夕風桜香楼

歴史ネタ中心の雑記帳です。
※当サイトはリンクフリーですが、イラストデータの無断転載はご遠慮ください。

西南戦争 生き残った者たちの証言【1】 西郷隆盛の動静

2020年06月29日 23時53分12秒 | 征西戦記考
 
 『鹿児島県史料』「西南戦争」(鹿児島県維新史料編さん所編・全4巻)に収録されている史料のひとつに、「西南之役懲役人質問」があります。
 これは、西南戦役後も生き残った薩軍関係者に対して政府側が行った尋問(明治13年、市ヶ谷監獄において計5回にわたり実施)の記録です。尋問対象は薩軍幹部・野村忍介(奇兵隊隊長・元鹿児島県三等警部)をはじめとして、中堅将校から鹿児島県官まで数名に及んでおり、西南戦役における薩軍の内情を伝える第一級の史料といえます。
 また、この史料における尋問の大半は、戦闘の経過や戦争犯罪といった事柄の解明ではなく、当時の新聞等で報道された風聞・噂にスポットを当て、真偽を質すものとなっています。中には、現在まで流布している通説・俗説を明確に否定するようなやりとりも含まれており、西南戦役研究の参考資料として、あるいは単なる読み物として、たいへん有益な内容なのです。
 しかし、西南戦役をめぐる一般書籍等において、この史料が参照されることはほとんどありません。別にレアな史料でもないはずなのになぜ軽んじられるのか、理解に苦しむところです。そこで今回の特集では、この史料に収録されている問答の中から面白いものを抜粋し、数回に分けて紹介してみたいと思います。
 もちろん、この史料にある証言はあくまでも「国事犯という立場の者の任意供述」に過ぎないため、必ずしも内容の全てが事実であるとは限りません。とはいえ、「まだ戦役の記憶も新しい時期に、当事者が赤裸々に語った証言」という意味で、傾聴に値するものが多く含まれていることは間違いないでしょう。
 西南戦役に関する知識をお持ちの方ほど楽しめる内容だと思いますが、あまり詳しくない方にも分かりやすくなるよう、問答ごとに簡単な解説をつけました。なお、原書は国会図書館デジタル閲覧端末(全国どこでも、たいていの公立図書館に設備があります)で容易に閲覧可能ですので、興味を持たれた方はご覧いただければと思います。(参考)

【凡例】
・引用に当たっては、原文をなるべく損なわない形で現代語訳した。
・各表題横の()内の漢数字は、尋問回(全5回)を示す。
・回答者が特定されている問答は、末尾の《》内に回答者を記した。回答者は次のとおり。
  野村忍介 …奇兵隊隊長
  長倉訒 …大山県令専使
  鮫島敬助 …奇兵隊小隊長
  大野義行 …狙撃隊中隊長  
  田中市右衛門 …西郷関係者
  安藤源之丞 …西郷関係者


第1回 西郷隆盛の動静

 『懲役人質問』における問答の多くは、西郷隆盛に関するものです。西郷が当時からとにかく人々の関心の的であったことがよく分かります。

【西郷と大久保】(二)
問:大久保(利通)内務卿と西郷(隆盛)との関係はどのように聞いているか。
答:以前は考えが矛盾することはなかった。征韓論争の始め、西郷が大久保邸に赴き、征韓の説を唱えたところ、大久保は「自分も真っ先に(征韓を)行って撃つつもりである」と答えた。西郷は大いに喜び、家に帰ると、普段とうって変わって酒など飲んで、「大久保は自分に勝っている」と言っていた。《野村》
答:岩倉(具視)右大臣が(欧米視察から)帰朝した際、大久保は横浜まで出迎え、そのときから自説を変えた。このことが、2人の考えの矛盾の始まりだったと聞いている。《野村・長倉》

 いわゆる征韓論の真相をめぐっては、現在も議論がつづいています。もしこの内容が事実に近いとすれば、西郷の征韓論への強い固執は、主として大久保の変心に対する怒りの感情に起因するものであったのかもしれません。

【暗殺計画と西郷】(一)
問:暗殺の一件について、西郷は事実と思ったのか。
答:全く事実と思っていた。《野村・長倉》

 西郷が暗殺計画の存在を信じたらしいことは、鹿児島県令・大山綱良(死刑)の供述からも判明しています。西郷がただ周囲に身を任せたのではなく、確固たる意志をもって蹶起に臨んだ事実を補強する証言といえるでしょう。

