夕風桜香楼

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西南戦争・政府初動の実相

2019年02月19日 00時00分01秒 | 征西戦記考
 西南戦争再検証シリーズをあいかわらず続けております。
 本日は、政府の初動措置について。意外と知られていない(?)その実相の解説をこころみます。

 なお、こちらの記事をあらかじめお読みいただきますと、より理解しやすいと思います。
 ⇒西南戦争勃発時の政府機構



1 鹿児島暴発と政府の初動措置

 「鹿児島県下で騒擾発生」を知らせる第一報(この時点ではまだ「西郷決起」の報ではない)が政府に届いたのは、火薬庫襲撃事件初日(1月29日)から5日後の2月3日夕刻であった(※1)。そしてその後の政府の対応は、意思決定の過程から見ておおむね3つのフェーズに分けることができる。以下、やや詳細に時系列を追い、政府の初動措置の経過を整理することとしたい。
 なお、この一連の時期、国内では明治帝の関西行幸が行われており、三条実美太政大臣、木戸孝允内閣顧問、伊藤博文工部卿、山県有朋陸軍卿、川村純義海軍大輔、有栖川熾仁元老院議長など、政府首脳の多くがこれに供奉して京阪に身を置いていた。この事実はのちにも述べるとおり、政府の初動措置に大きな影響を与えた要素であるため、あらかじめ留意しておく必要がある。


別表1:政府・私学校党の初動措置時系列


別表2:関西行幸に伴う主な政府要人の所在

①情報収集フェーズ(2/3-12)
 2月3日、関西行幸供奉中に鹿児島暴発の急報に接した川村海軍大輔は、自ら軍艦で鹿児島視察・鎮撫に赴くことを志願。だが、川村と西郷の親密な関係を憂慮した伊藤・木戸らが難色を示したため、その出発許可は6日までずれこんでしまう。
 この時点で鹿児島の状況はまだ不鮮明であり、西郷隆盛の去就も判明していなかったため、政府の面々にとって即断は難しかった。東京の大久保利通内務卿は川村の鹿児島派遣に大きな期待を寄せ、西郷隆盛との面会を第一とすること、理非曲直を説いてその罪を明らかにすること、決裂の場合は直ちに離脱し速報することなどを川村にあらかじめ電報指示している。これらを見ると、西南戦争勃発に際しての政府の最初の選択は「断乎たる処置はいったん保留し、まずは川村の鹿児島派遣によって状況把握と事態の収拾を図る」というものであったことが分かるであろう。
 しかし、木戸らのストップで川村の出発が遅延している間、私学校党はすでに西郷・桐野利秋・篠原国幹による率兵上京案を決議していた。7日朝、川村は林友幸内務少輔 (※2)らとともにようやく軍艦「高雄」で関西を発し、9日に鹿児島湾に到着したが、現地に充満する殺気に阻まれて上陸を果たせず、西郷との面会にも失敗。結局、艦上にて大山綱良県令から簡単に事情を聴取したのみで即日離脱を余儀なくされ、事態の早期収拾はあえなく失敗に終わる(※3)。12日、川村らは帰路立ち寄った備後糸﨑経由で「とても鎮定成り難し」との電報を発し、あわせて鹿児島はもはや挙兵の勢いであること、帰郷警視官の西郷暗殺計画発覚が暴発の原因であること、鹿児島行きの海路を遮断すべきことなどを取り急ぎ報じた。これを受け、政府の面々は事態の重大さを認識するとともに、いよいよ断乎とした対応を迫られることとなる。
 なお、川村らの派遣が行われている間、陸軍の山県は熊本を始めとする各地の鎮台に厳戒を指示するとともに、三条の裁可を得たうえで近衛・東京鎮台・大阪鎮台に出動準備を内命した(いずれも9日)。また、東京の大久保や川路利良大警視も、10日、治安強化のため鹿児島を除く九州各地(福岡・長崎・佐賀・熊本)に向けて警視隊を出動させている(※4)。内閣サイドが意思決定をひとまず先送りしたのに対し、陸軍・警察といったいわば現場サイドは、早々に実力行使を見据えた準備を進めていたのである。

②対応方針検討フェーズ(2/13-16)
 12日の川村報告後、鹿児島への対応をめぐる政府内の意見は、大まかに即時征討論征討猶予論(勅使差遣論)の2つに分かれた。
 即時征討論は、すみやかに征討令を発して鹿児島暴徒の非を天下に鳴らすとともに、機を逃さず鹿児島に兵を差し向けて武力鎮圧すべしとする、一種の強硬論である。京阪においては木戸が主たる論者であり、また東京の川路、黒田清隆開拓長官、松方正義大蔵大輔などもこれを積極的に具申している(※5)。
 一方、征討猶予論(勅使差遣論)は、西郷や島津久光(※6)の去就が不明な状況での征討発令・武力鎮圧は「玉石倶焚」につながるおそれがあるとし、まずは勅使をもって両人を説諭すべしというもので、京阪の伊藤、東京の岩倉具視右大臣、大久保などによって主唱された。ただし、その主旨はあくまで征討発令のタイミングに異議を唱えるものであって、必ずしも暴徒に対する武力征討発動そのものを否定するものではなかった(※7)。(したがって、同論を単純な平和交渉論として解釈するのは必ずしも適切ではない。)
 さて、この両論の対立は必然的に議論の停滞を招いたため、内閣は結局、大久保を京都の廟議に加えて最終結論を下すことを決める。大久保は13日には急ぎ東京を発ったが、いずれにせよその着京までの間、政府の意思決定はまたしても先送りとなってしまったのであった(※8)。
 一方、陸軍の山県はこの間も着々と準備を進めており、12日、戦略書を起案して勅裁を仰ぐとともに、さきに準備を内命した兵員に出動を正式下命して兵庫・神戸に前進待機させるなど、征討発令を視野に入れた動きを加速させた。もっとも、この時点での山県の戦略の大要は「鹿児島への一挙突入覆滅が最善なるも、全国で呼応叛乱が続発するおそれがあり、かつ薩軍の出方も分からない現状を踏まえると、まずは全国の警戒を強化し、大阪を根拠地として臨機応変に対応する」とするものであって、必ずしも即時征討を積極的に志向するものではなかった。事実、鹿児島暴徒の動向を懸念した岩倉が熊本城に援兵を送るよう執拗に要請したのに対し、山県はこれを斥け、あくまでも兵力を全国に分散させる策を堅持している(※9)。他方で、警視局の川路は再三にわたり即時征討を具申して内閣の優柔不断を批判するとともに、自ら警視隊を率いて九州に向かうことを志願したが、大久保らに容れられることはなかった(※10)。

③方針確定フェーズ(2/17-19)
 16日夜、大久保はようやく京都に到着し、三条と対応を協議した。そして翌17日朝、満を持して廟議が再開されるが、席上、木戸は即時征討を、また大久保は征討猶予・勅使差遣をそれぞれ訴え、さらには両人とも自ら現地に赴いてその任を全うしたいと主張して譲らず、最終決定はついに明治帝の御聖断に持ち越される。その結果、両人の九州派遣志願はいずれも却下せられ、かつ玉石倶焚を回避すべしとの格別の御沙汰あらせられたことから、廟議は有栖川宮を鹿児島鎮撫勅使として差遣することで決着。ここにようやく政府の行動方針が「即時征討見送り・勅使差遣実施」で確定するに至り、山県が阪神に待機させていた兵員も勅使護衛隊に急ぎ改組されることとなった。
 ところがその翌日(18日)、熊本から「鹿児島兵の先鋒已に佐敷に至る 二十日若くは二十一日を以て開戦すべし」の急報がもたらされたことで、事態は急転する。西郷の去就はいまだ判然としていなかったが、私学校暴徒=薩軍が現実に熊本鎮台に迫っている以上、この期に及んでもはや玉石倶焚の回避に固執する余裕はなかった。
 内閣はやむなく、その日のうちに勅使差遣見送りと武力征討発令を決定すると、翌19日朝、鹿児島県暴徒征討令を正式に布告(※11)。長崎・熊本に派遣中の警視隊は大久保により急遽熊本城への転進を命じられ(熊本籠城警視隊)(※12)、また大阪付近で出発を待っていた勅使護衛隊もあらためて征討第一・第二旅団に編組されて熊本救援に急行することとなったのであった。

(※1)
 当時、政府の電信網はまだ熊本までしか延伸されておらず、鹿児島の正確な情報をリアルタイムで把握することは困難だった。鹿児島海軍造船所次長・菅野覚兵衛少佐は、1日、事件発生を報じる郵便を熊本電信局に送付しており、これが3日に同局に到達して直ちに海軍省へ電報されたのである(海軍省『西南征討志』)。また、熊本県の富岡敬明権令も5日までには鹿児島暴発の風聞を入手し、同日以降逐次政府へ電報している。
 なお、政府首脳がおのおのどのタイミングで鹿児島暴発の情報に接したかは、必ずしも定かではない。例えば、川村海軍大輔は3日の鹿児島造船所発電報を直ちに把握したものとみられるが(『川村純義追懐談』)、陸軍省や木戸内閣顧問は5日の熊本からの電報を第一報と認識している(『征西戦記稿』『木戸孝允日記』)。

(※2)
 川村と西郷は縁戚に当たり、その親密な関係を危惧した林が伊藤・木戸に川村派遣の不可を説いたため、出発許可が下りなかったとされる(『川村純義追懐談』『木戸孝允日記』)。なお林は、鹿児島暴発直前の9年12月~10年1月、大久保の命で鹿児島県政視察を実施しており、このときちょうど「鹿児島県下異状なし」の報告のため上京してきたところであった。
 なお、川村は後年、「私が彼の時薩摩へ参るのが、もう四五日も早かった時は、必ず西郷を救い出したけれど、遷延した為に大変な事になって仕舞った」(『川村純義追加懐談』)と、木戸・伊藤・林らによる川村出発判断の遅れを批判している。

(※3)
 川村ら座乗の軍艦「高雄」は、鹿児島湾に投錨するやたちまち小銃で武装した暴徒の小船に取り囲まれた。そのため川村は自らの上陸を断念し、士官を何名か派遣して西郷との面会に向けた交渉を行わせたが、失敗に終わる(『川村純義追懐談』)。その後、川村らは乗船してきた大山と交渉を行うが、このとき大山は、薩軍が既に出発した旨を騙る(『川村純義追懐談』)とともに「大目に見てくれよ」云々と申し向けてきた(15日付大久保宛川路書簡)という。

(※4)
 綿貫吉直少警視が総括指揮する約700名の警視官で構成された特別派遣部隊。長崎・熊本派遣の隊は九州着後に転進して熊本城に入城し、籠城戦の貴重な追加戦力となった。また福岡・佐賀派遣の隊は開戦ののち城北戦線に加わり、有名な警視抜刀隊の母体となった。詳細は別記事参照。

(※5)
「もはや西郷島津を召すは甚だ害ならん もし当人を召したるとき一同ならば召に応ずべしと答えたるときは大いに機会を失し笑うべきのことに至らんと思う」(15日付松方発大久保宛電報)、「熊本人吉長崎へは至急に兵隊繰り出さるべし 此の際もし御迷い等の事有りては天下の安危に係る大事なり 速やかに征討の御発令ありたし」(17日付大久保等宛黒田電報)

(※6)
 旧薩摩藩主・島津忠義および国父・島津久光は当時なおも鹿児島県士族の間で大きな影響力を有しており、西郷と並んでその動向が懸念されていた。結果として久光父子は局外中立の立場をとるが、薩軍出陣前後に久光と大山は頻繁に接触していることから、その実態は薩軍への「善意の中立」であったともいわれる(『西南記伝』)。

(※7)
 大久保は7日付伊藤宛の書簡において「西郷は斃るるにもせよ関せざるにもせよ同県の事有る日には全国にその影響を及ぼし一時天下は瓦解と見るよりほか無し」と西郷の去就に関わらず私学校党への対処が必要なことを明示しつつも、13日付伊藤宛電報において「此の上は断然着手のほか無し然し征討発令の名義明らかならず」としてまずは警察部隊を鹿児島に派遣して鎮圧に当たらせ、それでもなお収拾できなかった場合に征討発令すべしとした。また、岩倉は14日付の伊藤宛電報において、西郷・久光に暴徒鎮撫を命じてはどうかという伊藤の提案を明確に否定したうえで、「久光父子と西郷をば勅使を以て只御呼び寄せば然るべし」すなわち西郷らの召喚(事実上の拉致)こそが勅使派遣の要諦であると主張した。これらから察するに、両人の勅使派遣論は必ずしも武力征討を否定するものではなく、あくまでその時期尚早を説き、まず西郷・久光の暴徒からの隔離を優先する趣旨であったものと見ることができよう。

(※8)
 大久保は、13日すみやかに汽船玄武丸に乗船して海路京阪に向かった。だが、天候不良のため同船の到着はずれ込むこととなり、東西の首脳は大久保の到着状況に関する電報をしきりに取り交わしている。

(※9)
「前陳の形勢に基づくときはその指揮する所の根拠を浪華に決定し賊の挙動を洞識し奇に出て変に応じ陸海軍の進退分合を神速自在ならしむるに在り その陸軍に在りては各鎮の主将常に予定する所の警戒防御の方法に基づき要衝の地には分遣隊を出し脈絡交通の線を裁断せられざるに注意し卒然有事の日に当り臨機の処置をなすべし その懸隔せる営所はその指令に指揮し交通線を裁断せらるるも独立自在の働きを得せしむべし 要するに専兵を以て分兵を撃破するの点に過ぎず 故に鎮台及営所の地を襲撃せらるるもこれを安寧に維持するの目的を以て防御及び攻撃の心算を予定し如何なる変動を起すも逡巡沮撓せず直ちに撃破すべし 而して一撃草賊を討殲するも懸軍数十里に渉り軽易躁進することは前条の目的に反するが故に必ず深く警戒すべし」(『征西戦記稿』所収「戦略書」)。
 東京の岩倉はこの戦略方針を十分承知していなかったらしく、15日、鹿児島暴徒出陣の風聞に接するや「いよいよ以て安危の定る所熊本鎮台に在り 至急大兵を繰込たし」(15日付伊藤宛岩倉電報)などと複数回要請。これに対して山県は「熊本へ別に大兵をまわさず」(同日付岩倉宛伊藤電報)と回答し、以後の岩倉からの再意見も黙殺している。

(※10)
「此の上は鹿児島県内すべて賊と見做し寸時も御猶予なきを望む」(16日付大久保宛川路電報)、「願わくは当今の出張の巡査を合せて二千人を利良に率いせしめ出張の命あらんことを請う」(17日付同)

(※11)
 行在所布告第2号「鹿児島県暴徒擅に兵器を携え熊本県下へ乱入国憲を憚らず叛跡顕然に付き征討仰せ出され候条此の旨布告候事」(『法令全書』)

(※12)
 17日午後、長崎港に到着した長崎派遣警視隊(綿貫警視指揮)及び熊本派遣警視隊(神足警部指揮)の人員計約480人は、同地において薩軍熊本侵入の報に接する。神足隊はその日のうちに熊本へ向け出港したが、綿貫隊も翌18日には大久保から「事急なり 悉く熊本に入れ」との指令を受領したため、同じく熊本へと転進することとなった(19日出港)。
 なお、このとき長崎県令は、綿貫に対して長崎港の警備力不足を説き、警視隊の残留を要望したが、綿貫はこれを斥けて熊本救援を優先させている(『西南戦闘日注』)。結果としてこの判断により、綿貫隊は薩軍による包囲完成前に滑り込みで熊本入城に成功し、貴重な追加戦力となることができた。



2 初動措置の検証

 一般に、西南戦争勃発時における政府の初動措置は、迅速・周到であったと肯定的に評されることが多い(※13)。また、この評価を前提として、政府は意図的に私学校党を「挑発」のうえ征伐したととらえる見方も今なお根強い(※14)。確かに、山県による戦略策定や征討準備は比較的迅速であるし、また征討発令以前に九州へ警視隊を派遣した警視局の対応も、一定の評価に値するといっていい。
 だが、1で示したとおり、全体としてみれば政府の一連の対応は絶えず不確かな情報に振り回され、周章狼狽・遅疑逡巡に満ちていたのが実情であり、その結末も、要するに「議論百出の挙句タイムアップによって否応なく征討発令を強いられた」というお粗末きわまりないものであった。そして、鹿児島暴発の第一報(3日)から征討発令(19日)まで2週間以上もかかってしまったことは、熊本鎮台の敵中孤立九州各地での呼応叛乱続出(※15)を招き、結果として初期の大苦戦ひいては戦禍拡大の原因となったといっても過言ではない。特に、陸軍・警視局など現場サイドが先行して動いていた一方で、肝心の意思決定権者たる内閣サイドが決断をたびたび先送りにし、政府全体としての意思決定・行動開始を大幅に遅延させていたという事実は、きわめて重要である。そこに迅速さや周到さは到底見いだせないし、ましてや「計画的な挑発に基づく征討」といった陰謀論的解釈が成り立つ余地は皆無といえよう。
 さて、政府の意思決定が遅れたその根本的な理由については様々な角度から論ずることができると思われるが、本稿ではその背景となった要素として、特に次の3つに注目したい。

①物理的・時間的要素:明治帝の関西行幸
 政府の意思決定を物理的かつ時間的に拘束した要素の最たるものが、明治帝の関西行幸である。
 この行幸は、1月24日から2月中旬までの間、京都・大阪・奈良の畿内一円を順次巡幸して孝明帝十年祭、紀元節神武陵御参拝、兵庫京都間鉄道開通式御臨席やその他の御視察等をとり行う、きわめて大規模なものであった(別表3参照)。既述のとおり、供奉者も三条、木戸、伊藤、山県、川村、有栖川宮など錚々たる面々となり、御発に際しては東京に残る岩倉に留守政務を委任する勅書が発されている。
 鹿児島暴発は、よりによってこのように政府機能が遠隔地に二分されている最中に出来した(※16)ため、東西の政府首脳は対面で自由に対策を協議することができず、基本的に電報郵便といった間接的な手段を通じて意思疎通を図らなければならなかった。また、特に行幸供奉組は、連日の過密な行幸スケジュールに業務が圧迫されて鹿児島対応に十分注力できなかったものと思われ、いずれにせよ内閣は総じて大きな時間的・物理的制約の下で対応に当たらざるを得なかったのである。さらに、即時征討か征討猶予かで意見が一向にまとまらず、結局東京の大久保が京都に乗り込むことになったために、かえってその到着までの時間(3日間)意思決定が先送りとなったことも、大きなタイムロスを生んだといえよう。
 もっとも、政府の初動対応の大半が九州に近く海陸の便もいい大阪周辺において行われた結果、自然な形で征討策源地を同地に設置できたことは、爾後の戦争運営の上では有利にはたらいた。この点は、関西行幸がもたらした各種の影響のうち、プラスに働いた数少ない要素であったといえるかもしれない。


別表3:関西行幸スケジュール

②精神的・心理的要素:西郷の存在感
 政府の意思決定に主として精神的・心理的な面から作用した要素として挙げられるのは、やはり何といっても西郷隆盛の存在感である。むしろ、政府の初動措置遅延要因の大半は、突き詰めればこれに辿りつくといっても過言ではないであろう。
 鹿児島暴徒への対応に当たり、政府内の意見が即時征討論と征討猶予論の2つに割れて平行線を辿ったのは既述のとおりであるが、この論争は結局のところ、私学校党もろとも西郷を討つ(=「玉石を倶に焚く」)か否か、つまり西郷個人の処置をめぐっての対立にほかならなかった(※17)。そして、内閣の面々がこのように西郷個人の扱いに苦慮した理由については、単に「全国の不平士族に影響を及ぼすそのカリスマ性を警戒した」という政治的合理性だけでは説明できない。すなわち、相手が西郷であるがゆえの非合理的な思考、端的にいえば「西郷を討ちたくない」というきわめて個人的な感情が、内閣の面々の判断を強く拘束していたとみるほかないのである。なんともドラマや小説めいた話ではあるが、各人の当時の書簡や日記の類はこれを濃厚に暗示する記述にあふれており、まさに歴史の悲劇の観を禁じ得ない(※18)。
 また、各種の情報が錯綜したために「西郷が果たして暴徒に関与しているのか否か」を長らく断定できなかったことも、政府首脳陣の判断を曇らせた。例えば、川村は7~12日にかけての鹿児島視察の折、肝心の西郷本人の去就について明解に確認しないまま帰還したものとみられ、実際、内閣は川村の帰還報告後も「西郷不関与」の認定を崩していない(※19)。一方、9日、大山県令の使者として東京に到着した鹿児島県官・渋谷国安が大久保に伝えた「西郷は避難し姿を隠した」という情報は、単に内閣の面々に「西郷不関与」の心証を与えたのみならず、結果として「もしかしたら西郷を救えるかもしれない」あるいは「西郷だけは救わなければならない」という余念を生じさせ、征討猶予論の原動力の1つになったものとみられる。もちろん、渋谷情報は虚報(しかも単なる誤報ではなく、おそらく大山県令が政府撹乱のため意図的に伝達せしめたいわば偽情報)であり、政府内でも川路などは早々にそれを看破した(※20)ほか、熊本県なども「西郷関与」を示す情報を早い段階で入手し随時東京・京阪に報知していたのだが、内閣の面々は西郷に対する強い願望ゆえに、渋谷情報に引きずられてしまったのであろう(※21)。
 もしも早い段階で「西郷関与」の確報を得られていれば、内閣は事態の収拾不能を悟って観念し、すみやかに即時征討に踏みきっていたかもしれない。そう考えるにつけ、暴発直後の鹿児島に直接赴いておりながら鎮撫をまるで果たせず、それどころか「西郷関与」の正確な情報すら持ち帰れなかった川村の責任は、きわめて重いといえるのではなかろうか。


別表4:西郷の去就に関する主な情報の伝達状況

③相対的要素:私学校党の初動の速さ
 上記2点は政府側の事情に基づく要素であるが、これらに加え、政府の初動措置をいわば相対的に遅延させた要素として、私学校党側の初動措置があまりに速かったことについても触れておく必要があろう。
 私学校党の動きをあらためて見てみると、火薬庫襲撃事件の発生が1月29日、その激化と西郷暗殺問題の発覚を受けて私学校党および西郷が挙兵東上方針を決定したのが2月5日、そして出陣開始が14日であることから、事態の偶発的発生からわずか数日で方針・戦略を確定させ、さらにそこから1週間余で1万人超もの人員を動員し、装備・資金を調えて出陣したことになり、政府と比べて初動の迅速さ・スムーズさが際立つ。しかも、実のところ私学校幹部は5日の方針決定会議に先立つ1日の時点で早くも挙兵方針を決定していた形跡があり、加えて、4日頃には県下の諸郷に挙兵方針が伝達されはじめていたことも一部の記録から判明している(※22)。これらの事実は、そもそも具体的な挙兵計画があらかじめ準備されており、県下騒擾発生をトリガーとして、西郷の意向にかかわらずなかば自動的に各種の初動措置が進められたことを暗示しているように思える(※23)。
 このほかにも、私学校党の初動の速さの背景としては、当時、私学校党が県人事を掌握し、特に城下・諸郷の人民に直接的に権力を行使できる区長・戸長・警察官といった官職に多くの党員を配しており、挙兵に伴う情報伝達や各種調達業務が容易だったこと(※24)、大山県令自身も私学校党に全面協力し、県の行政機構・公金を直接投入してバックアップに当たってくれたこと(※25)、さらには、幕末以来県下に多量の小銃・弾薬が備蓄されており、軍備の迅速な調達が可能であったこと(※26)などが挙げられよう。
 いずれにせよ、私学校党が機先を制するかのように電撃的に動いた結果、タイムロスをある程度甘受してでも情報収集や慎重な議論を優先させた政府側は、否応なく後れをとらざるを得なかったのである。

(※13)
「政府は西郷軍の動向を逐一把握しており、(…)西郷軍の無策に対し、政府軍の用意周到が際立ち、この側面からも勝負ありの様相であったのだ」(町田明広『西郷隆盛 その伝説と実像』)。

(※14)
「大久保は、武器弾薬の接収と私学校分裂の二策には失敗したが、私学校生徒が挑発に見事にひっかかって弾圧の口実を自ら設けたことに対し、(…)喜んでいる」(落合弘樹『西南戦争と西郷隆盛』) 。
 ここで落合が取りあげているように、7日付伊藤宛大久保書簡にある「(私学校党暴発は)朝廷不幸の幸と密かに心中には笑を生じ候くらいにこれあり候」発言は、挑発説の根拠として強調されがちである。だが、同書簡は騒擾の規模がまだ正確に把握されていない段階で発信されたものであり、これをもって大久保が開戦を誘引するための「挑発」をしかけたと断じるのは早計といわざるを得ない。実際、川村派遣により鹿児島の切迫した状況が判明して以降の大久保は強硬に征討猶予を主張しており、とても開戦を積極的に指向したとはいいがたいのである。

(※15)
 九州各地の不平士族等が薩軍に呼応して決起し、続々と熊本へ馳せ参じた(党薩諸隊)。これにより、当初約1万3千人で鹿児島を出立した薩軍は、熊本攻囲戦までに約3万人まで膨れあがったとされる(『西南記伝』)。

(※16)
 明治9年末以降の不穏な国内情勢にかんがみ、政府内ではあらかじめこの行幸の延期も検討されたが、明治帝の聖慮により決行に至ったとされる(『西南記伝』) 。また山県はこのような不穏情勢を勘案し、1月28日の着京と同時に全国鎮台宛に厳戒を指令している。

(※17)
 さきに※7で記したとおり、岩倉・大久保の意見は勅使派遣論と武力征討論との一種の折衷案であることから、この両論は必ずしも二律背反する関係とはいいきれない。だがいずれにせよ、内閣の面々が西郷に格別の配慮を行おうとしていたことに変わりはないであろう。

