夕風桜香楼

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西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【2】同時代資料における記述

2023年08月31日 22時42分25秒 | 征西戦記考
  
 西南戦役をめぐる「シサツ勘違い説」が専門書にも史実として記載されていることは、前回述べたとおりです。そこでまずは、このシサツ勘違い説が、実際の同時代史料や、一定程度近接した年代の史資料の中でどのように登場するのかについて、代表的なものを確認してみます。
 いかにも後世脚色された作り話のようなエピソードですが、意外にも、その事実性を裏づける同時代史料は少なくありません。


①アーネスト・サトウの日記

 アーネスト・サトウという、当時駐日英国公使館に勤めていた英国人がいます。『一外交官の見た明治維新』などの著書を通じ、外国人の立場で明治維新を記録した人物で、のちに駐日英国大使も務めました。
 このサトウは明治10年2月の西南戦役勃発時、たまたま鹿児島におりました。しかも同人は、西郷隆盛や県令の大山綱良とかねてから個人的なつきあいがあったため、これら渦中の人物と直接面会できる立場にもありました。サトウの残した記録は、西南戦役の勃発に現地で遭遇した数少ない外国人の証言として、非常に貴重なものといえます。
 これから引用するのは、サトウが鹿児島から帰京した直後の3月9日、右大臣(かつ東京留守内閣首班)の岩倉具視と面会した際の日記です。
 開戦直後で情勢不鮮明だったこともあり、この日サトウは、岩倉から鹿児島の状況説明を求められました。問題となるのは、次の部分です。

 岩倉はわたしが鹿児島で見聞したことのすべてを、ひどく知りたがった。叛徒が鹿児島の町でも、熊本へ進軍中も、規律正しく行動したことをわたしがくわしく話すと、岩倉は非常におどろいた様子であった。(中略)
 岩倉から、つぎのようなばかばかしい話を聞かされた。それによると、薩摩側が西郷暗殺の陰謀を信じ込むにいたった原因は、政府の密偵として逮捕された者が、自分たちは「視察」の目的で鹿児島に来たと述べたのに、薩摩側がこれを「刺殺」と解したためである、というのである。

(萩原延壽『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄(13) 西南戦争』)

 ズバリこれ、シサツ勘違い説ですね。ちなみにサトウは当時から日本語が堪能で、公使の通訳としても活躍していましたから、日本語の「視察」と「刺殺」の違いははっきりと理解しています。
 サトウは「ばかばかしい話」とあきれており、シサツ勘違い説を信じなかったようですが、重要なのは同時代人の日記にこれが登場するということ。すなわち、シサツ勘違い説が決して後世の創作ではなく、当時の時点で明確に存在していたという事実が、この記録から分かるのです。


②山県有朋の述懐

 『西南記伝』という、明治の末年くらいに刊行された西南戦役に関する大著があります。同書の面白いところは、乃木希典や樺山資紀など、まだ当時存命だった当事者への取材記事が随所に挿入されていること。現在、国会図書館デジタルライブラリーのHPで誰でも簡単に閲覧できますので、ご興味の方はぜひ目を通してみてください。
 さて同書に掲載されている、当時の陸軍の総括責任者・山県有朋の証言は次のとおりです。西南戦役当時よりも年月が下ったあとの史料ではありますが、当事者中の当事者たる山県の認識が分かる、興味深い内容となっています。

 川路の乾分(子分)が、状況視察のため帰京したのを、視察を刺殺の電報の誤りから、かの騒乱が起ることになったのである。即ち鹿児島の、西郷の幕下に居るものは、「川路がこんな乾分を刺客に寄こすのも、大久保の意を受けて遣るのだ」と思った。今考えても、なるほど視察を刺殺と読み誤るのは、無理はなかろうと思う。
(黒龍会編『西南記伝』中巻1)

 つまり、西南戦役において西郷と対峙した山県も、このシサツ勘違い説を事実と認識しているのです。なお、「電報の誤り」とあることから、山県は電報パターンで本件を認識していたということになります。

 ということで、明治時代の当事者の証言を複数紹介しました。これらを見ると、もはやシサツ勘違い説は「ウソのようなホントの話」として、疑う余地はないように思えるかもしれません。
 しかし……?

