『鉄道員(ぽっぽや)』など数多くの著作が映画化されてきた人気作家・浅田次郎による短編集「五郎治殿御始末」所収の一編を映画化した時代劇。主君のあだ討ちを命じられた武士の不器用な生きざまを通し、幕末から明治へと時代が激変する中、武士として、人としての誇りと覚悟を持って生きる侍たちの姿を描く。監督は『沈まぬ太陽』などの若松節朗、音楽を映画音楽の巨匠・久石譲が担当。『壬生義士伝』などの中井貴一が主人公を熱演し、阿部寛、歌舞伎役者の中村吉右衛門ら実力派が共演する。
あらすじ:安政7年、彦根藩士・志村金吾(中井貴一)は主君である大老・井伊直弼(中村吉右衛門)に仕えていたが、登城途中の桜田門外で井伊は暗殺されてしまう。その後、あだ討ちの密命を受けた金吾は敵を捜し続けて13年が経過する。明治6年、時代が移り変わり時の政府があだ討ちを禁止する状況で、最後の敵である佐橋十兵衛(阿部寛)を捜し出し……。
<感想>2人の人生を左右する運命を決定づけた“桜田門外の変”。雪の降る初春、水戸浪士18人は登城中の井伊直弼の駕籠を急襲。警護をしていた金吾は刺客の一人、十兵衛と斬り合うが逃げられた挙句に、彼が傍を離れたすきに大老は暗殺されてしまう。
主演の仇討を13年も探し続けた男は、その相手と対峙したとき何を思うのだろうか。時代が変わろうと、人々の価値観が変わろうと、ただひたすら真っ直ぐに生きた男のものがたりであります。
そして、その不器用なまでに実直な男、金吾を演じたのが、侍のまげや羽織袴姿が似合う役者としてもベテランの中井貴一である。この惚れ惚れとする見事な中井貴一を目の前にして、思わず「感服いたしました」と頭が下がるほど、美しい時代劇でした。
本作の舞台設定は、時代劇のド真ん中ではなく、人気のある幕末でもなく、武士の時代がほぼ終わりを告げた「明治劇」または「維新後劇」とでも言いたいところだ。この微妙な時代のどこに、彦根藩士・志村金吾は、ただ頑なに主君の仇討を探して、墓前にそなえたく思ったのであろう。だが、“桜田門外の変”から13年もの経過である。時代の移り変わりに、“あだ討ちを禁止令”という復讐を禁ずるという法律が定められた。
それでも、時代が変わっても俺は変わらない、変われないと、頑なさに共感できるものとは、なんだろう。しかし、彼の悲劇は、井伊大老暗殺の死に対して切腹を許されなかった。それを背負わされたまま、時代を超えなければならなかった。
一口に13年間といっても、先の分からぬトンネルを進み続けたのか。その辛さを考えると、死ぬことは許されず、自分は時間を無為に過ごし、妻に食べさせて貰っている。その負い目は計り知れない。本当は、「支えてくれてありがとう」と言いたいけれど、言えない。その思いが最後の方で示す金吾の妻に対する愛である。金吾の妻セツを演じているのが、広末涼子。彼女は夫が仇討の本懐を遂げたなら、おそらくは切腹して死ぬことが分かっている。愛しているからこそ、苦労しているなどとは思わなかったのじゃないかしらね。
ですが、夫のとった行動は、仇討に決着をつけた後、妻を居酒屋まで迎えに行き、帰りしなに手を繋ぐという仕草に、この時代の男としてはあっぱれと言いたいです。現代でも50歳~70歳くらいの男は、妻に対して当たり前のように思い、このように「ありがとう」とか「手を繋ぐ」なんてことは、数少ないでしょうね。
現在の価値観でいえば、仇討も切腹も理不尽そのもの。ですが、これが是とした時代が過去にあり、その中で培われた日本人の精神構造がこの映画に凝縮されているといっていいでしょう。
そして、金吾が徐々に変わっていくのが、金吾の幕臣時代の上司でもある、藤竜也演じる秋元和衛と話すくだりである。庭に咲く寒椿を見て、「生きる」ということを問われるわけです。それに、秋元の家に行く時に、妻のセツに見送られるとき、「彦根に帰れ」というシーン。そこでは金吾の一つの覚悟を表していると思いますね。何も言わずとも、侍としての紋付きの身づくろいをさせて、見送るセツにも、夫の覚悟を感じとることが出来たと思われます。