【出陣時の西郷】(三)
問:西郷隆盛鹿児島出陣の際、従前朝廷より拝受した辞令書等をみな焼いたという話があるが如何。
答:そのようなことはない。(西郷は)可愛岳の突囲の前に、出陣以来の諸軍の往復書簡や戦死傷者・有功者の取調書簡などを、胴乱に入れたまま全て焼いた。中には見込書などもあった由である。《野村・鮫島・大野》

 「見込書」とは、上京を果たしたあかつきのプランか何かでしょうか。

【西郷の服装①】(一)
問:西郷が陸軍大将の礼服を着用して出陣したというのは事実か。
答:荷物中に所持していたかは知らない。戦争中に追々本営に行って西郷に面会したときには、そのようなことは一切なかった。《野村》

 錦絵などではきらびやかな礼服をまとっていることが多い西郷ですが、さすがにそんな事実はなかったようです。

【西郷の服装②】(五)
問:西郷は出陣の際、どのような衣服だったか。
答:官服であった。《田中》
答:官服ではなく、下のズボンは白に黒の筋のあるもの、上のマンテルは黒色の羅紗に紫の小さい筋の入ったものを始終着ていた。暑くなると単衣を着ていた。《安藤・大野》

 目撃者によって意見が異なっている点は興味ぶかいところです。なお、『西南記伝』や『薩南血涙史』は、陸軍大将の略服を着ていたとしています。

【西郷の統帥①】(一)
問:西郷は、軍事を全て桐野(利秋)に委ねていたというのは如何。
答:そうではない。戦地を巡視するようなことはなかったが、本営において諸方面の大まかな駆引きを指揮した。苦戦のときには自ら出て戦おうとすることもたびたびあったが、諸将がとどめた。自分らが植木での敗北を見て山鹿を引き上げた際などには、大いに叱責された。《野村》
問:西郷は郡中にあって常に何をしていたのか。詩を詠み、碁を囲むなどといったことはなかったのか。
答:そのことは知らない。自分らが軍事の件で(西郷のもとに)赴くと、多くの場合は諸方面の駆引き(に関する命令書)か、書状あるいは新聞を見ていた。《野村》

 桐野利秋は元陸軍少将で、薩軍の大幹部のひとり。「西南戦役において西郷は基本的に指揮をとらず、桐野が全軍を仕切っていた」というイメージは今なお根強いですが、当時から同種の風説が存在していたこと、そして、実際には西郷が戦争指導にかなり関与していたことなどが分かります。なお、植木は田原坂南方、山鹿は田原坂北方にそれぞれ位置する要衝です。

【西郷の統帥②】(三)
問:西郷は一度も戦場に臨むことはなかったのか。
答:たびたび自ら出ようとしたことはあったが、皆で押しとどめた。《野村・鮫島・大野》
問:御船の戦にも出なかったのか。
答:そのとおり。かつ、(西郷が)熊本から矢部に撤退して御船に行った事実もない。《野村・鮫島・大野》

 「戦いたがる西郷」と「それを押しとどめる諸将」という構図は、『懲役人質問』中しばしば見受けられます。なお、御船は熊本城南方の要衝で、官軍(衝背軍)と薩軍が激戦を繰り広げた地です。

【西郷の統帥③】(三)
問:西郷が二本木に所在していた際、(熊本城)攻城の周囲及び田原坂等の戦場を巡視することはあったのか。
答:そのようなことはなかった。始終斥候を四方に出したのみである。《大野》

 二本木は熊本県下の地で、薩軍の本営が置かれていた場所です。

【陣中の西郷①】(三)
問:西郷は陣中で何をしていたのか。
答:何か定まったことをしていたのではない。ときどき新聞などを見ていた。《大野》
問:詩歌・囲碁・揮毫などはしていなかったのか。
答:そのようなことは一切なかった。《大野》
答:囲碁をしていたというのは普段聞いたことがなかった。《野村・鮫島・大野》
問:新聞はどこから来ていたのか。
答:熊本在陣の際は、大阪新聞などが始終来ていた。ただ、来た道筋は知らない。自分も同新聞を読んだ。《大野》
答:日向にいた際は商船が持ってきていた。《野村》
問:西郷は容易に人に会わなかったというのは事実か。
答:そうではない。誰にでも会った。《大野》
問:西郷は陣中ではどのような服を着ていたのか。
答:熊本の陣中では昼夜軍服を着ていた。《野村・鮫島・大野》

