『幾度目かの最期 久坂葉子作品集』

 『エッセンス・オブ・久坂葉子』で出会った作品たちには、ひりりとした痛みを抱えながらも、余りあるほどのきららに凄烈な魅力があった。その鮮やかさはいつまでも忘れがたく、もう少し読んでみようとてこの一冊を手に取った。ゆかりの地に近くたまたま私が住んでいることにも、不思議な縁を感じてしまう。 

 『幾度目かの最後 久坂葉子作品集』を読みました。
 

 人を惹きつける危うげな雰囲気を纏い、やんちゃで刹那的で、もしも無理やり型に嵌められたなら翼がもげてしまいそうな…そんなもろさ故にこそ、誰よりも生き生きと須臾の時を駆け抜けた一人の女性。享年僅か21歳。
 ここまでおめおめ生きてきた私に、何が言えようか。いや、生き続けることこそ大切だと、心底思ってはいるものの…。

 「幾度目かの最期」だけが再読となったが、自伝的な作品「灰色の記憶」からの流れで読むと、抜き差しならない状況がますます胸に迫ってくるようで、あらがう術もなく圧倒的に惹き込まれていた。
 「灰色の記憶」を読んで、自らを破滅へと向かわせてしまう衝動は、子供時代から幾度も繰り返されていたことが分かった。そしてまた、最も多感な年頃に(彼女の場合、多感なままで生涯を閉じてしまうのだが)、頭を押さえつけられるように右へならえを強制され、息の詰まりそうな戦中の日々を送っていたことも。 
 そして戦後の、溝の深まる両親との冷ややかな関係。偽りを纏うことでしか生きていけない、女という性への嫌悪感や、活路を開けぬまま“メランコリイの幸福感”に耽る自分自身への憎悪などが、身を切り刻むような筆致で書かれていく。最後の文にたどり着くまで、息も吐けないような苦しい作品だった。

 いったいどこで、かけ違ってしまったのか…と、遠い昔に逝ってしまった人なのに、歎ずることをとめられない。何らかのかけ違いが、その短い人生のどこかの時点で生じていたとして、何故それが修復されることなく、破綻へと転がっていってしまったのだろう…。 
 神戸の名門に生まれ、人に抜きん出た才能を天から授かっていたような少女。賞讃と羨望をあびるべくして生まれてきたような、女の子だったはずなのに…。
 死への希求があまりにも強い人が、普通に生きていくことが如何に困難であるか。私にもある程度の想像は出来る。結局は、そういうことなのか。

 “自分の死と文学をこれほど一致させた作品がほかにあるだろうか。”(解説より)
 死を目前に見つめた三日間に、憑かれたような勢いで書き上げられた最後の作品。 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 神戸の老舗パ... 『鈴木いづみ... »