大老・井伊直弼を演じた中村吉右衛門、“桜田門外の変”が起きた当日に、「すべてを受け入れるんだ」と家臣たちに言って、そこに主君の覚悟を感じ取る。何と言う、威厳と説得力のある演技にあっぱれとでも言いましょうか。
クライマックでも、金吾の心の半分は「赦す」という気持ちでいるはず。でも、相手を確かめたい。自分が思った通りの男なら「赦す」。違えば「斬る」という決断だったのでしょう。金吾は常に死を考えながら生きている。でも、車引きの佐橋十兵衛に会った時に、あの時初めて“生きる”を考えて、生きてさえいれば何かある。人間はどうやったっていずれは死ぬのだから、と。
人力車の車引きになっていた佐橋十兵衛には、安心して観ていられる演技者の阿部寛が演じており、13年間身を潜めて、名前も直吉と変えて、何時かは復讐に来るであろう仇討を待ち構えている。ラストでの、佐橋十兵衛の人力車に乗り込む金吾。雪が降りしきる中、二人が交わす会話の中で、これまでの彼らの人生が交錯するシーン。ここで、金吾は十兵衛が背負ってきたものの重さと辛さを理解するのです。
そして、13年前のあの日、十兵衛を追いかけて来て彼の肩に一太刀斬ったと思われたのに、生き延びて車引きをしている十兵衛。だが、金吾も彼なりに辛さを背負ってきたのだ。この二人が刀を合わせる時、十兵衛は刀を持っていない。金吾が自分の大太刀を差出し、自分は脇差の小さな刀で向かうのだが、これは、13年前にも同じことだった。雪が降り、合羽を着て、刀には袋を被せていたため、とっさの出来事に大太刀を出すことが出来なかったのだ。
だが、金吾はこの時、寒椿の花を見て、互いに生きること、死ぬことをどのように選ぶのか。その覚悟を持った同士の選択が、最終的メッセージとなっているようです。これは、時代劇の王道を存分に楽しみ、味わう映画であると思います。
大沢たかお主演「桜田門外ノ変」(2010)
2014年劇場鑑賞作品・・・297 映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング
あらすじ:安政7年、彦根藩士・志村金吾(中井貴一)は主君である大老・井伊直弼(中村吉右衛門)に仕えていたが、登城途中の桜田門外で井伊は暗殺されてしまう。その後、あだ討ちの密命を受けた金吾は敵を捜し続けて13年が経過する。明治6年、時代が移り変わり時の政府があだ討ちを禁止する状況で、最後の敵である佐橋十兵衛(阿部寛)を捜し出し……。
<感想>2人の人生を左右する運命を決定づけた“桜田門外の変”。雪の降る初春、水戸浪士18人は登城中の井伊直弼の駕籠を急襲。警護をしていた金吾は刺客の一人、十兵衛と斬り合うが逃げられた挙句に、彼が傍を離れたすきに大老は暗殺されてしまう。
主演の仇討を13年も探し続けた男は、その相手と対峙したとき何を思うのだろうか。時代が変わろうと、人々の価値観が変わろうと、ただひたすら真っ直ぐに生きた男のものがたりであります。
そして、その不器用なまでに実直な男、金吾を演じたのが、侍のまげや羽織袴姿が似合う役者としてもベテランの中井貴一である。この惚れ惚れとする見事な中井貴一を目の前にして、思わず「感服いたしました」と頭が下がるほど、美しい時代劇でした。
本作の舞台設定は、時代劇のド真ん中ではなく、人気のある幕末でもなく、武士の時代がほぼ終わりを告げた「明治劇」または「維新後劇」とでも言いたいところだ。この微妙な時代のどこに、彦根藩士・志村金吾は、ただ頑なに主君の仇討を探して、墓前にそなえたく思ったのであろう。だが、“桜田門外の変”から13年もの経過である。時代の移り変わりに、“あだ討ちを禁止令”という復讐を禁ずるという法律が定められた。
