平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

真理はあなたがたを自由にします(2013.5.12 母の日礼拝メッセージ)

2013-05-13 08:22:29 | 礼拝メッセージ
2013年5月12日 母の日感謝礼拝メッセージ
『真理はあなたがたを自由にします』
【ヨハネ8:30~32】

はじめに
 きょうDVDで観た「新島八重」さんという方は、かなり自由な考えの持ち主だったようですね。まだ徳川幕府の江戸時代だった時に、女性が銃を持って戦場で戦うなどということは、相当に自由な考えの持ち主でなければできないことです。私たちは知らず知らずのうちに、これは男性の役割だとか、これは女性の役割という考えを持ちながら、日々、暮らしています。そういう固定観念に縛られて生きています。
 今では、いろいろな職業で男女の間の垣根が取り払われていて、女性のタクシー運転手やトラックの運転手を見ても、そんなに驚かなくなりました。それでも、女性のバスの運転手というのは、まだまだ珍しいですね。私は、この3月までは兵庫県の姫路市の教会にいました。姫路の教会は姫路駅からだいぶ離れていましたから、私は駅のほうに出る時には、いつもバスを利用していました。ある時、バスに乗ったら、20代の前半ぐらいの若い女性が運転していました。このバス路線の道は結構狭くて、道を曲がる時には、バスの右も左も、ほとんど隙間が無いような細い道をくねくねと走って行きます。そのような道を若い女性の運転手が、バスを上手に操りながら運転して行きましたから、私は感心しながら、その様子を見ていました。そんな風に感心していた私は、「バスの運転は男性がするものであり、女性には難しいものである」という固定観念に完全に縛られていたのですね。私たちは、普段は気付いていませんが、いろいろな固定観念に縛られて生きています。

1.科学により得られた自由
 ここで、聖書のことばをご紹介します。ヨハネの福音書8章の30~32節です。

8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 ここには、イエス・キリストが「真理はあなたがたを自由にします」と言ったことが書かれています。私たちは、固定観念もそうですし、いろいろなものに縛られて生きています。まだ科学が発達する以前には、私たちは、いろいろな迷信にも縛られていました。たとえば、昔は、雷が鳴ると、雷様におへそを取られるというような迷信がありました。今は雷の正体は電気であることがわかっていますから、私たちはその電気ショックによる被害に備える必要はありますが、おへその心配をする必要はなくなりました。
 科学が発達したことで、私たちはいろいろなことが自由にできるようになりました。500年ほど前までは、人類はまだ天動説を信じていましたね。太陽が毎日、空の東から西へと動いて行くのは、見た目の通り、太陽が動いているのだと信じていました。また夏には空の高い所を通り、冬には低い所を通るのも、見た目の通り、やはり太陽がそのように動いているのだと信じていました。しかし、コペルニクスやケプラー、ニュートンなどの科学者による研究で、動いているのは実は太陽ではなくて地球の方だということがわかりました。火星や金星などの惑星も、地球の周りを回っているのではなくて、実は太陽の周りを回っているのだということがわかりました。そして、ニュートンは、このような天体の運動と、私たちの身の回りの物体の運動、たとえばリンゴが木から落ちる時の動きは、全部同じ運動方程式で表すことができることを明らかにしました。そうしてニュートンは、万有引力の法則を発見しました。
 人類は、この運動方程式と万有引力を知ったことで、ロケットや飛行機を飛ばすことができるようになりました。ロケットを飛ばして人工衛星を打ち上げることができるようになったおかげで、例えば私たちは気象衛星の画像から、台風が今どこにいるかがわかり、事前に備えることができるようになりました。或いは通信衛星を打ち上げることで、地球の裏側の国とも通信ができるようになりました。また、飛行機を飛ばして短時間で遠くに行くことができるようになりました。このように、私たちはいろいろなことが自由にできるようになりました。ニュートンの力学という科学の真理が私たちを自由にしてくれたのですね。

2.霊的な真理について語ったイエス・キリスト
 聖書に書いてあるように、イエス・キリストは「真理はあなたがたを自由にします」と言いました。そのように、科学の真理は、私たちを自由にしてくれました。しかし、実は、聖書がここで言っていることは、科学的な真理についてではありません。ここで言われているのは、科学的な真理ではなく、霊的な真理についてです。「霊的」の「霊」は、霊魂の霊、霊と魂の「霊」です。「霊」などというと、何だか怪しげだと感じる方がいるかもしれませんが、そんなことはありません。「霊」という言葉は、私たちの普段の生活の中に溶け込んでいます。たとえば、戦争や震災などで亡くなった方の「霊」を慰めるという意味の「慰霊」ということばがあります。広島と長崎の原爆の日や終戦の日、或いは阪神淡路大震災や東日本大震災があった日には国や自治体の公式行事として慰霊のための式典が持たれます。ですから、「霊」は決して怪しげなものではありません。
 もし「霊」は科学的に証明できない非科学的なものだから信じないと考える人がいるとしたら、その人は科学信仰という信仰を信じていることになります。そして科学信仰に縛られている人は、霊的に不自由な人である、ということができます。科学は人類をいろいろな点で自由にしてくれましたが、霊的な面においては、かえって不自由にしてしまいました。
 たとえば、生命は偶然により誕生したのだと信じている人は、科学信仰に縛られているのだと私は思います。私たちクリスチャンは、生命は神様が造ったものと信じています。これは信仰ですが、生命は偶然により出来たと信じるのも、やはり「科学信仰」という信仰です。生命がどのようにして誕生したのか、詳しいことはまだわかっていません。それなのに、偶然によりアミノ酸が合成され、そしてまた偶然によりタンパク質が合成されて、やがて生命が誕生したのだと信じるのも、やはり信仰です。
 生命に関する肝心なことを、人類はまだまだ知りません。随分といろいろなことが分かって来てはいますが、それらがどうやって分かって来たかというと、多くの場合は偶然の発見で分かって来たことです。実験室で実験操作を間違えたりするなど、いつもと違うことをしたら、たまたま見つかったという偶然の発見が、重要な発見のうちの大きな割合を占めています。それは当然のことで、まだ知らないことを知るには、そういう偶然でもなければ、なかなかわかりません。人類はそうやって科学的な知識を蓄積してきました。その偶然の産物である科学を万能のものとして、科学的なことしか信じない人は、科学に縛られて霊的には不自由な状態にあります。

3.霊的な自由を得るとわかる神の愛
 しかし、霊的な束縛から解き放たれて自由になるなら、いろいろなことを新たに感じることができるようになります。たとえば、神様の愛を感じることができるようになります。私たちの命は神様が造ったものですから、神様は私たちを愛して下さっています。その神様の愛を感じることができるようになります。
 神様がいて、神様が私たちを愛して下さっているのなら、どうして戦争や地震や津波が起きるのか、と考える人もいるでしょう。神様はどうして戦争や地震や津波から私たちを守ってくれないのかと思う人もいるでしょう。しかし私は、神様がいなかったのなら、もっと悲惨なことになっていただろうと思います。1945年の8月に広島と長崎に原爆が投下されました。これは本当に悲惨なことでした。しかし幸いにして、それ以降は、戦争で核兵器が使用されたことはありません。それは、世界中で平和のための祈りが積まれているからこそのことです。核兵器が使用される恐れがあった危機的な状況は何度もありました。朝鮮戦争やキューバ危機などがそうでした。そして今や核兵器は大国以外にも拡散しています。そのような状況にあっても広島・長崎以降は幸いにして核兵器が実戦で使用されていないのは世界中で平和のための祈りが真剣になされているからです。
 人類が祈ることをするのは、霊的な存在を感じているからです。すべてが偶然であるとしたら祈っても無駄です。生命の誕生も進化も偶然によって起こり、すべては偶然に支配されているのなら、祈る意味はありません。しかし、人類が祈り、その祈りが適えられるのは神様が存在して、私たちを愛して下さっているからです。そして愛の神様は私たちを守って下さっています。
 きょうは、もう1か所、聖書のことばを見ます。旧約聖書のイザヤ書の46章の3節と4節です。

46:3 胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
   あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
   わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
   わたしは背負って、救い出そう。

 私たちは子供が生まれると、子供をおんぶをしたり、ベビーカーに乗せて運んだりしますね。しかし、私たちの命を造って下さった神様は、私たちがまだ母親の胎内にいる時から、私たちを担い、運び、気に掛けて下さっていました。これが神様の愛です。
 そして、4節で神様はおっしゃいます。

 「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
  わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。
  わたしは背負って、救い出そう。」

 このように私たちに語り掛けて下さっている神様に心を開き、神様の声に耳を傾けるなら、私たちは霊的に自由になり、神様の愛がわかるようになります。
 新島八重さんもまた、神様を信じて、霊的に自由になり、神様の愛がわかるようになりました。

おわりに
 会津の戦いで銃を持って戦っていた時の八重さんは、人間の世界の固定観念からは自由になっていました。しかし、霊的にはまだまだ不自由でした。
 そんな八重さんでしたが、京都でゴードン宣教師や新島襄らと出会い、神様を信じてからは、霊的な自由を得たのでした。そうして聖書の神様に祈ることを覚え、祈ることで、神様の愛を一層感じることができるようになりました。そのようにして神様の愛を感じるなら、祈りの対象もまた広がって行きます。祈ることを覚え始めた時は、自分の幸せを祈ることが中心になりがちです。それも、もちろん大切なことです。しかし、祈りを重ねて行くうちに、次第に周囲の人々のことも祈ることができるようになります。すると、神様の愛がますますわかって来ます。他の人々のために祈ることで、神様の愛は、広く全ての人々に注がれているのだということがわかって来ます。
 この神様の大きな愛を感じることができるなら、私たちは霊的な束縛から解放され、本当に自由になることができます。神様は、

  「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
  わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。
  わたしは背負って、救い出そう。」

とおっしゃって下さっています。神様は、「救い出そう」とおっしゃっています。神様は、霊的に不自由な中にいる人々を「救い出そう」とおっしゃって下さっています。
 このように語り掛けて下さる神様に、私たちはいつも心を開くことができる素直な者でありたいと思います。
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