夕風桜香楼

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【3/3】西郷はいずこ 鹿児島暴発をめぐる情報戦 ③

2021年05月12日 00時01分08秒 | 征西戦記考
 


第3回 覆っていく事実

 2月19日、征討発令と入れ違う形で、熊本から内閣へ1件の電報が届きます。

 本日、鹿児島県官3名が西郷以下の失敬な通知書を持ち、同書中の筆足らずな部分を補足するために使者として到着したゆえ、兵器を持って大人数で通行することは断ったところ、「西郷は陸軍大将ゆえ、兵器を持つことは権限の範囲内であり、地方官の関知することではない。しかし、自分らの権限では回答できないので、直ちに西郷に相談する」とのことです。
(2月19日付岩倉具視宛熊本権令電報)(『鹿児島征討電報録』)

 熊本県庁を訪れた使者、それは鹿児島県庁の「専使」でした。
 この専使とは、薩軍上京を道中の各府県に事前通告するため、大山県令が放った一団です。鹿児島県官20数人を1班当たり3-4人に編成したもので、「政府に尋問の筋これあり」の一節で知られる西郷以下の上京通知書等を携え、一種の先遣部隊として各地に散っていました。

 今般、陸軍大将西郷隆盛・陸軍少将桐野利秋・陸軍少将篠原国幹が政府へ尋問の筋あり、旧兵隊等も随行し、近日中に上京いたすことを届け出るにつき、貴庁においてご承知置きいただき、朝廷への上申はもちろん、各府県ならびに各鎮台へ通知のため、(鹿児島県)官員に専使を申し付けたところですので、貴管轄内に到着したならば、道中異議なく通行させていただきますようご依頼いたします。
(2月14日付各府県警察職員宛大山綱良通知書)(『鹿児島征討始末』)


 専使の来着は、まさしく西郷去就認定問題をめぐる第2のターニングポイントとなりました。岩倉も、この電報の内容が有象無象の諸情報とは明らかに違うことを瞬時に嗅ぎ分けたようで、その日のうちに、

 富岡権令の西郷使者なる者の応接について、権令と谷(鎮台司令長官)へどのような下知をしたのでしょうか。
(2月19日付大久保利通・伊藤博文宛岩倉具視電報)(『鹿児島征討電報録』)


と京阪へ問い合わせています。
 ただし、これに対する返信は、電報録中では確認できません。この日は征討発令に伴う各種対応で皆が慌ただしく駆け回っていましたし、さらには「熊本城炎上」の急報も矢継ぎ早に舞い込んでおり、内閣は大混乱に陥っていたのです。

 とはいえ、専使の出現は内閣を明らかに動揺させました。この点、次の伊藤博文の書簡(2月20日付)は、内閣の認識変容を解明するうえで特に重要といえます。

 もはや西郷へは勅使派遣に及ばず、(勅使派遣の対象とするのは)久光公父子だけのことと存じます。すでに賊の専使と称して熊本へ出張している鹿児島県官の者が言っているところによれば、西郷は兵を率いて暗殺云々のことを尋問するために上京するとのことです。これももしかすると賊徒の詐術にして、虎の威を借るための方便かもしれませんが、当初からの経過を考えるといかにもあり得る話のように見込まれます。
(2月20日付岩倉具視宛伊藤博文書簡)(『岩倉公実記』)


 つまり、ここにおいて内閣では「西郷不関与」説が大きく後退しているのです。おそらく伊藤らは、専使の来着を機に従前熊本県等から随時送られてきていた「西郷関与」関係情報を洗い直し、認識を修正したのでしょう。

 専使たちは、2月20日から21日にかけ、福岡・長崎で随時検挙されました。各県庁は、専使から得た情報を内閣へ続々と報知しています。

 (逮捕した専使によれば、)賊徒巨魁の人名は、西郷、桐野、篠原、池上、永山、村田、別府です。
(2月21日付大久保利通宛福岡県令電報)(『鹿児島征討電報録』)

 (逮捕した専使によれば、)当初、西郷は(決起に)異論であったが、中原なる者が「もし西郷が(私学校党と)ともに暴挙するのであれば刺し違えるよりほかにない」という川路大警視の内命を受けたことを申したところ、西郷は憤然として決心し、政府へ尋問ありとして上京することとなり、旧兵隊の随行を願い出たので、大山県令がこれを許可し沿道の各府県へ通知依頼した(とのことです)。(この事実は、)去る13日の内達と違っています。
(2月21日付不詳(大久保利通か)宛福岡県令電報)(『鹿児島征討電報録』)