 ここで質問されている事項の多くは当時の新聞報道情報ですが、野村らの回答を見る限り、いずれもガセネタであった可能性が高いことが分かります。

【陣中の西郷②】(三)
問:西郷が人吉において老農民の犬を借りて兎や鹿を狩り、獲物があればその老農民に肉を分けてあげたというのは事実か。
答:隊中の10人ほどを連れてときどき兎狩りをしていた。鹿狩りはしていない。猟犬は加治木から取り寄せた。老農民の話は知らない。《野村・鮫島・大野》

 人吉は鹿児島県と熊本県の間の要衝で、熊本を撤退した薩軍が一時本拠とした地。加治木は鹿児島県内の地名です。

【西郷の名】(五)
問:西郷の書簡にはみな「吉之助」とある。軍中にでもこの通称を用いたのか。
答:そのとおり。「隆盛」と称したのは一度も聞いたことがない。《大野・田中・安藤》

 西郷の通称が「吉之助」であったことはよく知られています。もっとも、西郷が大山県令に提出した有名な「政府に尋問の筋これあり」の上京趣意書は、「西郷隆盛」名義となっています。

【新政大総督の表札】(一)
問:西郷の本営には「新政大総督」とか「大元帥」とかの表札を掲げていたというのは事実か。
答:そのことは一切ない。自分らは、この地(監獄)に来て初めてそのような噂を聞いた。《野村》

 西郷が「新政大総督」「征討大元帥」と号したとする描写は、錦絵などで散見されます。当然ながらエンターテイメント的な創作であったようで、野村も明確に否定しています。

【西郷の健康状態】(五)
問:西郷は陣中で脚気に罹患したというのは事実か。
答:そうではない。出陣後は病気にならなかった。《田中》

 西郷は長年にわたって持病に悩まされていましたが、西南戦役中は特に健康を害していた様子はなかったようです。

【西郷と飲酒】(三)
問:西郷は酒を飲んだか。
答:いっこうに飲まなかった。

 西郷が下戸であったことはよく知られており、西南戦役中もその例にもれなかったようです。

【西郷の武具】(四)
問:西郷はつねにピストルを所持していたのではないか。
答:そうではない。自分らはそれを見たことはない。弟の小兵衛は16連発の銃を所持していた。小兵衛の死後、西郷はそれを従者に持たせていた。《野村・鮫島・大野》
問:西郷は二刀を佩びていたか。
答:否、一刀である。あの人はすこぶる刀を愛する癖があった。この戦役で佩びていたのは関の兼定の2尺ほどの大きな刀であった。よほど切れる刀だったと見え、愛していた。かつて大阪の陣の折、敵の兜を斬ったものらしいと聞いた。そのためか、鍔、縁頭、小尻、目貫に至るまで、みな鉄地に兜の形が刻まれていた。もっとも、目貫は宗珉の作という。《野村・鮫島・大野》

 西郷小兵衛は一番大隊一番小隊長として従軍し、高瀬会戦で戦死しました。16連発銃とは米国製のヘンリー銃のことでしょうか。また、西郷が刀剣愛好家であったことは他の記録でも確認でき、「宗珉」は装剣金工家の横谷宗珉のことであると思われます。

【西郷の影武者?】(二)
問:西郷の本営に西郷に似た者がいて、探偵の者がよく西郷と見間違えていたという話があるが如何。
答:医者で1人、太った体の大きい者が随行していた。容貌がやや(西郷に)似ていた。おそらくその者のことだろう。姓名は知らない。《野村》

 これも当時流布していた風聞に関するものと思われます。影武者伝説は、有名人にはつきものですね。

【西郷と熊本撤退】(二)
問:西郷熊本撤退の際は如何。
答:西郷は二本木にいた。人々は撤退を薦めたが、西郷は「この地を去れば士気も散逸するだろう。快く一戦して死を決するべきだ」と言った。桐野らが強くこれをとどめたため、撤退することになった。《野村》
問:西郷が死を決意したのは、(官軍の)熊本連絡のときか。
答:そのとおり。《野村》

 官軍(衝背軍)の熊本城救出達成をもって、薩軍の戦略は事実上崩壊します。西郷もこのとき、爾後の見通しが極めて暗くなったことを察したのでしょう。

【西郷の戦死願望】(二)
問:西郷はしばしば「戦死してこの局面を終える」と言ったのか。
答:そのとおり。延岡を奪回しようとした日も、自ら兵を率いて出ていこうとしたのを、別府晋介と自分で「まだ先生が先鋒で戦うときではありません、われらが死してのちにお願いします」と言ってとどめた。西郷は笑って引き下がった。《野村》

 西郷が唯一陣頭で直接指揮をとったとされる、和田越会戦の際の逸話です。別府晋介は元陸軍少佐で、西郷の介錯をしたことで知られる人物です。部下の懇願を受けて笑顔で引き下がるあたりは、じつに西郷らしいですね。

【西郷と解軍①】(二)
問:長井を去るとき、西郷は自ら病院に赴き、「万国公法もあるゆえ敵は必ず患者に害を加えないだろう」云々とねんごろに諭したというのは如何。
答:自分はそのとき銃創を負っていたので全く知らないが、病院も各所にあった。西郷が自ら赴いたのではない。病院係に中山盛高という者がおり、中山を読んでそのことを申し付けたと聞いた。《野村》
問:長井を去るとき、書類を焼いたというのは如何。
答:そのとおり。西郷から「全て焼け」という指示があったので、全て焼いた。《野村》

 長井は、和田越会戦に敗北した薩軍が包囲された地。中山盛高は元鹿児島県三等警部。解軍に際して西郷が軍服等を焼却した逸話もよく知られています。

【西郷と解軍②】(二)
問:西郷は兵士へ「降る者は降れ」云々と言い、その一方で「一層奮戦し退却の念を絶ち、進んで戦いことごとく斃れ、恥辱を後世に残すことなかれ」と言ったという。これは矛盾だと思うが如何。
答:(西郷は)「降る者は降れ」と言った。《野村》

 野村の回答は「後者の発言はなかった」という意味でしょうか。

【西郷と愛妾】(三)
問:西郷は、愛妾のお杉なる者を延岡に招いて暇を与えたのか。
答:そのようなことは決してない。

 これは『朝野新聞』に載った、西郷とお杉なる愛妾の涙の別れの記事に関する尋問です。回答者(氏名記載なし)は、当該風説を強く否定しています。

【西郷助命運動】(二)
問:河野主一郎が使者に出たことを、西郷は知っていたのか。
答:西郷は城山において死を決していた。《野村》
問:山野田(一輔)が戻ってきたときはどのような議論になったのか。
答:その日の5時までに返答すべきはずであったが、「討死すべき」、「出て行って釈明すべき」、「釈明するのであれば是非さかのぼって、弾薬掠奪のことに及び、汾陽五郎左衛門を差し出すべき」など、議論は紛然としてまとまらず、すでに夜も遅くなったので翌朝に山野田を再度使者に出すつもりでいたが、未明より官軍が迫り攻撃してきた。《野村》

 鹿児島に帰還した薩軍は城山に完全包囲されますが、最期の日を前に、西郷の助命嘆願運動が行われました。その際、官軍への使者に立てられたのが河野主一郎(元陸軍大尉)と山野田一輔(元陸軍大尉)です。また、汾陽五郎左衛門なる人物は、戦役勃発の引金となった火薬庫襲撃事件の主犯のひとり・汾陽光輝の関係者であると思われます。

【西郷の最期①】(二)
問:西郷が弾丸に当たると、別府晋介がそばで首を刎ね、これを土中に埋め、直ちに切腹したというが如何。
答:自分はそのそばにいなかったゆえ、知らない。《野村》
答:西郷はかねてから別府晋介に「戦に敗れるときに至れば、お前がすみやかにわが首を刎ねよ」と命じていた由。このことを晋介は他人に語らなかったが、その兄・別府九郎が「弟は非常の一大難事を託され、甚だ苦労している」と自分に語ってくれた。《長倉》

 別府晋介が西郷を介錯した逸話はよく知られています。その兄・別府九郎もまた西南戦役に従軍しましたが、城山で捕虜となり、戦後も生きながらえています。

【西郷の最期②】(四)
問:西郷の最期の状況について、報知新聞には青野某介が介錯したとあるが如何。
答:一切聞いていない。(自分らは)3人ともその場にいなかったが、そのようなことはなかったはずだ。青野某という者はそのときいなかった。もしそのような者がいたならば、誰かしら知っているはずなのに、1人も知っている者はない。実話ではない。《野村・鮫島・大野》

 西郷の最期については何かと異聞が伝わっていますが、関係者は基本的にそれらを否定しています。

[参考]城山展望台から望む桜島(筆者撮影)




 この特集は、全3回ほどを想定しています。
 次回は、西郷以外の薩軍将士の逸話に関する証言を取りあげたいと思います。

 

西南戦争期の兵営生活

2020年06月23日 17時40分08秒 | 征西戦記考
 
 西南戦役(西南戦争)に関しては、「百姓町人出身の徴兵は惰弱で、薩摩士族兵の敵ではなかった」といった類の俗説が今なお根強く流布しています。戦記資料などを細かく読んでみると、実際には必ずしもそういうわけではなかったことが分かるのですが、今回は関連する参考情報として、当時の兵営生活についての述懐記録を2つほど紹介してみたいと思います。

 いずれも松下芳男『徴兵令制定史』に抄録されているもので、語り手はちょうど西南戦役の折に鎮台等に在籍していた人々です。やや長い年月をへてからの述懐ですので、細かい部分には記憶違い等もあるのでしょうが、少なくとも建軍間もない当時の兵営生活の雰囲気は十分に伝わってくるものとなっています。
(なお、引用に当たっては、旧かな・旧字・難読字等を平易に改めるともに、適宜改行をほどこしております。)

①元鎮台兵の述懐
 わしが所属した部隊は、第十一連隊第一大隊三番中隊で、五箇月ぶりにやっと二等卒に進級するまでは“生兵”と呼ばれてガバガバの革靴をはかされ、毎日毎日体操と鉄砲の掃除で、一服するひまもなかった。先填のエンピール(小銃)が持てるようになったのは二等卒からである。当時の中隊長が後の元帥川村景明大尉で、教練はなかなか厳しかったが、まだ随分間の抜けたところもあった。昼の真中に夜間訓練をやっていた。つまり昼でも夜と思って、さまざまな暗闇の訓練がおこなわれるのじゃ。
 演習はとてもえらかったが、食料がべらぼうに贅沢で、田舎の婚礼にもあれだけの御馳走は滅多にしない。一年に数えるほどしか食べたことのない魚が、毎日大きな皿にのっかっている。兵一人の官給食料費は六銭六厘と米が六合、それもまるまる使い切れないので、一人分の食料残金が兵隊に渡されていた。何しろ当時五銭玉一つ握って、細工町の三階楼へのぼれば、牛肉のすき焼でいい機嫌になれた嘘のような時代である。“生兵”の間が日給三銭三厘、二等卒で四銭二厘、一等兵卒になれば先ず五銭、ばかに景気のいい給与であった。軍服もラシャのパリパリだし、シャツもフランネルの上等、二等卒からでもいきなり伍長に取立てられるし「鎮台というところは、なんたら結構なところかいな・・・・」と思った。
 西南戦争へ出かけていったのが、明治十年二月十四日、背負袋へ弾丸四百発と握飯二日間分、それに草鞋を一束くくりつけて三個大隊が堂々の進軍、最初の先登は久留米を過ぎて鍋田の辺り、田原坂の激戦には度肝を抜かれて気が遠くなりそうだった。辺見十郎太麾下の抜刀隊には手も足も出なかった。敵味方の戦死者で山のてっぺんが見えなくなる程だった。生まれて初めての戦争ではあったが、日頃鍛えた訓練と、天子さまへの御奉公の忠誠が全身に漲って、恐しいとも痛いとも思わなかった。鹿児島へ入城したのが九月の初め、間もなく西郷さんが自刃されたという噂を聞いて、官軍の兵もみな泣いた。西郷さんの最期が余りにも痛ましかったからである。

(『朝日新聞』昭和17年11月28日記事)


