伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト リストをご覧頂く際の留意点等

2012-01-01 | Weblog
「曲目リスト(改訂・増補版)」をご覧頂く際の留意点を下記に記載しました。
これらの点に留意なさった上でご覧頂きますようお願いいたします。

<各リストで使用している略号について>
「R」:当該曲目のレコード(CD)発売日
「HC」:当該曲目のオリコンチャートでの最高位
「BT」:TBS系「ザ・ベストテン」での最高位(10位圏内にランクインされたもののみ記載)。

<背景色(文字色)について>
:オリコン週間シングルチャートで1位を獲得した曲目名、並びに特筆すべき賞歴・売上枚数等の部分にて使用
:オリコン週間シングルチャートで2~10位を獲得した曲目名につき使用

<その他の留意点>
・各曲目につき、放送回順に記載していますが、必ずしもその放送回がその曲目が初めてヒットスタジオで歌われた(演奏された)回であるわけではないので、ご覧頂く際にはその辺りのところをご留意下さい。
 ・ また、1970年代前半までについては映像資料等が乏しいため、レコード発売日と各歌手の出演日との兼ね合い、何らかのタイアップ曲として発売されたもの については、スポンサーや他局番組との競合の有無、その他種々の点を考慮の上、その放送回に披露されたことがほぼ間違いないであろうと「推定」されるもの についてのみ記載をしております。発売日等で間違いがございましたらご一報下さい。

【緊急特集】「夜ヒット」を作った男・塚田茂氏逝く。

2008-05-16 | Weblog

「夜のヒットスタジオ」の立ち上げから番組終了時まで、構成・監修として関わってこられた番組の「影」の大功労者、塚田茂さんが13日に脳梗塞のため82歳でお亡くなりになりました。

ここでは塚田さんの経歴を振り返りながら、在りし日の故人を追悼したいと思います。

塚田さんは1945年に東宝に入社。帝劇(帝国劇場)を経て、日劇(日本劇場)演劇部へ配属され、ここから演出家・構成作家としての人生をスタート。1955年に、NHK「ガラクタ狂想曲」でテレビ番組の構成を初めて担当して以降は主な活動の拠点を、まだまだ発展途上の段階にあったテレビ放送の世界に求め、「ロッテ歌のアルバム」(KRT→現・TBS)、「光子の窓」(日本テレビ)、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)など、テレビ黎明期を彩った名番組の数々の立ち上げに参加。年末の「NHK紅白歌合戦」にもテレビ放送が始まり現行の大晦日、大劇場からの生中継スタイルに移行した第4回(1953年)に日劇スタッフの一員として関わって以来、第37回(1986年)まで30年近くに渡り構成・演出の中枢として活躍。毎年平均70%以上の視聴率を誇る「国民的番組」への発展に大きく寄与しました。
またこの頃から、自身の演出する番組や舞台に無名ながら有望な新人株を積極的に起用することでも知られ、獅子てんや・瀬戸わんや、脱線トリオ、そしてコント55号、てんぷくトリオらの人気沸騰の契機を作るなど、演芸界にも大きな足跡を残しています。

60年代後半には入ってからも「小川宏ショー」「新春かくし芸大会」(以上、フジテレビ)、「TBS歌謡曲ベストテン」「家族そろって歌合戦」(以上、TBS)など次々と人気番組の企画立案に参加し、放送作家としての名声を高めてゆくと共に、ザ・ピーナッツによる「銀色の道」(67年)、「涙のかわぐまで」(67年、歌:西田佐知子)などの歌謡曲の作詞の世界にも手を伸ばすなど、活動のジャンルを更に広げていきます。

そんな最中の68年秋、上記の「小川ショー」で旧知の仲であったフジテレビの伊藤昭プロデューサーとともに、長らく不振だった同局の月曜夜10時台のドラマ枠を休止させ、視聴率が確実に見込める新番組の企画が出来上がるまでの繋ぎの番組の企画案を出すように局の編成から要求され、ここから急ピッチでこの番組の企画を練る作業に取り掛かることとなります。その「繋ぎ番組」こそが、この「夜のヒットスタジオ」であったというわけです。

一般の企業や官公庁では仕事始まりの曜日に当たる月曜の夜10時。多くの一般家庭では既に寝床に就いているような夜深い時間帯での放送という点がネックとなり、ヒットスタジオの内容の骨格が出来上がるまでには相当な苦しみがあったようです。しかも、本放送開始前にパイロット版を1回製作することとなり、その製作の期日までほとんど時間がなく、塚田さんや伊藤プロデューサーほか主要製作陣3、4名が三日三晩、フジテレビの一室に缶詰の状態になってアイディアをひねった結果、ここは一つ「生放送の歌番組」ということで企画を通そう、ということでオチが付いたようです。

こうして何とか出来上がった企画案を元にパイロット版を1回製作したところ、編成担当者からも好感触を得たことから、同年11月から「夜のヒットスタジオ」というタイトルで本放送が開始される運びとなりました。

半ば「突貫工事」的、「見切り発車」的ともいえるような形での企画立案の下に始まった「繋ぎ」番組のヒットスタジオは、その後、生放送の長所ともいえるハプニング性を狙った演出を多用することによって瞬く間に世間の注目を一手に集める番組となり、いつの間にか当時低迷期にあったフジテレビの数少ない「ドル箱」へと成長、他方、他局にとっては「脅威」として恐れられる存在となっていきます。

ヒットスタジオの前期、「歌謡バラエティー」路線で人気を博していた頃は、塚田さん自身も、番組の裏方としてだけでなく、コメディリリーフとして自らも画面の前に積極的に登場し番組の盛り上げに一役買い、マエタケ命名による「どんどんクジラ」の愛称で、視聴者にも広くその顔が知れ渡るようになりました。「歌謡ドラマ」では毎回、指揮者の故・ダン池田さん、コーナー担当の小林大輔アナウンサー、レギュラーである東京ロマンチカのリーダー・鶴岡雅義、そして司会のマエタケと並び、重要なオチを付ける役割を任されることも度々ありましたし、オープニングメドレーのエンディング、出演歌手が総登場するときには大抵必ずといっていいほど、いちばん端に陣取り、珍妙な踊りを踊って笑いを取っていた画を覚えている人も現在40代より上の年代の人であればかなり多いはずです。

このヒットスタジオの好調ぶりにより、塚田さんは当然の如く、人気No.1の構成作家へと躍進。その後も「8時だョ!全員集合」(TBS)をはじめとして「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ)、「紅白歌のベストテン」(日本テレビ)、「ザ・ベストテン」(TBS)などの70年代~80年代のテレビ界を駆け抜けた人気番組の主要ブレーンに次々と起用され、1970年代後半~1980年代初めにかけては一番多い時期で週15本ものレギュラーを抱えるという、超多忙な日々を送ることとなります。

しかし、既にこの頃には塚田さんも50代半ばに差し掛かり、一人でこれだけの膨大な仕事量を満遍なく消化することも次第に難しくなり始めていました。そこで自らの不十分な点を補う意味合いも含め、広く有望な構成作家を育てるという名目の元に、1977年、構成作家集団「スタッフ東京」を立ち上げます。

この「スタッフ東京」には、後にビートたけしの番組の大半で主要ブレーンとして活躍する高田文夫や、「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ)などで台頭することとなる玉井貴代志ら、若く、また非凡なセンスに溢れた才能の持ち主が次々と集い、80年代に入ってからは、彼ら弟子筋の作家陣たちに現場での細かい演出はまかせ、塚田さん自身はその演出方針に最終的な決断を下す、「総合監修」という放送の現場からは一歩離れた立場で担当番組に参加することが多くなってゆきました。

そして時は平成に代わり、高田ら自分が育てた作家陣が放送業界で一定のポジションをそれぞれ確立するようになると、それを見届けるかのように、塚田さんは放送界での仕事を完全にセーブ。以降は、八景島シーパラダイスなどの商業施設でのイベントや舞台演出の仕事を中心に活動するようになり、一時期はあれだけだ多くの番組でエンディングロールでお決まりの如く最後に登場していた「作・構成:塚田茂」という文字をテレビの画面で見かける機会はほとんどなくなりました。

ここ数年は脳梗塞で入退院を繰り返すなど体調を壊されておられたそうで、完全に演出家としての活動からも事実上はフェードアウトしておられたようです。ただ、まだまだ本当ならば今のテレビ界、とりわけ音楽番組に対する不満というのが塚田さんの心の中にはあったはずで、それを自由に発言できるような状態ではなかったというのは、「出たがり構成作家」として活躍をしていた塚田さんのこと、大変もどかしい思いであったのではないか・・・・とお気持をお察しするに余りあるところでもあります。

今年初頭のバンマスであったダン池田さんの訃報からそれほど月日が経っていない中で、先ほどヒットスタジオの産みの親である塚田さんの訃報に触れ、私自身、大変驚いていると同時に、また一歩「夜のヒットスタジオ」が輝いていた時代が遠くなったような気がして淋しい限りです。とりわけ、司会の芳村真理と並んで、ヒットスタジオの屋台骨を放送期間のほぼ全期を通じて支えてきた方だけにその思いはかなり強いです・・・。

これでまた一人、「ヒットスタジオ」にいて当然だという人が天に召されてしまったわけですからね・・・。時の流れの早さは本当に残酷だ、ということをこういう訃報に触れる度に思い知らされます。

塚田さんが亡くなっても、ヒットスタジオを毎週楽しみに見てきた人々の心の中にはきっと彼が演出してきた数多くの名場面はいつまでも残り続けることであろうと、私はそう信じたいです。生前、塚田さんは「ヒットスタジオは、代表作として堂々と胸を張って言える番組」だと自負しておられました。塚田さんはそれだけ強い意志を以て番組の企画・監修を通じて、視聴者に少しでも良質の娯楽を提供しようとされていたということの現われでもあり、その思いは少なからず当時の視聴者の方々にもきっと届いているはずだろうと思います。

塚田さんがこの番組を通じて伝えたかったこと、それはやはり「歌手も一人の人間である」という点に尽きると思います。オープニングメドレーやご対面コーナー、そして初期 人気企画のコンピューター恋人選び・歌謡ドラマ、そしてそれまでの歌謡番組の司会者像を覆した同等の権限を持った男女1ペアコンビの気さくな掛け 合い、そして自らも放送作家という本来裏方ながら表に率先して出てきて、番組を盛り立てるべくひょうきんなキャラクターを演じていたというところも含め、これらは全て、塚田さんの伝えようとしていたことを引き出すために用意された"仕掛け"であったわけです。この「画期的」と評される演出手法の成功が、その後の音楽・バラエティー番組 全体を通じて、その製作手法に大きな変革をもたらしたわけですから、やはりそういう意味でもテレビが末永く続く限り、彼の放送界に残した功績、そして彼が残したこの「ヒットスタジオ」という偉大な財産は風化される べきではないと思う次第です。
私も「ヒットスタジオ」ブログを管理している者として、塚田さんが残してきたこの偉大な財産を伝承していく責務を、勝手ながら痛感しているところでございます・・・。

塚田さん、本当にテレビを通じて、多くの「夢」を与えて頂き、ありがとうございました。安らかに・・・・。合掌。


【緊急特集】「おふくろさん」「愛は不死鳥」「愛の執念」・・・川内康範さん逝去

2008-04-08 | Weblog
テレビドラマ「月光仮面」の原作やアニメ「まんが日本昔ばなし」の監修、そして森進一の「おふくろさん」、故・松尾和子さん・マヒナスターズによる「誰よりも君を愛す」、故・青江三奈さんの「恍惚のブルース」など数多くの歌謡曲の作詞を手掛けた川内康範さんが昨日、88歳でお亡くなりになりました。

川内さんは脚本家・作家・政治評論家など長年にわたり多彩な分野で活動をされ、また強い信念の人でもあったがゆえに様々なエピソードを残しており、その生涯を振り返る上で触れなければならないことは膨大なあるわけですが、当ブログでは、「歌謡曲」に関する話題を扱っておりますので、ここでは「作詞家」としての側面にスポットを当て、その人となりを偲びたいと思います。

<ムード歌謡の原点「誰よりも君を愛す」で一躍人気作詞家に>
1941年に東宝に入社して以来、それまでは作家・脚本家としての活動が主だった川内さんが歌謡曲の作詞家として一躍注目を浴びるようになったのは、やはり松尾和子、和田弘とマヒナスターズによる第2回レコード大賞受賞曲「誰よりも君を愛す」であろうと思います。

この曲は元々1960年に発刊された川内さん原作の小説を題材として製作された歌で、その経緯からその小説を著した川内さんが自ら同曲の歌詞を手掛けることとなったようですが、「人間の情愛」をストレートに描いたその作風は一躍日本の歌謡界に衝撃を与えました。その後、1970年代までいわゆる「ムード歌謡」と言われる大人の恋愛を題材とした歌が数多く発表され、そして名作も多く誕生しましたが、その路線の礎を築いたのはこの「誰よりも君を愛す」であったといっても過言ではないでしょう。 この曲を作曲したのは低音の魅力、フランク永井を世に送り出した大作曲家・吉田正さん。吉田さんの悲壮感あるメロディーラインに情熱的な川内さんの詞が溶け込むことでこの曲はリアリティーを持たせ、それゆえにこれほどの反響を得たといえるでしょう。

「誰よりも」の大ヒットを背景として川内さんは作詞家としてのキャリアも着実に積んでいくこととなります。同じく1960年には松尾和子さんソロによる「夜がわるい」(曲自体は結構ヒットしたそうですが、歌詞が当時の歌謡曲としては過激であったために、テレビ・ラジオの放送倫理基準にひっかかり放送自粛を余儀なくされたというエピソードが残っているそうです)、1966年には城卓矢さんを一躍スターダムに伸し上げた「骨まで愛して」、1967年には長らくスランプの状態にあった水原弘さんが「奇蹟のカムバック」を果たした名作「君こそわが命」、1970年には布施明さんの代表作の一つに数えられる「愛は不死鳥」など、現在でも日本歌謡史を振り返る上で欠かすことの出来ない名作を次々と世に送り出していきます。

この中で、川内さんは自身の作詞家人生を語る上で欠かすことの出来ない、2人の新人歌手と出会います。一人は故・青江三奈さん、もう一人は森進一。1966年、ビクターが社運を賭けて「ため息路線」として送り出した2人の大型新人でした。

<川内康範と青江三奈-最後まで切れる事のなかった深い絆>
青江さんについては、銀座のあるクラブを訪れた際、そこの専属歌手として彼女が歌っている姿を見て、そのそれまでの女性歌手にはないハスキーボイスに衝撃を受けた川内さんがスカウト。当時「週刊現代」で受け持っていた連載小説「恍惚」に登場するヒロインの歌手の名前である「青江三奈」を芸名として授け、デビュー作も自ら進んでプロデュースするなど、彼女のプロ歌手デビューに多大な貢献をしました。デビュー作である「恍惚のブルース」は約80万枚の大ヒット、続く1968年には同じく川内さん作詞の「伊勢佐木町ブルース」がミリオンセラーを記録し、一躍青江さんはスター歌手の仲間入りを果たしたました。

その後は川内さんが詞を提供する機会は少なかったようですが、青江さんは2000年に亡くなるまで終生、川内さんとは「師匠と弟子」に近い関係で接していたといいます。青江さんが亡くなる3年前に久々に「恋命」という歌を提供した際、そのレコーディング中に青江さんが珍しく号泣してしまい、何度もレコーディングをしなおすという一幕があったそうですが、青江さんが亡くなった後の某新聞紙への追悼寄稿で、川内さんは、その時に流した涙の真意はわからないとしながらも、「恋愛にも一途な子だったので、ひょっとするとその時も「本当の恋」を探し続けていたのかもしれない」と実の娘の苦しい胸のうちを察するかのような言葉を述べておられます。師匠・弟子、もしくは親と子にも似た深い絆が川内さんと青江さんの間にあった、それを如実に表わしたエピソードだと思います。

<川内康範と森進一①-「森進一の後見人」として奔走>
青江さんと並び、もう一人、川内さんの作詞家人生を語る上で欠かせない歌手が森進一。森進一と川内さんとの出会いはデビュー当初ではなく、デビュー3年目に出した「花と蝶」製作時に歌手と作詞家という立場で対面したのが最初だったそうです。

複雑な家庭環境に育ち、歌手デビューするまで、数十の職業を転々としながら親や幼い弟や妹に仕送りをし続けていたという森の境遇が、やはり同じく、少年時代に数十の職業を転々として様々な苦労を味わった自身の境遇と相通ずるものを川内さんは感じ、二人は意気投合、家族ぐるみの付き合いを始めるようになりました。

その後も、川内さんは「銀座の女」(1970年)、「命あたえて」(1981年)など自ら作詞を手掛けた作品を森に提供する傍ら、彼の芸能生活を脅かしかねない様々なスキャンダルや事件にも真っ先に後見人的な立場として事の収拾に当たるなど、森の芸能活動を全面的にバックアップしました。1973年に森の実母が自殺した際には葬儀を取り仕切り、ショックの色を隠しきれない森を励まし、1979年のナベプロ独立騒動の際には、ナベプロの圧力によって各放送局が森を自身の局の歌謡番組に起用することを自粛するムードが漂う中、川内が直接交渉に当りNHKや一部民放の歌番組への出演を取り付けたりするなど、事あることに川内さんはその火消し役、仲裁役を買って出ていました。

こうした経緯から、世間では長らく川内さんと森との関係は良好なものと見られていた最中の2007年、突如としていわゆる「おふくろさん」騒動が勃発、知られざる両者の決して埋めることの出来ない亀裂が明るみに出たのです。

<川内康範と森進一②-「おふくろさん」歌詞改変騒動>
2007年2月、森、そして川内さんにとっても代表作ともいえる名曲「おふくろさん」に関連して、ある騒動が持ち上がります。

川内さんは前年の紅白歌合戦で森が「おふくろさん」を歌唱した際、オリジナルにはない台詞が自身に許可を得ずに追加されている点を著作権侵害に当ると指摘し、森サイドに話し合いの場を設けるように要求。これに対し森サイドも一度はこれに応諾する態度を見せますが、話し合いを行う直前になって森は体調不良を理由にこれをキャンセル。この態度を川内さんは批判し、「もう森には(「おふくろさん」を)歌ってもらいたくない」と激怒。これに対し、森は「あの歌は「森進一のおふくろさん」として親しまれている」などとしてこの川内さんの批判に耳を貸そうとせず、これに対し川内さんが森に対して「人間失格」と放言、絶縁を宣言したというのが、この騒動の一連の流れです。

元々、このオリジナルの前に付けられた台詞(バース)は、森がまだナベプロの所属であった1978年に、当時彼のコンサートの演出を手掛けていた保富康午さんが補詞をつけることを提案し、保富の書いた詞に原曲作曲者で森の「兄貴分」的な存在でもあった猪俣公章さんが曲をつけたものであったそうですが、この際、川内さんには補詞を付ける旨の連絡は何ら入ってこず、また、当時はまだテレビでは、台詞入りではない、オリジナルバージョンのものを大抵の場合は歌っていたことから、事実上看過された状態が10数年近く続いていました。

この「自身に無断で歌詞が付け加えられている」という事実を川内さんが最初に知ったのは、1994~1995年頃のことでした。この頃から森はオリジナルバージョンよりも台詞を追加したバージョンで「おふくろさん」をテレビで歌うことが多くなり(おそらくこの時期に前後して作曲者の猪俣公章さんが死去したこともあって半ば追悼の意味合いから、この台詞付のバージョンを頻繁に歌うようになったのだろうと思います)、たまたまテレビでこの台詞付バージョンで歌っている姿を川内さんが見かけ、そのときにこの「歌詞改変」の事実を初めて知ることとなったのだそうです。
その後、事あるたびに、森と会うときには台詞付バージョンの歌唱を控えるよう忠言をしてきたそうですが、森からの回答はあまり快いものではなく、そのたびに川内さんの不満は蓄積され、ついに堪忍袋の尾が切れてしまったのが、この2007年の一連の騒動につながったのだろうと思います。

と、ここまで森に対していかにも批判的な論調で文を続けてきましたが、正直なところ、私の考えとしては、この騒動は両者共に「負」を認めざるを得ない部分があったと思います。
まずは森サイドについては、配慮に欠けた行動が目立っていた点は問題であろうと思います。確かにこの頃、肝炎や欝症を患っていたのも事実ではあろうと思いますが、仮にそのような病体を押しても尚交渉に真摯に当っていたとすれば、川内さんの心証も絶対に違っていたと思いますし、相手は、昨日今日会った人ではない、何十年も自身の芸能活動を影で支えた「恩人」といってもよい人物だけにより真摯に対応する心構は持ち合わせておくべきだったかと・・・。

他方、川内さんの言い分に対しても多少腑に落ちない部分があります。
このバースの部分をつけること自体は元々はコンサートでの演出の一貫としてなされたもので、そのコンサートは当時の所属事務所である渡辺プロの主導により開かれていたものであるという事実を十分考慮に入れた上で問題提起をされるべきだったと私は考えます。この事実を頭に置けば、まず真っ先に批判を向けるべきは、森本人ではなく、渡辺プロの姿勢ではないか、と感じたりするのですが・・・。ある掲示板では当時、「渡辺プロを敵に回すのは面倒なので、真っ先に森だけをつるし上げただけではないのか?」と川内さんの言動を批判する論調の書き込みをいくつか見た記憶がありますが、上記のこのバースを付ける経緯を考えると、そう理解されても仕方のないもの言いではあったかな・・・と今思うと感じますね。半ば、メディアに対して高圧的な発言・態度を採ったこともあまり私の目には心証のいいものではなかったですし・・・(ただ、この点はこの騒動とは別にして、川内さんが今のメディアや放送の方向性自体に批判的だったからこそのものだったと見れば多少納得は行くんですけども・・・)。

いずれにせよ、この騒動のために、名曲中の名曲である「おふくろさん」が世に葬り去られるのはとても惜しいことです。私にとっては、「森進一のあの魂を揺さ振られる歌声によって、初めて猪俣公章の朴訥としたメロディーが生き、そして川内康範の母性愛溢れる歌詞が生きてくる」と考えている次第です。この「おふくろさん」には森進一、猪俣さん、川内さん、三者三様の自らの母親との様々な想い出、そして母親に対する尊敬と感謝の念が詰め込まれていると言われています。それゆえに強いメッセージ性を帯び、この三者の一つがかけても成立しえない歌だと私は思うのです。

川内さんは残念ながらお亡くなりになってしまいましたが、一日も早く、円満な形でこの曲が「森進一の歌声」によってテレビを通じて聞ける日が来ることを祈るばかりです。この歌を他の歌手が歌っても説得力は欠けますし、川内さんのあの歌詞の世界も表現することはできない。これは断言できます。他の歌手が我が物顔で歌う「おふくろさん」は見たくもありません(少々キツイ物言いかもしれませんが・・・)。

「おふくろさん」騒動を文末に書いて、この記事を終えるのはなんとも淋しい気もしますが、輝かしき「昭和」の時代を駆け抜けた大物、時代の証言者がまた一 人天に召されたことは淋しいかぎりです。政治不況、経済後退、そして「恩義」「義理」が死語となり非常にドライな人間関係しか存在しない今の時世を愁いな がらきっと川内さんは旅立たれたことと思います。彼ほどに強い信念を貫き続けることは難しいのかもしれませんが、彼の与え続けてきた様々な媒体を通じての メッセージは、これからも日本人の「教訓」として活かされるべきと思います。川内さんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

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<「夜のヒットスタジオ」で歌われた川内康範作品>
・1968/05/05 花と蝶/森 進一(曲:彩木雅夫)-1968/11/11放送
・1968/09/21 慟哭のブルース/水原 弘(曲:曽根幸明)-1968/11/25放送
・1969/05/05 気まぐれブルース/青江三奈(曲:曽根幸明)-1969/05/12放送
・1969/10/05 花と涙/森 進一(曲:宮川 泰)-1969/11/03放送
・1969/12/05 逢わずに愛して/内山田洋とクールファイブ(曲:彩木雅夫)-1970/01/05放送 
・1970/04/20 愛は不死鳥/布施 明(曲:平尾昌晃)-1970/04/27放送
・1970/09/05 嘘でもいいから/奥村チヨ(曲:筒美京平)-1970/10/05放送
・1970/09/15 銀座の女/森 進一(曲:曽根幸明)-1970/11/30放送
・1971/05/05 おふくろさん/森 進一(曲:猪俣公章)-1971/06/07放送
・1974/05/25 愛ひとすじ/八代亜紀(曲:北原じゅん)-1974/05/27放送
・1974/09/25 愛の執念/八代亜紀(曲:北原じゅん)-1974/10/14放送 
・1981/09/21 命あたえて/森 進一(曲:猪俣公章)-1981/11/16放送
 

専用メールアドレス開設、及びエピソード・思い出話募集のお知らせ

2007-07-20 | Weblog
先日、このブログ専用でもう一つ「goo」のアカウントを取得いたしました。
メールアドレスはyoruhit@mail.goo.ne.jpです。

アドレスを取得した記念という訳ではないのですが、皆さんから是非「夜のヒットスタジオ」にまつわる思い出・エピソードを広く募集したいと思います。
いずれかのときに、そのエピソードをこのブログでも随時紹介していく、そういったカテゴリーを作りたいとも考えております。

是非、ご協力宜しくお願いいたします。


【情報お願いいたします】初出演回不詳の歌手

2007-04-29 | Weblog
以前、「初出演データ」の項目を作成し同ブログにもほぼ2年毎に区切りデータを公開致しましたが、初出演回が特定できないという理由で、そのデータからはずした歌手も少なからずいます。
特にブログ立ち上げの際に公開した「出演者一覧」を見ていただければ分かりますが、月曜時代、とりわけ1972~1980年頃にかけては、放送当日の新聞テレビ欄内の表記でも「、ほか」という記載がなされている回が幾つかございます(特に1972~1975年にかけてはほぼ毎回、「、ほか」という記載があり、具体的な出演歌手名の記載は多くて7組、少ないときは5組程度しか書かれていない場合もありました)。下記に、「、ほか」という記載に内包されていたと考えられる主な初出演回不詳の歌手をリストアップしました。初出演回に関する情報につき分かる方がいましたらコメント欄までご一報願います

◆大よそ初出演した年代は特定できるが、具体的な初出演回については不明な歌手
ドンキー・カルテット(おそらく番組初期)
井出せつ子(1969年?)
江夏圭介(1969年~1970年頃?)
加島美抄(1969~1970年頃?)
姿のり子(憲子)(1970年)
加橋かつみ(ソロ)(1971年?)
亜木ジュン子(1972年)
あおい健(現・田中健)(1972年)
奈良富士子(1972年)
加納エリ子(1972年)
入江魔子(1972年)
山下雄三(1973年)
海援隊(1974年?)
宗田まこと(1975年)
小川順子(1975年)
桜たまこ(1976年)
香川裕子(1976年)
朱礼毬子(1977年)
桂五郎(1977年)
乗附勝也(1979年)
さとうあき子(1979年)
ニック・ニューサー(1981年)
川口雅代(1981年)
川崎黄金猫舎(1981年)
高梨雅樹(後に原大輔に改名)(1981年)
小野さとる(1983年)

◆出演年も含めて初出演回が特定できない歌手
中野知子
上原まさみ
北原昭夫
北玲子
大内節子
こだま風子
里見ゆり
Tositaro
デイブ平尾(ソロ)
江夏圭介
植田しげき
くにづきみほ
キャシー中島
藤田弓子(歌以外の特別ゲストでの出演?)