 これらの情報を後世の目で答え合わせ的に薩軍側の記録と照らし合わせてみると、いずれも正確に一致することが分かります。

(なお、2月21日には海軍の鹿児島視察の第二陣(伊東祐麿少将座乗の軍艦「春日丸」)も長崎に帰還し、結果報告を行いました(『西南征討志』)。ただし、他の同時代史料(特に内閣関係者の電報・書簡等)ではこれに関連する情報がほとんど確認できないため、西郷去就認定問題にどこまで影響したかも判然としません。)

 さて、専使の来着によって「西郷関与」説が大きく揺らいだ直後、追い打ちをかけるように西郷去就認定問題をめぐる第3のターニングポイントが到来します。
 それは「太平丸」の京阪到着です。

 三菱会社の郵船・太平丸は、内務少書記官・木梨精一郎を乗せて琉球から帰京の途中、寄港した鹿児島でたまたま騒擾に遭遇し(2月8日)、一時抑留されます。しかし、19日には鹿児島を出港し、21日深夜に神戸へ到着したのです。
 太平丸出港の際、大山は西郷以下の上京通知書(専使に持たせたものと同一の文書)を木梨に託していました。また同船には、県下状況報告の使者(鹿児島県官1人)や、火薬庫襲撃暴動の生き証人というべき鹿児島海軍造船所の面々(菅野覚兵衛少佐以下18人)が乗船していたほか、大山県令から林内務少輔あての書簡(薩軍出陣の顛末や西郷暗殺密偵団の暗号等の報告)も積まれていました(『林友幸西南之役出張日記』『西南征討志』)。

 鹿児島より太平丸は19日午後出発し、昨21日午後11時(神戸へ)入港したところ、(同船の者が)報じるには、西郷(隆盛)、桐野(利秋)、篠原(国幹)、村田(新八)がおよそ1万5千の兵を4大隊に分けて15日熊本へ出兵、鹿児島路は平定され左大臣(島津久光)・旧知事公(島津忠義)は依然として大義名分を唱え(て鹿児島にあり、旧)藩兵がおびただしく(集まって、久光らを)守護し、天皇陛下の御命令を待っているとの確報を得たので、この旨報知するとのこと。
(2月22日付安田権大書記官宛折田少書記官電報)(『鹿児島征討電報録』)


 太平丸によってもたらされた各種の情報は、その高い鮮度と実証性・信憑性ゆえ、「西郷不関与」説にとっていわばトドメの一撃となりました。すなわち、太平丸によって届けられた大山書簡に目を通した林は、

 その趣旨の帰着するところは曖昧で文意もはっきりしないが、この文面から考えれば、西郷は暴挙の首謀者で、大山県令もまた同調しているとみるに足るであろう
(2月22日付林友幸日記)(『西南之役林友幸出張日記』)


と結論するに至り、2月23-24日ころにはついに木戸孝允や三条実美といった内閣首脳たちも、

 私は過日を境にいよいよ西郷隆盛以下暴動(関与)の旨を承知したが、実に国家の一大乱につき、(賊徒征討の大命が)天下へ示され、(天皇陛下の)叡慮も(効果が)なくて(面目)かなわず恐れ入っている。
(2月23日付木戸孝允日記)(『木戸孝允日記』)

 別紙のとおり、鹿児島県令の上申書(太平丸で届けられた西郷以下の上京通知書か)を回付いたします。不都合な(内容の)書面につき、近日中に船便をもって(鹿児島の大山)県令を詰問する予定です。徐々に電報で西郷が謀反したらしいことを承知していましたが、いよいよこの上申書によって叛乱の証拠が明らかとなり、驚愕至極です。(中略)
 西郷以下の官位剥奪は当然のことですが、今すぐに西郷が賊となったことを公認・発表すれば、(全国各地で)これに呼応(して叛乱)する者も増加すると思われますので、準備が整うまで(発表は)見合わせておきます。しかし、一両日中には発表のつもりです。
(2月24日付岩倉具視宛三条実美書簡)(『岩倉公実記』)


と、「西郷関与」を断定することとなるのです。なお、本特集第1回冒頭で紹介した、大久保の「逢えばすぐ分かるのだ」の逸話は、この時点での一幕と解するのが自然といえるでしょう。

