唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

張萬福伝

2019-02-22 17:43:42 | Weblog

能力はありながら上に媚びず、栄達を求めなかった将軍です。

-------------------
張萬福伝
-------------------
萬福は魏州元城の人。
曾祖より父までは明經に合格し縣令州佐であったが萬福は学問をせず、騎射を好んだ。

青年時は王斛斯麾下で遼東に従軍し功績があった。

淮南都統李峘に劉展鎮定に用いられ攝壽州刺史兼舒廬壽都團練使。
潁州の賊を討って功績があった。

ついで壽州刺史淮南節度副使となるが、節度使崔圓に迎合しなかったため嫌われ刺史を罷免された。

鴻臚卿を帯て節度副使となりやはり壽州に鎭した。
だが萬福は刺史罷免を気にしなかった。

平盧行軍司馬許杲が淮南の管轄の濠州に侵入し占拠したので、圓は萬福を攝濠州刺史とした。
杲はこれを聞いてすぐ退去した、

また賊陳莊が舒州を陥したので、圓はまた萬福を舒州刺史督淮南岸盜賊としてこれを討たせた。

大暦三年.代宗皇帝は萬福を召して和州刺史行營防御使督淮南岸盜賊として、許杲が寇掠するのを討たせた。萬福はこれを追って誅した。

淮南兵を率い対吐蕃防衛を命じられた時、淮南節度使韋元甫が卒した。諸将・監軍は後任となることを求めたが、萬福は断り利州刺史として咸陽に鎭して宿衛した。

建中二年.淄青節度使李正己が反し,兵を派して江淮からの貢祖路を脅かした。
德宗皇帝は萬福[和州刺史であった]を濠州刺史とし、本名の萬福と賜名として派遣し威圧させた。
その威力に圧されて淄青軍は動かず貢祖の輸送が可能になった。

泗州刺史に代わった。節度使陳少遊が李希烈の乱に怯え、麾下諸将の妻を人質として差し出させた時にも断固として拒否した。

魏州が戦乱で飢饉時になると、萬福は食料を送り故郷を援助した。

東都杜亞が萬福を嫌い,右金吾將軍に転任させた。
德宗皇帝は召して「亞はおまえが耄碌したので交代させろと言ったのだが」と驚いた。
そして凌煙閣に肖像画を書き,給与を保証した。

貞元十一年.德宗皇帝が諫議大夫陽城達の諫言に激怒して厳罰にしようとしたとき、城を擁護したため德宗は怒りを静めた。

貞元二十一年.左散騎常侍/工部尚書致仕。

五月卒,年九十。

萬福は常に健康で七十年の勤務で,一日の病休もなかった。
上司に媚びず、正論を貫くため、しばしば左遷されたが、その実力は誰しもが認めざるを得なかった。栄進を求めず当然なれるはずの節度使を求めなかった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする