願
願を持ちましょう
『願』と『欲望』とは根本的に違います。
わずかなお賽銭を挙げて
それも1年に1回の初詣の時くらいで、
『家内安全。商売繁盛。
お金がいっぱいできますように!』
なんてね。
こういうのは個人的・私的な欲望です。
それを私は否定しません。
私も同じですから。
しかし、そういう私中心の欲望とは
まったく別に、
○ 核戦争など絶対におこりませんように!
○ 世の中がどうか平和でありますように!
○ 山や海や河、そして土、水、空気、自然が、
人間の作る欲望で、
これ以上よごれませんように!
と、心から念じたとき、
それを『願』といいます。
どんな小さな『願』でも
心ひそかに持ちつづけていると、
顔がよくなり、眼の色が
深く澄んできます。
ひとりひとりが自分に合った
『願』を持ちましょう
そして『一隅を照らす』人間に
なりたいものです。
昭和60年秋 彼岸の中日 合掌 相田みつを
・・・・・とあります。
平成23年3月11日という日があって
その人間の『欲望』という部分から
『願』に目覚めた?人も多かったのでは??って
思います。・・・
目覚めた?という言葉も変ですが・・・
それまではあまり言葉に出来なかったこと・・・
それまではあまり言葉にしなかったこと・・・
それを正々堂々と?言葉にしたり・・・
それまではあまり行動できなかったこと・・・
それまではあまり行動に移せなかったこと・・・
それらを正々堂々と行動に移せるようになった!?
あまりにも大きな代償の中で・・・
でもその中で・・・
『欲望』だけではない・・・
『願』という感覚??
『願』を“こころ”から念じる?
そんな言葉が・・・
そんな行動が・・・
そんな気づきが・・・
そんな実践が・・・
自覚をして
だれもが正々堂々?と・・・
本来正々堂々って言う言葉の使い方は違いますね・・・
でもその位・・・
みんなが・・・
本当の意味でみんなが考えて・・・
本当の意味でみんなが実践をしていたのかなぁって・・・
自分にできることはないか・・・
そして小さなことでも出来ることを実践して・・・
『願』・・・忘れてはいけない“こころ”のあり方ですね。
煩悩なら108あります!
それが自分のため人のためっていう境界があって??
煩悩・・・108じゃあ足りないかも(笑)