 2月25日、西郷以下の官位褫奪が全国へ達され、彼らは公式に「賊」となります。
 混乱と狂騒に満ちた西郷去就認定問題は、ここにようやく終焉を迎えたのでした。


結び:西郷去就認定問題に垣間見る、"情報"の本質

 以上、全3回にわたり、西郷去就認定問題の紆余曲折を解説しました。いかがだったでしょうか。

 火薬庫襲撃事件発生後、内閣には比較的早い段階から「西郷関与」の兆候情報が届いていました。しかし大久保、伊藤、岩倉ら内閣の主要人物は、個人の主観、予断、希望的観測に引きずられ、その重要性を見抜けませんでした。もちろんこれは後世の目で見た結果論でしかなく、彼ら当事者たちはごく限られた情報を頼りに極力合理的な判断に努めていたのですが、少なくともこの情報判断ミスが結果として各種初動対応の遅延を招いた事実については、やはり一定の批判を免れ得ないでしょう。

 西南戦役から約70年後、日米戦争で大本営情報参謀として活躍した堀栄三の自著には、次のような言葉があります。

「実際情報の処理とは、篩の中に土砂を入れて、それを篩い落すようなもので、その中からほんの一つの珍しい石ころでも出たら有難い。時にはダイヤが出ることだってある。ところが、それで喜んではいけない。そのダイヤが本物か、偽物かという問題にぶつかるからだ。場合によっては、二つ三つのダイヤが篩に残ることもある。さてどれが本物で、どれが偽物か、あるいは全部偽物かと選択を迫られることもある。」

「情報とはこのようなものである。常に断片的な細かいものでも丹念に収集し、分類整理して統計を出し、広い川原の砂の中から一粒の砂金を見つけ出すような情報職人の仕事であった。」

「よく戦後の戦史研究家で、あのときこんな情報があったのに、どうしてこれを採用しなかったか、と批評する人がいる。しかし情報は二線、三線での交叉点を求める式の取り組みをやらないと、真偽の判断は難しい。」
(堀栄三『大本営参謀の情報戦記』)


 西南戦役勃発時の内閣は、まさに「広い川原の砂の中から一粒の砂金を見つけ出す」ことに失敗してしまったといえるでしょう。そしてそれは、"情報"というものの普遍的な本質について、現代のわれわれにもあらためて多くの示唆を与えてくれているように思います。


【本特集における主な参考文献】

『征西戦記稿』陸軍参謀本部
『明治十年西南征討志』海軍省
『鹿児島征討電報録 一』公文録・明治10年・第161巻
『鹿児島征討電報録 完』公文録・明治10年・第153巻
『法令全書 明治十年』内閣官報局
『鹿児島県史料 西南戦争』より、
 『鹿児島征討始末』
 『林友幸西南之役出張日記』
 『鹿児島一件書類』
『西南記伝』黒龍会
『西南戦役側面史』下田曲水
『大久保利通文書 第七』日本史籍協会
『大久保利通日記 下巻』日本史籍協会
『大久保利通伝』勝田孫弥
『大久保利通』佐々木克
『岩倉具視関係文書 第七』日本史籍協会
『岩倉公実記』多田好問
『木戸孝允文書 第七』木戸公伝記編纂所
『木戸孝允日記 第三』妻木忠太
『川村純義・中牟田倉之助伝』田村栄太郎
『西南戦争警視隊戦記』後藤正義
『只今戦争始メ候 電報にみる西南役』大塚虎之助
『カナモジでつづる西南戦争 西南戦争電報録』田中信義
『西南戦争探偵秘話』河野弘善
『明治ニュース事典I』毎日コミュケーションズ

  

【2/3】西郷はいずこ 鹿児島暴発をめぐる情報戦 ②

2021年05月10日 22時49分25秒 | 征西戦記考
 


第2回 西郷は暴挙に関与せず

 明治10年2月初旬、私学校暴徒による火薬庫襲撃の第一報を受けた政府は、ひとまず海軍大輔・川村純義と内務少輔・林友幸を鹿児島へ急派し、状況把握と事態収拾に当たらせることとします。
 この時点ではまだ情報が圧倒的に不足しており、西郷の去就も不鮮明でした。第一報に触れた参議兼内務卿・大久保利通は、事前の諜報活動で入手していた情報等を参照しつつ、ひとまず「西郷は関与していないだろう」との見解を示しています。