(※18)
 以下、内閣各人の西郷に対する所感のうち、主なものを挙げる。西郷と兄弟以上の関係であった大久保や、同様に幕末以来の知己として西郷の人柄に全幅の信を置いていた木戸、岩倉、三条らにとって、征討発令は西郷との永訣と同義であり、情においてあまりに忍びがたいことだったのであろう。
【大久保】
「此の度の暴挙は必ず桐野已下斑々の輩において則決せしに疑いなく」「西郷においては此の一挙に付いても万不同意たとえ一死を以てするとも止むを得ず雷同して江藤前原如きの同轍には決して出で申すまじく候 万々一も是迄の名節を砕いてついに身を誤り候様の義これあり候えばさりとは残念千万に候えども実に止むを得ずそこまでの事に懸念仕るほか御坐無く候」(鹿児島暴発時、7日付伊藤宛大久保書簡)
【岩倉】
「西郷氏の跡を隠せりと真ならば天下の為大幸此の事に候」(鹿児島暴発時、9日付大久保宛岩倉書簡)
「(西郷のことを)至尊は柱石の臣と深く御依頼遊ばされ内閣大臣始皆忠誠無二の人と確信して疑わざるのところ豈に図らんや這回の叛状実に驚愕長大息の至りに堪えず 嗚呼国家の元勲にして此くの如く賊臣と為るはそもそも何の故ぞや 千思百慮すと雖も其の事由を解すること能わず」(官位褫奪令布告後、3月1日付木戸三条宛岩倉書簡)
【木戸】
「西郷隆盛は十二年前の知人」「其名実に歎惜に堪えず人世の大遺憾」(官位褫奪令布告時、『木戸孝允日記』25日)
「西郷もついに出張実に如何なる事か 此人は元来忠実寡欲国家の為め功労も少なからず候ところ如何にも残念千万」(同前、25日付鳥尾小弥太宛木戸書簡)
「西郷も決して尊氏が如き奸悪に非ず 惜しい哉識乏しくして時勢を知らず一朝の怒を洩らすに己れの長ずる所を以て身を亡し又国を害するなり 長ずる所を以て身を誤る古今皆是れなり短なる所を以て身を誤まるもの鮮し 西郷悪むべしと雖も亦憐むべき者なきにしも非ず」(3月1日付木戸三条宛岩倉書簡返書)
【三条】
「追々電報にて西郷謀反の由承知候えどもいよいよ此の上申書にて叛跡顕然驚愕至極に候」(官位褫奪令布告直前、24日付岩倉宛三条書簡)

(※19)
 これは、伊藤が川村らとの直接協議を終えた後の13日付岩倉宛電報において「久光と西郷二人の挙動分明ならずと雖も暴徒の中には入らざる者と見做し暴徒を鎮撫致すべきと区別の御沙汰ありては如何」と具申していることからも明らかである。川村は、大山から西郷暗殺計画についての情報を得つつも、西郷自身の去就についてははぐらかされたまま帰ってきたのであろう。

(※20)
「渋谷始め県官の閣下に申上げたる義全く虚言と愚考」(15日付大久保宛川路書簡)

(※21)
 一般に、政府は18日の熊本鎮台からの開戦必至電報と同時に西郷の薩軍への関与を断定し、征討を発令したと解釈されることが多い(勝田孫弥『大久保利通伝』など)。だが、西郷の官位褫奪令が征討令から6日も遅れて発されている事実を見れば、それが誤りであることは明らかであろう。
 別表4は、西郷の去就に関する主な情報の伝達状況を時系列でまとめたものである。これを見ると、西郷の薩軍への関与を伝える情報は比較的早い段階から随時伝わっていること、そして、それにもかかわらず政府は基本的に征討発令まで「西郷不関与」の判断を崩していなかったことなどが分かる。おそらく、安易に西郷関与の公式発表を出した場合の全国の不平士族への影響を考慮し、風聞の域を出ない情報では渋谷情報(大久保自身によって真正と判断された情報であり、高い確度を有すると信じられていた)を覆すに不十分と判断していたのであろう。
 これに変化が生じるのは、大山の放った専使が熊本、福岡、長崎において捕捉され、薩軍の内情に関する比較的確度の高い情報が入手され始めた19~20日頃である。特に、20日付岩倉宛伊藤書簡からは、専使のもたらした情報によって次第に西郷関与の疑いが濃厚になり、政府内の認識が改まりつつある状況が克明に伝わってくる。また、専使から得た情報が「13日の内達」(西郷は不関与とする認定を伝達したもの)と違う旨を伝える21日の福岡県発電報は、渋谷情報の否定に一役買ったものと推測される。
 そして24日、政府はついに西郷関与を断定する。同日付の三条の岩倉宛書簡によれば、大山県令の上申書が京都に届き、内閣の面々でそれを実見した結果が決め手となったようだ。西郷らの官位褫奪令が布告されたのは、その翌日のことであった。