それでも、時代が変わっても俺は変わらない、変われないと、頑なさに共感できるものとは、なんだろう。しかし、彼の悲劇は、井伊大老暗殺の死に対して切腹を許されなかった。それを背負わされたまま、時代を超えなければならなかった。
一口に13年間といっても、先の分からぬトンネルを進み続けたのか。その辛さを考えると、死ぬことは許されず、自分は時間を無為に過ごし、妻に食べさせて貰っている。その負い目は計り知れない。本当は、「支えてくれてありがとう」と言いたいけれど、言えない。その思いが最後の方で示す金吾の妻に対する愛である。金吾の妻セツを演じているのが、広末涼子。彼女は夫が仇討の本懐を遂げたなら、おそらくは切腹して死ぬことが分かっている。愛しているからこそ、苦労しているなどとは思わなかったのじゃないかしらね。
ですが、夫のとった行動は、仇討に決着をつけた後、妻を居酒屋まで迎えに行き、帰りしなに手を繋ぐという仕草に、この時代の男としてはあっぱれと言いたいです。現代でも50歳~70歳くらいの男は、妻に対して当たり前のように思い、このように「ありがとう」とか「手を繋ぐ」なんてことは、数少ないでしょうね。
現在の価値観でいえば、仇討も切腹も理不尽そのもの。ですが、これが是とした時代が過去にあり、その中で培われた日本人の精神構造がこの映画に凝縮されているといっていいでしょう。
そして、金吾が徐々に変わっていくのが、金吾の幕臣時代の上司でもある、藤竜也演じる秋元和衛と話すくだりである。庭に咲く寒椿を見て、「生きる」ということを問われるわけです。それに、秋元の家に行く時に、妻のセツに見送られるとき、「彦根に帰れ」というシーン。そこでは金吾の一つの覚悟を表していると思いますね。何も言わずとも、侍としての紋付きの身づくろいをさせて、見送るセツにも、夫の覚悟を感じとることが出来たと思われます。
大老・井伊直弼を演じた中村吉右衛門、“桜田門外の変”が起きた当日に、「すべてを受け入れるんだ」と家臣たちに言って、そこに主君の覚悟を感じ取る。何と言う、威厳と説得力のある演技にあっぱれとでも言いましょうか。
クライマックでも、金吾の心の半分は「赦す」という気持ちでいるはず。でも、相手を確かめたい。自分が思った通りの男なら「赦す」。違えば「斬る」という決断だったのでしょう。金吾は常に死を考えながら生きている。でも、車引きの佐橋十兵衛に会った時に、あの時初めて“生きる”を考えて、生きてさえいれば何かある。人間はどうやったっていずれは死ぬのだから、と。
人力車の車引きになっていた佐橋十兵衛には、安心して観ていられる演技者の阿部寛が演じており、13年間身を潜めて、名前も直吉と変えて、何時かは復讐に来るであろう仇討を待ち構えている。ラストでの、佐橋十兵衛の人力車に乗り込む金吾。雪が降りしきる中、二人が交わす会話の中で、これまでの彼らの人生が交錯するシーン。ここで、金吾は十兵衛が背負ってきたものの重さと辛さを理解するのです。
そして、13年前のあの日、十兵衛を追いかけて来て彼の肩に一太刀斬ったと思われたのに、生き延びて車引きをしている十兵衛。だが、金吾も彼なりに辛さを背負ってきたのだ。この二人が刀を合わせる時、十兵衛は刀を持っていない。金吾が自分の大太刀を差出し、自分は脇差の小さな刀で向かうのだが、これは、13年前にも同じことだった。雪が降り、合羽を着て、刀には袋を被せていたため、とっさの出来事に大太刀を出すことが出来なかったのだ。
だが、金吾はこの時、寒椿の花を見て、互いに生きること、死ぬことをどのように選ぶのか。その覚悟を持った同士の選択が、最終的メッセージとなっているようです。これは、時代劇の王道を存分に楽しみ、味わう映画であると思います。
大沢たかお主演「桜田門外ノ変」(2010)
2014年劇場鑑賞作品・・・297 映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング