夕風桜香楼

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西南戦争 数値から見る警視隊戦記

2021年01月09日 00時50分03秒 | 征西戦記考
  
 西南戦役(西南戦争)における「警視隊」の活躍は、現在、歴史関係の書籍やテレビ番組などを通じて、かなり広く知られています。しかし、事実と明らかに異なる誤解・創作や、根拠の希薄な俗説といったものもまた、少なからず流布しているというのが実情です。
 そのため当ブログにおいては、「西南戦争・警視隊の九州派遣」といった記事を通じ、警視諸隊の戦いの実相に関する情報発信に努めてまいりました。同記事では、西南戦役における警視旅団の公式戦記『西南戦闘日注』や警視隊研究の大著『西南戦争警視隊戦記』などに基づき、一般にはあまり知られていない警視諸隊の実相について解説しておりますので、ご興味お持ちの方はぜひご一読いただければと思います。

 本稿も、そんな警視諸隊の実相についての小論です。
 すなわち、警視諸隊の戦死者にスポットを当て、数値データに基づく分析をこころみるものとなります。


1 戦死者名簿の概要

 そもそも、出征した警視官(当時の警視局職員の正式名称)を網羅的に整理記載した名簿のようなものが存在すれば、警視諸隊の実態に関する研究は大いに進展するものと思われます。
 しかし残念ながら、現状、そういった史料は確認できておりません。これは、戦役中の警視諸隊の運用が大規模かつ複雑多岐にわたったために、関連情報が早々に錯綜・細分化し、結果として史料も断片的になってしまったからだと思われます。例えば、「内務省警視局職員録」(国立公文書館蔵)は、当時の警視官の氏名・階級・住所・族籍などを網羅した史料ですが、収録対象としているのは幹部級の警視官(警部補以上)のみで、本来職員の過半を占めたはずの巡査についてはいっさい記載がありません。また、福島県庁には従軍警視官(巡査も含む)の個人情報に関する詳細な名簿が残されていますが、これはあくまでも同県出身者のみを対象としたものであるため、やはり出征警視官の全容を明らかにするには不十分なのです。

 そこで今回筆者が注目したのは、『警視庁警察職員殉難者顕彰録』(警視庁発行)に掲載されている戦死警視官878人の名簿(以下「顕彰録名簿」と呼称)です。この名簿は、戦死した警視官の氏名・階級に加え、戦死月日、戦死地、出身地(本籍地か)を詳細に記載したものですが、一般の警視諸隊の巡査のみならず新撰旅団(召募巡査で構成された兵団)の戦死者、軍夫や雇人など非戦闘員中の戦死者、さらには戦役鎮定後の戦傷死者までをも収録対象にしているという点で、他に類を見ない体系性と情報量を誇っているのです。
 そもそも、戦死者とは、見方を変えれば「その兵団からごく無作為に抽出された者」というべき存在であり、その意味で顕彰録名簿は「兵団全体の縮図」たる性格を有しているといえます。したがって、これを統計的に分析することは、警視諸隊の全般的な実態解明にも役立つと考えられるわけです。
 なお、より実証性を担保するため、分析にはあらかじめ顕彰録名簿を精査して作成した改訂版名簿(総計905人を収録)※を用いることとしました。

※ 改訂版名簿の作成作業について
 顕彰録名簿が史料として有用であることはすでに述べたとおりですが、一方で前掲『顕彰録』には、顕彰録名簿の典拠(おそらくは警視局が戦役鎮定後独自に編纂した名簿と思われます)がいっさい明記されていないうえ、名簿中の情報も翻刻ミスや誤植とおぼしき箇所が散見されます。したがって、無批判での使用には一抹の危険さを感じざるを得ません。
 そこで今回の分析では、より実証性を担保するため、あらかじめ顕彰録名簿について、

「別働第三旅団及警視隊死傷者人名簿」(『西南戦闘日注』)
 新撰旅団兵や軍夫等を除く出征警視官の死傷者の氏名・階級・死傷月日の記載あり。

「出征新撰旅団死傷人名表」(国立公文書館アジア歴史資料センター蔵)
 新撰旅団の将兵・軍夫等の死傷者の氏名・階級・死傷月日・死傷地の記載あり。

『八代市文化財調査報告書 第16集 若宮官軍墓地跡・横手官軍墓地跡』(八代市)
 八代市の官軍墓地に埋葬された戦死警視官の氏名・階級・戦死月日・戦死地等の記載あり。

といった類似史料と突合し、内容を精査することとしました。そして、誤植や矛盾が明らかであると認められた個所については適宜必要な修正を行い、あわせて記載漏れと思われる者も新たに追加するなどして、最終的に905人分の名簿へと改訂した次第です。もちろん、いっさいの誤謬を排除し得たとまではいいがたいですが、もとの顕彰録名簿よりは、それなりに精度の高いものにすることができたと考えています。
 改訂版名簿は大部にわたることから、当ブログへの掲載は見送ることとしますが、今後発刊予定の拙著『新訂征西戦記考』(仮)に、特別付録として収録する予定です。ご興味お持ちの方は、今後の発刊情報をフォローしていただければ幸いです。



2 徹底分析・数値から分かる警視隊の戦い

 能書きが長くなってしまいました。ここからは、具体的な分析に入っていきます。
 根拠の曖昧な伝聞情報や状況証拠による推測とは異なり、数値という明確このうえないデータに基づく分析でありますので、より興味深くお読みいただけるのではないかと思います。

(1)警視官の出身地の実態
 戦闘に関する分析に入る前に、まず戦死警視官の出身地について触れておきます。
 従来、西南戦役で活躍した警視官については「薩摩に恨みを抱く福島出身者が多かった」「いや、主力は薩摩出身者だ」といった議論がなされてきましたが、一方でその数値的・客観的な裏付けはどうも不十分な観がありました。これは1でも述べたとおり、当時の警視官の網羅的・体系的な名簿が存在しないことが原因と考えられます。
 しかし、顕彰録名簿の「兵団全体の縮図」という性格を利用すれば、当時の警視官の出身地の実相に一定程度迫ることができるはずです。そこで本項では、顕彰録名簿の記載情報をもとに、統計を2つほど作成してみました。

【図表1】


 【図表1】は、戦役前期(3月末)段階での戦死者の出身地を整理したものです。統計期間をあえて限定しているのは、召募巡査(兵員不足問題を受けて東北諸県から臨時採用された士族たち。おおむね3月下旬より順次戦地に投入された)を排除し、当時の警視局生え抜きの警視官のみを抽出して出身地構成を考察するためです。
 これを見ると、当時の警視官は、実に4分の1近くが鹿児島出身者で占められていた可能性が高いことが分かります。なお、鹿児島に次ぐのは東京ですが、これは全国各地からの上京士族が本籍を移した結果と考えられますので、純粋な東京出身者の数ではないとみるべきでしょう。

【図表2】


 【図表2】は、戦役鎮定後を含めた全体の戦死者の出身地を整理したものです。大規模な臨時召募の影響で、鹿児島に代わって東京が首位となっているほか、全体的に東北出身者の割合が増加しています。もっとも、この臨時召募者たちは、戦後間もなくほぼ全員が免職となったことが判明しています(拙著『西南戦役における募兵』にて詳述)。
 
(2)警視局員の戦死状況
 それでは、顕彰録名簿の戦死関係情報に基づき、戦闘の実相に迫っていきます。

①階級別の戦死者数

【図表3】


 【図表3】は、階級別の戦死者数と、戦死者全体に占める割合を算出したものです。やはり巡査の戦死者が圧倒的に多く、全体の8割余を占めていることが分かります。ただし、戦闘に巻き込まれた非戦闘員(軍夫や雇人)の死者が少なくないことも、留意すべきといえるでしょう。
 なお、表中のカッコ内の数値は、階級が「心得」とされている者(「警部補心得」「一等巡査心得」など)の人数(内数)です。召募によって臨時採用された者は、階級に「心得」がつく場合が多かったようです。

②戦役のフェーズごとの戦死者数

【図表4】


 【図表4】は、戦役のフェーズごとの戦死者数を算出したものです。なお、図表に記載された各フェーズの詳細については、当ブログの別記事「官軍から見た西南戦争」で整理していますので、適宜ご参照ください。
 まず気がつくのは、戦役序盤・熊本城救出をめぐる一連の戦闘(熊本籠城作戦・正面軍作戦・衝背軍作戦)における戦死者が、全体の4割余を占めていることです。薩軍が最精鋭かつ最大規模だった時期であるため、やはり警視諸隊も各地で苦戦を強いられていたことが分かります。
 しかし、逆にいえばこれは、「戦死者の半数以上は戦役中盤以降に生じた」ということでもあります。具体的には、鹿児島連絡作戦で全体の2割余、またそれ以降の追撃戦でも全体の3割余に及ぶ甚大な人的損害が生じているのです。一般に、西南戦役は3月の田原坂陥落をもってあたかも消化試合に移行したかのように語られがちですが、事実はそれと大きく異なっていたといえるでしょう。
 
③部隊別の戦死者数・戦死率

【図表5】


【参考】警視諸隊の編成経過


 【図表5】は、各部隊の戦死者数と、部隊ごとの戦死率(その部隊において、最終的に何%の人員が戦死したか)を算出したものです。警視諸隊の編成・運用経過は複雑なので、前掲拙稿【参考】も参照しながらご覧ください。
 部隊ごとの単純な死者数については、別働第三旅団が突出しています。しかし、同旅団はそもそも人員規模・戦歴が別格であることから、戦死者数の多さは多分に相対的なものというべきでしょう。現に、旅団内の戦死率は7.8%で、他に比べてそれほど目立つ数値ではありません。
 この点、死者数の多さと戦死率の両方が目につくのは、植木口警視隊です。同隊は、激戦として知られる田原坂方面の戦闘に投入された部隊(いわゆる警視抜刀隊の母体)ですから、これは当然といえるでしょう。また、熊本籠城警視隊の戦死率の高さも、同隊の過酷な戦いの日々を物語っているように感じられます。
 もっとも、全体として見れば、陸軍諸隊の平均戦死率が12.0%(8人に1人が戦死)であるのに対し、警視諸隊および新撰旅団の平均戦死率は5.7%(18人に1人が戦死)と、半分以下の水準にとどまっています。これは、

〇 警視諸隊の全てが純粋な戦闘要員だったわけではないこと(例えば鹿児島警視出張所員は、主に戦闘ではなく鹿児島県内の治安警察業務を担当していた)
〇 別働第三旅団は戦役鎮定を待たず途中で帰京し、また新撰旅団は薩軍の勢力が大幅に減衰していた戦役末期に投入されていること

といった要素に起因するものと考えられます。

(3)激戦ピックアップ
 最後に、日別・場所別の戦死者情報に基づいて、特に戦死者が多かった戦闘を具体的に特定してみます。
 基本的には戦死日・戦死地・所属部隊を総合的に勘案して統計をとりましたが、戦傷死者についても極力死亡原因を確認して反映(病院等での死亡日ではなく、戦傷を負った日・場所を戦死日・戦死地とみなした)することで、「死の原因となった戦闘」の特定に正確を期しました。
 その結果、特に戦死者数が多かった戦闘として浮上したのが、次の4つです。一般にあまり知られていないものも含まれているため、簡単に概要を解説します。

〇 二重峠・黒川口の戦(3月18日・豊後口警視徴募隊・戦死者36人
 戦役を通じて3番目に戦死者が多かった戦闘が、戦役初期の阿蘇方面、二重峠・黒川口の戦です。
 戦役勃発直後より豊後方面で治安警察活動に当たっていた豊後口警視隊(檜垣少警視指揮・590人)は、3月中旬より阿蘇方面へ進出しますが、3月18日、待ち構えていた薩軍から黒川口付近で奇襲を受けて大損害を被ります。結果、同隊は熊本城や田原坂方面の戦闘に貢献できぬまま、阿蘇付近での滞陣を余儀なくされたのでした。
 この戦闘は、元会津藩家老・佐川官兵衛(一等大警部)が戦死した戦いとして知られています。佐川は黒川口の部隊指揮官を務めていましたが、彼我混淆の白兵戦の最中、至近から狙撃されて壮烈な戦死を遂げたといわれています。

〇 武山の戦(6月24日・別働第三旅団鹿児島分遣隊・戦死者36人
 戦死者数としては上記阿蘇の戦と同数となった戦闘が、戦役中期の鹿児島方面、武山の戦です。
 4月下旬、官軍本隊による鹿児島連絡作戦に先立って海路から鹿児島に上陸した別働第三旅団分遣隊(田辺少警視指揮・2コ大隊)は、陸軍の第四旅団や別働第一旅団とともに市街の防衛に当たりました。当時、市街は数千の薩軍に包囲されており、官軍は日々激しい攻撃にさらされていました。
 6月24日、官軍諸隊は鹿児島市街南西・武山付近に展開する有力な薩軍へ大規模な攻撃を実施し、丸一日に及ぶ激戦をへてその掃討に成功します。別働第三旅団分遣隊も戦死者36人という大きな犠牲を払いましたが、この戦いによって薩軍の勢力を減衰させたことは、翌日(25日)の別働第三旅団本隊による鹿児島突入成功にも大きく寄与したとされています。

〇 宮原一帯の戦(3月23日・八代口警視隊・戦死者40人
 戦役を通じて2番目の戦死者数を生じた戦闘が、戦役前期の八代方面、宮原一帯の戦です。
 3月中旬に衝背軍の一翼として八代に上陸した八代口警視隊(ほどなくして川路大警視が赴任し直率・4コ大隊)は、23日、八代北西・宮原一帯の丘陵地帯に展開していた薩軍に対し、一挙に攻勢をかけます。戦闘は広域に及ぶ大規模なものとなり、立神山・宮原・鹿島村・黒渕峠等の各所で死闘が繰り広げられましたが、警視諸隊は犠牲を払いつつもおおむねその日のうちに各所の戦いを制し、北進の足がかりとすることができたのでした。
 一般書籍等において、衝背軍はあたかも無人の野を行くごとく進軍して熊本城に到達したかのように語られがちです。しかし、この日の戦闘や4月3日の堅志田の戦(別働第三旅団の戦死者29人)、同14日の飯田山・南田代の戦(同35人)等における戦死者数を見ると、実際には薩軍の頑強な抵抗を連日にわたって受けていたことが分かります。熊本城への道のりは、決して容易なものではなかったのです。

〇 薩軍鹿児島突入戦(9月1日・新撰旅団及び鹿児島警視出張所・戦死者94人
 警視官の戦死者数が戦役中最大となった戦闘が、戦役末期における薩軍の鹿児島突入戦です。
 8月、和田越決戦に敗れた西郷隆盛以下の薩軍残党(数百人程度)は官軍の包囲を突破したのち潜行し、同月下旬、突如として薩摩地方に姿を現します。当時、鹿児島市街の官軍には、治安警察活動に当たっていた鹿児島警視出張所の警視官(綿貫少警視指揮・2コ中隊)、若干の新撰旅団兵、海軍の水兵等しか配備されておらず、完全に不意打ちとなった形でした。
 薩軍の市街侵入に備え、官軍は新撰旅団等の一部を市街北方・吉野方面へ進出させるとともに、残余の人員(警視出張所員や新撰旅団輜重隊、海軍兵)を市街中心部の米倉・城山・私学校付近に配置することとします。しかし9月1日午前、別ルートから迂回して市街に到達した薩兵は、間髪を入れず私学校を奇襲。同所に詰めていた新撰旅団輜重隊は戦闘未経験の新兵揃いで、このときも警戒を緩めて休憩中であったことから、突然の薩兵襲来によってたちまち恐慌状態に陥ります。さらに、「薩軍帰る」の報に沸騰した市民が各所で暴徒化して官兵・警視官への襲撃を開始したため、市街はさながら映画『ブラックホーク・ダウン』のような阿鼻叫喚の状況に。結果として、官軍生存者の大半は援軍到着まで米倉での籠城を強いられることとなりますが、中には血路を拓いて浜辺に辿りつき、遊弋中の軍艦へ脱出した者もあったようです。
 この日一日の新撰旅団・鹿児島警視出張所員の戦死者数は、なんと94人。他に類を見ない甚大な損害でしたが、翌々日に官軍の救援隊が鹿児島市街を回復するまで戦闘は続き、その間(9月2-3日)だけでもさらに計35人の戦死者が発生しています。

 以上、戦死者の多かった戦闘をワースト方式で紹介しました。統計によれば、このほかに凄惨な戦闘としては、

飯田山・南田代の戦(4月14日・別働第三旅団・戦死者35人)(前掲)
熊本城段山の戦(3月12-13日・熊本籠城警視隊・戦死者30人
熊本城兵の京町口攻撃(3月27日・熊本籠城警視隊・戦死者30人
堅志田の戦(4月3日・別働第三旅団・戦死者29人)(前掲)

などを挙げることができます。
 ちなみに、意外かもしれませんが、有名な警視抜刀隊(植木口警視隊)の戦いは、ここには含まれてきません。こころみに同隊が投入された主要な戦闘を抽出すると、

田原坂への最初の斬込み(3月14日・戦死者13人
横平山の戦(3月15日・戦死者20人
田原坂攻略と向坂追撃戦(3月20日・戦死者13人

といった具合で、人的被害が大きいこと自体は間違いないものの、上記の各戦闘よりははるかに少ない戦死者数にとどまっています。警視抜刀隊は少数編成だったため、単純な数だけなら相対的に少なく見えてしまうのでしょう。

 なお、これらに加え、戦役鎮定直後には、新撰旅団兵を中心とする100人以上もの警視官が、病気で死亡しています。恐らくはその大半が、当時猛威をふるっていたコレラの罹患者でしょう。また、顕彰録名簿はあくまでも警視局の職員のみを対象としたものであるため、他の府県警察の殉職者については記載されていません。したがって、「西南戦役における殉難警察官」全体として見るのであれば、今回分析の対象とした905人の戦死警視官に加え、病死者や他府県警察の戦死者についても、あわせて考慮する必要があることを付言しておきます。

 いずれにせよ、警視諸隊は戦役の全期間にわたり、多大な犠牲を払いながら官軍の戦いを支えました。
 戦禍に斃れた幾多の警察官たちにあらためて深甚なる敬意を払いつつ、本稿が多少なりともその顕彰の助力となることを願って、結びとしたいと思います。


【本稿にかかる主要参考資料】
『警視庁警察職員殉難者顕彰録』(警視庁史編さん委員会)
『西南戦闘日注並附録』(日本史籍協会)
『八代市文化財調査報告書 第16集 若宮官軍墓地跡・横手官軍墓地跡』(八代市)
『征西戦記稿』(陸軍参謀本部)
『明治史要』(太政官修史館)
『西南戦争警視隊戦記』(後藤正義)
『西南戦争・福島県人の奮戦』(塩谷七重郎)
『日本近代国家の成立と警察』(大日方純夫)
『侍たちの警視庁』(河内貞芳)
『新訂征西戦記考別冊 西南戦役における募兵 -壮兵召募と巡査召募-』(佐倉桜香)