意図的な偽情報(disinformation)である可能性が高いことについては、前掲過去記事においても言及したとおりです。しかし、すでに「西郷は関与していないはずだ」という予断に頭を支配されつつあった大久保は、この渋谷情報を完全に信用し、「西郷不関与」の確信を持つに至ってしまいます。そして、大久保のこの見立てはそのまま内閣内でも有力となり、岩倉も前掲大久保書簡に対する返信において、

 西郷氏が姿を隠したというのが事実ならば、天下にとって大幸とはまさにこのことです。
(2月9日付大久保利通宛岩倉具視書簡)(『岩倉具視関係文書』)


と、安堵することとなるのです。
 なお、ここで誤解のないようにしておいていただきたいのは、「内閣の面々は当初、私学校党と西郷を完全に切り離して考えていた」という事実です。結果を知っている後世のわれわれは、私学校党と西郷がつねに密接不可分であったかのように漠然ととらえがちですが、当時の内閣の認識において、両者は必ずしもイコールではなかったのです。したがって、前掲大久保書簡にある、

 (火薬庫襲撃事件は)朝廷にとって不幸中の幸と、ひそかに心中には笑いを生じるくらいです。
(前掲2月9日伊藤宛大久保書簡)


という有名な一節についても、全体の文脈から考えれば西郷以外の私学校暴徒に対する揶揄と解すべきでしょう。大久保はあくまでも私学校党の短慮を嘲笑しているに過ぎず、決して西郷を討つことを喜んでいるわけではないのです。

 さて、海軍の川村と内務省の林が鹿児島へ急派されたのは冒頭述べたとおりで、この両名は事実上、事態の早期把握・収拾が可能であった唯一の存在といえました。ところが、川村と林は鹿児島への上陸すら果たせなかったのみか、よりにもよって最も肝心な西郷の去就について、明解に確認してきませんでした。
 川村は後年、鹿児島視察の顛末について、

 (鹿児島到着後、使者を出すと、)間もなく鹿児島県令大山綱良が、再び小舟に乗って来た。
「お伝えの詞を西郷に申しました所、西郷は是非お目にかかりたいと云うけれど、私学校にも番兵が付いて居て、出る訳にも、お呼び申す訳にも往かぬ、遺憾ながら御面会は出来ない、宜しく申してくれ」
 こう云う返事ですから、
「何故西郷を私学校に籠らせて置くのじゃ」
「刺客の手に罹らぬよう、堅固に保護して居る」
「それは遺憾の話じゃ、何処から刺客が来るか」
「警視庁から刺客が来た」
「馬鹿なことを云う、そう云うことのあるべき筈がない、今日政府に大久保利通が内務卿を勤めて居て、国家の功臣西郷隆盛に刺客を放って暗殺しようの何の、馬鹿馬鹿しい、決してそんな狭量な大久保ではない、罪もない、西郷を政府が暗殺して見なさい、それこそ天下に信を失い、明治政府が立つものじゃない、能く考えて物事をせぬと、飛んだ間違いが起こる」
(『川村純義追懐談』)


云々と、あたかも大山県令を厳しく糾問してきたかのように回顧していますが、これは意図的あるいは無意識的に記憶が改変されたものと見ざるを得ません。なぜなら、神戸に帰還した川村らと協議した参議兼工部卿・伊藤博文が2月13日、大久保へ宛てて打った電報には、

 (島津)久光と西郷の二人の挙動は判明していませんが、暴徒の中には入っていないものとみなし、(両人に)暴徒を鎮撫するよう格別の御命令をしてはいかがでしょうか。
(2月13日付大久保利通宛伊藤博文電報)(『鹿児島征討電報録』)

とあり、川村らの報告で鹿児島の状況が判明した後であるにもかかわらず、あくまで「西郷不関与」認定が維持されているからです。

 これはどういうわけなのか? 読み解くヒントの1つは、川村に同行していた林が帰京直後の2月13日に行った復命上奏文にあります。それによれば、川村が前掲のとおり回顧した大山との談判について、林は当時、次のように公式報告しているのです。

 午後1時、大山県令が(軍艦に)やって来たので、川村大輔一同で面会し、このたびの弾薬掠奪の事情を詰問したところ、
「そもそも県下動揺の原因は、川路大警視によって西郷隆盛を暗殺せんとする数十名の刺客が入県させられたところ、(私学校党の手で)それぞれ探偵捕縛し、そのうち4名は糾問のうえ逐一白状に及んだ次第であり、実に容易ならざる事態につき、有志一同で力を尽くして協議し、西郷隆盛を保護して陸路上京し陳情しようとしているもので、それゆえ県下人心の動揺は制することができない。(以下省略)」
と、大山県令は申し述べた。
(2月13日付林友幸日記)(『林友幸西南之役出張日記』)


