伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

歴代司会者考Ⅵ-新司会に柴俊夫抜擢、異色の男性2人コンビ体制に

2006-11-28 | 夜のヒットスタジオ/番組史
歴代司会者考、第6回目は、古舘伊知郎、柴俊夫コンビ時代について記事を書きます。

前回の記事で触れたように1988年2月、放送初回から司会を担当してきた「夜ヒットの大看板」芳村真理さんが放送第1000回を以て番組を勇退。
この芳村さん勇退時において、まだ後継司会者の人選については「未定」とされており、芳村さんの後任に誰が加入してくるのか、それがちょっとした話題となっていました。
芳村さんの雰囲気に類似した楠田枝里子さんや、女優部門では夜ヒット常連組の一人でもあった竹下景子さんなど色々と取り沙汰されていました。
他の方の話でもよく「芳村真理の後は多分この人だと思っていた」として名前が挙がっているのが、楠田枝里子さん。管理人自身もこの方が後継を勤めるんじゃないのかなあ?と当時思っていました。司会に徹するという姿勢や、ファッショナブルな雰囲気を持っているという点で、芳村さんからの引継ぎがスムーズにいくのはまず楠田さんぐらいしかいないだろう、なんて思っていました。

ところが1987年秋、新たにプロデューサーとして夜ヒットの製作中枢に関わるようになった渡邊光行氏は、兼ねてより「今は女性の時代と言われているけど(※当時は社会党委員長に土井たか子さんが就任し、史上初めての女性総理大臣誕生か?と話題となっていたりと、何かと女性の社会進出が目立った時代でした)が、あえてその中で男性中心の番組を作りたい」という思いを持っていたらしく、芳村さんの後継人選は男性タレントを軸に進められていたようです。当然に楠田さんなどの名前もそのスタッフ間での人選の中で有力候補として名前は出てきていたようですが、あくまでも男性タレント優先で事が運んでいきました。

「男性中心の路線で」という方針の裏返しにはやはり、20年・1000回にわたり司会を務め、「夜ヒット」という番組ともはやイコールされる存在になっていた芳村さんによって築かれてきた番組イメージに変革をもたらすためには、芳村さんとは全く真逆の司会者を抜擢する必要がある、という判断が働いたのは言うまでもないでしょう。

このような人選の中で白羽の矢が立ったのが俳優の柴俊夫さんでした。柴さんはもちろん、本格的な司会の仕事はこの夜ヒットが初めて。俳優としてのキャリアはすでにベテランといってぐらいのものでしたが、司会者としてのキャリアは全くの「新人」ともいえる状態で、まさに異例の抜擢でした。新たな夜ヒット像を築く上でのキーパーソン的存在としての抜擢であったわけで、スタッフたちの柴さんへの期待は並々ならぬものだったと思います。

第1001回の放送は観客を招待しての総集編企画で放送され、古舘さん一人で番組の進行にあたり、第1002回目より柴さんが司会に正式に参加することになります。

柴さんの夜ヒット司会初回は今でも記憶に残っています。
とにかく、緊張の極限にあったためか、オープニング、階段から降りて登場したところから柴さんはとにかく汗だく。そして「夜のヒット”パレード”」といきなりトチってしまい、相手方の古舘さんがなんとかミスを修正しようと躍起になっていた、という状態だったと記憶しています。そのドタバタぶりからかメドレーに参加する出演歌手の数組も柴さんの緊張が移ってしまったかのように歌詞を度忘れしてしまう状態になったりと、なんとなくバタバタした状態で本編に突入していったような記憶があります。

古舘さんは司会は未知数であった柴さんに配慮して、あえて話を振る形で柴さんを進行に関わらせ、アドリブでのコメントを引き出そうとしていました。しかし柴さんは、ほぼ台本通りの司会で精一杯の状態。若手の古舘さんに配慮して彼に最大限の裁量を与えながらサポートに回るという構図だった芳村・古舘時代に比べて、司会のコンビネーションが著しく劣ることは、一目瞭然でした。

また、男性司会コンビである以上当然といえば当然ですが、画面を見ても「華がない」というのは歌謡番組にとっては致命傷ともいえる部分でもありました。特に夜ヒットの場合は歌手の衣装にも大きく影響を与えていた芳村さんが司会を続けていたこともあり、それとの比較で大きな落差を感じた視聴者も多かったようです。

この男性司会コンビの欠点を補充するという意味合いからか、この時代になると、以前も申し上げたようにそれまでになく企画物が多用され、なんとか番組の勢いを留めようとするスタッフたちの苦心が続いていました。初めのうちはそれで何とか乗り越えられたものの、何回も何回もその状態が続くうちに、マンネリが生じ視聴者から飽きられてしまう、という負のスパイラルに番組全体がいつしか陥るようになっていました。DXリニューアル当初は、海外アーティストを毎回出演させることを目玉として掲げていたはずのものが、いつしか海外アーティストの出演する機会が減少し、出演する歌手も2時間の放送枠のはずなのに、月曜1時間時代と同じく8、9組程度しかいない、演歌歌手が誰一人出演していないなんていう状態も古舘・柴司会時代の終盤にはたびたびあったりしました。

このように男性司会コンビの欠点が究極的に番組全体の低迷をもたらす契機を作ってしまい、この古舘・柴コンビの司会は1989年秋、DX版終了と同時に、柴さんの降板を以て終焉を迎えます。

古舘・柴のコンビ司会については今も賛否両論があり、視聴者によっては、「よかったのに何ですぐに柴さんが降板しちゃったのか?」といった評価もあります。ただ、管理人の主観としてはこの男性司会コンビ体制を採ったことが結果として、「夜ヒットは悪い方向に行ってしまった」という印象のほうが強いです。
芳村真理さんの時代と比較するのは、司会者としては「新人」同然でもあった柴さんには酷な話であり、女性司会者と男性司会者という違いゆえ、その司会の手法が当然に大きく変わることも避けられないわけですが、「夜ヒット=芳村真理司会」のイメージが出来上がっている私、管理人はどうしてもその時代と比較しながら、この柴さん、古舘さんの司会ぶりを当時見ていて、「なんか物足りないなあ」といつも思いながら番組を見ていた記憶があります。

上述のような華やかがなくなったというのもあるんでしょうけど、それ以上に20年を超える王道の音楽番組としてのや「権威性」というのが無くなってしまったというのが「何が足りない」と思った最大の背景としてあります。この夜ヒットの「権威性」というのも芳村さんに依るところがかなり大きかったですし、この方がいない以上、「何が足りない」と思ってしまうのは当然の理ではあるわけですけど・・・。

あと、もう一つは「男性司会コンビ」というスタイル自体はその後の「Show byショーバイ」(NTV)の逸見政孝さんと渡辺正行さん、「どっちの料理ショー」(YTV)の関口宏さんと三宅裕司さんといった具合で多用されており、別に悪いとは思わないのですが、何故にそこに夜ヒットの場合は、「未知数」の柴さんを起用したのか、その部分が未だ不可解であるという点も、古舘・柴コンビの司会を快く思わなかった要因の一つでもあります。男性司会者を古舘さんのパートナーとして抜擢する必然性はわかっても、そこに柴さんを抜擢することの必然性というのが今ひとつわからなかったりします。「なんで芳村真理の後が柴俊夫だったの?」という意見も未だにちらほらブログや掲示板を見ると見受けられるので、私と同じように思ってる人は結構いるんじゃないでしょうか・・・。

1989年9月のDX版終了後、番組の本流を受け継ぐ番組として「SUPER」版が1時間番組に放送時間を短縮の上、リニューアルスタートします。そして同時に古舘さんの新パートナーとして女優の加賀まりこさんが新たに司会に抜擢されます。この番組最晩期の古舘・加賀司会については次回の記事で触れたいと思います。

歴代司会者考Ⅴ-「言葉の魔術師」古館伊知郎の抜擢と夜ヒットの大看板・芳村真理の勇退

2006-11-07 | 夜のヒットスタジオ/番組史
「歴代司会者考」第5回目は芳村真理、古舘伊知郎コンビについてです。

前回記事でも述べたように、1985年9月、9年半にわたり続いた芳村真理・井上順のゴールデンコンビの時代は、井上順さんの降板により幕を閉じます。そして順さんに代わる4代目の芳村さんの相手役に抜擢されたのが、古舘伊知郎さんでした。
古舘さんは1977年にテレビ朝日にアナウンサーとして入社。同期には、「やじうまワイド」で21年近くにわたり司会を続けた吉澤一彦さん、「スーパーモーニング」や「朝まで生テレビ」の司会を務める渡辺宜嗣さん、「ワイドスクランブル」に出演中の佐々木正洋さん、後に古舘さん同様フリーとなり「OH!エルくらぶ」「EXテレビ」の司会を担当した南美希子さん、女性スポーツアナウンサーの先駆者的存在である宮嶋泰子さん、と錚々たる顔ぶれ。これら強い個性を持った「ライバル」の中で古舘さんの名が頭一つ抜きん出るきっかけとなったのは、何と言っても「ワールドプロレスリング」におけるプロレス実況。この中でハルク・ホーガンを「現代のネプチューン」、前田日明を「キックの千手観音」、高田延彦を「戦うジェームス・ディーン」、藤波辰巳の肉体を「ディアチェのブロンズ像のような肉体」等、奇抜な表現を展開し、一躍、同局のプロレス中継におけるスターアナウンサーとしてその存在を知られるようになります。
そして、1984年、古舘さんは7年間在籍したテレビ朝日を退社、若干29歳でフリーアナウンサーへと転向、同時に自身のタレント活動のマネージメント会社として「古舘プロジェクト」を設立。フリーとなった直後から、古舘さんはフジテレビ「笑っていいとも!」、TBS「アッコ・古舘のゆうゆうサンデー」、ラジオ番組「不二家歌謡曲ベストテン」など次々とレギュラー番組を獲得し、プロレス中継のときと同様の「戦うMCスタイル」を展開し続けていました。

そんな中、1985年秋、古舘さんは当時既に一大音楽番組として確固たる地位を築いていたこの「夜ヒット」の司会に抜擢されます。フリーになってまだ1年足らず。そしてまだ同時はプロレス実況を続けていた彼の抜擢は同時の視聴者や放送関係者からすれば相当に意外な人選でした。プロレス実況や他の番組などでみせる攻撃的ともいえるMCスタイルから、長年、芳村・井上のユーモアあり、オシャレな雰囲気ありの司会スタイルで続いてきた夜ヒットの雰囲気にはたして合致するのか、彼の抜擢を危惧する声も少なからずあったようです。古舘さんの抜擢は今から考えてみれば一つの「賭け」に出たと言っても言いすぎではないでしょう((尚、当時の新聞等では古館さんの抜擢理由について「英語に精通した国際派司会者を抜擢したかったからだ」と述べられていますが、それは名目上であり、実質上はやはり番組のカラーを更に若手主導のスタイルの転換するための起爆剤として、あえて夜ヒットのそれまでのイメージとは異なる古館さんを大抜擢したという意味合いが強いと思います)。

古舘さんの夜ヒット初司会は、自身の出身小学校の校歌をBGMに、副音声室からスタジオに通じる階段から下りての登場。すでに登場した時点から極度の緊張感のためか汗だくで、芳村さんが口を挟めないほどの早口で喋り捲る、というとてつもなく衝撃的な登場でした。芳村さんはこのときの古舘さんの印象を「こんなパワフルな人と仕事ができて最高と思った」と後に回顧しています。新たな相手役・古館さんの登場は、すでにベテラン司会者の域に達していた芳村さんにとっても大きな刺激となったようです。
そして同時に彼に対して芳村さんが思ったことが「この人なら後を任せられる」という安心感でした。古館さんの、「ストロボする言葉マシーン」という自称に恥じぬ巧みでパワーのある話術に芳村さんは圧倒され、古館さんが抜擢されて早々から自分が去った後も彼なら番組をちゃんとまとめてくれると思ったそうです。その考えを反映してか、あえて芳村さんはここでもマエタケさんや順さんのときと同様に「サポート役」に徹し、若手の古館さんに最大限フリーハンドで進行を任せていました。当時、既に芳村さんも50歳の大台に差し掛かり、確実に歌手とのジェネレーションギャップが生じ、分からない歌も多くなってきた中で、それら若い歌手の歌も熟知していた古館さんが芳村さんと若い歌手の橋渡し的な役割を担っていたというふうにもこの時代のお二人のコンビネーションを見ていても感じます。
この時代、古館さんも歴代男性司会者に負けぬ様々なフレーズを番組内で発しています。
・相手役の芳村さんが持つ華やかな雰囲気を評して「ひとりコットンクラブ」
・ばんばひろふみさんを「顔面ダブルバーガー」
・OPメドレー終了後、中央に陣とっていた和田アキ子さんを「観音様かと思いました」
・おニャン子クラブを「イナゴの大群」
・TM NETWORKの歌を「歌の日米半導体摩擦」
とまあ、一瞬、言葉だけを見るとちょっとハラハラするぐらいの強烈なフレーズも多かったように記憶してますが、やはりここでも芳村さんが「最高級の猛獣使い」らしく巧く一言フォローを加えて過激さを中和させていましたね。ゆえにコンビネーション的には従来の夜ヒットの雰囲気とは異質な古館さんの発言を従来の夜ヒットの雰囲気を象徴する芳村さんの一言で夜ヒットの本来の流れに軌道修正させる、という感じで、さすがに井上順さんのときに比べれば劣りますが、これはこれで違う良さがあったと思います。
あと、ザ・ビートニクスとして元YMOの高橋幸宏さんが出た回に、高橋さん、古館さんが同じ高校の先輩後輩だったという話の中で恩師の話に及び、古館さんが「タバコなんか吸ってたらバコンと一発殴られた」と言ったところそこに芳村さんが「じゃあ逆に殴り返したいときがある?」と煽動して恩師の先生が突然登場して、古館さんが慌てふためいたなんていうシーンもありましたし、古館さんが結婚されたのもちょうどこの時期で、仲人の芳村さんと結婚式会場から駆けつけて生放送の司会を務めたなんてことも確かありましたよね。

この井上→古館移行期には主要スタッフも次々と若手に交替。徐々に古館メインの若手主導の体制が築かれていく中、放送1000回が迫った1987年秋、芳村さんは夜ヒット司会降板を発表。理由は前述のように歌手との間にジェネレーションギャップを感じるようになったことや古館さんなら後を任せられるという思いが強くなったということもありますが、この発表の際にはもう一つ降板の理由が述べられており、それは「家庭の時間を持ちたい」ということでした。この司会勇退の発表は単なる番組司会の降板というだけでなく、芳村さんの芸能活動セミリタイヤの意味合いも含まれたものでした。
そして、1988年2月、夜ヒットは放送1000回の金字塔を樹立。それを見届けて芳村さんは第1回から約20年間にわたり司会を務めてきた夜ヒットから去ってゆき、芸能活動の一線からも離れてゆきました。彼女の最終司会で用意されたシーンは、この1000回記念放送に駆けつけた歴代出演歌手やスタッフ1人1人からバラを1輪ずつ受け取るという豪華なエンディング。司会者の降板に際してここまでの企画が用意されるケースは極めて稀なことで、これもまさにこれはスタッフや局が長年夜ヒットという看板番組を通じて局の発展に多大な貢献を残してきた芳村さんへの感謝の念を表したエンディングであったことはいうまでもないでしょう。最後の場面では、歌手時代に芳村さんに親しくしてもらったという縁から高田みづえさんと夫の松ヶ根親方も駆けつけ、彼女の最終司会を見届け、小柳ルミ子さんやロザンナさん、中森明菜さんら芳村さんと交友の深かった歌手たちは彼女との別れを惜しみ、共に涙を流しました。まさに夜ヒット、そして芳村真理さんが司会を務めたこの20年、1000回の歴史の重みを感じさせる隠れた名シーンだったと言えると思います。

芳村さんは夜ヒット20年の司会を回顧するに当り、司会とは何かという質問に対してこう答えています。「スタジオはまさに人間模様のモザイク。それを取りまとめていくのが司会の仕事。」と。
まさに司会者という仕事の本質を捉えた重みのある言葉だという気がします。司会者というポジションは、臨機応変に場の空気を考慮し、時間尺を気にかけながら、それぞれ個性の異なる出演者を自らが旗振り役となって一とする、という極めて重い責務を課せられる立場なのです。芳村真理さんという人はそういう司会者というポジションの重責を十分を弁えていた、というのがこのコメントからも読み取ることができるのでは、と思いますし、逆に現在のテレビ司会者のトレンドという観点からすれば、平気で暴力的な発言をしたり、その場に居合わせぬ人物に集中攻撃を行うことを憚らぬ、また、全く番組や相手に対して敬意を払わないといったスタイルが横行しているのを見るにつけ、司会者の本来のあるべき本質は遠い昔に既に忘れ去られてしまったのではないか?と危惧感さえ感じます。

今一度、現役のテレビ司会者、特に歌謡番組の司会者たちには、司会者の本質とは何か、という点を真剣に再考してほしいところです。それが出来なければ、「司会者」というポジションに立つ資格はない、と、芳村さんの上述の「司会者像」を思い出す度に私は感じます。

さて、芳村さん降板後、夜ヒットは古館さんを主軸に、新パートナーとして柴俊夫さんを迎えての「男性2人コンビ」という異色の司会体制が採られることとなりますが、この点については次回記事にて触れることとしたいと思います。