そらさん主催の本質的な叡智のバトン に参加してきました。
自分探しというよりは、
そこに存在している自分を見つける、ただあることを認める日々でした。
行動言動のすべてには、こうなってほしいという結果がともない、
その結果の善し悪しによって、右往左往する私がいます。
あれこれ悪かったところを、私を否定しまくります。
そこに悪いことは本当にあるのですか?
ダメなことは本当にあるのですか?
悪いとかダメだとかの価値基準を決めているのは、自分自身じゃないのですか?
問題は本当にあるのですか?
世界には、私の決めた価値基準をなんとも思わない人達がいるのです。
私はそうは感じないこと、当たり前にできることが、私の中にも存在するように、
私以外の人たちは、私とは全く違っている。
外見が違うように、名前が違うように、個性も考え方も全く違う。
もしかしたら見えている世界さえ、全く違っている。
そんな同じものなど存在しない個体を、人間という一括りにするには難しすぎる。
以前、養老先生がある昆虫を引き合いにしてそんなことを言ってました。
そういえば「がん」だって多種多様・・・。
「同じであること」がいいことだと誰が決めているのですか?
「悪いこと」は誰にとっての悪いことだというのですか?
否定することをネガティブにとらえるのではなく、
否定することがあったということだけを知るのです。
どういう環境にあっても、出来事は起こるのです。
環境は原因にはなりません。
いろいろ理由にしがちですが、原因はないです。
出来事があったという事実だけ。
嫌なら嫌でいい。それは悪いことではない。
私のできることをする。そこに相手を感じながらする。
私は私を否定することなく、相手に関わる。それでいい。
なんだかうまく表現ができません。
文字にしてしまうと、文字にとらわれてしまうので、
受け取り方もきっと変わってきます。
ただそこに居て、流れる時間の中で、自分を感じた。
それだけでいいのかもしれません。