 一見、前掲川村回顧とさほど変わらない内容のように思えますが、下線部分をよく読んでみると、絶妙に曖昧な表現が使われていることが分かります(ちなみに、下線箇所の原文は「西郷隆盛ヲ保護シ陸路上京陳白スル所ア(ラ)ントス」)。すなわち、この内容では、西郷が私学校党によってすでに保護されているのか、それともこれから保護される予定なのかが判然とせず、いずれの解釈も成り立ってしまうのです。川村・林は大山の真意がどちらを意味するのか、確認を怠ったのでしょう。
 川村・林はあくまでも軍艦上で大山県令から事情を聴取したのみで、鹿児島城下を直接視察してはいません。また、川村は西郷と縁戚関係でしたから、身内を贔屓する心情を排しきれなかったことでしょう(木戸孝允はまさにそれを憂慮し、川村の派遣に反対していました)。さらに、林は火薬庫襲撃事件発生の直前(明治9年末〜10年1月)に鹿児島の現地視察を実施しており、明治帝に「鹿児島異状なし!」の上奏を行ったばかりでした。つまり大久保同様、この両人も無意識のうちに「西郷が暴挙に出るはずがない」というバイアスに支配され、冷静かつ客観的な観察・判断ができないまま鹿児島視察から帰ってきてしまった可能性が高いわけです。

川村・林「西郷さんを暗殺する計画が発覚したのだ! だから私学校暴徒が蜂起したのだ!」
伊藤「それは分かった。だが、蜂起したのは私学校暴徒だけで、西郷さん本人は避難したという報告もあるぞ」
川村・林「暴徒は西郷を保護して上京すると言っていたぞ!」
伊藤「貴公らが行ったとき、西郷さんは実際に暴徒と一緒だったのか?」
川村・林「上陸できなかったから、詳細は分からん!」
伊藤「もう一度聞く。暴徒はすでに西郷さんを保護しているのか!? 」
川村・林「お、おそらくそうだ……!」
伊藤「本当にそうなのか? 大山県令にはっきり確認したのか!?」
川村・林「確認は……していないが……」
伊藤「では、西郷さんが避難している可能性も排除できないんだな?」
川村・林「……」


……あくまでも想像に過ぎませんが、伊藤と川村らの間では、このようなやりとりが交わされたのではないでしょうか。

 結局、内閣はこの日、あらためて「西郷不関与」を正式に認定し、熊本県庁にも伝達することとなります。

 今般、鹿児島県下騒擾の件につき、巷間さまざまな風説があるようだが、これは全て同県下私学校党の過激青年らの行為であり、もとより旧藩主父子等が関与している事実はなく、かつ西郷隆盛は過激青年らに対して大義名分をもってしばしば説諭に尽力したものの、(彼らが)承服に至らなかったため、やむを得ず避難した次第である。同県(庁の大山県令ら)も決して方向を失わず、十分鎮撫に尽力している。
(2月13日付熊本権令宛大久保利通内達)(『西南戦役側面史』)


 後世のわれわれは、この内容の大半が事実と異なることを知っています。とはいえ、当時の錯綜した状況下では、これもまた諸般の情報を綜合的に勘案したうえでの推測・判断だったのです。

 ただし、鹿児島に近い熊本県庁等は、この時点ですでに「西郷関与」を示す情報を複数入手し、内閣へ随時報告していました(【参考】のとおり)。また、政府内でも「西郷不関与」認定への疑問の声はあり、例えば大警視・川路利良は自身が入手した私学校党の暴発挙兵計画に関する情報を摘示したうえで、

 渋谷はじめ、(鹿児島)県官が(大久保)閣下に申し上げた内容は、全くの虚言と考えます。
(2月15日付大久保利通宛川路利良書簡)(『西南戦争警視隊戦記』)


と看破しています。

【参考】西郷の去就に関する情報の伝達状況


 しかし、内閣は依然として「西郷不関与」認定のもとで動きつづけました。多くの現地情報は内閣の認識を覆すほどの説得力は持ちえず、あくまでも真偽不明の参考情報として捨て置かれてしまったのです。
 例えば、前掲13日付電報で伊藤から具申された勅使差遣論について、15日、岩倉は次のとおり回答しています。