 このたびの暴挙は、必ず桐野(利秋)以下(私学校党)の連中が独断で決行したに疑いなく、その証拠に、追々(鹿児島の)近況を聞くに、1月下旬頃は西郷は日当山温泉に行って(留守であり)、桐野宅に壮士どもが昼夜を分かたずやってきて、「西郷はかねてから外国と必ずことを起こすつもりに違いない。その時は(我々も)断然突出しよう云々」(と主張したところ、)桐野は「もはやその考えは古い」と嘲笑したとのことです。(中略)
 (西郷は)決して無名の軽挙をやらかす考えはないものと信用しております
(2月7日付伊藤博文宛大久保利通書簡)(『大久保利通文書』)


 そんな中、西郷去就問題をめぐる第1のターニングポイントが到来します。
 すなわち、鹿児島県官・渋谷国安による「西郷不関与」情報の伝達です。

 渋谷国安(彦助)は鹿児島県庁の役人で、鹿児島県令・大山綱良(実際には私学校党とグル)が記した「管下異状ノ届」(火薬庫襲撃事件発生の報告書)を届けるため、汽船で東京へ派遣されてきました。  
 西郷の去就を懸念していた大久保は、2月9日、自ら渋谷に接見して事情聴取したものとみられ、その結果を右大臣・岩倉具視に次のとおり報告しています。

 (渋谷から聴取し、)事情を承ったところ、おおよそ想像していたとおりでした。(私学校党は)10日前、西郷に(決起を)迫ったものの、(西郷は)同意せず、(彼らへの)説諭も行き届かなかったため、ついに姿を隠したとのことです。
 弾薬強奪は西郷が去った後のことです。西郷がいないのであれば、(私学校党は)担ぎ上げるべき人が誰もいないため、(これを蹴散らすことは)蜘蛛の子を散らすようなものと拝察されます。
(2月9日付岩倉具視宛大久保利通書簡)(『大久保利通文書』)


 この渋谷情報が、政府攪乱を狙った大山県令による意図的な偽情報(disinformation)である可能性が高いことについては、前掲過去記事においても言及したとおりです。しかし、すでに「西郷は関与していないはずだ」という予断に頭を支配されつつあった大久保は、この渋谷情報を完全に信用し、「西郷不関与」の確信を持つに至ってしまいます。そして、大久保のこの見立てはそのまま内閣内でも有力となり、岩倉も前掲大久保書簡に対する返信において、

 西郷氏が姿を隠したというのが事実ならば、天下にとって大幸とはまさにこのことです。
(2月9日付大久保利通宛岩倉具視書簡)(『岩倉具視関係文書』)


と、安堵することとなるのです。
 なお、ここで誤解のないようにしておいていただきたいのは、「内閣の面々は当初、私学校党と西郷を完全に切り離して考えていた」という事実です。結果を知っている後世のわれわれは、私学校党と西郷がつねに密接不可分であったかのように漠然ととらえがちですが、当時の内閣の認識において、両者は必ずしもイコールではなかったのです。したがって、前掲大久保書簡にある、

 (火薬庫襲撃事件は)朝廷にとって不幸中の幸と、ひそかに心中には笑いを生じるくらいです。
(前掲2月9日伊藤宛大久保書簡)


という有名な一節についても、全体の文脈から考えれば西郷以外の私学校暴徒を対象とした揶揄と解するべきでしょう。大久保はあくまでも私学校党の有象無象を嘲笑しているに過ぎず、決して西郷を討つことを喜んでいるわけではないのです。

 さて、海軍の川村と内務省の林が鹿児島へ急派されたのは冒頭述べたとおりで、この両名は事実上、事態の早期把握・収拾が可能であった唯一の存在といえました。ところが、川村と林は鹿児島への上陸すら果たせなかったのみか、よりにもよって最も肝心な西郷の去就について、明解に確認してきませんでした。
 川村は後年、鹿児島視察の顛末について、

 (鹿児島到着後、使者を出すと、)間もなく鹿児島県令大山綱良が、再び小舟に乗って来た。
「お伝えの詞を西郷に申しました所、西郷は是非お目にかかりたいと云うけれど、私学校にも番兵が付いて居て、出る訳にも、お呼び申す訳にも往かぬ、遺憾ながら御面会は出来ない、宜しく申してくれ」
 こう云う返事ですから、
「何故西郷を私学校に籠らせて置くのじゃ」
「刺客の手に罹らぬよう、堅固に保護して居る」
「それは遺憾の話じゃ、何処から刺客が来るか」
「警視庁から刺客が来た」
「馬鹿なことを云う、そう云うことのあるべき筈がない、今日政府に大久保利通が内務卿を勤めて居て、国家の功臣西郷隆盛に刺客を放って暗殺しようの何の、馬鹿馬鹿しい、決してそんな狭量な大久保ではない、罪もない、西郷を政府が暗殺して見なさい、それこそ天下に信を失い、明治政府が立つものじゃない、能く考えて物事をせぬと、飛んだ間違いが起こる」
(『川村純義追懐談』)


