夕風桜香楼

歴史ネタ中心の雑記帳です。
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最近の絵2枚

2020年07月25日 11時17分12秒 | ギャラリー
 
 最近描いたイラストのご紹介。



 Twitterフォロワ様のオリキャラを描かせていただいたもの。せっかくの機会であったので、普段描かない海軍ものに挑戦。明治初年のごく短期間に存在した、まぼろしの海兵隊の制服再現です。
 海兵隊はとにかく資料(特に写真や現存実物)が少なすぎて、骨が折れました。考証に当たっては、アジ歴等のほか、kurokuriさんのブログ水兵本部広報局や大井昌靖さんの論文(『軍事史学』213号・215号)なども参考とさせていいただきました。いずれも精緻な研究で、たいへん勉強になりました。





 こちらは昔描いた徳川慶喜軍服(礼服)の修正版。
 一部作画をあらためるとともに、解説カード化したものです。
 


 今年はかなりコンスタントに描けているので、このペースをなんとか維持したいですね。

 

西南戦争 両軍舌戦

2020年07月11日 21時21分32秒 | 征西戦記考
 
 西南戦役(西南戦争)における戦闘の合間、官・薩両軍の兵士はしばしば銃を置き、口をきわめて罵り合いました。記録に残る両軍の「口撃」合戦の様子は、いずれも『平家物語』の舌戦描写のごとき喜劇的なユーモアに満ちたものばかりで、後世のわれわれにとってはやや意外の観があります。
 今回は、その一例を紹介しようと思います。引用元は当時の新聞『郵便報知』の「戦地日報」コーナー(明治10年5月9日付)にある、戦地からのリポート(4月28日付)に基づく記事です。なお、引用に当たっては、旧仮名づかいを平易に改めるとともに、ト書き部分(カッコ内の部分)のみ現代語訳しました。

(熊本籠城戦の折のこと。砲撃の合間に薩兵が城下に現れ、官兵を罵って舌戦が始まった。)
薩「ワイドモ※1降参せぬか、もし降参せんとなら兵器を捨てて来れ」
官「誰か賊に降参する者かある、我々はこの城に籠る官兵なり」
薩「刀魚を与えんか、城中に女はあらざるべし、これを与えんか」
(すると城内の官兵は弦楽器を弾じトンヤレ節※2を唄いながら曰く、)
官「かくの如く女には不自由せず、かえって汝等は弾薬が不足ならん、これを与えんか」
(薩兵は答えに渋ったが、しばらくして曰く、)
薩「借セヨ」
官「すなわち与えん」
(と言うや、官兵はたちまち小銃を連発したため、薩兵は怒って曰く、)
薩「それは打つのジャ、ワイドモ早く持ち来れ」
官「何ぞ汝等賊兵に弾薬を与えん、早く来って戦わざるか」
薩「ワイドモ地雷火※3を伏せてオイドモ※4に近付けと云うとも、何ぞワイドモの百姓に欺かれん」
官「薩摩の芋掘、ビンタハゲビンタハゲ※5、(一斉に笑いながら)汝ら賊徒戦わざれば早く降参せよ」
薩「ワイドモに降参する者があるか、ワイドモは一日に握飯三個よりは喰うものあらざるならん、三日を経ずして餓死するに相違なし、早く降参せよ」
(この答えには官兵も少し窮したが、ややあって、握飯数個を薩兵に投げて曰く、)
官「汝等は粟飯より外に喰うものはあらざるならん、官兵はかくの如き白米を喰うぞ、汝等が大将とか隊長とか恃む篠原※6は戦死せしにあらずや、汝等も死なぬ前に早く降参せよ」
薩「ワイドモの隊長与倉※7も戦死せしにあらずや、ワイドモは人面獣心なり」
(官兵は「人面獣心」の言葉の意味が分からなかったため、傍らの隊長に質問したが、隊長は笑って答えなかった。このように数回罵り合ったあったのち、)
薩「ワイドモはもう寝よ、オイドモも寝るからまた明日」
(と互いに言葉を交わし、薩兵は去っていった。このようなことが何度もあった。)


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※1 「ワイ」は薩摩言葉で「お前」の意。
※2 「トコトンヤレ節」「宮さん宮さん」の通称で知られる戊辰戦役以来の軍歌。
※3 いわゆる地雷の一種。熊本籠城軍はこれを防戦に活用していた。
※4 「オイ」は薩摩言葉で「俺」の意。
※5 「ビンタ」は薩摩言葉で「頭」の意。
※6 篠原国幹は元陸軍少将で薩軍一番大隊長。戦役初期の田原坂・吉次越の戦闘において戦死した。
※7 与倉知実は陸軍中佐・歩兵第十三連隊長。熊本籠城戦の最中に戦死した。

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 彼らは、戦線膠着後の暇つぶしとして、あるいは命を懸けた戦いの束の間の息抜きとして、口による戦いを少なからず楽しんでいたのかもしれません。
 もっとも、それは彼らが、お互いに言葉が通じ戯れることすらできる敵と不毛な戦いを繰り広げなければならなかったという、「内戦の悲劇」の裏返しでもあったといえましょう。

[参考]熊本城天守閣(平成22年頃・筆者撮影)

  
 

西南戦争 生き残った者たちの証言【3】 戦場の実相

2020年07月04日 12時07分35秒 | 征西戦記考
 
 最終回となる今回は、戦場における雑多な逸話を取りあげます。

第3回 戦場の実相

【薩軍蹶起①】(一)
問:(戦役勃発時に)兵を集めた際は県庁から達したのか、桐野(利秋)・篠原(国幹)等より命令したのか。
答:(私学校の)生徒が各自で随行を願い出た。中には随行を許されず、(憤慨して)切腹した者もあった。《野村?・長倉?》

 薩軍第一陣(「一番立」)の編成に関する逸話です。当初の段階では強制的な徴募は行われていなかったことや、私学校の生徒以外は従軍が認められていなかったことなどが分かります。

【薩軍蹶起②】(二)
問:募兵の際、桜島の者が西郷の面前で切腹したというのは事実か。
答:入隊のことに関して切腹した者がいたというのは聞いた。誰かは知らない。しかし、西郷の面前で切腹した者はいない。《野村》

 入隊できずに切腹の挙に出た者があったという逸話はどうも事実のようで、暴発挙兵時の薩摩の熱気が伺い知れます。

【薩軍蹶起③】(三)
問:最初編成を行うとき、私学校生徒でない者は入れなかったのか。
答:そのとおり。おおかた私学校の生徒であった。《野村》
問:当初兵をまとめた際、15歳から60歳までの者に限定したのか。
答:そうではない。年配の上限はなかった。宮崎で募兵したときは、(年齢制限が)あった由である。《野村》

 こちらも編成に関する逸話です。もっとも、戦況が厳しくなった戦役中期以降、薩軍は各地でかなり強引な募兵を行ったことが知られています。

【海路作戦の可否】(一)
問:なぜ海路で出陣しなかったのか。
答:船がなかった。《野村?・大野?》
問:(船は)大いに有った。鹿児島(県)等の船があったが、如何。
答:曖昧《野村?・大野?》

 回答者の記載はありませんが、野村とみて間違いないでしょう。そもそも野村は戦略会議の際に海路作戦(桐野らにより却下)を主張した張本人なのですが、この尋問では口をつぐみ、追及を受けても曖昧な供述で逃げています。事後的な自己正当化や恨み節を潔しとしない、野村の男気が垣間見えるやりとりです。

【出陣時の軍令】(一)
問:大軍出発に際して軍令条はあったか。
答:軍令条というものはなかった。ただめいめいに約し、飲酒乱暴を禁じたのみである。出発時は合戦になる覚悟ではなかった。《野村?・長倉?》

 これも回答者は不明ですが、おそらく野村と思われます。「戦にはなるまい」というのが出陣時の西郷以下薩軍幹部の共通認識であったことは、大山県令の供述(『鹿児島一件書類』)などからも分かります。

【出陣時の認識】(五)
問:「当初は合戦するつもりはなかった」と言う者があるが、そうなのか。
答:当初から合戦の覚悟であった。皆、銃を携え弾薬を身につけて出陣したが、銃器・弾薬を重いとは思わなかった。《大野・田中・安藤》
答:西郷隆盛に従って吉田に至る頃、「熊本鎮台兵が川尻にて遮っている」という風説を聞いた。《田中》

 幹部陣が「戦にはなるまい」とタカをくくっていた一方、中堅将校以下の間では、当初から「戦になる」という認識が支配的だったようです。薩軍内で明らかに認識のズレが生じていたことになり、興味ぶかいところです。

【軍旗喪失事件】(五)
問:向坂の戦で官軍の連隊旗を持っていた士官が戦死したのち、現地民がその旗を拾い、10日余ののちに薩人の手に渡ったという説があるが如何。
答:そうではない。その(戦闘の)とき、1人の士官が連隊旗を立てるのを見て、その方向へ激しく発砲し、ついにこれを奪った。ときはすでに夜に入ったころだった。村田三介がその旗の端に、「村田三介が戦場にて分捕った」旨を書いたと聞く。決して現地民が拾ったのではない。《大野・田中・安藤》
答:その旗を花岡山の麓に立てて(熊本)城内に見せた。城兵はしきりに大砲を撃ちかけてきた。自分は(3月)14日までここにいたが、それまでは立ててあった。《安藤》

 乃木希典少佐が歩兵第十四連隊の軍旗を薩軍に奪われた事件は、よく知られています。その経緯には諸説ありますが、薩軍内ではこの証言のように認識されていたことが分かります。向坂は熊本城北方の地名。花岡山は熊本城南西にある小高い山で、薩軍が砲台を設置した場所です。

【将士の服装】(三)
問:諸隊長の服装は如何。
答:みな思い思いであったが、大概は洋服であった。《野村?・鮫島?・大野?》

 錦絵などでは着物姿で描かれることが多い薩軍将兵ですが、基本的には官軍同様に洋服の者が多かったことが分かります。[参考]

【官軍士官の狙撃】(二)
問:官軍の士官を見て狙い撃ちしたというのは事実か。
答:そのとおり。士官らしき者を狙うのは当たり前のことだ。《野村》

 ケロリと言ってのけている点に、戦場のリアリズムを感じます。結果として官軍では士官の死傷が続出し、部隊運用に大きな支障が生じることとなりました。

【近衛兵に対する評価】(二)
問:官軍の赤帽を恐れたというのは事実か。
答:いかにも、赤帽の部隊は強いように見えた。《野村》

 薩軍が近衛兵(鎮台兵と異なり、赤色の帽子をかぶっていた)に一目置いていたという逸話は、当事者も認める事実だったようです。
 なお、「近衛兵はみな士族だったため強かった」という俗説がありますが、これは誤りです。近衛兵は明治6年に兵員刷新が完了しており、西南戦役時点では兵卒のほぼ全てが鎮台壮兵か徴兵の出身者に入れ替わっていました。

【田原坂の牛】(五)
問:田原坂の戦で牛を放って官軍に向かわせたという話があるが事実か。
答:そのようなことはない。田原坂決戦では、交戦距離が甚だ近く、そのようなことは行えなかった。御船においてある夜、官兵を襲い撃破したことがあるが、それからほどなくして村中の馬が放たれ、官兵はこれを夜討と思って大いに騒いだことがあった。牛の話は、これが誤って伝わったものと察する。《大野・田中・安藤》

 木曽義仲の火牛の計を彷彿とさせるこの話は錦絵にもなっていますが、当然ながら否定されています。もっとも、官軍は薩軍の斬込みを極度に警戒しており、陣中では「薩軍斬込み!」の誤報によって兵たちが恐慌状態に陥る「斬込み騒ぎ」も頻発していました(『西南記伝』)。

【農民の弾拾い】(二)
問:木留あたりにて弾薬が欠乏した際、農民に弾を拾わせて用いたというのは事実か。
答:拾わせたのではない。彼らが利益を欲し、拾って売りに来たのだ。《野村》

 木留は田原坂南方の地名。弾拾いはあくまで農民側が持ちかけてきたものだ、と野村は主張しています。戦争に伴うあらゆる物事を商機に変える、戦地の人々のたくましさが伝わってきます。

【貨幣の鋳造】(二)
問:紙幣を製造した際、金・銀貨の製造に関する話もあったと聞くが如何。
答:そのことは知らない。金銀を入手できるあてはなかった。《野村》

 これも当時新聞で報道された情報ですが、否定されています。紙幣とあるのは、有名な「西郷札」です。

【戦場の死体】(三)
問:熊本にて鎮台兵の死体を解剖し、城内で何を食べているか調べたというのは事実か。
答:そのようなことはなかった。《野村・鮫島・大野》
問:味方の死体を、医学のため解剖したことはあったか。
答:そのようなこともなかった。《野村・鮫島・大野》
問:田原坂において官軍戦死者の死体を重ねて防塁としたり、また味方の死体を重ねて防塁としたという話があるが、事実か。
答:そのようなことはなかった。《野村・鮫島・大野》
問:戦死者を埋葬し、他人の墓石をとってこれに立てることがあったか。
答:そのようなことはなかった。《野村・鮫島・大野》

 戦場ならではの凄惨な風聞ですが、野村らはいずれも否定しています。なお、官軍の一部では戦場で得た人肉を食する行為が横行していた(『従征日記』)ほか、官・薩を問わず、敵兵の死体を損壊・凌辱する蛮行も頻発していました(同前ほか)。

【戦場の女性】(五)
問:鹿児島において婦人が集まり、大久保(利通)・川路(利良)の旧宅を壊したというのは事実か。誰が頭目となったのか。
答:そのことは実際にあったようだ。しかし、特定の誰かが頭目ということはなく、各地で(同種の暴動が)発生していたらしい。
問:婦人が戦に出たことはあったのか。
答:鹿児島で官兵が坂元村・集成館に来襲した際、少女が2人、1人は17~18歳の者、もう1人は15~16歳の者が、味方の兵を導き敵軍に向かって進んだ。17~18歳のほうは、手に包丁を持って先導した。味方はこれに従って敵と戦った。そののちこの2人の女子がどこに行ったかは知らない。《安藤》
問:甲突川の戦の際、夜中に竹柵を揺する者があり、官兵がこれを射撃したところ、翌朝子を背負った1人の婦人が弾丸に当たって死んでいるのを見たという話があるが如何。
答:そのようなことはなかったであろう。総じて女性を軍事任務に使ったことはなかった。《大野・田中・安藤》

 錦絵や新聞報道では、「娘子軍」「女人隊」といった勇壮な薩摩女たちの姿が頻繁に登場します。中には西郷隆盛や篠原国幹の娘とされる者が登場する荒唐無稽なものもあり、西南戦役が当時の人々にとっていかに娯楽のタネとなっていたかが分かります。

[参考]南洲神社・薩軍将士の募(筆者撮影)




 全3回でお送りしましたが、いかがだったでしょうか。
 西南戦役にまつわる俗説がいかに怪しいものであるか、あらためてお分かりいただけたことと思います。
 今後も、折を見て面白い史料を紹介していきたいと考えておりますので、おつきあいいただければ幸いです。

 

西南戦争 生き残った者たちの証言【2】 薩軍将士の逸話

2020年07月02日 22時06分45秒 | 征西戦記考
 
 特集第2回。
 今回は西郷以外の諸将に関する逸話を主に紹介していきます。

第2回 薩軍将士の逸話

【私学校党の心事】(四)
問:(明治六年政変で)西郷が帰国した際、一緒に帰国した者は、西郷と生死を共にせんと互いに約束したのか。
答:確かに約束したわけではなかったが、暗にその心もちであった。のちに私学校の規則2カ条を定めた際も、別段誓約のようなものはなかった。《野村》

 私学校党の間には、一種の空気感・一体感のようなものが存在していたことが分かります。西南戦役は、年月をへてそれが先鋭化していった果ての挙であったといえるでしょう。

【吉野開墾】(五)
問:(私学校党が)吉野村・寺山の地を開墾したのはなぜか。
答:吉野の地は平原より杉山に続き2~3里四方以上、開けたところは40~50町の広さで、菜種・陸稲・薩摩芋などを栽培していた。もともとは壮士たちが筋骨を鍛えるために開拓した地であり、自分の家も同地に近かった。ゆえに(開墾に)始終従事した。《安藤》
問:西郷が馬に肥桶を載せ、自ら引いて日々吉野に赴き、小木を剪伐し、穀物類を栽培していたいうのは事実か。
答:西郷はときどき馬を引いて来た。大根など野菜を載せ、周囲の人の食事などに用いた。肥桶を載せていたのは見ていないが、そういうことを厭う人ではなかった。(吉野は)開けたところは平原だけで、杉山まではまだ手が及ばなかった。西郷が吉野に来る目的は主として人々を誘うためであり、自ら鍬を手に1~2時間も作業したのはせいぜい2~3回程度のことだった。《安藤》

 吉野は鹿児島市街地北方の小高い山の上に位置する台地で、西郷は同地の寺山一体を開墾するため、吉野開墾社を設置させました。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』序文に登場する展望台は、この寺山の突端にあります。
 尋問にあるとおり、西郷自身もたびたび吉野を訪れていたようで、西郷の引いていた馬が落ちたとされる場所の付近には「駄馬落」の碑なども残っています。

[参考]吉野・寺山公園展望台からの眺望(筆者撮影)


【諸将の指揮】(三)
問:5大隊の長はそれぞれどの方面を受け持っていたのか。
答:当初、5大隊の長は各自部隊を指揮していたが、熊本城攻囲以降は互いに独自に応援などしており、(部隊は)混淆していた。《野村・鮫島・大野》

 薩軍第一陣(「一番立」)は5個大隊に編成されていました。しかし、間もなくこの編制は有名無実化し、諸将が大隊の枠にとらわれず適宜必要な兵員を運用したため、熊本撤退後にあらためて編制の刷新が行われることとなりました。

【桐野と青竹】(四)
問:桐野(利秋)ははじめの出陣の際、青竹を切って握りしめ、「この竹の先の色が変わらないうちに東京に到達せん」と言ったのか。
答:一切聞かないところである。《野村・鮫島・大野》

 青竹をふるって気炎を吐く桐野の姿は、西南戦役をえがいたドラマなどで必ずといっていいほど取りあげられます。しかしこの逸話も、実際には創作である可能性が高いことが分かります。

【桐野の愛刀】(四)
問:桐野の佩刀は如何。
答:桐野は二刀を佩びていた。大小とも拵は頭から小尻まですべて銀張りにして、金をもって筋を入れていた。刀身が誰の作は知らない。《野村・鮫島・大野》

 桐野の派手好きな性格はよく知られているところで、きらびやかな軍刀も多くの人の記憶に残っていたようです。

【桐野の酒癖】(五)
問:桐野は酒を飲んだときは泣く癖があったというのは事実か。
答:知らない。《大野・田中・安藤》

 「天資英邁、気宇宏闊」と称される桐野。この質問はあまりにくだらなかったためか、大野らに一蹴されてしまっています。

【桐野と愛妾】(二)
問:桐野の愛妾が投降したという話があるが事実か。
答:陣中に婦人を連れていたという話は聞かない。もちろん薩摩では妾をかかえていたのだろうが。(陣中に婦人を連れていたというのは)虚説であろう。《野村》
答:長い陣中のことゆえ、日向あたりで婦人に酌をとらせるといったことはあったので、そのことを言っているのだろう。《長倉》

 女性関係にまつわる逸話も多い桐野。婦人に酌をとらせて云々というくだりは、辺見十郎太を題材にした海音寺潮五郎の小説『南風薩摩歌』も彷彿とさせます。

【城山の桐野】(二)
問:鹿児島へ入ったとき、桐野は喜んで家に入り、酒など飲んでいたというのは事実か。
答:そうではない。桐野は城山の哨兵線を巡視すること、1日約3回くらいであった。《野村》