 このこと(西郷や島津久光へ勅使を差遣すること)は最も考慮すべき大事と存じます。久光・西郷のいずれかがもし命令を奉じ「暴徒は責任をもって鎮圧いたします」と拝受した場合、(西郷らがかえって暴徒に取り込まれてしまうおそれがありますが、)いかに対応すればよいとお考えでしょうか。私の考えすぎかもしれませんが、このことに苦心しております。よくよくお考えください。(私は)むしろ、久光父子と西郷に勅使を送り、単に(京都へ)呼び寄せればよいと考えます。(全国の)一般士族に心の拠り所があるのは、鹿児島(という反政府の牙城)があるからです。時機を失うことのないよう、よくよく注意ありますように。
(2月15日付伊藤博文宛岩倉具視電報)(『鹿児島征討電報録』)


 この時点の岩倉の考えが、あくまでも「西郷不関与」を前提としていることは自明です。そして岩倉は、ミイラ取りがミイラになってしまう事態を強く警戒しており、西郷を早期に救出(というより、拉致というべきでしょう)して私学校党から隔離すべきと主張しているのです。 
 大久保の実子・牧野伸顕が後年語った次の逸話は、ちょうどまさにこのころの状況と符合してきます。

 十年の役が起こって、一月の末に私学校連が火薬庫を襲ったという電報が到着した時も、父(大久保利通)は果たして薩摩の連中が蜂起した、しかし西郷は決して出てはおらぬと言っていました。その後、西郷が出たという電報が頻々として来たけれども、父は決して信じませんでした。だんだん西郷の出たことを友人などから言って、征討の軍を出さなければいけませんと言っても、イヤ西郷は出てはおらぬ、しかしあの男のことだから進退去就には迷っているだろうと言っていましたし、それに西郷へ向けて勅使を立てて、畏きあたりの渥い御思し召しのほどを話して聞かせたら、きっと迷っている態度を決して軍をやめるだろうとは確く信じていました。
(明治43年10月6日付『報知新聞』)

 対応協議のため急遽西上した大久保が16日夜に京都へ到着した時点でも、内閣の「西郷不関与」認定が崩れた形跡は見受けられません。渋谷情報の呪縛が、いかに強かったかが分かります。
 そして翌17日の廟議において、「征討よりもまず西郷に勅使を差遣すべし」(征討猶予論)とする大久保と、「もはや西郷に構わず暴徒の征討を優先すべし」(即時征討論)とする木戸孝允の議論が白熱したことは、よく知られています。結局、この日の廟議は征討猶予(勅使差遣)で決着しますが、直後に熊本から「薩軍迫る」旨の急報が接到したため、もはや万事休すとばかり、19日には征討令が発されることなります。

 この点、現在の通説では、「西郷関与」の確報が18日ころ内閣に届いたことが征討発令の決め手となった、とされています(『大久保利通伝』等)。
 しかし、当時の電報や関係者書簡史料のなかに、その「確報」に該当するような情報は見受けられません。また、征討令の本文をよく読むと、征討の対象はあくまでも「鹿児島県暴徒」という表現にとどまり、西郷の存在については明言が避けられていることが分かります。

 鹿児島県暴徒がほしいままに兵器を携え熊本県下に乱入した。国の秩序を憚らず叛乱の形跡は明らかであることから、(天皇陛下より)征討の命が下されたので布告する。
(明治10年2月19日付行在所布告第2号)(『法令全書』)


 そもそも、征討発令時点で内閣が「西郷関与」を断定していたのであれば、西郷の官位褫奪も同時に決行されているはずですが、それがなされたのは2月25日、つまり征討発令から6日も後のことでした。
 これらを踏まえると、内閣は征討発令時点でも依然として「西郷不関与」認定を崩していなかったと考えるほかありません。

 では、内閣はいつ認識を改め、「西郷関与」の判断に至ったのか。
 そのメルクマールとなるのが、先ほど紹介した西郷以下の官位褫奪の達(2月25日付行在所達第4号)です。すなわち、内閣は2月19日の征討発令時点では「西郷不関与」の立場であったものの、その後いずれかのタイミングで「西郷関与」の確報をつかみ、25日をもって西郷を正式に「賊徒」と認定・公表した……と解することができるわけです。

 内閣が「西郷関与」の確報をつかむに至ったきっかけ、それは……?
 次回へつづきます。

(3/3へつづく)


 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【1/3】西郷はいずこ 鹿児島... | トップ | 【3/3】西郷はいずこ 鹿児島... »

コメントを投稿

征西戦記考」カテゴリの最新記事