云々と、あたかも大山県令を厳しく糾問してきたかのように回顧していますが、これは意図的あるいは無意識的に記憶が改変されたものと見ざるを得ません。なぜなら、神戸に帰還した川村らと協議した参議兼工部卿・伊藤博文が2月13日、大久保へ宛てて打った電報には、

 (島津)久光と西郷の二人の挙動は判明していませんが、暴徒の中には入っていないものとみなし、(両人に)暴徒を鎮撫するよう格別の御命令をしてはいかがでしょうか。
(2月13日付大久保利通宛伊藤博文電報)(『鹿児島征討電報録』)

とあり、川村らの報告で鹿児島の状況が判明した後であるにもかかわらず、あくまで「西郷不関与」認定が維持されているからです。

 これはどういうわけなのか? 読み解くヒントの1つは、川村に同行していた林が帰京直後の2月13日に行った復命上奏文にあります。それによれば、川村が前掲のとおり回顧した大山との談判について、林は当時、次のように公式報告しているのです。

 午後1時、大山県令が(軍艦に)やって来たので、川村大輔一同で面会し、このたびの弾薬掠奪の事情を詰問したところ、
「そもそも県下動揺の原因は、川路大警視によって西郷隆盛を暗殺せんとする数十名の刺客が入県させられたところ、(私学校党の手で)それぞれ探偵捕縛し、そのうち4名は糾問のうえ逐一白状に及んだ次第であり、実に容易ならざる事態につき、有志一同で力を尽くして協議し、西郷隆盛を保護して陸路上京し陳情しようとしているもので、それゆえ県下人心の動揺は制することができない。(以下省略)」
と、大山県令は申し述べた。
(2月13日付林友幸日記)(『林友幸西南之役出張日記』)


 一見、前掲川村回顧とさほど変わらない内容のように思えますが、下線部分をよく読んでみると、絶妙に曖昧な表現が使われていることが分かります(ちなみに、下線箇所の原文は「西郷隆盛ヲ保護シ陸路上京陳白スル所ア(ラ)ントス」)。すなわち、この内容では、西郷が私学校党によってすでに保護されているのか、それともこれから保護される予定なのかが判然とせず、いずれの解釈も成り立ってしまうのです。川村・林は大山の真意がどちらを意味するのか、確認を怠ったのでしょう。
 川村・林はあくまでも軍艦上で大山県令から事情を聴取したのみで、鹿児島城下を直接視察してはいません。また、川村は西郷と縁戚関係でしたから、身内を贔屓する心情を排しきれなかったことでしょう(木戸孝允はまさにそれを憂慮し、川村の派遣に反対していました)。さらに、林は火薬庫襲撃事件発生の直前(明治9年末〜10年1月)に鹿児島の現地視察を実施しており、明治帝に「鹿児島異状なし!」の上奏を行ったばかりでした。つまり大久保同様、この両人も無意識のうちに「西郷が暴挙に出るはずがない」というバイアスに支配され、冷静かつ客観的な観察・判断ができないまま鹿児島視察から帰ってきてしまった可能性が高いわけです。

川村・林「西郷さんを暗殺する計画が発覚したのだ! だから私学校暴徒が蜂起したのだ!」
伊藤「それは分かった。だが、蜂起したのは私学校暴徒だけで、西郷さん本人は避難したという報告もあるぞ」
川村・林「暴徒は西郷を保護して上京すると言っていたぞ!」
伊藤「貴公らが行ったとき、西郷さんは実際に暴徒と一緒だったのか?」
川村・林「上陸できなかったから、詳細は分からん!」
伊藤「もう一度聞く。暴徒はすでに西郷さんを保護しているのか!? 」
川村・林「お、おそらくそうだ……!」
伊藤「本当にそうなのか? 大山県令にはっきり確認したのか!?」
川村・林「確認は……していないが……」
伊藤「では、西郷さんが避難している可能性も排除できないんだな?」
川村・林「……」