(※22)
 私学校党に批判的な島津家旧臣・市来四郎の『丁丑擾乱記』には、篠原国幹ら私学校幹部が1日には挙兵東上方針を定めて火薬庫襲撃をさらに扇動したとの風聞が記されており、大山も同日に鹿児島県第四課長(県警本部長相当職)の中島健彦から挙兵東上方針を伝達され資金調達に着手したことをのちに供述している(『鹿児島一件書類』所収大山口供書)。また、鹿児島県下各地へは4日付で挙兵東上を伝える大山名義の文書が送付され、7日頃には要衝への番兵の配置も行われていた(鈴木徳臣『西南戦争における西郷軍の成立と編制』)。

(※23)
 実際、明治9年末から10年1月にかけ、探偵情報や新聞報道においては、私学校党の暴発挙兵計画に関する風聞が頻繁に取りあげられていた。もちろん、この計画の実在を証明する決定的な証拠は現在まで発見されておらず、仮に実在したとしても西郷がそれにどこまで関与していたかは不明である。あるいは、作戦計画という大仰な体裁ではなく、一部の幹部・関係者間の事前申し合せのようなものだったのかもしれない。

(※24)
「はじめは諸郷の私学校に在籍する郷士は少数であったが、私学校関係者の区長が任命されてからは、その勧めにより在籍者が増加した。やがて県庁の役人、警察官にも任命され、戸長、学校長などにも選任、明治九年頃には県政は私学校関係者に掌握され、県下の郷村の行政組織にまでその影響は及んでいた」(鈴木前掲論文)

(※25)
 大山は軍資金の調達のみならず、挙兵東上趣旨の県下への周知(あわせて西郷暗殺計画に関する口供書の頒布による県下の反政府感情の扇動)、全国各府県・鎮台・警察等への事前通知など、出陣に伴う各種手配を積極的に行い、私学校党を支援した。私学校党の初動の迅速さは、大山のすぐれた行政手腕によるところが大きいといっても過言でない。東京の大久保も、大山なくして鹿児島県政が立ち行かないことをかねてから熟知しており、同人が私学校党を統御することを期待して長らく県令に留任させていたのであるが、皮肉にもそれが裏目に出た結果となった。

(※26)
 幕末、旧薩摩藩は、藩士や諸郷に対し自弁で小銃を調達・管理することを命じていた。このような構造的背景もあって、鹿児島県下各地には維新後も小銃が大量に存在(明治3年時点の調査では21,432挺に及んでいる)しており、私学校党はこれらを徴発することで、挙兵に必要不可欠な武器弾薬を容易かつ迅速に調達することができたものと思われる(鈴木前掲論文)。これは、高知・立志社の激派が武器弾薬の調達に手間どって呼応叛乱の機を逸した事実(小川原正道『西南戦争と自由民権』)と対照的である。



【本稿における主な参考文献】
『征西戦記稿』陸軍参謀本部
『明治十年西南征討志』海軍省
『鹿児島征討電報録 一』公文録・明治10年・第161巻
『鹿児島征討電報録 完』公文録・明治10年・第153巻
『法令全書 明治十年』内閣官報局
『鹿児島県史料 西南戦争』より、
 『熊本籠城日誌』
 『林友幸西南之役出張日記』
 『西南之役懲役人質問』
 『東京曙新聞社説 明治十年』
 『丁丑擾乱記』
 『鹿児島一件書類』
『西南記伝』黒龍会
『熾仁親王日記 巻二』高松宮家
『大久保利通文書 第七』日本史籍協会
『大久保利通日記 下巻』日本史籍協会
『大久保利通伝』勝田孫弥
『岩倉具視関係文書 第七』日本史籍協会
『岩倉公実記』多田好問
『木戸孝允文書 第七』木戸公伝記編纂所
『木戸孝允日記 第三』妻木忠太
『川村純義・中牟田倉之助伝』田村栄太郎
『西南戦争警視隊戦記』後藤正義
『只今戦争始メ候 電報にみる西南役』大塚虎之助
『カナモジでつづる西南戦争 西南戦争電報録』田中信義
『西南戦争探偵秘話』河野弘善
『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』小川原正道
『西南戦争と自由民権』小川原正道
『明治ニュース事典I』毎日コミュケーションズ
『軍事史学』第52巻第3号「特集 西南戦争」より、
 『西南戦役における西郷軍の成立と編制』鈴木徳臣
 『西南戦争にみる日本陸軍統帥機関の成立過程とその苦悩』齋藤達志


※引用箇所については、一部のカナ・旧字・難読字を平易な表現に改めた。



 今回もだいぶ長くなってしまいました。少しでも読みやすく、分かりやすいものを目指しているつもりですが、やはりむずかしいものですねえ……。
 


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