伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

夜のヒットスタジオ・歌手別出演履歴<26> シブがき隊

2007-08-24 | 夜のヒットスタジオ/歌手別出演履歴
「夜ヒット・出演履歴」シリーズ、今回は、田原俊彦、近藤真彦、少年隊と並び、80年代の夜ヒットにおける「ジャニーズ枠」の一画を成したシブがき隊の出演履歴を振り返ります。

◆シブがき隊-初出演:1982年5月3日(第703回)/最終出演:1988年10月26日(第1037回)/出演回数:68回
01 1982/05/03(0703) NAI NAI 16
02 1982/06/07(0708) NAI NAI 16
03 1982/09/27(0724) 100%…SOかもね!
04 1982/11/01(0729) ZIGZAGセブンティーン 
05 1982/12/20(0736) ZIGZAGセブンティーン
06 1983/01/24(0740) 処女的衝撃!(バージンショック)
07 1983/02/28(0745) 処女的衝撃!(バージンショック)
08 1983/03/14(0747) 処女的衝撃!(バージンショック)
09 1983/04/25(0753) Zokkon命(ラブ)
10 1983/05/16(0756) Zokkon命(ラブ)
11 1983/06/20(0761) Zokkon命(ラブ)
12 1983/07/18(0765) Hey! Bep-pin
13 1983/08/15(0769) Hey! Bep-pin
14 1983/09/19(0774) Hey! Bep-pin
15 1983/10/10(0777) 挑発∞(無限大)
16 1983/10/31(0780) 挑発∞(無限大)
17 1983/11/21(0783) 挑発∞(無限大)
18 1983/12/19(0787) 挑発∞(無限大)
19 1984/01/09(0789) サムライ・ニッポン
20 1984/02/13(0794) サムライ・ニッポン
21 1984/03/19(0799) 喝!
22 1984/04/16(0803) 喝!
23 1984/05/21(0808) キャッツ&ドッグ
24 1984/06/25(0813) アッパレ!フジヤマ
25 1984/07/09(0815) アッパレ!フジヤマ
26 1984/08/20(0821) アッパレ!フジヤマ
27 1984/09/17(0825) べらんめぇ!伊達男
28 1984/10/08(0828) <不詳>
29 1984/10/22(0830) べらんめぇ!伊達男
30 1984/11/12(0833) べらんめぇ!伊達男
31 1984/12/03(0836) べらんめぇ!伊達男
32 1985/01/21(0842) 男意ッ気
33 1985/02/11(0845) 男意ッ気
34 1985/03/04(0848) 男意ッ気
35 1985/04/24(0855) DJ in My Life
36 1985/05/29(0860) DJ in My Life
37 1985/06/26(0864) 月光淑女!
38 1985/07/17(0867) 月光淑女!
39 1985/08/21(0872) 月光淑女!
40 1985/09/11(0875) 月光淑女!
41 1985/10/09(0879) KILL
42 1985/11/20(0885) KILL
43 1985/12/18(0889) KILL
44 1986/01/15(0892) トラ!トラ!トラ!
45 1986/02/05(0895) スシ食いねェ!
46 1986/03/12(0900) スシ食いねェ!
47 1986/05/07(0908) 飛んで火に入る夏の令嬢
48 1986/06/11(0913) 飛んで火に入る夏の令嬢
49 1986/08/13(0922) 飛んで火に入る夏の令嬢
50 1986/09/17(0927) 千夜一夜キッス倶楽部
51 1986/10/22(0932) 千夜一夜キッス倶楽部
52 1986/11/26(0937) 恋人達のBlvd.
53 1986/12/24(0941) 恋人達のBlvd.
54 1987/01/21(0945) 恋人達のBlvd.
55 1987/03/11(0952) ドリーム・ラッシュ.
56 1987/04/08(0956) ドリーム・ラッシュ
57 1987/05/06(0960) ドリーム・ラッシュ
58 1987/07/08(0969) 反逆のアジテイション
59 1987/08/26(0976) 反逆のアジテイション
60 1987/09/16(0979) 反逆のアジテイション
61 1987/11/04(0986) 演歌なんて歌えない
62 1987/12/02(0990) 演歌なんて歌えない
63 1988/03/02(1003) PSST PSST
64 1988/03/30(1007) PSST PSST
65 1988/07/06(1021) 恋するような友情を
66 1988/08/10(1026) 恋するような友情を
67 1988/09/21(1032) 恋するような友情を
68 1988/10/26(1037) 君を忘れない<「サヨナラシブがき隊」>

彼らのデビューの契機となったのは1981年のTBS金曜夜8時枠の人気シリーズであった「桜中学シリーズ」第4作にあたる『2年B組仙八先生』への出演からでした。
グループ編成当初は「シブがきトリオ」という仮のグループ名でジャニーズの先輩歌手のバックダンサーや、単独での番組出演をこなしており、しかもグループの構成人数も初期は4人編成だったそうですが、程なく一人のメンバーが脱退、薬丸裕英、布川敏和、本木雅弘の3人編成で定着。そして、1982年5月5日に「NAI NAI 16」でレコードデビューしました。

夜のヒットスタジオにはレコードデビューの3日前の1982年5月3日放送で初登場。以後、田原俊彦、近藤真彦、レコードデビュー前だった少年隊と並び、いわゆる「ジャニーズ枠」として原則月1回のイレギュラーで出演を重ね、人気を獲得してゆきました。

当時のジャニーズの所属タレントの系譜からみても、彼らの存在は「異質」でした。

まず第一に一風変わったタイトル・内容の曲が数多く発売されたこと。とくに1984年に出された一連の作品群(「サムライ・ニッポン」、「アッパレ!フジヤマ」など)では「大和魂」をテーマにしたような楽曲を発表したほか、1986年にはNHK「みんなのうた」から派生した「スシ食いねェ!」なる珍曲も発売、これも当時結構ヒットしました。
第二に、デビュー早々から、バラエティー番組やドラマに積極的に参加し、いわゆる「汚れ役」「色物」と通常ならばアイドル歌手では回避されるような役回りに回ることも多かったこと。これはSMAP、TOKIO、Kinki Kidsなど、後年のジャニーズタレントの売り出し戦略にも大きく影響を及ぼしており、その大元を築いた功績というのは看過できないと思います。

ただ、歌手としてのシングルセールスという点では、1987年に発売した「反逆のアジテイション」まではオリコンのヒットチャートでも上位10位圏内に入るヒットを記録したものの、1位獲得曲は意外にも1984年3月に発売した「喝!」の1曲のみであり、1985年辺りからは、後輩であり、レコードデビュー前から世間の高い期待を集めていた少年隊が正式デビューしたことも相俟って、売り上げ枚数も10万枚の大台に乗せることが難しくなり始め、曲のコンセプトも1曲1曲で大きな大きな開きが生じるなど後期は低迷状態にあったようで、特に活動後期における彼らの支持の背景には、やはりバラエティー番組など「タレント」としての活躍がその基盤にあったという感は否めないと思います。

1980年代後半に入ると、それぞれ個人での活動が目立ち始めるようになり、徐々にメンバー間の仕事に対する考え方にも齟齬が生じ、1988年秋に約7年間のグループとしての活動に終止符を打ちます。
解散日(1988年11月2日)の1週間前である同10月26日放送では、これまでの番組への寄与度に配慮して、恒例となった「サヨナラ」企画が用意され、同期の中森明菜や先輩の田原俊彦らが見守る中、最終シングル曲「君を忘れない」を披露し、颯爽とスタジオを後にしました(因みに彼らの解散特集が番組内で「サヨナラ」企画が組まれた最後のケースであったようです)。

解散後、本木は主に俳優業、薬丸・布川はタレント業を軸にそれぞれソロ活動を開始。それぞれの個性をグループ在籍時以上に前面に打ち出し、現在も第一線で活躍を続けています。

夜ヒット・名シーン~サザンオールスターズ「Bye Bye My Love」(85年7月3日放送)

2007-08-23 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
約半年ぶりの夜ヒット「名シーン」シリーズ、今回はサザンオールスターズ「Bye Bye My Love」(1985年7月3日放送)を取り上げます。 この歌は1980年代のサザンの楽曲の中でも2番目の好セールスを記録した彼らの代表作。シンセサイザーの音を強調した軽快な曲調とは裏腹に、この年世界的大ヒットとなった「We Are The World」への返答、というしっかりとした作品コンセプト、メッセージ性もあるところがさすがサザン、といったところでしょうか。

彼らのコンサートはその盛り上がり方、ファンとの一体感の強さという意味で他のアーティストよりも更に抜きんでた迫力がありますが、この「夜ヒット」においてもそのコンサートの再現、というといいすぎかもしれませんが、それこそ1978年7月の「衝撃のジョキングパンツ姿」での初登場以来、「気分しだいで責めないで」の頃には、桑田がクレーンに乗って歌を熱唱したり、いきなり上半身裸になって激しい身振り手振りをし出したり、「ミス・プランニューデイ」の時には、まるで当時の沢田研二ばりのような濃いメイクをして出てきたり、といろいろと番組の盛り上げに一役買ってくれた存在でした。

この「Bye Bye My Love」のシーンもそんな彼らだからこそ生まれた場面であるといえると思います。このときも最初の歌いだしはいつもどおり普通に歌を演奏していたのですが、後半に差し掛かる辺りで、後ろのひな壇に鎮座していた歌手・バンドがみな立ち上がり、リズムをとりながら手拍子をしだし、そして、途中でそのときの出演歌手の一組であるチェッカーズのメンバーやなぜかこの日ゲストとして呼ばれていた「東京ディズニーランド」の名物マスコット「ミッキーマウス」らが「乱入」し、他の出演者たちも一斉にひな壇を下りて盛り上がりがヒートアップしてゆくというシーンでした。 この場面を某有名動画投稿サイトで初めて見たとき、私は少し身震いがしました。何といっても、ボーカルの桑田佳祐やチェッカーズのメンバーを筆頭に、スタッフ・出演者が一丸となって盛り上がっていたこと、そしてその盛り上がりに往々にしてこういう場面で流れている妙に白けた空気というものではなく、まるで「祭」をみなで楽しんでいるような、それほどまでにそのスタジオにいた人々が一緒にこの瞬間を自然体で楽しんていた、という空気がとてつもなく感動的でした。

こういった「歌手・出演者が一緒になり番組を盛り上げ、そしてそれを楽しむ」という場面もまた、夜ヒットの醍醐味の一つでもありました。古くは西城秀樹の「ヤングマン」に始まり、とんねるずの「嵐のマッチョマン」やHOUND DOG・THE ALFEEのジョイントによる「SWEAT&TEARS+ff」などその回の最後がノリのいい歌となる場合によくこういった場面が発生していたような気がします。幅広いジャンルから出演者を募っていることもあり、他の番組で同様の場面が発生したとき以上に、その盛り上がり方は凄みを帯び、また視聴者から見てもその雰囲気は一際華やかであり、賑やかでもありました。司会の芳村真理は夜ヒットを「まるでお祭を毎週やっているみたいだった」と後に回顧していますが、こういった場面に遭遇する度に、その言葉がいつも思い出されます。

最近は録画の音楽番組が主流である上、歌手が全員ひな壇にすわって他のアーティストの歌を聞くという形ではなく、それぞれのアーティスト毎に歌・トークシーンを撮り、それを寄せ集めて一つの番組として放送するというケースが殆ど(但し、「ミュージックステーション」は例外)であるゆえ、こういった場面が突如登場するという機会も殆どなくなってしまいました。また、生放送スタイルを貫き通す「Mステ」でさえも、数年前まではそれこそサザンや泉谷しげるなどが登場する回にあっては、同様のシーンが幾度が生じていたのですが、ここ最近は、やはり「録画・ぶつ切り編集」というほかの競合番組の編集・演出方針が波及してしまったのか、そう言った盛り上がりを見せることも少なくなりつつあり、こういった部分も「音楽番組に元気がない」「見ていて退屈だ」といった批判が主張されている一つの理由となっている感は否めないと思います。また、アーティストそれぞれも「アーティストとしてのイメージ」を重視していることもあってか、「自分の楽曲を演奏すればそれで番組内での役割はおわり」という風潮が強まっているのも、そういった「ぶつ切り」のような編集を行わなければならなくなった背景としてあるのかもしれません。

この「Bye Bye My Love」での一種異様ともいえる盛り上がりを見せたシーンは、「音楽番組が元気のあった時代」を象徴する場面、或いは、今の音楽番組の製作者に「音楽番組とはもっとこうあるべき」という一つの示唆を与えている場面であるといっても過言ではないでしょう。音楽番組の現況を考慮してこのシーンを見ると、実に感慨深いものがあると思います。

"伝説の歌番組"を盛り上げた"伝説の名曲"たち-ヒットスタジオで歌われた阿久悠作品の数々

2007-08-06 | 夜のヒットスタジオ/番組史
先日、亡くなられた「歌謡曲黄金時代の大功労者」、作詞家の阿久悠さんを追悼する意味で、夜ヒットで歌われた阿久作品のを分かる範囲でリストアップしてみました。

<1969年>
11月5日:その時私に何が起こったの?/和田アキ子-1969年11月10日(第54回)
<1970年>
1月25日:白い蝶のサンバ/森山加代子-1970年3月16日(第72回)
8月1日:真夏のあらし/西郷輝彦-1970年8月3日(第92回)
10月(日付不明):棄てるものがあるうちはいい/北原ミレイ-1971年5月3日(第131回)
<1971年>
2月25日:また逢う日まで/尾崎紀世彦-1971年5月31日(第135回)
3月1日;約束/フォーリーブス-1971年4月19日(第129回)
4月25日:昨日・今日・明日/井上順之-1971年5月31日(第135回)
4月25日:さだめのように川は流れる/杏真理子-1971年10月4日(第153回)
6月5日:天使になれない/和田アキ子-1971年7月5日(第140回)
7月25日:とても不幸な朝がきた/黛ジュン-1971年6月28日(第139回)
7月25日:さよならをもう一度/尾崎紀世彦-1971年8月9日(第145回)
10月25日:今日で終って/ちあきなおみ-1971年10月18日(第155回)
11月5日:夜明けの夢/和田アキ子-1971年10月25日(第156回)
11月25日:愛する人はひとり/尾崎紀世彦-1971年11月15日(第159回)
<1972年>
1月25日:京都から博多まで/藤圭子-1972年1月31日(第170回)
1月25日:幸福への招待/堺正章-1972年5月22日(第186回)
1月25日:本牧メルヘン/鹿内孝-1972年2月14日(第172回)
2月10日:恋した女/ちあきなおみ-1972年2月21日(第173回)
3月25日:あの鐘を鳴らすのはあなた/和田アキ子-1972年3月13日(第176回)
3月25日:ふたりは若かった/尾崎紀世彦-1972年3月13日(第176回)
3月25日:この愛に生きて/内山田洋とクールファイブ-1972年3月27日(第178回)
6月5日:どうにもとまらない/山本リンダ-1972年6月19日(第190回)
6月25日:夏の夜のサンバ/和田アキ子-1972年6月19日(第190回)
7月1日:ブルージンの子守唄/萩原健一-1972年8月7日(第197回)
7月1日:せんせい/森昌子-1972年8月14日(第198回)
7月25日:恋唄/内山田洋とクールファイブ-1972年7月24日(第195回)
9月5日:狂わせたいの/山本リンダ-1972年9月18日(第203回)
10月5日:同級生/森昌子-1972年11月20日(第212回)
10月20日:昭和放浪記/水前寺清子-1972年10月16日(第207回)
10月25日:放浪(さすらい)船/森進一-1972年10月30日(第209回)
10月25日:あなたに賭ける/尾崎紀世彦-1972年11月13日(第211回)
11月25日:じんじんさせて/山本リンダ-1972年11月20日(第212回)
11月25日:冬物語/フォー・クローバーズ-1973年1月29日(第222回)
<1973年>
1月15日:若草の髪かざり/チェリッシュ-1973年2月12日(第224回)
2月5日:中学三年生/森昌子-1973年2月19日(第225回)
2月25日:狙いうち/山本リンダ-1973年2月19日(第225回)
2月25日:しのび逢い/尾崎紀世彦-1973年3月19日(第229回)
2月25日:天使も夢みる/桜田淳子-1973年5月28日(第239回)
5月25日:コーヒーショップで/あべ静江-1973年6月4日(第240回)
6月10日:渚にて/いしだあゆみ-1973年7月30日(第248回)
6月25日:街の灯り/堺正章-1973年9月17日(第255回)
9月10日:愛の氷河/いしだあゆみ-1973年9月10日(第254回)
10月5日:冬の旅/森進一-1973年10月1日(第257回)
10月21日:愛さずにいられない/野口五郎-1973年10月15日(第259回)
11月5日:花物語/桜田淳子-1973年11月26日(第265回)
12月10日:きりきり舞い/山本リンダ-1973年12月10日(第267回)
<1974年>
1月(日付不明):突然の愛/あべ静江-1974年1月7日(第270回)
2月5日:こころの叫び/野口五郎-1974年1月28日(第273回)
2月25日:三色すみれ/桜田淳子-1974年4月1日(第282回)
3月10日:円舞曲(わるつ)/ちあきなおみ-1974年2月25日(第277回)
3月10日:花のようにひそやかに/小柳ルミ子-1974年4月1日(第282回)
4月10日:真赤な鞄/山本リンダ-1974年4月29日(第286回)
4月15日:さらば友よ/森進一-1974年4月1日(第282回)
5月25日:黄色いリボン/桜田淳子-1974年7月8日(第296回)
7月10日:奇蹟の唄/山本リンダ-1974年8月5日(第300回)
8月25日:闇夜にドッキリ/山本リンダ-1974年9月30日(第308回)
8月25日:花占い/桜田淳子-1974年10月21日(第311回)
8月(日付不明):秋日和/あべ静江-1974年8月26日(第303回)
9月1日:かなしみ模様/ちあきなおみ-1974年9月30日(第308回)
9月15日:北航路/森進一-1974年9月2日(第304回)
12月5日:はじめての出来事/桜田淳子-1974年12月2日(第317回)
<1975年>
3月5日:ひとり歩き/桜田淳子-1975年2月24日(第329回)
4月25日:二重唱(デュエット)/岩崎宏美-1975年6月16日(第345回)
5月(日付不明):乳母車/菅原洋一-1975年6月30日(第347回)
6月5日:十七の夏/桜田淳子-1975年7月7日(第348回)
7月25日:ロマンス/岩崎宏美-1975年11月24日(第368回)
8月21日:時の過ぎゆくままに/沢田研二-1975年9月1日(第356回)
8月25日:天使のくちびる/桜田淳子-1975年9月1日(第356回)
10月25日:センチメンタル/岩崎宏美-1975年12月15日(第371回)
11月25日:ゆれてる私/桜田淳子-1975年11月17日(第367回)
12月1日:北の宿から/都はるみ-1975年12月8日(第370回)
<1976年>
1月10日:故郷/森進一-1976年1月19日(第376回)
1月21日:立ちどまるなふりむくな/沢田研二-1976年1月26日(第377回)
1月25日:ファンタジー/岩崎宏美-1976年3月22日(第385回)
2月1日:おもいで岬/新沼謙治-1976年3月15日(第384回)
2月21日:二日酔い/梓みちよ-1976年3月8日(第383回)
2月25日:君よ抱かれて熱くなれ/西城秀樹-1976年2月23日(第381回)
2月25日:泣かないわ/桜田淳子-1976年2月23日(第381回)
3月1日:おまえさん/木の実ナナ-1976年5月17日(第393回)
4月5日:みかん/大竹しのぶ-1976年4月5日(第387回)
4月25日:未来/岩崎宏美-1976年4月26日(第390回)
5月25日:夏にご用心/桜田淳子-1976年5月24日(第394回)
6月1日:嫁に来ないか/新沼謙治-1976年6月28日(第399回)
6月5日:ジャガー/西城秀樹-1976年6月14日(第397回)
6月5日:踊り子/フォーリーブス-1976年6月28日(第399回)
6月25日:夏八景/麻丘めぐみ-1976年7月26日(第403回)
7月21日:二十二歳まで/ダークダックス-1976年8月23日(第407回)
8月1日:霧のめぐり逢い/岩崎宏美-1976年8月16日(第406回)
8月21日:青春時代/森田公一とトップギャラン-1976年9月13日(第410回)
8月25日:ペッパー警部/ピンクレディー-1976年12月20日(第424回)
8月25日:ねえ!気がついてよ/桜田淳子-1976年9月6日(第409回)
9月5日:若き獅子たち/西城秀樹-1976年9月20日(第411回)
11月5日:ドリーム/岩崎宏美-1976年10月25日(第416回)
11月25日:SOS/ピンクレディー-1977年1月3日(第426回)
12月5日:もう一度だけふり向いて/桜田淳子-1976年12月13日(第423回)
12月20日:ラスト・シーン/西城秀樹-1976年12月20日(第424回)
<1977年>
1月1日:雨やどり/都はるみ-1977年2月28日(第434回)
1月1日:津軽海峡・冬景色/石川さゆり-1977年3月14日(第436回)
1月25日:想い出の樹の下で/岩崎宏美-1977年2月7日(第431回)
2月1日:さよならを言う気もない/沢田研二-1977年1月10日(第427回)
2月1日:ヘッドライト/新沼謙治-1977年1月24日(第429回)
2月25日:あなたのすべて/桜田淳子-1977年2月14日(第432回) 
3月10日:カルメン'77/ピンクレディー-1977年3月28日(第438回)
3月15日:ブーメランストリート/西城秀樹-1977年3月14日(第436回)
4月25日:悲恋白書/岩崎宏美-1977年5月2日(第443回)
5月10日:能登半島/石川さゆり-1977年8月8日(第457回)
5月21日:勝手にしやがれ/沢田研二-1977年5月23日(第446回)
5月25日:気まぐれヴィーナス/桜田淳子-1977年5月9日(第444回)
6月5日:セクシーロックンローラー/西城秀樹-1977年6月13日(第449回)
6月10日:渚のシンドバッド/ピンクレディー-1977年6月27日(第451回)
6月25日:気絶するほど悩ましい/Char-1977年7月25日(第455回)
7月5日:熱帯魚/岩崎宏美-1977年7月18日(第454回)
8月21日:過ぎてしまえば/森田公一とトップギャラン-1977年8月29日(第460回)
9月1日:暖流/石川さゆり-1977年9月12日(第462回)
9月5日:思秋期/岩崎宏美-1977年9月12日(第462回)
9月5日:もう戻れない/桜田淳子-1977年8月22日(第459回)
9月5日:ウォンテッド(指名手配)/ピンクレディー-1977年9月5日(第461回)
9月5日:憎みきれないろくでなし/沢田研二-1977年9月5日(第461回)
9月5日:ボタンを外せ/西城秀樹-1977年9月26日(第464回)
10月5日:東京物語/森進一-1977年10月31日(第469回)
11月25日:逆光線/Char-1977年12月5日(第474回)
12月5日:UFO/ピンクレディー-1977年12月12日(第475回)
<1978年>
1月1日:ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹-1977年12月26日(第477回)
1月25日:二十才前(はたちまえ)-1978年1月16日(第480回)
2月1日:サムライ/沢田研二-1978年1月30日(第482回)
2月5日:甘ったれ/森進一-1978年1月30日(第482回)
3月25日:闘牛士/Char-1978年4月10日(第492回)
3月25日:サウスポー/ピンクレディー-1978年3月13日(第488回)
3月25日:狼なんか怖くない/石野真子-1978年3月27日(第490回)
4月1日:砂になりたい/石川さゆり-1978年5月8日(第496回)
5月5日:あざやかな場面/岩崎宏美-1978年5月1日(第495回)
5月21日:ダーリング/沢田研二-1978年5月22日(第498回)
5月25日:林檎抄/森進一-1978年5月29日(第499回)
5月25日:炎/西城秀樹-1978年6月5日(第500回)
6月21日:林檎殺人事件/郷ひろみ・樹木希林-1978年6月12日(第501回)
6月25日:モンスター/ピンクレディー-1978年6月19日(第502回)
6月25日:わたしの首領(ドン)/石野真子-1978年7月10日(第505回)
7月1日:火の国へ/石川さゆり-1978年6月26日(第503回)
7月25日:シンデレラ・ハネムーン/岩崎宏美-1978年7月17日(第506回)
8月5日:たそがれ・マイラブ/大橋純子-1978年9月4日(第513回)
8月25日:ブルースカイブルー/西城秀樹-1978年8月28日(第512回)
9月5日:透明人間/ピンクレディー-1978年8月28日(第512回)
9月5日:彼岸花/森昌子-1978年9月18日(第515回)
9月10日:LOVE(抱きしめたい)/沢田研二-1978年9月4日(第513回)
10月5日:失恋記念日/石野真子-1978年10月16日(第519回)
12月5日:カメレオン・アーミー/ピンクレディー-1978年12月11日(第527回)
12月25日:送春曲/野口五郎ー1978年12月18日(第528回)
<1979年>
2月1日:カサブランカ・ダンディ/沢田研二-1979年2月19日(第537回)
2月25日:サンタモニカの風/桜田淳子-1979年3月19日(第541回)
4月5日:プリティー・プリティー/石野真子-1979年4月9日(第544回)
4月21日:真夏の夜の夢/野口五郎-1979年4月2日(第543回)
5月21日:OH! ギャル/沢田研二-1979年5月21日(第550回)
5月25日:舟唄/八代亜紀-1979年6月11日(第553回)
5月25日:MISS KISS/桜田淳子-1979年6月25日(第555回)
6月21日:いつも心に太陽を/郷ひろみ-1979年6月11日(第553回)
7月5日:波乗りパイレーツ/ピンクレディー-1979年7月16日(第558回)
7月5日:ワンダー・ブギ/石野真子-1979年8月6日(第561回)
7月10日:女になって出直せよ/野口五郎-1979年7月2日(第556回)
7月25日:赤道直下/ジョニー大倉-1979年8月20日(第563回)
9月9日:マンデー・モナリザ・クラブ/ピンクレディー-1979年9月10日(第566回)
<1980年>
4月25日:雨の慕情/八代亜紀-1980年4月7日(第595回)
5月1日:涙きらり/森進一-1980年5月5日(第599回)
9月22日:酒場でDABADA/沢田研二-1980年9月22日(第619回)
9月25日:港町絶唱/八代亜紀-1980年9月22日(第619回)
10月25日:燃えつきて/大橋純子-1980年11月17日(第627回)
<1981年>
4月1日:もしもピアノが弾けたなら/西田敏行-1981年6月8日(第656回)
9月5日:めらんこりぃ白書/柏原よしえ-1981年9月21日(第671回)
<1982年>
1月10日:麗人/沢田研二-1982年1月11日(第687回)
3月14日:愛しつづけるボレロ/五木ひろし-1982年3月15日(第696回)
7月5日:契り/五木ひろし-1982年6月28日(第711回)
10月25日:居酒屋/五木ひろし・木の実ナナ-1983年3月14日(第747回)
<1983年>
1月25日:心乱して運命かえて/内藤やす子-1983年2月7日(第742回)
5月12日:素敵にシンデレラ・コンプレックス/郷ひろみ-1983年5月16日(第756回)
5月21日:純愛さがし/高田みづえ-1983年5月30日(第758回)
5月21日:湘南哀歌/山本譲二-1983年8月1日(第767回)
8月21日:日本海/八代亜紀-1983年8月29日(第771回)
9月1日:ほっといてくれ/郷ひろみ-1983年9月5日(第772回)
10月(日付不明)/銀座の雨の物語/小西博之・清水由貴子-1983年10月17日(第778回)
<1984年>
5月21日:未完の肖像/岩崎宏美-1984年5月21日(第808回)
5月23日:騎士道/田原俊彦-1984年5月14日(第807回)
8月5日:北の蛍/森進一-1984年9月3日(第823回)
<1985年>
7月21日:夏ざかりほの字組/Toshi&Naoko(田原俊彦・研ナオコ)-1985年7月17日(第867回)
12月1日:熱き心に/小林旭-1986年10月15日(第931回)
<1986年>
3月5日:Hardにやさしく/田原俊彦-1986年3月12日(第900回)
4月21日:わたしを棄てたらこわいよ/内藤やす子-1986年6月11日(第913回)
6月19日:ベルエポックによろしく-WHAT'S 55-/田原俊彦-1986年6月4日(第912回)
6月25日:もう一度ふたりで歌いたい/和田アキ子-1986年7月9日(第917回)
9月21日:あッ/田原俊彦-1986年9月17日(第927回)
10月22日:女神/沢田研二-1986年10月22日(第932回)
11月25日:旅空夜空/小林旭-1987年2月18日(第949回)
<1987年>
1月21日:KID/田原俊彦-1987年1月14日(第944回)
3月21日:きわどい季節-Summer gruffiti-/沢田研二-1987年6月3日(第964回)
4月1日:追憶/五木ひろし-1987年4月1日(第955回)
5月1日:A・r・i・e・s/柏原芳恵-1987年5月27日(第963回)
5月21日:夜叉のように/山本譲二-1987年11月18日(第988回)
8月25日:抱擁/和田アキ子-1987年10月7日(第982回)
10月5日:花も嵐も放浪記/五木ひろし-1987年10月7日(第982回)
10月26日:冬の孔雀/柏原芳恵-1987年10月14日(第983回)
<1988年>
3月21日:豊後水道/川中美幸-1988年4月6日(第1008回)
4月21日:かもめの歌/八代亜紀-1988年6月8日(第1017回)
7月15日:恋するような友情を/シブがき隊-1988年7月6日(第1021回)
8月22日:湊の五番町/五木ひろし-1988年8月24日(第1028回)
10月26日:Stranger-Only tonight-/沢田研二-1988年10月26日(第1037回)
12月1日:絆/五木ひろし-1988年12月14日(第1044回)
<1989年>
11月1日:学園天国/小泉今日子-1989年10月25日(第1086回)
<1990年>
2月10日:花-ブーケ-束/八代亜紀-1990年2月14日(第1101回)

これらはほんの一部で、実際はもっと多くの曲が夜ヒットでも披露されていた可能性が高いです。
特に特筆すべきは1976~1978年辺りの作品の多さで、その多くがヒットチャート上位に入る大ヒットとなっており、この時代の音楽賞レースを席巻した作品がズラリと並んでいます。また、夜ヒットという番組史においてもほぼ毎週、最低でも1~2曲は彼の作品が紹介されていたわけで、その点から見ても、いかに一時代を築いた作家であったかが一目瞭然だと思います。

1980年代に入ると、徐々に作詞家としての活動よりも「瀬戸内少年野球団」などに代表される小説家・エッセイストとしての活動に重きが置かれるようになっていき、作詞を手がける頻度もスローペースとなっていきましたが、秋元康や松本隆ら1980年代の歌謡界を代表する作詞家の活躍しやすい土壌を築いたのは紛れもなく、阿久さんや、彼のライバルと目されていたなかにし礼などといった先駆者たちの功績によるところが大きいと思います。阿久さんやなかにし礼、故・安井かずみさんらが台頭する以前の日本の歌謡曲の詞的世界はどちらかといえば、没個性的で定式ばったところがかなりあったように思いますが、彼らの台頭により、その世界観は劇的に拡大されたといえます。
それまでの「定式」をある程度崩壊させ、旧来型のよき伝統は堅守しつつも「時代が求めるニーズ」に敏感にアンテナを張り巡らせ、そして独特の感性によりそのニーズを自分なりに咀嚼(そしゃく)し、その上で個性的な詞的世界を創出して、ニーズに巧みに応えてゆく。今ではこういう捉え方は作詞家業においてはスタンダードすぎる考え方なのかもしれませんが、そのような新たな「規範意識」ともいうべきものを見事に浸透させた、という意味においても、阿久悠さんの名前とその偉業の数々は、今後も語り継がれて然るべきものといえると思います。

晩年、阿久さんは「歌謡曲における詞の力が弱まっている」と幾度となくインタビューに応じる際に、現代の音楽界に対する警鐘を鳴らしていました。それは、やはり「作詞家というポジションの向上に努めた」「作詞に対する意識の新たなスタンダードを築いた」という自負から出た重みのある言葉であると思います。現代の音楽界は詞の世界観が、そのやや乱暴な表現故に何度聞いても伝わりにくく、詞よりも音楽・サウンドという部分がかなり偏重されてしまっており(特に唄ありの音楽が主に「ダンスミュージック」という形で使われているのは個人的には「愚の骨頂」でしかないと感じます)、その点が日本の歌謡界を「くだらない」ものとしていることは否定できないでしょう。それはその時代時代のクリエーターが生まれ育ってきた環境によるところが大なわけで、それを劇的に改善する手立てを構築するというのはかなり難しいのも事実です。ただ、それだからといって、単に「あの人はすごかった、自分たちは追いつけない」といった単純な考えでその先駆者たちの偉業を純客観視するのではなく、先駆者たちの偉業の数々を主観的に捉え、そこから「詞と音の均衡をどうとるべきか」という部分を追求して、真に優れた作品を世に送り出してゆく。それぐらいの努力はすべきだろうと思います。明らかに現在人気のあるJ-POPのクリエーターたちはそういった本来為すべき「過去の偉業の研鑽」を怠惰しているようにしか思えない。それぐらいにレベルが低い作品が多すぎるような気がします。

そういった意味でも阿久さんのような抜群の存在感を以って毅然と真っ向から、今の音楽界に批判と提言をすることができる人物がいなくなってしまうのは大変残念なことであり、音楽界においてももっと彼が指摘をし、提案をし、改善をしていきたかったことも多かったであろうことを考慮すると、日本の音楽界にとり、彼の死去は、日本の歌謡界の大きな損失であると言わざるをえないでしょう。

今一度、「今」を駆け抜けるクリエーターに「音楽」「歌謡曲」というものの本来あるべき姿、どれを「守り」、どれを「壊す」のか、その程よい境界線がどこにあるのか、そういったものをこの阿久さんの死をきっかけとして追求してほしいところです。

夜ヒット・歌手別出演履歴<25> ピンクレディー/増田惠子/MIE

2007-08-05 | 夜のヒットスタジオ/歌手別出演履歴
「夜ヒット」出演履歴シリーズ、今回は1970年代後半の歌謡界を疾風の如く駆け抜けていったピンクレディーの出演履歴を振り返ります。

◆ピンクレディー-初出演:1976年12月20日(第424回)/最終出演:1981年3月30日(第646回)、出演回数:35回
01 1976/12/20(424) ペッパー警部
02 1977/01/03(426) SOS
03 1977/03/28(438) カルメン'77
04 1977/05/02(443) カルメン'77
05 1977/06/06(448) ヒットメドレー<SOS、ペッパー警部ほか>(withキャンディーズ)
06 1977/06/27(451) 渚のシンドバッド
07 1977/07/25(455) 渚のシンドバッド
08 1977/09/05(461) ウォンデッド(指名手配)
09 1977/10/03(465) ペッパー警部<※10周年突入記念特番>
10 1977/11/28(473) UFO
11 1977/12/12(475) UFO
12 1978/01/23(481) UFO
13 1978/03/13(488) サウスポー
14 1978/04/10(492) サウスポー
15 1978/05/15(497) サウスポー
16 1978/06/19(502) モンスター
17 1978/08/28(512) モンスター
18 1978/09/25(516) 透明人間
19 1978/10/30(521) 透明人間
20 1978/11/20(524) カメレオン・アーミー
21 1978/12/11(527) カメレオン・アーミー
22 1979/02/05(535) カメレオン・アーミー
23 1979/03/05(539) ジバング
24 1979/03/19(541) ジバング
25 1979/05/14(549) ピンク・タイフーン
26 1979/06/11(553) ピンク・タイフーン
27 1979/07/16(558) 波乗りパイレーツ
28 1979/09/10(566) マンデー・モナリザ・クラブ
29 1979/10/08(570) KISS IN THE DARK
30 1979/11/12(575) KISS IN THE DARK
31 1980/05/26(602) 世界英雄史
32 1980/07/07(608) 世界英雄史
33 1980/09/29(620) うたがた 
34 1981/02/09(639) リメンバー
35 1981/03/30(646) Oh!/ヒットメドレー(ペッパー警部ほか、with郷ひろみ、田原俊彦ほか)

◆増田けい子(惠子)-初出演:1982年1月25日(第689回)/最終出演:1985年10月30日(第882回)、出演回数:4回(ピンクレディー時代を含め39回)
01 1982/01/25(689) すずめ
02 1984/07/02(814) 女優
03 1985/09/04(874) FU・LI・NE
04 1985/10/30(882) FU・LI・NE

◆MIE(未唯)-初出演:1981年8月10日(第665回)/最終出演:1985年3月4日(第848回)、出演回数:6回(ピンクレディー時代を含め計41回)
01 1981/08/10(665) ブラームスはロックがお好き
02 1984/06/11(811) NEVER
03 1984/07/09(815) NEVER
04 1984/09/03(823) おつだね
05 1984/11/19(834) 灰とダイヤモンド
06 1985/03/04(848) 鏡の中の女
   
夜のヒットスタジオ初登場はデビューから4ヵ月後の1976年12月。彼女たちのデビューの契機が日本テレビ系の『スター誕生!』であったことから当初日本テレビとの関係が強かったこと、また所属事務所が弱小でもあったためか、「レコード大賞」を除く主要音楽賞レースで新人賞を受賞した後の1976年の末にようやく番組に初登場しました。

2曲目「SOS」がオリコンシングルチャートで初の1位に輝くと、その後は出す曲出す曲が全て軒並み驚異的な好セールスを記録。小学生を中心に彼女たちの奇抜な衣装や振り付けが注目されるようにもなり、歌番組以外でも「飛べ!孫悟空」(TBS系)など数多くのレギュラー番組でメインを張るようになったり、キャラクターグッズが沢山製作されるなど、国民的なアイドルとしての地位を確立。
そのような過酷ともいえる多忙ぶりの中でも夜ヒットには「カルメン'77」以降は準レギュラー格として位置づけられ、当時は大御所・演歌勢が主であったOPメドレー及び本編のトリを任されることも多く、いかに当時の彼女たちの人気が他のアイドル歌手に比べても「別格」であったかが、夜ヒット内での厚遇ぶりを見ても容易に推測することができます。

そして、1978年、前年末に発売した「UFO」で歌謡界の最高峰・日本レコード大賞を受賞。人気はピークとなります。このときのレコード大賞司会者・高橋圭三さんのフレーズは今でもテレビ史上に残る名文句として語り草となっています。

しかし、このレコード大賞の後に行われる同じく年末の風物詩「NHK紅白歌合戦」には、他局のチャリティーコンサートへの出演を優先するとの名目で出場を辞退。そして、1979年に入ると、日本での圧倒的なブームメントを背景として米国への進出をもくろみ、この年の秋から暫くの間渡米し、日本での活動を一時セーブするなどといった売り出し方の迷走が生じるようにもなり、人気は「レコード大賞」受賞を以って頭打ちに。以降は急速な勢いで日本での人気は衰退傾向となり、夜ヒットの出演頻度も、1980年になると著しく減少してしまいました。

そして、1981年春、雪が残る後楽園球場にて「解散コンサート」を行い、約4年半の活動に終止符を打ち、ミーは芸名表記を「MIE」とし、ケイは本名の「増田惠子」名義に改めて、単独での女優・歌手活動に邁進することとなりました。夜ヒットでは一時代を築いたアイドルとしての功績を重視し、番組の名物ともいえる「サヨナラ」企画を組み、ラストシングルとなった「Oh!」をスタジオ出演者・スタッフ・関係者全員がペンライトを振り応援する中で熱唱、感動的なシーンを残しました。

彼女たちを語る上でやはり外せないのが、ブレーン的存在であった作詞家・阿久悠と作曲家・都倉俊一。「スター誕生!」でオーディションを受けた際、その後のイメージとは全く真逆の、地味な雰囲気でオーディションを受け合格をしましたが、その後、この番組の審査員を務めていた阿久・都倉が彼女たちの面倒を全面的に見ることになり、オーディション時の衣装を180度変える奇抜かつ露出の多いコスチューム、そして派手な振り付けに、過激な歌詞、リズム感豊かな曲調で「ペッパー警部」で颯爽と登場し、瞬く間に注目を集める存在となりました。このような印象をガラリと変える衝撃的なデビューのさせ方をプロデュースしてゆく上でやはり大きな影響力を発揮したのが阿久・都倉のコンビであり、「ペッパー警部」なる曲のタイトルは阿久、デュオ名「ピンクレディー」は都倉がそれぞれ命名したものでした。
その後も「レコード大賞」で頂点を極めるまでの間、阿久・都倉は事実上の2人の「師匠」という位置づけで、衝撃的な印象を残す楽曲を彼女たちに提供していきました。

作詞家の阿久、都倉にとっても後年「やりがいのある面白い仕事」であったとこのピンクレディーのプロデュースの仕事を振り返っており、阿久は「歌の世界で「万博」をやるというコンセプトで作詞に挑んでいた」とも回顧しています。
一見して「イロモノ」的色彩が強いにも拘らず、超一流の、一つの時代を築くに至った背景には、それなりの当事者たちの仕事に対する意欲・考えの密度の濃さがあったからに他ならないともいえるでしょう。
しかし、その仕事に対する充実感、そしてそれに反映した過熱気味ともいえる異常な人気ぶりから、徐々に当事者間にもその人気や仕事そのものの方向性に対する迷い・過信も生じていたことは事実であり、それが一瞬でも表に出てしまえば、世間の目が一気に他の新たな対象に移ってしまう。その「ブーム」ともいえる人気がいかに実際は脆いかということを、活動後期に露呈してしまったのも否定できないとも言えると思います。

<追記>
先日、ピンクレディーの前期作品の大半の作詞を手がけた阿久悠さんがお亡くなりになりました。
彼が歌謡曲の作詞家として全盛を極めたのは、1976~1979年頃(◆レコード大賞も1976~1978年まで3連覇)のこと。上述のピンクレディーのほかにも沢田研二の「勝手にしやがれ」、都はるみの「北の宿から」、大橋純子の「たそがれマイ・ラブ」、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」など実に多種多様な非凡な作詞センスを発揮し、歌謡曲黄金時代とも称されるこの時代の歌謡界をリードしてきた最大の功労者であったと思います。また、それらの多くが「国民的愛唱歌」としての側面を持ち、20年、30年を経た現在も尚、幅広い世代により歌い継がれ、知られているという点からみても、「その時代だけに適応すればよい」という短絡的な考えではなく、もっと深く、大げさに言えば「恒久的に愛される、印象に残る歌詞」の重要性を誰よりも強く認識していた人物であったということもできるかもしれません。

彼の作詞の歌は、当然のことながら「夜ヒット」でもかなりの数披露されています。近いうちに夜ヒットで披露された阿久悠作品の一覧をアップできればと思います。

この場を借りて、阿久悠さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

夜のヒットスタジオ・歌手別出演履歴<24> 小泉今日子

2007-08-02 | 夜のヒットスタジオ/歌手別出演履歴
「夜ヒット」・出演履歴シリーズ、今回は1980年代夜ヒットの「華」であった小泉今日子の出演履歴を振り返ります。

◆小泉今日子-初出演:1982年3月22日(第697回)/最終出演:1990年9月19日(第1130回)、出演回数:67回
01 1982/03/22(0697) 私の16才
02 1982/08/09(0717) 素敵なラブリーボーイ
03 1982/10/11(0726) ひとり街角
04 1983/02/21(0744) 春風の誘惑
05 1983/05/23(0757) 真っ赤な女の子
06 1983/08/01(0767) 半分少女
07 1983/11/21(0783) 艶姿ナミダ娘
08 1984/02/06(0793) 艶姿ナミダ娘
09 1984/04/16(0803) 渚のはいから人魚
10 1984/05/07(0806) 風のマジカル
11 1984/06/18(0812) 迷宮のアンドローラ
12 1984/07/09(0815) 迷宮のアンドローラ
13 1984/08/27(0822) ヤマトナデシコ七変化
14 1984/09/17(0825) ヤマトナデシコ七変化
15 1984/10/22(0830) ヤマトナデシコ七変化
16 1984/11/12(0833) ヤマトナデシコ七変化
17 1984/12/24(0839) The Stardust Memory
18 1985/01/07(0840) The Stardust Memory
19 1985/02/04(0844) The Stardust Memory
20 1985/04/10(0853) 常夏娘
21 1985/05/08(0857) 常夏娘
22 1985/05/29(0860) 常夏娘
23 1985/07/03(0865) ハートブレイカー<「Kyon2」名義>   
24 1985/07/24(0868) 魔女
25 1985/08/14(0871) 魔女
26 1985/09/11(0875) 魔女
27 1985/11/20(0885) なんてったってアイドル
28 1985/12/04(0887) なんてったってアイドル
29 1985/12/25(0890) なんてったってアイドル
30 1986/04/23(0906) 100%男女交際
31 1986/05/21(0910) 100%男女交際
32 1986/07/16(0918) 夜明けのMEW
33 1986/08/13(0922) 夜明けのMEW
34 1986/09/03(0925) 夜明けのMEW
35 1986/11/19(0936) 木枯らしに抱かれて
36 1986/12/24(0941) 木枯らしに抱かれて
37 1987/01/07(0943) 木枯らしに抱かれて
38 1987/02/11(0948) 木枯らしに抱かれて
39 1987/03/18(0953) 今年最後のシャーベット
40 1987/07/01(0968) Smile Again
41 1987/07/29(0972) Smile Again
42 1987/08/19(0975) Smile Again
43 1987/09/30(0981) キスを止めないで
44 1987/10/21(0984) キスを止めないで
45 1987/11/11(0987) キスを止めないで
46 1987/12/23(0993) キスを止めないで
47 1988/02/03(0999) One Moon
48 1988/03/09(1004) GOOD MORNING-CALL
49 1988/03/30(1007) GOOD MORNING-CALL
50 1988/07/06(1021) 夏のタイムマシーン<マンスリー>
51 1988/07/13(1022) 夏のタイムマシーン<マンスリー>
52 1988/07/20(1023) (不詳)<マンスリー>
53 1988/07/27(1024) The Stardust Memory(Slow Version)/東の島にブタがいたVol.3(with爆風スランプ)<マンスリー>
54 1988/10/19(1036) 怪盗ルビイ
55 1988/11/09(1039) たとえば、フォーエバー(with真田広之)
56 1988/11/23(1041) SOS(with中森明菜)/怪盗ルビイ
57 1989/03/29(1058) Fade Out
58 1989/05/10(1064) Fade Out
59 1989/07/19(1074) Fade Out
60 1989/10/25(1086) 学園天国
61 1989/12/20(1094) 学園天国
62 1989/12/27(1095) 今をいじめて泣かないで/真赤な太陽(with東京スカパラダイスオーケストラ)
63 1990/03/21(1106) 見逃してくれよ!
64 1990/04/25(1109) 見逃してくれよ!
65 1990/06/20(1117) La La La・・・
66 1990/07/18(1121) La La La・・・
67 1990/09/19(1130) 丘を越えて(with東京スカパラダイスオーケストラ)

夜のヒットスタジオ初登場はデビュー翌日の1982年3月22日。彼女も以前紹介した細川たかしなどと同じく夜ヒットと関係の強い「バーニングプロ」からのデビューであったことから、他の「花の82年組」と称される同期組よりも番組出演につき優遇される立場にありました。

最初期は新曲発売のとき1回のみという形で、3~4ヶ月程度に1回という間隔での登場でしたが、1983年末に発表した「艶姿ナミダ娘」のヒットにより、翌年からは松田聖子・河合奈保子・中森明菜と並ぶ夜ヒットの準レギュラー格女性アイドルの一角を形成するようになりました。

因みに1987年の4月~6月まで丸々出演していないのは、当時発売された「水のルージュ」がカネボウCFソングであった関係上出演を自粛、1988・1989年の出演回数が少ないのは、この2年間は個人名義でのシングルが約半年の間隔で2枚しか発売されなかったことに伴うもので、中森明菜のようにアルバム・B面による代替という形はあまり取られませんでした。

彼女も当時の夜ヒット司会者・芳村真理から独創的なファッションセンスを絶賛されていた一人で、必ず芳村時代には、彼女のトークはまず、芳村がそのときの衣装を評するところから始まっていたような記憶があります。
特に彼女の衣装センスが際立ってマスコミでも取り上げられるようになったのは、1985年の大ヒット作「なんてったってアイドル」からで、夜ヒットでは一段際立った衣装を毎回着用していました(1960年代のロカビリー娘風ルック、サンタクロース風のミニスカート衣装など)。
そのほかにも、「Smile Again」では一転して、半そでの無地白シャツに麦藁帽子、つなぎのズボンルックという出で立ちをしたり、浴衣で登場したと思えば、「夜明けのMEW」などではいつもとは違う、水色を貴重としたような独特のメイクで登場したりと、夜ヒットでの彼女のファッションは注目の的でもありました。

1989年以降は、曲調が「ロック」調に変化し始め、「見逃してくれよ!」、そしてフィンガー5のリバイバル「学園天国」で新境地を開拓。この頃になると服装だけでなく、彼女のサバサバした性格・タレントとしての一見地味に見えて、蓋を開けると無限に広がるという独特の個性が同世代の女性の中でも「目標とすべき生き方」とまで位置づけられるようになり、人気を不動のものとしていました。

近年は、ドラマ・映画での活躍は顕著ですが、歌手活動という面で、フェードアウト気味となっています。また、独特の感性をまた歌の中でも表現していってほしいと願ってやみません。