平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

内にも外にもおられる神

2016-06-20 08:40:36 | 礼拝メッセージ
2016年6月19日礼拝メッセージ
『内にも外にもおられる神』
【Ⅱ歴代誌6:18~23】

はじめに
 今週も歴代誌からソロモンの神殿についての学びを続けますが、このシリーズも今週で終わりかなと感じています。もしかしたら、来週もう1回、このシリーズの学びを続けるかもしれませんが、いずれにしても今月でこのソロモンの神殿についての学びは一段落ということになると思います。

神殿建設に取り掛かったソロモン
 先週は歴代誌第二の3章を開きました。ここからソロモンはいよいよ神殿の建設に着手しました。少し振り返っておきましょう。3章1節に、

3:1 こうして、ソロモンは、【主】がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で【主】の家の建設に取りかかった。

とあります。
 そして、ここにはソロモンの神殿の大きさがキュビトで示されています。これらの数字を先週はご一緒に見ました。至聖所の長さと幅は8節にあります。8節、

3:8 ついで、至聖所を造ったが、その長さはこの神殿の幅と同じ二十キュビト、その幅も二十キュビトとし、これに六百タラントに当たる良質の金を着せた。

 このようにソロモンの神殿の至聖所の幅と長さは20キュビトでした。1キュビトを45センチとすると、1間は4キュビトになります。ですから、至聖所の幅と長さはそれぞれ5間でした。そうして先週の礼拝説教では、私たちが隣の土地に建てたいと願っている礼拝堂の設計案の寸法は外側が幅6間・長さ4間で、中の礼拝スペースが幅4間・長さ3間、高さ3間半であることを図で示して、この数字を是非覚えて、お祈りをしましょうという話をしました。
 このあと3章と4章には、この神殿の構造や中に置く物のことが詳しく書かれています。

完成した建設工事
 そうして5章1節には、工事が完成したことが書かれています。5章1節、

5:1 こうして、ソロモンが【主】の宮のためにしたすべての工事が完成した。そこで、ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。

 続いて2節と3節、

5:2 そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンから【主】の契約の箱を運び上るためであった。
5:3 イスラエルのすべての人々は、第七の新月の祭りに王のもとに集まった。

 このように全イスラエルがエルサレムに集まり、人々が見守る中で神の箱が幕屋を出て神殿に運び入れられました。その時の様子が5章に書かれています。5章の終わりには、神殿が雲で満ちたことが記されています。5章の13節と14節、

5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち【主】の宮は雲で満ちた。
5:14 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。

旧約の時代の神殿に向けた祈り
 そして、きょうの聖書箇所の6章には、ソロモンがエルサレムに集った人々の前で主に向かって祈った言葉が記されています。6章の1節と2節、

6:1 そのとき、ソロモンは言った。「【主】は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
6:2 そこでこの私があなたのお治めになる宮を建てました。あなたがとこしえにお住みになる所を。」

 ここから始まった6章のソロモンの祈りはとても長いものでした。全部を見ることはできませんから、私の目に特に留まった18節からのいくつかの節を見ることにします。まず18節、

6:18 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

 これは確かにそうですね。神様は宇宙サイズのお方です。宇宙サイズの神様が神殿の大きさに納まることは不可能です。ソロモンの時代の人々が想像していた宇宙の大きさは、現代の私たちが知っている宇宙の大きさよりも遥かに小さなものだったでしょう。それでも神様が神殿という建物に納まる方ではないということはソロモンも良く知っていました。
 続いて19節と20節、

6:19 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、【主】よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。
6:20 そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

 20節でソロモンは「あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください」と言っています。この時代、神の箱が置いてある至聖所に向かって祈りをささげることに特別な意味があったことがわかると思います。旧約の時代であっても、祈りはどこで捧げても良いものであったとは思います。神様は遍く存在している方だからです。しかし、やはり神殿の垂れ幕の向こう側の至聖所に置いてある神の箱に向かって祈ることに特別な意味があったことが伺えます。
 そして21節、

6:21 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。

 ここでソロモンはもう一度、同じように「この所に向かってささげる願いを聞いてください」と言っています。そして「天からこれを聞いてください」と言っています。神様は天にお住まいになっているからです。