……あくまでも想像に過ぎませんが、伊藤と川村らの間では、このようなやりとりが交わされたのではないでしょうか。

 結局、内閣はこの日、あらためて「西郷不関与」を正式に認定し、熊本県庁にも伝達することとなります。

 今般、鹿児島県下騒擾の件につき、巷間さまざまな風説があるようだが、これは全て同県下私学校党の過激青年らの行為であり、もとより旧藩主父子等が関与している事実はなく、かつ西郷隆盛は過激青年らに対して大義名分をもってしばしば説諭に尽力したものの、(彼らが)承服に至らなかったため、やむを得ず避難した次第である。同県(庁の大山県令ら)も決して方向を失わず、十分鎮撫に尽力している。
(2月13日付熊本権令宛大久保利通内達)(『西南戦役側面史』)


 後世のわれわれは、この内容の大半が事実と異なることを知っています。とはいえ、当時の錯綜した状況下では、これもまた諸般の情報を綜合的に勘案したうえでの推測・判断だったのです。

 ただし、鹿児島に近い熊本県庁等は、この時点ですでに「西郷関与」を示す情報を複数入手し、内閣へ随時報告していました(【参考】のとおり)。また、政府内でも「西郷不関与」認定への疑問の声はあり、例えば大警視・川路利良は自身が入手した私学校党の暴発挙兵計画に関する情報を摘示したうえで、

 渋谷はじめ、(鹿児島)県官が(大久保)閣下に申し上げた内容は、全くの虚言と考えます。
(2月15日付大久保利通宛川路利良書簡)(『西南戦争警視隊戦記』)


と看破しています。

【参考】西郷の去就に関する情報の伝達状況


 しかし、内閣は依然として「西郷不関与」認定のもとで動きつづけました。多くの現地情報は内閣の認識を覆すほどの説得力は持ちえず、あくまでも錯綜した状況下での真偽不明の個別情報として捨て置かれてしまったのです。
 例えば、前掲13日付電報で伊藤から具申された勅使差遣論について、15日、岩倉は次のとおり回答しています。

 このこと(西郷や島津久光へ勅使を差遣すること)は最も考慮すべき大事と存じます。久光・西郷のいずれかがもし命令を奉じ「暴徒は責任をもって鎮圧いたします」と拝受した場合、(西郷らがかえって暴徒に取り込まれてしまうおそれがありますが、)いかに対応すればよいとお考えでしょうか。私の考えすぎかもしれませんが、このことに苦心しております。よくよくお考えください。(私は)むしろ、久光父子と西郷に勅使を送り、単に(京都へ)呼び寄せればよいと考えます。(全国の)一般士族に心の拠り所があるのは、鹿児島(という反政府の牙城)があるからです。時機を失うことのないよう、よくよく注意ありますように。
(2月15日付伊藤博文宛岩倉具視電報)(『鹿児島征討電報録』)


 この時点の岩倉の考えが、あくまでも「西郷不関与」を前提としていることは自明です。そして岩倉は、ミイラ取りがミイラになってしまう事態を強く警戒しており、西郷を早期に救出(というより、拉致というべきでしょう)して私学校党から隔離すべきと主張しているのです。 
 大久保の実子・牧野伸顕が後年語った次の逸話は、ちょうどまさにこのころの状況と符合してきます。

 十年の役が起こって、一月の末に私学校連が火薬庫を襲ったという電報が到着した時も、父(大久保利通)は果たして薩摩の連中が蜂起した、しかし西郷は決して出てはおらぬと言っていました。その後、西郷が出たという電報が頻々として来たけれども、父は決して信じませんでした。だんだん西郷の出たことを友人などから言って、征討の軍を出さなければいけませんと言っても、イヤ西郷は出てはおらぬ、しかしあの男のことだから進退去就には迷っているだろうと言っていましたし、それに西郷へ向けて勅使を立てて、畏きあたりの渥い御思し召しのほどを話して聞かせたら、きっと迷っている態度を決して軍をやめるだろうとは確く信じていました。
(明治43年10月6日付『報知新聞』)

