プロ野球 OB投手資料ブログ

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藤井信行

2017-02-11 21:42:31 | 日記
1974年

実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ。「故障者が多くてどうしてようもないんだが、逆に若い選手からみれば、飛び出すチャンスなんだ。それをどうつかんでいくか・・・」伊原、米山、鈴木、楠城、若菜、真弓、川野、吉村・・・つぎつぎチャンスを与えてきた。そのチャンスという釣り糸に、ガップリ食いついてきたのが藤井信。ビュフォードの故障と東田の不振であいた左翼の穴。ある日、青木専務は担当コーチに質問した。いまの東田と藤井信を比べてバッティングはどちらが上か、と。答えは「同じようなものです」だった。「それなら藤井信を使ってみたら」この提案が藤井信を日の当たるところへ引き出た。九日の近鉄ダブルヘッダー第二試合。思い切って先発メンバー(左翼、六番)に入れたら、これが第一、第二打席の連続ホームラン。チームの連敗は5で食いとめることが出来た。そしてトップバッターに起用した十二日の日本ハム戦でサヨナラヒット。翌十三日には逆転の二塁打と、貴重な安打を飛ばした。スタメン出場7試合の成績は24打数8安打、本塁打2、二塁打2)4得点、8打点、打率・333。堂々たるものだ。「あいつはまじめな男。野球に取り組む姿勢がいい。十八日(日本ハム戦)だって、ヒットはなかったが、四死球で二度出塁しているからねえ。この調子を続けてほしいなあ」と期待するのは鬼頭ヘッドコーチ。もちろん、本人もうまくつかみ取ったレギュラーポジションを守り抜こうと必死。山口県の徳山商からノンプロの協和酸酵で四番を打ち、四十五年ドラフト六位でロッテに入団。当時二軍監督だった大沢氏は、そのパンチ力に目をつけ、その後、四十七年、ロッテの監督になるや、藤井信に一軍キップを与えようとした。ところが、鹿児島キャンプで打球を追って選手同士の衝突。左ヒザを骨折、せっかくのチャンスをつかみそこねた。太平洋にトレードされた昨年も、外野フェンスにぶつかって、同じ左ヒザを痛めた。湿布と電気治療を欠かさず、注射で薬を注入している。しかし、藤井信は、ヒザのハンディに負けていない。「ロッテの時にもチャンスがあったのに、自分でつかみきれなかった。やっぱりぼくらは試合に出て打っていくらですからねえ」過去に苦い経験を持っているだけに、チャンスの意味を十分に知っている。四十七年に父親が亡くなって、徳山市内に住む母親と妹への責任が重くなった。母親のミサ子さんは「もう野球をやめて帰ってこい」とやかましく言ってきていたが、ここへきて、やっと「いや、野球は続ける」と胸を張って答えることが出来るようになった。「代打ではタマを見ている余裕がない。その点、スタメンから出場出来るとタマがよく見えますから、でも、いまは思いきって打っていくだけです」タイミングとグリップの構えに注意しているという藤井信に、田中久コーチも打撃の進歩を認める。「左肩がすぐ開くので外角が打てなかったが、最近はよくなってきた」二十日の南海戦からは、藤井信に続けとばかり若菜らの若手がベンチ入りするー。

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