(【3】へつづく)
  

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【1】

2023年08月31日 22時24分51秒 | 征西戦記考
 
 明治9年暮れ、警視庁大警視・川路利良は自身の部下約20人を密偵として鹿児島に放った。
 これを察知した私学校党は機をとらえて同人らを検挙、凄惨な取調べを行った。
 すると、彼らは西郷隆盛の暗殺計画を自白した……!


 西南戦役勃発の直接的な原因の一つとして、西郷暗殺問題が挙げられます。比較的有名な逸話でありますので、ご存じの方も多いかと思います。
 そして、この西郷暗殺問題が各種メディアの歴史番組やドラマ等で取りあげられる際には、密偵の口から出た「シサツ」という言葉がよく話題になります。例えば、1987年の日テレ年末時代劇『田原坂』では、密偵・中原尚雄を私学校党が取り調べる場面で、次のようなやりとりが描写されています。

私学校党「言うてみやい。おはんは川路の刺客じゃろ。目的はなんじゃ!」
中原「……シサツ……!」
私学校党「刺殺とな!? 西郷先生を、殺しに来たとか!!」
中原「……シサツ……」
ナレーション「『シサツ』は、刺し殺す『刺殺』だったのか。それとも、見て回る『視察』の意味だったのか。どちらともとれる中原尚雄の供述は、ひどく屈折していた……」


 つまり、「現場視察」「状況視察」といった「見て回る」意味での「視察」という言葉を中原が使用したところ、それを聞いた私学校党が、「刺殺」すなわち「刺し殺す」意味だと勘違いした。そして、その些細な勘違いに起因する「西郷暗殺計画」が独り歩きし、ゆくゆくは私学校党の武装蜂起につながった……という、ちょっと悪い冗談のような話です。

 また、このシサツ勘違い説というのは、いくつかのバリエーションとともに伝えられています。
 まずは前述した『田原坂』のように、拷問された密偵たちが「シサツ」と口走り、それを聞いた私学校党が「刺殺だと!!」と沸き立つパターン。
 それからもう1つは、私学校党が密偵を捕まえた際に電報紙を押収し、そこに「シサツ」という文言があった……というパターンです。当時の電報は全てカタカナで書かれているわけですけれども、文中に「ボウズヲシサツセヨ」=「坊主を刺殺せよ」とあり、この坊主というのは西郷を意味する暗号であったため、私学校党が西郷暗殺計画を認知することになった……というわけです。2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』では、この電報パターンが採用されていましたね。

 さて、この「シサツ」をめぐる逸話、いかにも創作されたエンタメ与太話と思いきや、歴史上の実話として専門書にも記載があるエピソードです。例えば、日本近現代史、中でも幕末維新期研究の第一人者である落合博樹先生(明治大学)は、ご著書の『西南戦役と西郷隆盛』の中で、このように記述されています。

 生徒の弾薬庫襲撃を抑制できなかった幹部たちは、私学校と無関係の谷口藤太を中原尚雄に接触させたうえで、中原が「西郷と刺し違える覚悟」との情報を得、鹿児島県一等警部中島健彦が二月三日に伊集院で中原を捕えた。さらに県庁は密偵たちに対する「東獅子狩り」を実施し、一網打尽にする。そして、西郷を「坊主」、桐野を「鰹節」と呼ぶ合言葉があったことや、「ボウズヲシサツセヨ」との電報を押収し、さらに中原を拷問にかけ、ついに「西郷刺殺」の密命があったと供述させた。
(落合博樹『敗者の日本史(18) 西南戦役と西郷隆盛』)
 
 落合先生は電報パターンを採用していますが、いずれにせよ歴史上の事実として、はっきりと断定しているわけです。

 今回の特集では、このシサツ勘違い説の実相について、史料をベースにあらためて解き明かしてみたいと思います。全5回程度の連載を予定しておりますので、おつきあいいただけますと幸いです。
(なお、史料の引用に際しては、カナ、旧字、難読字等を平易に改めるとともに、適宜改行等を行っております。ご承知置きください。)

(【2】へつづく)