 対応協議のため急遽西上した大久保が16日夜に京都へ到着した時点でも、内閣の「西郷不関与」認定が崩れた形跡は見受けられません。渋谷情報の呪縛が、いかに強かったかが分かります。
 そして翌17日の廟議において、「征討よりもまず西郷に勅使を差遣すべし」(征討猶予論)とする大久保と、「もはや西郷に構わず暴徒の征討を優先すべし」(即時征討論)とする木戸孝允の議論が白熱したことは、よく知られています。結局、この日の廟議は征討猶予(勅使差遣)で決着しますが、直後に熊本から「薩軍迫る」旨の急報が接到したため、もはや万事休すとばかり、19日には征討令が発されることなります。

 この点、現在の通説では、「西郷関与」の確報が18日ころ内閣に届いたことが征討発令の決め手となった、とされています(『大久保利通伝』等)。
 しかし、当時の電報や関係者書簡史料のなかに、その「確報」に該当するような情報は見受けられません。また、征討令の本文をよく読むと、征討の対象はあくまでも「鹿児島県暴徒」という表現にとどまり、西郷の存在については明言が避けられていることが分かります。

 鹿児島県暴徒がほしいままに兵器を携え熊本県下に乱入した。国の秩序を憚らず叛乱の形跡は明らかであることから、(天皇陛下より)征討の命が下されたので布告する。
(明治10年2月19日付行在所布告第2号)(『法令全書』)


 そもそも、征討発令時点で内閣が「西郷関与」を断定していたのであれば、西郷の官位褫奪も同時に決行されているはずですが、それがなされたのは2月25日、つまり征討発令から6日も後のことでした。
 これらを踏まえると、内閣は征討発令時点でも依然として「西郷不関与」認定を崩していなかったと考えるほかありません。

 では、内閣はいつ認識を改め、「西郷関与」の判断に至ったのか。
 そのメルクマールとなるのが、先ほど紹介した西郷以下の官位褫奪の達(2月25日付行在所達第4号)です。すなわち、内閣は2月19日の征討発令時点では「西郷不関与」の立場であったものの、その後いずれかのタイミングで「西郷関与」の確報をつかみ、25日をもって西郷を正式に「賊徒」と認定・公表した……と解することができるわけです。

 内閣が「西郷関与」の確報をつかむに至ったきっかけ、それは……?
 次回へつづきます。

(3/3へつづく)


 

【1/3】西郷はいずこ 鹿児島暴発をめぐる情報戦 ①

2021年05月10日 21時55分39秒 | 征西戦記考
 
第1回 序:西郷関与をめぐる諸言説

 西南の役の起こった時、あれは十年の二月の幾日頃であったか、朝起きるとすぐ内務省へ出てくれとの使いがあったので急いで行くと、大久保(利通)さんはなんだかフサいだ貌つきをして出て来られた。眉宇の間に重い黒い影が漂っておる、私の顔を見るとすぐ、「いよいよ西郷(隆盛)が出た、昨夕電報が来たが、案外早かったので驚いた」と言われた。
 平生沈毅な寡黙な喜怒の少しも色に出ぬ人であったので、「どうも顔色がお悪い、眉宇の間が黒う見えます」と言ったら、「そうだろう、昨夕は一睡もしなかった」と言って、すぐ太政官へ行かれた。
 太政官から帰られた時にはすでに眉宇の間の黒い影も晴れて「話をしたら気分もハッキリした、何しろ今から京都の御上の御側へ上がらねばならぬから、後をよろしく頼む」と言って倉皇京都へ行かれた。聖上はその頃京都に行幸中であった。
(前島密の述懐)(明治43年10月1日付『報知新聞』)

 私学校党が騒動を起こした時は、大久保公はまだ東京におられたが、いよいよ西郷も混じっているという確報が来たので、その頃京都行幸中であった陛下の行在所へ行かれた。
 私は東海道を巡回している最中であったが、鹿児島が反したと聞いて、種々相談もあり、大久保公にお目にかかる必要があって西京へ行った。公は木屋町の宿におられた。朝早く訪ねて行ったら、大久保公一人で傍には誰もおらずシミジミと話をした。だから、誰も知らぬ話である。
 すぐ鹿児島の話が出たが、公は困ったものだと言われ、いよいよ西郷と別れねばならぬとと言って嘆息された。私はこの時に非常に感じた。英雄の心は普通の人には分からないと思って非常に感じた。
 公は涙は流されなかった。実に感に堪えぬ面持ちで「実に遺憾なことだ。しかし、こんなことのありようわけがない。私が今こうして瞑目して西郷のことを考えてみるに、どうしてもこんなことの起こりようがない」と言って目を冥って仰向いておられた。(中略)
 その時は西郷のことはあまり話されなかったが、今でも逢えばすぐ分かるのだ、逢えばなんでもないのだが、逢えぬので困ると言われたが、この時私は全く大久保さんの方が上だと思った。
(松平正直の述懐)(明治43年12月5日付『報知新聞』)


