今回の更新より、新シリーズ「歌謡曲黄金時代を支えた名クリエーター達」をスタートいたします。
このシリーズではヒットスタジオが放送された60年代後半~80年代にかけて、数多くのヒット曲を世に輩出してきた、「昭和歌謡の巨人」ともいうべき作詞 家・作曲家(場合によっては編曲家も)たちに焦点を当てて、その経歴と共にヒットスタジオの中で紹介された彼らの作詞及び作曲作品をリスト形式で紹介して いきます(※昨年、阿久悠さん逝去の際に追悼企画として行った曲目リストを下敷きとしています。阿久さんの作品リストについては、また同カテゴリーに組み 替えの上、追々再編集をしたいと考えております)。
1回目の今回は、チェッカーズの初期シングル群など、80年代に多くのヒット作を生み出した作詞家・売野雅勇氏にスポットライトを当てたいと思います。
その後は、上記のシャネルズのほか、河合奈保子、稲垣潤一、荻野目洋子らの楽曲を中心にヒット作を連発。康珍化氏や秋元康氏らと並ぶ、1980年代の歌謡界を代表する作詞家の一人としてその名を歌謡史に深く刻み込みました。
その作詞家としての彼のキャリアのなかで特筆すべき点といえば・・・・
①作曲家・芹沢廣明とのコンビにより大半の初期チェッカーズシングル作品で作詞を担当(84~86年)。
まず1点目は、御存知のように、チェッカーズの初期シングル作、及びアルバムの収録曲の多くで作詞を担当し、作曲の芹沢廣明氏、彼らの総合プロデュースを 務めていた秋山道雄氏との共同作業によって、アイドルバンドから、後に実力十分のミュージシャンへと成長してゆく彼らの存在を通じて、新たな男性アイドル像・ アーティスト像のモデルを世に提案したという点が挙げられます。
83年10月リリースのデビューシングル「ギザギザハートの子守唄」から、86年6月リリースの「Song for U.S.A」までの計11作のシングルA面曲のうち、2thシングルにして出世作ともいえる「涙のリクエスト」を皮切りに実に9作品(「ギザギザ―」及び85年11月リリースの「神 様ヘルプ!」の2作は康珍化氏が詞を担当)に渡って売野氏は作詞を担当。
初期のどこかしらに1950年代・60年代前半に隆盛をきわめたオールディーズ音楽のテイストを盛り込んでいるようにも聞こえる独特の音楽性により、大衆 の支持を早くより獲得することに成功し、他方、ジャニーズタレントが男性アイドルの基本形となりつつあったこの時代において、同時期デビューの吉川晃司とともに、「ロック」というジャンルの中から「第2の男性アイドル像」というものを確立させ、そして彼らに一定の実力を備わった 時点で、次は、そのアイドル路線をあえて早々から脱却させる方向へとプロデュース方針を転換し、その後の息の長い「アーティスト」としての人気につながる 下地を築いた、という点は、アーティストの売り出し方、或いは活動スタイルの広範化という面で非常に重要な意味を持つであったと言えると私は思います。
②「オメカトライブ・プロジェクト」への参加(86~89年頃)。
そしてもう1点は、1986オメカトライブ時代の「オメカトライブ・プロジェクト」に参加したという点も注目されるところであろうかと思います。
ここにいう「オメカトライブプロジェクト」というのは、GSバンド「アウト・キャスト」の元メンバーで「トライアングル・プロダクション」の社長であった 藤田浩一氏の総合プロデュースの下で、林哲司、和泉常寛ら複数の人気作詞・作曲・編曲家を擁して、日本版AOR(Audio-Oriented Rock=大人向けロック)の定着を目標として立ち上げられたもので、「オメカトライブ」というネーミングはバンド名としてだけでなく、同バンドの活動を 含めた同プロジェクト全体をを意味する名称としても使用されていました。
売野氏は86年、新ボーカルとしてカルロス・トシキを迎え「1986オメガトライブ」として再スタートを切って間もなくの頃から同プロジェクトに本格的に参加。新体制発足後2作目のシングル「Super Chance」で初の作詞を担当しました。
丁度この時期に前後それとほぼ時を前後して、チェッカーズが売野・芹沢コンビ主導の体制からメンバー各人による自主創作スタイルへと楽曲製作の方針を転換 したことも重なり(86年10月リリースの12thシングル「NANA」以降のシングル作品は全てメンバー各人が交替で楽曲プロデュースを担当)、以後、 この「オメカトライブ・プロジェクト」を作詞家としての主な活動の拠点としていきました。
この後、89年の「花の降る午後」まで約3年近くにわたり多くのオメカトライブのアルバム・シングル曲で作詞を担当。初期のチェッカーズの作風とはガラリとかわった、都会的センスの溢れた歌詞を提供し、作詞家としての幅の広さを世間に知らしめる事となります。
また、このプロジェクトに参加したことに付随して、この時期には他のトライアングルプロ所属のアーティスト(初代オメカトライブのメインボーカルである杉 山清貴や菊池桃子)へも楽曲を提供、87年には菊池桃子への提供作品「ガラスの草原」により、同年のFNS歌謡祭・音楽大賞で作詞賞を受賞しています。
このチェッカーズのプロデュース、そしてオメガトライブプロジェクトへの参加という二つの大仕事で得た経験・実績を活かし、90年に入ってから「シンデレ ラ・エクスプレス」で映画監督・脚本に初挑戦して以降、売野氏は舞台演出・劇作などの世界にも進出。作詞家としてもポップス・ロック系アーティストだけで なく、森進一(「京都去りがたし」など)ら演歌勢にも作品を提供するようになるなど、より幅の広い表現活動を展開し、クリエーターとしての地位を揺ぎ無い ものとしました。
それでは、次に、後期のヒットスタジオを彩ってきた売野氏の作品の数々を以下、曲目リストで紹介致しましょう。
(以後、「曲目リスト編」に続く)
このシリーズではヒットスタジオが放送された60年代後半~80年代にかけて、数多くのヒット曲を世に輩出してきた、「昭和歌謡の巨人」ともいうべき作詞 家・作曲家(場合によっては編曲家も)たちに焦点を当てて、その経歴と共にヒットスタジオの中で紹介された彼らの作詞及び作曲作品をリスト形式で紹介して いきます(※昨年、阿久悠さん逝去の際に追悼企画として行った曲目リストを下敷きとしています。阿久さんの作品リストについては、また同カテゴリーに組み 替えの上、追々再編集をしたいと考えております)。
1回目の今回は、チェッカーズの初期シングル群など、80年代に多くのヒット作を生み出した作詞家・売野雅勇氏にスポットライトを当てたいと思います。
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売野氏は、1951年、栃木県の出身。大学卒業後、萬年社(99年に倒産)→東急エージェンシーインターナショナル(現・フロンテッジ)でコピーライター
として在籍。そして81年、30歳の時に、シャネルズの2枚目のアルバム「Heart&Soul」の中の収録曲の一つである「星くずのダンスホー
ル」で作詞家デビューを果たしました。その後は、上記のシャネルズのほか、河合奈保子、稲垣潤一、荻野目洋子らの楽曲を中心にヒット作を連発。康珍化氏や秋元康氏らと並ぶ、1980年代の歌謡界を代表する作詞家の一人としてその名を歌謡史に深く刻み込みました。
その作詞家としての彼のキャリアのなかで特筆すべき点といえば・・・・
①作曲家・芹沢廣明とのコンビにより大半の初期チェッカーズシングル作品で作詞を担当(84~86年)。
まず1点目は、御存知のように、チェッカーズの初期シングル作、及びアルバムの収録曲の多くで作詞を担当し、作曲の芹沢廣明氏、彼らの総合プロデュースを 務めていた秋山道雄氏との共同作業によって、アイドルバンドから、後に実力十分のミュージシャンへと成長してゆく彼らの存在を通じて、新たな男性アイドル像・ アーティスト像のモデルを世に提案したという点が挙げられます。
83年10月リリースのデビューシングル「ギザギザハートの子守唄」から、86年6月リリースの「Song for U.S.A」までの計11作のシングルA面曲のうち、2thシングルにして出世作ともいえる「涙のリクエスト」を皮切りに実に9作品(「ギザギザ―」及び85年11月リリースの「神 様ヘルプ!」の2作は康珍化氏が詞を担当)に渡って売野氏は作詞を担当。
初期のどこかしらに1950年代・60年代前半に隆盛をきわめたオールディーズ音楽のテイストを盛り込んでいるようにも聞こえる独特の音楽性により、大衆 の支持を早くより獲得することに成功し、他方、ジャニーズタレントが男性アイドルの基本形となりつつあったこの時代において、同時期デビューの吉川晃司とともに、「ロック」というジャンルの中から「第2の男性アイドル像」というものを確立させ、そして彼らに一定の実力を備わった 時点で、次は、そのアイドル路線をあえて早々から脱却させる方向へとプロデュース方針を転換し、その後の息の長い「アーティスト」としての人気につながる 下地を築いた、という点は、アーティストの売り出し方、或いは活動スタイルの広範化という面で非常に重要な意味を持つであったと言えると私は思います。
②「オメカトライブ・プロジェクト」への参加(86~89年頃)。
そしてもう1点は、1986オメカトライブ時代の「オメカトライブ・プロジェクト」に参加したという点も注目されるところであろうかと思います。
ここにいう「オメカトライブプロジェクト」というのは、GSバンド「アウト・キャスト」の元メンバーで「トライアングル・プロダクション」の社長であった 藤田浩一氏の総合プロデュースの下で、林哲司、和泉常寛ら複数の人気作詞・作曲・編曲家を擁して、日本版AOR(Audio-Oriented Rock=大人向けロック)の定着を目標として立ち上げられたもので、「オメカトライブ」というネーミングはバンド名としてだけでなく、同バンドの活動を 含めた同プロジェクト全体をを意味する名称としても使用されていました。
売野氏は86年、新ボーカルとしてカルロス・トシキを迎え「1986オメガトライブ」として再スタートを切って間もなくの頃から同プロジェクトに本格的に参加。新体制発足後2作目のシングル「Super Chance」で初の作詞を担当しました。
丁度この時期に前後それとほぼ時を前後して、チェッカーズが売野・芹沢コンビ主導の体制からメンバー各人による自主創作スタイルへと楽曲製作の方針を転換 したことも重なり(86年10月リリースの12thシングル「NANA」以降のシングル作品は全てメンバー各人が交替で楽曲プロデュースを担当)、以後、 この「オメカトライブ・プロジェクト」を作詞家としての主な活動の拠点としていきました。
この後、89年の「花の降る午後」まで約3年近くにわたり多くのオメカトライブのアルバム・シングル曲で作詞を担当。初期のチェッカーズの作風とはガラリとかわった、都会的センスの溢れた歌詞を提供し、作詞家としての幅の広さを世間に知らしめる事となります。
また、このプロジェクトに参加したことに付随して、この時期には他のトライアングルプロ所属のアーティスト(初代オメカトライブのメインボーカルである杉 山清貴や菊池桃子)へも楽曲を提供、87年には菊池桃子への提供作品「ガラスの草原」により、同年のFNS歌謡祭・音楽大賞で作詞賞を受賞しています。
このチェッカーズのプロデュース、そしてオメガトライブプロジェクトへの参加という二つの大仕事で得た経験・実績を活かし、90年に入ってから「シンデレ ラ・エクスプレス」で映画監督・脚本に初挑戦して以降、売野氏は舞台演出・劇作などの世界にも進出。作詞家としてもポップス・ロック系アーティストだけで なく、森進一(「京都去りがたし」など)ら演歌勢にも作品を提供するようになるなど、より幅の広い表現活動を展開し、クリエーターとしての地位を揺ぎ無い ものとしました。
それでは、次に、後期のヒットスタジオを彩ってきた売野氏の作品の数々を以下、曲目リストで紹介致しましょう。
(以後、「曲目リスト編」に続く)