②元教導団生徒の述懐  
 ※教導団:陸軍の下士養成機関。国民一般から族籍を問わず志願者を募っていた。

 明治十年四月十五日に、私達は丸の内の教導団へ入団した。その当時のお話をして見ましょう。全国から募られた私達は、四百人の人数でした。歩兵に編入されて中隊が極ると、私は第六中隊であった。中隊長殿は少佐で平賀国人と呼ぶ御人でした。教導団の団長は中将高島鞆之助閣下でありました。入団して見ると、生活の待遇は殊の外よい、朝昼晩三度とも生卵子二個がついた。私は生卵子を喰べないで、日曜日に親類へ三四十個まとめて、土産に持っていった位、朝は味噌汁に香物であるが、昼飯はさしみ、煮肴又は牛肉などが、替り番についたものである。御飯はオハチが出してあって、喰べほうだいといった風で楽でしたよ。
 練兵は午前二時間、午後二時間、学科が午前一時間でした。これも楽なもので、百姓をしていた体では何でもなかった。骨がさぞ折れることだろうと、死身で志願してきた連中には、たわいもない練兵であったが、さすがに学科の一時間は、実に弱ったようでした。右も左も分らず「茶碗手」といえば左、「箸の手」といえば右、茶碗手箸の手で教えた教官も中々骨折でした。甚だしいのは何も彼も解らない男があって、戦友ながら気の毒に耐えませんでしたが、持って生まれた不調法の人間だから仕方がなかった。即ち戦友鶴岡半三郎という人物は、皆目無茶文盲で、教えても覚えず、撲っても利目がない。とうとう「天性愚鈍に付卒業の目的無之除隊を申付候」という除隊命令が下って気の毒でしたが、これも前世の因縁だ、あきらめよと皆んなで慰めて帰郷させましたが、中には「ああなっちゃあ人間の面汚しだ」などと、悪ざまにいい罵るものもあったが、除隊されていく彼の後姿は、影の薄いような気がしたものであった。
 其頃の鉄砲はスナイドルといって、重いことといったら、肩が滅り込みそうであった。日比谷公園のところがまだ日比谷練兵場で、そのスナイドルを担いで、毎日調練の稽古です。学科の分は、大名屋敷を六ツばかりブッコ抜いた内で、教官から教ったものです。場所は桜田門外で、今の警視庁(新築)の所から、内務大臣官舎の一体で、ツイ此間まで後に建設された赤煉瓦の教導団が、金紋の菊花紋章を剥して(以前は御紋章が輝いていたものだ)、其跡が残っていましたが、皆んな取払いになってしまった。寝所はハイカラの寝台で、毛布藁布団、それに棚があって上に背嚢を載せる。この背嚢のことを「提灯箱提灯箱」といったもので、彼の頃各士分の家には、玄関へ提灯を仕舞て置く箱がズラリ並んで掛けてあったもので、それを提灯箱といいました。その型に似ているので「オイ提灯箱を取ってくれ」などといいました。背嚢には毛布を巻付き、外套を結びつけ、靴を両側に一個ずつつけて、随分と重いもので、その又「提灯箱」の中には、針糸までが容れてあって、唯モーいよいよという戦時の場合には、弾丸さえ渡されれば、いつでも出陣の出来るという用意周到のこしらえでした。これを総称して、テイテツ、ホルトマントといっていましたが、訳が解らない、只そう覚えていますよ。今でも・・・・。

(『明治百話』)


 ……現代のわれわれがイメージするような「地獄の内務班生活」とは、かなり趣が異なるのではないでしょうか。特に食事の豪勢さは両方の述懐において強調されていますので、おそらく全国どの鎮台もほぼ同様であったものと思われます。
 また、兵たちは連日厳しい訓練で鍛えられていたことが分かりますが、②の述懐では、軍隊の訓練が田舎の過酷な農作業に比べれば他愛もないものであったことも示唆されています。(たしかに、昭和期の農村部の人たちの写真などを見ても、ムキムキのたくましい身体の人が多い印象ですしね。)

 世が世なら一生田舎で日陰者として暮らさなければならなかった農家の二男坊・三男坊にとって、ハイカラな洋服に豪勢な食事と高給があてがわれ、実力による立身出世の道も開かれていた軍隊という場所は、意外にも「結構なところ」だった側面があったわけです。西南戦役における鎮台兵たちの勇戦敢闘の背景には、当時の彼らの待遇をめぐるこのような事情も少なからず作用していたように思います。

(参考)西南戦役期の鎮台兵の一般的な軍装


 

夏めく

2020年06月21日 22時16分03秒 | ギャラリー
 


 季節の変わりめには、その折々の情趣のようなものを題材に絵を描きたくなります。
 今年もいよいよ夏ですね。



 こちらはオマケです。
 先般twitterで実施したマイキャラ新髪型案アンケートで最も得票数の多かったものを描いてみました。
 正直、これはこれでよかったりも…!