 西郷隆盛は、果たして暴挙に関与しているのか否か?
 ……西南戦争(西南戦役)の勃発に際し、この問題は政府(内閣)の面々を大いに悩ませました。冒頭紹介したとおり、関係者の貴重な証言も数多く残っており、当時の情報錯綜と悲喜交々の様子をたいへんドラマチックに伝えています。

 しかし、実のところこれらの証言の大半は西南戦役からだいぶ年月をへたのちの回顧であり、戦役当時の同時代史料の内容とは明らかに食い違っている箇所が少なくありません。人間の記憶とは多分に主観的かつ曖昧模糊としたものですし、西南戦役の勃発をめぐっては諸般の状況(情報)が短時間のうちに刻々更新されていたため、たとえ当事者であっても事実関係の混同や認識違いを排除できないのでしょう。

 西南戦役の初動対応に当たった内閣の面々は、西郷の去就に関してどのような情報に触れ、どのように考えて決断したのか。それをできるかぎり正確に知るためには、後づけの情報や思い込みによって当事者の記憶が修正・改竄される以前の、ナマの情報を洗ってみる必要があります。そこで本特集では、主として当時の人々がリアルタイムな意思疎通に用いた書簡電報や、日記等の内容を整理して読みとくことで、西郷去就認定問題の実相に切り込んでみたいと思います。

 本特集は、ミニコラムにしては分量がやや膨れあがってしまったことから、全3回に分けてお送りすることといたします。
 また、執筆に当たってはなるべく分かりやすい解説を心がけたつもりではありますが、西南戦役の勃発経過はやや複雑であり、最低限の事前知識が必要かもしれません。そこで次のとおり、簡単な時系列表を作成しましたので、適宜こちらに目を通しながらお読みいただければ幸いです。



 なお、詳細な経過についてはこちらの過去記事で詳しくまとめております。やや専門的な内容であり、分量も多いですが、あわせてお読みいただきますと本特集をより理解しやすくなるかと思います。

※ 本特集では多くの史料を引用していきますが、そのうち文語や旧字等で読むのが大変なものについては、原文の文意を極力損なわないよう配意したうえで、平易に現代訳しています。
※ 参考文献一覧は、本特集の最終回(第3回)末尾に一括記載します。


   

夏来にけらし白妙の……

2021年05月10日 00時36分36秒 | ギャラリー
 
 GW過ぎて、夏来にけらし……ということで妄想軍服シリーズ。
 新緑に映える白い服(とオマケの差分)を描いてみました。











 おかげさまをもちまして、3月より頒布しておりました拙著『新訂 征西戦記考』の頒布は終了とあいなりました。
 お求めいただきました皆様に、重ねて御礼申し上げます。

 なお、拙著内で予告しましたとおり、次回作は「論考編」を予定しております。
 ただし、その間のつなぎとして、イラスト関係の小冊子(軍装図解編の補完本?)の刊行も検討しております。
 引きつづき、おつきあいいただければ幸いです。

 

戦役末期の一風景…?

2021年05月01日 23時20分49秒 | ギャラリー
  
 主にtwitterにおいて、日露戦争、衛生部各兵、屯田兵等に関するご研究・イラスト制作をなさっている 蔵島 周 様に、なんと拙著関係のイラストを描いていただきました!!
 掲載のご許可をいただいたので、こちらでも紹介させていただきます!!



 川口武定『従征日記』スケッチにある、タケノコを引っさげて陣を闊歩する鎮台兵……拙著でもとりあげたネタになります。
 今宵の御馳走に得意満面の兵隊さんが、とにかく可愛らしいです(´ω`) やわらかく可愛らしい画風と丹念な精緻さとが見事に両立した、蔵島様ならでは素晴らしい御作です。
 重ねて、本当にありがとうございました!!



 さて、こちらは蔵島様の素晴らしいイラストに触発され、私のほうで描いてみたものです。
 せっかくなので、御礼も兼ね、蔵島様の御作に登場する将校さんをお借りし、明治初年の軍医の服装を考察してみたものとなります。







 新刊『征西戦記考【軍装図解編】』残りわずかとなっております。
 再版は当分予定しておりませんので、ご興味お持ちの方はお早めに!