新約の時代は私たちの体が神殿
 私たちも天におられる父に向かってお祈りのことばを始めますね。「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ」で始まります。ただし神様は天にだけおられるわけではなく、もし私たちが聖霊を受けているなら、神様は私たちの内にもおられます。つまり私たち自身の体が神殿になります。第一コリント6章19節を、ご一緒に見ましょう(新約聖書p.325)。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 聖霊を受けた私たちの体は、私たちの内に住まれる聖霊の宮です。このように聖霊の宮となった私たちの体は、もはや自分自身のものではないとパウロは述べています。続いて有名なローマ12章1節をご一緒に見ましょう(新約聖書p.308)。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 このように、新約の時代では聖霊は私たちの内に入って下さいますから、私たちの体が神殿になります。一方、旧約の時代には聖霊はごく限られた預言者たちだけにしか注がれませんでしたから、ソロモンのように神殿の至聖所に向かって祈ることに特別な意味があったわけです。しかし、新約の時代においてはイエス・キリストが十字架で死なれた時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けて、もはや神殿の至聖所に向かって祈ることには、旧約の時代のような特別な意味はなくなりました。特にユダヤ人ではない異邦人の場合は神殿に入ることすら許されませんでしたから、これは大きな恵みでした。

内にも外にもおられる神を深く感じる
 では、神殿の至聖所に向かって祈ることに特別な意味がなくなったのなら、私たちが新しい礼拝堂を建設することに、どんな意味があるのでしょうか。それは大いに意味があります。神様との交わりの時は、普段を忙しく過ごしている日常とは全く別の時間です。私たちは、静かな場所さえ確保できれば、あとは目を閉じれば、どこにいても神様と交わることは理屈の上では可能です。しかし、ことはそれほど簡単ではありません。日常生活の場だけにいたのでは、神様との深い交わりに入れていただくことは、そんなに簡単なことではありません。
 一方、礼拝堂は神様との深い交わりに入れていただくことができる場です。一歩礼拝堂に足を踏み入れたなら、神様に包まれているように感じることができる場、それが礼拝堂です。神様は私たちの内にもいて下さいますが、私たちを外から包んで下さるお方でもあります。
 きょうの聖書交読でご一緒に読んだヨハネの手紙第一の4章の13節を見ましょう(新約聖書p.470)。13節をご一緒に読みましょう。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 このように神様は私たちの内にも外にもおられます。この内におられる神と外におられる神の両方を同時に感じる時、私たちは神様との一体感を深く感じることができると言えると思います。この内にも外にもおられる神を同時に深く感じることが、礼拝堂のような特別な場所では可能ですが、日常生活の場ではなかなか難しいことではないかと思います。
 続いて15節と16節を交代で読みましょう。

4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 ここでも同じ表現が繰り返されています。私たちは神の内におり、神も私たちの内におられます。つまり神様は私たちの内にも外にもおられます。礼拝堂は、そのことを深く感じさせてくれる場です。ですから週に一回、教会に来て、この神様との深い交わりを味わうことができるなら、残りの6日間を日常の場で過ごしたとしても、この余韻の中で神様と深く交わることができるでしょう。しかし365日の全部を日常の場だけで過ごすとしたら、神様と深く交わることは、とても難しいと言えるでしょう。
 2年前に、新会堂の建設に踏み出すに当たり、私は先ずはこの今の会堂を使い続ける選択肢ははずしたいと願い、会堂建設委員会でも、了承されました。それは今の会堂が引っ込んだ所にあって目立たないということが一番の理由でしたが、もう一つの大きな理由として、この会堂は礼拝堂と牧師の生活の場が同じであるということがありました。今の会堂ですと、牧師は日常から礼拝へ心を切り替えることがなかなか難しいです。やはり礼拝堂は生活の場とは切り離した、聖別した空間である必要があると思います。来年、隣の土地に礼拝堂を建設したなら、礼拝の時には牧師は一旦この牧師館を出て、そうして礼拝堂に入ることになります。これですと生活の場を離れて礼拝の場に入ることができます。この切り替えはとても重要だと思います。生活の場とは切り離された、聖別された空間に入ることで、より心が整えられて、そのことで私たちが神様のうちにおり、神様も私たちのうちにおられることを、よく感じることができることと思います。

おわりに
 きょうはソロモンが神殿の至聖所に向かって祈った箇所に目を留めて、新約の時代の私たちの場合には私たちの体が神殿であることを学びました。そうして、神様は私たちの内におり、私たちもまた神様の内にいることを学ぶことができました。礼拝堂は、このような神様との交わりを深く感じることができる場です。この礼拝堂の建設のために神様が私たちの背中を押して下さり、励まして下さっていますから、感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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