なんでそうなるのか

青森県八戸市で公務員試験塾オクトを主催する岡政也のブログです。

他責

2020-06-30 16:40:09 | 日記
批判することの快楽は麻薬のようだ。
そこにほんのわずかの「正しさ」を見いだした、と思ったら大手を振って人を責める。
それは対立しか生まないのに、批判することで自分が高まるわけでもないのに、そうすることでしか救われない何かがあるかのように、批判に没頭する。


それはもはや、他責障害とか他責依存という造語を当ててもいいのではないか、とすら思う。
もちろん何かを作り出すため、改善するため、の批判は必要なのだが、この武器を手にするには資格認定が必要なのでは、とすら思う。


可能性はある

2020-06-29 18:33:59 | 日記
目につくところに貼ってあるからといって、よく覚えているわけではない。
手に届くところにあるからといって、触れる回数が多いわけでもない。
容易にアクセスできることと、深くかかわることは別のことだ。


毎日当たり前に踏みつけているドアマットに何かを見出すことがあるとすれば、それは半分ビョーキで残りの半分は妄想でしかないが、100のうち100までがそうであるかといえば、そうでもない。深く関われば、当たり前のことでも当たり前ではなくなる、可能性はある。


ムリと思っても

2020-06-28 15:10:00 | 日記
これ以上できない、と思ってもその上は、少しならある。別にサボっているわけではない。本当にムリ、と感じてもまだ少しならできる。

それをやるかやらないか、は状況による。
若くて、鍛えなければならない時期なら、スッカラカンになったその先までやった方がいい。
歳をとって、明日に疲れを残してはいけないのなら、やめておいた方がいい。
また、若くても命を落としてしまうことだってあるのだから、注意が必要だ。

自己責任において、まだやれると粘るのは後々財産となる。

歳とともに

2020-06-27 16:34:00 | 日記
子どもの頃、お年寄りの顔をみて、一つ一つの皺には知恵が刻まれているのだろう、と思っていた。
長く生きていろいろ経験して、簡単にはたじろがない様に肝が鍛えられているのだろう、と思っていた。


いま、自分自身が老人の側に近づいてきて、幼いころのそのような思いはどうやら錯覚だったのでは、と思う。
自分が浅知恵で、肝が据わっていないだけでは、と言われれば返す言葉もないが、周囲を見渡して、どうも自分だけではないような気がするのだ。


難しいことややこしいことは、むしろ考えなくなる。考えてもしょうがない、という思いの方が先に立つ。
肝が据わる座らない、というのはどうも、年齢だけでは解決しないようだ。持って生まれた性根と経験の質が大切なのでは。
深いことを考えているように見える老人は、実は何も考えていないのかもしれない。


でも、それでもいいか、とも思う。年を取ってよりややこしいことを考えるようになるのではしんどすぎる。
深いことを考える、というより、余計なことを考えなくなる、というのが進歩なのかもしれない。


忙しいから

2020-06-26 16:17:55 | 日記
本当に忙しいのか。
それとも、忙しさに逃げ込むため、わざわざ忙しくしているのではないか。
とくにこれは、無意識のうちにやってしまう。やらなくてもいいことを、手を出さなくても済むことを予定に入れてしまう。
その理由はいくつかあるが、やりたくないことから逃げるため、というのもある。


避けられない忙しさは仕方がない。
でも本当に避けられないことなのか、については一考の価値がある。