本が好き!な、りなっこのダイアリーです。週末は旦那と食べ歩き。そちらの報告も。
本読みの日々つらつら
6月29日(金)のつぶやき
(@rinakko) 2018年6月29日 - 07:32
【涙 (パスカル・キニャール・コレクション)/パスカル キニャール】を読んだ本に追加
(@rinakko) 2018年6月29日 - 12:24
これから「告白小説、その結末」みりゅ。
(@rinakko) 2018年6月29日 - 21:39
変わった方法で茹で卵を作って殻を剥いた夫、つるんといったそうな。
6月28日(木)のつぶやき(清荒神、「串カツ酒場」)
(@rinakko) 2018年6月28日 - 09:07
パトリシア・ハイスミスのかたつむり愛に思いを馳せつつ併読中の『空間の詩学』を開いたら、そこがめためたかたつむりの章だったので嬉しくなったし、読み進むにつれハイスミスの「かたつむりを見るとなぜか落ち着く」という言葉に近づいていく気がしてよかった。
(@rinakko) 2018年6月28日 - 20:12
夫と外夕呑みした。色々な種類の串揚げ、撮るとどれも同じく狐色で見分け難い(サーロインとか塩タンとかチーズあれこれとか食びた)。清荒神の「串カツ酒場」、美味じゃった。
6月27日(水)のつぶやき(読んだ本、『天才たちの日課』)
(@rinakko) 2018年6月27日 - 07:45
お、にゃんmini〜
(@rinakko) 2018年6月27日 - 07:55
ねこさましだい。
(@rinakko) 2018年6月27日 - 15:26
【天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々/メイソン・カリー】
天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々 クリエーター情報なし フィルムアート社 取り上げられる人物は多彩でも、流石に習慣となると突飛な人は少ない。珈琲党が多く、不眠症のひともやや多め。
そんな中、サティは殆ど毎日郊外からパリ中心部まで十キロ近く散歩、ショスタコーヴィチは離れ業のように短時間で作曲、カポーティは奇妙なこだわりが多すぎ、バルザックは容赦なく自分を追い込み(珈琲は一日50杯のんだとも)、ユーゴーは床屋へ毎日通い、ディケンズは完璧な静寂を求め、ホーソーンは秋と冬しか書けなかった…。
ハイスミスの蝸牛愛を語るエピソードは他でも読んだ憶えがあるが、何度めでも楽しくてにこにこしてしまう。
“とうとう三百匹のカタツムリをイングランドのサフォーク州に所有する庭で飼うまでになり、ロンドンのあるカクテルパーティーに、レタス一個と百匹のカタツムリを入れた巨大なハンドバッグをもって現れたことがあった。百匹のカタツムリは彼女の夜のお伴とのことだった。その後、フランスに引越すときは、生きたカタツムリの持ち込みが禁止されていたため、六匹から十匹のカタツムリを左右の乳房の下に隠して何度も国境を往復したという。”
6月26日(火)のつぶやき
(@rinakko) 2018年6月26日 - 07:35
【水晶散歩―井辻朱美歌集/井辻 朱美】を読んだ本に追加
(@rinakko) 2018年6月26日 - 15:37
【酸っぱいブドウ/はりねずみ (エクス・リブリス)/ザカリーヤー・ターミル】を読んだ本に追加
酸っぱいブドウ/はりねずみ (エクス・リブリス) クリエーター情報なし 白水社
6月24日(日)のつぶやき(読んだ本、井村君江 『サロメ図像学』)
(@rinakko) 2018年6月24日 - 20:00
【サロメ図像学/井村 君江】
“サロメ自身は残酷ではない。あくまでも純粋である。自ら望むことに一筋に忠実におしとおし、実行した行為を、はたから見ては残酷というに過ぎない。この意味からすれば穢れを知らぬ、聖なるものであるヨハネが天上的であるのに対して、サロメが地上的な豪華と頽廃を示すものだという、二律背反的な図式は当たっているとはいえないようである。サロメもやはり純粋であった。いや純粋であり過ぎたから、もはや地上の規範では残酷と映った。したがってサロメを、生首に恋する変態的欲情につかれたヴァンプと見たり、「一途に妖怪視する」などという解釈は、まったくもって地上の穢れた目からの判断でしかない。”
192頁 (第三章 文学のサロメ――オスカー・ワイルド)福音書では名の記述もない王妃ヘロディアスの連れ子サロメは、あくまでも異父王ヘロデが預言者ヨハネを斬首した事件の加担者としての画題だった。それが時代を経、ルネサンス期では華やかに舞う女人、さらに生首を持つ残忍な妖しい女性像へと変貌していく。宗教から離れ風俗画へ、母王妃の意のままになる王女から意思を持つ女性へ、そして…。
子どもの頃にモロー《出現》に魅入られて以来サロメの絵画は好きだが、サロメと母王妃が混淆され、母親の邪悪さがサロメひとりに移行し吸収されていった…という考察など、とても面白かった。
戯曲『サロメ』には、かなり頁を割いている。
如何せん図版が小さくてよく見えないのは残念だけれど、13~14世紀ころの逆立ち(まあ普通の逆立ちもあるが海老反りもある)で踊るサロメとか、ヨハネの首に針とかナイフを刺すヘロディアス…という絵画の主題もすこぶる面白い(図版が小さいので針までは見えない)。
6月23日(土)のつぶやき
(@rinakko) 2018年6月23日 - 09:39
いま読んでる本。面白いっす。
(@rinakko) 2018年6月23日 - 09:47
ヨハネの死の要因という点で、殉教の場面構成の主要人物としての役割は担っていても、見方によれば、サロメは宗教的なものを否定する外的要素である。したがって一定の図像学上の決まりという規制から免れている。(続く)
(@rinakko) 2018年6月23日 - 09:51
それ故、かえって画家たちの生地、その時代、その考えを、よく反映する存在になっている。いわば聖者ヨハネの生涯を描いた画家たちの、よい息抜きの画面であり、人物であったのではなかろうか。すなわち画家たちが、独自の想像を駆使して、自在に筆を動かし得た一コマだったように思う。
(@rinakko) 2018年6月23日 - 09:52
― 井村君江 『サロメ図像学』
(@rinakko) 2018年6月23日 - 13:41
今週はなかなか体重がベストに戻らなくて、今朝やっと戻った。して、昼ビール餃子蛸唐しつつ醤油らーめん小盛りを頼んだところ。おう。
6月22日(金)のつぶやき(読んだ本、リチャード・フラナガン 『奥のほそ道』)
(@rinakko) 2018年6月22日 - 08:24
あ、知世さん。みてまうー。
(@rinakko) 2018年6月22日 - 11:14
【奥のほそ道/リチャード・フラナガン】
読んでよかった。ニキタリスさんの店の場面だけ束の間の小さな光が灯る。そしてその光はその場所、その場面のみを照らすばかりのあまりにも慎ましくささやかな光だった。脆くて、ほとんど救いとも呼べぬほどの。
(@rinakko) 2018年6月22日 - 11:44
じゃが、『グールド魚類画帖』読み終えたときの「凄いもの読んじゃった! うおん! うおん!」と叫びたくなったあの感じと比べると、そこまでではない…。>奥のほそ道
でも何せグールド読んだのは8年前なので要再読かな。
6月21日(木)のつぶやき
(@rinakko) 2018年6月21日 - 07:37
フラナガンを読むのは8年ぶりだ。『奥のほそ道』はそろそろ折り返し地点。うむ‥(´ー`)
(@rinakko) 2018年6月21日 - 19:14
夏至の日が暮れゆき過ぎていくのさびしいさびしい。
6月19日(火)のつぶやき(読んだ本、『オールドレンズの神のもとで』)
(@rinakko) 2018年6月19日 - 08:10
今週こそ『奥のほそ道』読むぞんっ、、と思っていたけれど、も少し先に伸ばそうかな。まだ胸がざわめいているから…(´ー`)
(@rinakko) 2018年6月19日 - 10:22
【オールドレンズの神のもとで/堀江 敏幸】
しっくりゆっくり…慈雨のように沁み入る。少しだけ心細くて漂い出しそうになる今の気持ちを、望ましい岸辺に繋ぎ止めてくれる一冊であった。当たり前の日常がふっとぶれて揺らいだ時に見えてくる眺めの幾つかがあって、そこに差し挟まれる何とも奇妙な味わいの不思議なお話…という按配は心憎いほどだ。
例えば悲哀とか愛惜とか…そんな言葉には置き換えられない思いがあったなら、それはそのまま名付けずにそっとおいておこう…という柔らかな眼差しが好きだ。(あと、『作者を探す六人の登場人物』がちらっと出てきたのが、個人的にツボでした。)
(@rinakko) 2018年6月19日 - 12:31
『ベニスに死す』の眼福は言わずもがな耳福も…(マーラーがどーん、て)。
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