 最後まで闘志を捨てず、城山で壮烈な戦死を遂げた桐野の姿がしのばれるエピソード。なお、野村は戦術戦略をめぐって桐野と対立しがちだった(『野村忍介自叙伝』)のですが、そのわりに『懲役人質問』では全編を通じて桐野を擁護するような証言が多く、薩摩男児の意地と潔さを感じさせます。

【篠原の断乎攻城策】(一)
問:篠原が建議した、「一挙に熊本城を抜けば、兵を半数失うに過ぎない」という策が実行されなかったのはなぜか。
答:西郷もその策を可とし、すでに人員を選び攻撃の手配を行っていた。そのとき、熊本県の同志が来て、「城中は兵糧が尽き、もはや三日持つこともできないだろう」と言った。西郷はその言葉を聞いて「多くのわが将兵を殺すのは不可である」と言ったため、攻撃は中止とした。《野村?・長倉?》

 熊本城をめぐる薩軍の方針変更の内実にせまった問答です。篠原国幹は元陸軍少将で、桐野と並ぶ薩軍の大幹部。なお、『西南記伝』ではこの顛末について、篠原の強攻策がいったん決定したのち野村と西郷小兵衛が反対意見を強く主張したため、最終的に西郷・桐野が後者を採用したとされており、やや趣が異なります。

【篠原の戦死】(三)
問:篠原戦死の状況は如何。
答:兵が進まないゆえ抜刀して真っ先に出て、弾丸に当たり即死した。《野村・鮫島・大野》

 篠原が赤い裏地の外套を翻して前線に立った逸話も有名ですが、「進まない兵を督戦していた」という事実はやや意外かもしれません。

【辺見の統帥】(四)
問:辺見(十郎太)は兵を指揮する際、退く者を斬ったというのは事実か。
答:斬ったことはない。棍棒で殴っていた。《野村・鮫島・大野》

 辺見十郎太は元陸軍大尉、雷撃隊隊長。薩軍随一の猛将として知られますが、実際にはそれなりに思慮深いところがあったことが分かります。この証言を裏付けるものとして、「退く者は斬る!」とすごむ部下に対し辺見が「兵をみだりに斬るな」と耳打ちした、という逸話も残っています(『西南記伝』)。

【熊本撤退後の戦略①】(二)
問:熊本連絡後、議論が5つに分かれ、豊後に進出すべきとか、鹿児島に割拠すべきとか、島津氏を擁して上京すべきなどという意見が出たというのは事実か。
答:議論が5つに分かれたというのは聞いたことがない。《野村》
問:島津氏を擁するという策については、村田か別府が建策したところ西郷が大いにこれを叱ったという話があるが如何。
答:そのようなことは一切聞かない。《野村》
答:国事犯としてこの監獄にいる者は500人ばかりだが、そのような噂をする者は1人もいない。《長倉》

 西南戦役において島津久光は基本的に私学校党に与せず、政府に恭順する姿勢をとり続けました。私学校党がわとしても、島津家への接触を憚っていたようです。

【熊本撤退後の戦略②】(五)
問:人吉にあるとき、(島津)久光公が(薩軍に対し)人を派遣し説諭したというのは事実か。
答:そのようなことはない。《大野・田中・安藤》
問:熊本城連絡ののち、渕辺(高照)・別府(晋介)・辺見(十郎太)らが久光公に何か説こうとし、これを西郷に報じたが、西郷はこれに反対し戒めたという説があるが如何。
答:そのことは知らない。《大野・田中・安藤》

 前掲と同じく、島津家の戦役への関与を否定する問答です。ちなみに、錦絵において薩軍は島津家の「丸に十の字」の旗印を掲げていることが多いですが、これも当然ながら事実ではなかったとされています(『西南戦場逸話』)。



 次回で最終回。
 戦場の生々しい実相に関する証言を取りあげます。