山尾悠子さん、『ラピスラズリ』 再読

 とても好きな作品なので、再読。『ラピスラズリ』の感想を少しばかり。

 “その名をビザンチンよりもはるか東方では啓蟄と呼び、西では復活と呼ぶ。” 235頁

 夢のように綾なす物語の糸を、うっかり途切らさぬように…と丹念に読みほぐしてみる。それでもやはり、出口のない迷宮にも似たこの作品の美しい造りは、硬質な耀きの元、謎は謎のままで完璧に閉じている。…と、そのことにあらためて瞠目した。なんて素晴らしい。
 
 第一章の「銅版」は、初めて読んだ時からとても好きな導入部である。なぜ入ったのか思い出せないまま、“わたし”は深夜営業の画廊で、三枚組の銅板画をゆっくりと1枚ずつ眺めていた。ふいに話しかけてきた睡眠不足で赤い眼をした店主が言うには、それらは恐らく冬眠者のものがたりの挿絵ではないかということだ。そのまま店主の話を聞く“わたし”。とそこに駅の構内から、脱線事故による騒ぎの様子が伝わってくる。すると“わたし”の意識は、かつて同じような脱線事故に遭遇した幼いころの記憶へと呼び戻されていく…。
 そして「閑日」から「竈の秋」の章が、その冬眠者たちとゴーストの物語である。凍える真冬、そこに住む人々は、やがて春が来るまで昏々と眠り続ける特権階級と、従属から解放されて過ごす使用人たちとに分かれている。ところがある冬、醒めるはずのない眠りから覚め、見るはずのない〈冬〉を見てしまった小娘がいた。初めて見る白銀の世界に魅入られた彼女は、一人の白いゴーストに出会う…。
 厳しい冬の間をひたすら眠り続ける人々…という設定が、読み始めのうちは何やら後ろ暗い、自然にそむくという意味では禍々しく、驕った一族の姿に映る。でもその考えが、読み進むうちに私の中で変わっていくのが面白かった。ひと冬を眠ってやり過ごし、新しい眼覚めの中で春を迎える時、何かが浄化されていることを願う気持ちは、怠惰ではあるものの邪とは言い切れない…と思う。でもその一方では、一たび冬を見た少女が、凍てつく冬の近寄りがたい景色に焦がれ続ける気持ちはとてもよくわかる。かと思えば冬眠者への嫉妬を押し殺している者の存在があるのも、宜なるかな…と。そんな中で、一番怖くて心惹かれたのは、誰の記憶の底にも、落ち葉枯れ葉の海に埋もれて眠る冬眠者たちの映像が残されている…ということだった。それは何故なのか。

 短いがとても印象深く、いつまでも余韻の残る「トビアス」は、海面の上昇によってじわじわと沈んでいく世界の、地方の廃市に暮らす少女の話である。ゴム人形を咥えて走るトビアスも忘れがたいが、思いがけないラストに溢れる濃厚な匂いは、想像するだけで胸が苦しくなった。死と再生のイメージが、雪の白と赤の鮮やか過ぎる対比で脳裡に焼き付くようだった。
 そして「青金色」。ここまで読んできた物語の哀切が、春の陽光を浴びてゆるゆると融けていくような清らかな一篇だった。
 少女たちの胸元に揺れる揃いの銅のメダイと、その鈍い光。青衣の聖母と、眠りを見守る役目を与えられた人形たちの虚ろな青い眼差し。尽きることのない秋の枯れ葉。冬を知らぬまま儚くなるトビアと、冬に固くなった可哀相なトビ。聖フランチェスコを訪ねてくる名のない若者…。見えてくるようで見えないかそけき連なりは、そのままそこにあるのがきっと美しい。

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10月9日(日)のつぶやき

05:51 from web
おはようございますー。まだ白湯。空がね、淡い菫色になりました。これからしばし、読みかけのポー。
11:56 from twicca
谷あいの集落の蕎麦やにゃう。何か、しっくり落ち着く…。だし巻きも頼んだ。のんびり待つ。
12:45 from web
一旦帰宅にゃう。道々コスモスが綺麗に咲いていたので、これから西福寺まで観に行こうか…と話しているのだけれど、片道歩くと思うだけで疲れます。へな猪口です。
13:18 from twicca
しかし、見頃には早かった!(
だから言ったじゃん)。
18:39 from web
夫が作ったケンタロウ流のハンバーグ(水を注いで蒸し焼き)は、本当になかなか美味しかった。実はハンバーグって、たぶん私は独身の頃にしか作ったことがないのであった(だって酒の肴っぽくないしさぁ…)。

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